蟻地獄の沙織さん

 舐めるような視線を感じている。


 わたしが視線に敏感なだけなのかしら、とも思うけれど、毎日、同じ道で同じ男性に見られているのを感じて、こわい。通学路を変えてみても、翌日にはやっぱり同じ男性が視界の端にいる。できるだけそちらを見ないようにするのだけれど、今日は一瞬目が合ってしまって、息が止まりそうになった。男性は小太りで、髭を生やしていて、目はギラギラとしていた。足早にそこを通り過ぎて小学校に到着し、校門をくぐって昇降口でお靴を履き替えようとしたとき、なんだか力が抜けてしまって、その場にへたりこんだ。


沙織さおりちゃん? どうしたの? だいじょうぶ?」


 そんなわたしに声をかけてくれたのは、お友達の結花ゆいかさんだった。結花さんはクラスのなかでも元気いっぱいな女子で、わたしのようなお友達の少ない人にも話しかけてくれる。とっても優しくて、素敵な方。

 わたしは返事をしようとして、声が出てこないことに気がついた。


「ど、ほんとにどうしたの!? 泣いちゃうくらいお腹とか痛いの!?」

「あ……わた、し……」

「待ってて! 先生呼んでくる!」


 次から次へと溢れてくる涙に、わたしは、自分がほんとうに追い詰められていることを知った。




     ◇◇◇




 その後は保健室にずっといた。放課後になるころにはさすがに落ち着いていて、心配して見に来てくれた結花さんとお話をすることができた。


「困ったことがあったら結花にも教えてね?」

「ありがとう、結花さん。でも、大丈夫だから……」


 結花さんはわたしを気遣ってくれる。でも結花さんにどうこうできることではない。巻きこんだりしないようにしなくちゃ。

 そう思って口を噤むわたしの、手に、結花さんの両手が重なる。


「沙織ちゃん。うち、沙織ちゃんの友達なんだよ?」

「結花さん……」

「友達なんだから、もっと頼ってよ。そりゃあ、うちは頼りないかもしれないけど……でも、話を聞いて一緒に悩むことくらいはさせてよ!」


 結花さんは決意のまなざしでわたしの目をまっすぐに見ている。放課後の夕日が結花さんのお顔に差して、まるで意志のほのおが体を燃えあがらせているみたいだった。


「ど、どうして結花さんは、そこまでわたしを大切にしてくれるの……?」

「だーかーらー!」

「お友達だからという理由は聞いたけれど、でも、わたしにそれほど大事にされる価値があるのかしら……」

「あるよ! 沙織ちゃんのこと好きだもん!」

「ええっ!?」

「あ、好きっていうのは、恋とかじゃなくて、友情だけど! でも沙織ちゃんはうちにとって特別なんだよ! 顔とか髪とかきれいだし、おしとやかだし、喋り方も丁寧で……すごく上品で。お嬢様みたいだなって、憧れてたの」

「まあ……結花さん……」

「そんな沙織ちゃんに話しかけてみたら、やっぱり心もきれいな子で、嬉しかった。友達になってくれて、ぜったい大切にしようって思ったの。沙織ちゃんはうちにいっぱい思い出をくれたの……」


 結花さんの両手が、わたしの手をきゅっと握る。


「だから、助けたい!」


 夕焼けに照らされる結花さんの、その手は、あたたかい。

 わたしは心のやわらかいところに触れられた気がして、その甘美な感覚を抱きしめるように、ふるる、と震えると、また涙をあふれさせてしまうのだった。




     ◇◇◇




   夜。

   包丁を研ぐ音。




     ◇◇◇




 翌日の朝、わたしは通学路を歩いていた。今日は視線を感じずにここまで来られている。男性はいないみたい。ほっとしながら、小学校への曲がり角を曲がる。

 そして終わりが訪れた。

 突然、強い力で腕を引っ張られ、口を布で押さえられた。声を上げることもできず、引きずられるように路地裏へ連れていかれる。抵抗しようとするけれど、恐怖で震えるわたしの腕力よりも、押さえつける力の方が圧倒的に強い。


「鹿原沙織ちゃん」


 男性の声。と同時にわたしの体は突き飛ばされ、倒れてしまう。ランドセルの中身がゴトトと音を立てた。


「やっと会えたねえ」


 わたしは怖くて声を上げることができない。路地裏は行き止まりで、道も狭くて、男性が逃げ道を塞いでいる。


「かわいいねえ。かわいいねえ」

「ひっ……!」

「怖がるのかわいいねえ。泣いちゃうのかわいいねえ」


 男性は近づいてくる。目は爛々と光り、口の端からは涎を垂らしている。

 こわい。こわい。こわい。

 へたり込んだまま後ずさりをすると、ランドセルが行き止まりの壁に当たる。

 逃げられない。

 どうしよう。

 どうしよう。

 どうしよう。


 遠くから笑い声が聞こえてきた。聞き慣れた、無邪気な笑い声。たぶん、この近くの道をお友達と一緒に歩いているのね。結花さん。助けたいと言ってくれた結花さん。でもわたしは結局、詳しいことは話せなくて。結花さんがわたしを大切に思ってくれているのと同じように、わたしも結花さんが大切だったの。結花さんまで危険にさらしたくなかった。だけど、いま声を上げればきっと結花さんは気づいてくれる。警察を呼びに行ってくれるかもしれない。助けてくれるかもしれないわ。

 ああ。

 ああ。

 遠ざかっていく。

 結花さんの笑い声が。

 代わりに男性の臭い息がわたしに近づいてくる。

 行かないで結花さん。

 行かないで。

 けれど……

 来ないで……結花さん……


「お?」


 わたしはランドセルから取り出した包丁を男性の腹部に突き刺した。


「お、お、お、お、お、」


 噴水のように血液が噴き出す。恐怖でおぼつかない手でも、よく研いだ包丁はすんなりと男性の内臓を貫いていた。


「おお