雪山泊中2
吹雪は止みました。しかし空は真っ暗になっています。これでは歩きまわるだけで危険でしょう。どこかであの猿の鳴き声が聞こえます。短い鳴き声が連続しています。会話しているのでしょうか。
と空を見ている私に鯨ちゃんは言います。
「絶対に、どこにも行かないでよ」
とってもロマンチックなセリフですが鯨ちゃんのはもっと利己的なものです。私は洞穴の前に座って、カカシ兼風よけになっています。異論はありませんが、やっぱり私も洞穴の中に入りたいです。無理ですけど。
鯨ちゃんが何かを食べています。スナック菓子です。脇にはチョコレートも置いてありました。
私の脳がそれを認識した瞬間、地割れのような音が鳴り響きました。
鯨ちゃんはキョトンとしていました。
「今のなに」
「え、えっとね」
「待って。当てるわ」
鯨ちゃんはにんまりとしました。
「あんた、来る時までに軽食全部食べちゃったでしょ?」
「な、なんでそれを」
「あんたみたいなデカブツのやることなんてお見通しよ」鯨ちゃんは指を突きつけ、言いました。
「おならの音でしょ?」
「お腹だよ!」
「嘘だあ」
「嘘じゃないよ!」
「ふふ、今ライターでも使ったらすごい爆発起きそう」
「だから違うよ......」
もちろん鯨ちゃんもそう思っているわけではないでしょう。ですがそういう彼女の様子は、心底楽しそうでした。元気でいることは良いことです。私はキリキリと責め立ててくる空腹と闘いながら思いました。
「お腹減ったよお」
私は言いました。
「まぁそれもそうね。そんなでかい体じゃ」
「......」
「何よその目。卑しい女。欲しいって言ってるつもり? でもあげなーい」
これ見よがしに鯨ちゃんはチョコバー、一袋を食べてしまいました。
「あたしだってお腹すいてんだから」ポリポリ、バーをかじっています。私のチョコバーが消えていきます。それを見て悲しい気持ちになりました。
「......」
「大体、あんたの胃の大きさからして、こんなの食べたって腹の足しになんてならないでしょ」
「......」
「しつこいわ。絶対あげないから」
「......」
「けっ恥知らず」
鯨ちゃんはチョコバーを一袋投げて寄越してくれました。
「これで満足? もうあげないから」満足なわけありません。
「ありがとう鯨ちゃん」
鯨ちゃんの言う通り、チョコバーは全く腹の足しになりませんでした。それどころか欲求がさらに増加しました。とても苦しいです。私サイズの女の子ともなると、動物園の象よりも食物を欲するのです。
私はお腹をさすりました。そうすると空腹が紛れるような気がしたからです。鯨ちゃんの口数も少なくなり、私はうつらうつらしました。その短い間に夢を見ました。満漢全席を食べる夢です。目が覚めると空はまだ暗く、がっかりしました。しかし私はまあ何とかなるだろうと思っています。きっと救助隊が来るはずです。
朝日が昇っています。自分の腕がオレンジに染まっていました。私はくしゃみをしながら、のびをします。どうやら風邪を引いたみたいでした。
鯨ちゃんも程なくして起きました。あまり眠れていないのか、げっそりとしています。
「今日はここから出るわよ」
鯨ちゃんが言いました。
「どうして?」
「朝日で方角がわかったからよ。昨日は吹雪があったから、わからなかったけど。あんたの足なら今日中にも、この(言いたくないです)山から抜け出せるわ」
反対する理由もないので私はうなずきました。
相変わらずお腹が空いていますしふらつきますが、それほどひどいというわけでもありません。ゆっくりと歩くのだったら全然平気でした。
鯨ちゃんは現在、手のひらの中に入れておくのがめんどくさくなったので、胸ポケットに入れておいています。
鯨ちゃんが言います。
「帰ったらあんたの家から、いくらふんだくってやろうかしらね」
「なるべく手加減して欲しいな」
「本も書くわ。あんたのことはとおおおぉぉっても悪いように書いといてあげる」
「がんばってね」
鯨ちゃんは舌打ちしました。「頭のどっかのネジが緩んでんじゃない? ムカつく」
「ネジなんてないよ?」
「比喩くらいわかりなさいよ!」
「比喩はわかるよ」
鯨ちゃんは唾を吐きました。汚いです。唾が足下に落ちたのが見えます。
「ボケボケのフリするのやめてくれない?」
「ボケてるつもりはないんだけどなあ」
「能天気で羨ましいわ......」
鯨ちゃんはため息をつきました。「......あんたみたいにでかいと能天気でいられるのかな......」
その声には僅かに暗い響きが込められているように思えました。
「......鯨ちゃん」
私が何か気の利いたことを言おうとしたその時でした。
あの猿たちがいたのです。
数は昨日と変わらず、私たちを遠くから眺めています。鯨ちゃんもそれに気づきました。
「踏み潰してよ」
と容赦なく言います。
「やだよ。グロいもん」
「今こそその体重を活かす時でしょ!」
「うんうん......」
とりあえず何もしてこないようでしたから、足を進めます。猿たちは私の動きに合わせて後ずさっていきます。しかし、昨日とは違い、怯えているようには見えませんでした。
猿たちに先導されるようにして数歩進んだところ、いきなり足場が、がたつきました。右足が深く沈み、何かに挟まっています。感触からすると岩のようなものでした。それは私の足に深く食い込み、少しでも動かそうものなら激痛を与えてきます。ひょっとしたら出血しているかもしれません。まるで熱せられた鉄の棒を足に埋め込まれたようでした。
「おきゃーっおきゃーっ」
猿がまるで人間のような笑みを浮かべました。邪悪な笑いでした。
「うわ、わ」
鯨ちゃんが悲鳴をあげました。
猿がにじり寄ってきています。
「あっち行けっこのクズっ」
鯨ちゃんが罵りましたが、効果があるとは思いません。
それより私は痛くて痛くて、泣いてしまいました。ポロポロ、としずくが鯨ちゃんに頭からかかりました。彼女は何事かと上を向きました。
「うわああん痛いよ、痛いよ」
「あんた、そんな場合じゃ!」
そんなことは判っているのです。私たちは猿の罠にはめられてしまいました。ですが、怪我一つなく過ごしてきた私にとって、この痛みは耐えがたいものでした。
「痛いよおぉ......」
「ああ、もう! しっかりしてよ! すぐそこに来てる!」
鯨ちゃんの声に半ば反射的に身を丸めました。
背中に猿たちがのしかかりました。叫びながら暴れています。叩いたり爪で引っ掻いたり、噛みついたりです。大人と子供ほどに体格差がある私にどうにかお腹を見せさせようとしています。狙いは鯨ちゃんでしょう。私の方が食いでがあるのになと思いました。なぜか自分より小さい相手に執着しているのです。
足の痛みを堪えるためにぎゅっと目をつむって我慢しました。私はずっと腕を振り回しました。しかし当たりません。一時間経った頃でしょうか。猿たちは去っていきましたが、どこからか見ているでしょう。どうにかして雪の下の岩に挟まった足を外そうとしましたが無理でした。肉に食い込んでしまっています。血は出ていないようです。
お腹の下から鯨ちゃんが言います。
「動けるの」
「できないよ」
私は今陥っている状況について話しました。鯨ちゃんの顔が見えないので怒ってるのかそうではないのかわかりません。
私は言いました。
「......死んじゃうのかな」
「なわけないでしょ」
「私、いっぱい食べなきゃいけないの。お母さんからも言われてて......」
「じゃあなんでお菓子食べちゃったのよ?」
「食べたかったから......」
「馬鹿でしょ」
「お腹減ったし足痛いし......死んじゃう」
「弱気でどうすんのよ。あんな猿ども、あんたにかかれば一捻りじゃない」
「死んじゃうよお」
「うるさい!」
ピシャリと鯨ちゃんが言いました。
「あんたみたいな馬鹿げた生命体はそう簡単には死なないの! 良い? あんたのことをおんなじ人間だとは思ってないわ。ホモサピエンス的な意味でね。宇宙船地球号からも仲間外れよ」
「酷いよお」
「だから! やればできるのよ! やりなさいって!」
これは鯨ちゃんなりの応援なのでしょうか。私は何となくそう思いました。
「......うん、やってみる。次猿が来た時に......」
「その意気よ。猿が片付いたら、あんたの代わりに救助を呼んであげるから」
「うん......友達を助けるためだもんね......私頑張るよ」
「はあっ?」鯨ちゃんが叫びました。
「勝手に友達認定しないでよ。別にあたしとあんた、友達じゃないし」
本気で嫌そうな声でした。
笑いながら猿たちがやって来ました。
あまりにも人間臭いので、着ぐるみになっているのではないかと思いました。その手には尖った石が握られていました。毛むくじゃらなので、原始人を想起させます。
私は丸まったまま、じっと息を潜めています。
猿たちは、石を手の中で揺らしながら私の頭のところにやってきました。
勝利を確信し、だらしなく口を開いている猿たちは石を振りかぶりました。
私はその瞬間飛び上がりました。足がちぎれそうに痛みますが我慢します。一気に五匹の猿を抱き抱えるようにして捕まえました。
鯨ちゃんが声をあげます。
「潰して!」
私は思いっきり腕に力を込めて彼らを締めあげました。
ビクビク動いた後に、海老のように跳ね、それきり動かなくなりました。
猿たちを脇に置き、私は俯きました。脂汗が出ています。
お腹の下にいた鯨ちゃんが這い出て来ました。
「良くやったわ、これで安心して歩けるってものよ」
「......」
「何よ? 喜びなさいって。猿どもをやっつけたのよ」
「......でも殺しちゃった」
「そんなこと? あっちも食うつもりで来てたんだから、正当防衛よ」
「......」
鯨ちゃんは「あーっ!」と叫びました。
「ウジウジすんな! あたしを助けたんだから! とんでもない誉れよこれは」
「ううううう」
「泣くな!」鯨ちゃんは左目の下瞼を持ち上げて、私を止めようとしました。もちろん失敗に終わり、全身に涙を浴びることになりました。
「う、ううっ......言ってなかったけど、猿、あの猿たちとは別に一匹残ってるの......」私は顔面を雪に擦り付けました。鯨ちゃんの顔を見ていられなかったのです。
鯨ちゃんは息を飲みましたがすぐに、
「それがどうした」
と言いました。
「死んじゃうよお」私は言います。
「誰が?」
「鯨ちゃんが」
私の言葉に鯨ちゃんが舌打ちをしました。
「あたしは絶対死なないし、猿でも雪でも何でもない。あんたはそこであたしが救助を呼ぶまで待ってれば良いの」
「でも......」
鯨ちゃんはリュックから、お菓子の袋を出しました。「泣き虫はこれでも食べてなさい」そして背を向け歩き始めます。
「待ってよ、足が抜けたら一緒に行けるから! 待ってよ」
鯨ちゃんは振り返り、少し微笑みました。
「馬鹿にすんな」
野ざらしで一人ぼっちになった私ですが不安はありませんでした。鯨ちゃんが歩いて行ってから、かなりの時間が経ち吹雪が吹いてきても大丈夫でした。なぜなら鯨ちゃんはすごいからです。泣きまくっている私よりも格段にすごいです。
脚がじんじんと熱を持ち、頭も痛くなってきましたが平気です。鯨ちゃんが助けに来るのを待つだけですから。それと猿たちの死体は少し前に、雪の下に埋めました。自分が殺しちゃった動物を触るのは怖かったのですが、やったからこそ、責任を持つべきだと思いました。
ふともらったお菓子の袋が空になっていることに気づきました。またすぐに食べてしまいました。鯨ちゃんに怒られるなぁと思いながら私はまぶたを閉じ、プロペラが風を切る音を聞きました。
ほら、やっぱり鯨ちゃんはすごいのです。
巨人と鯨 在都夢 @kakukakuze
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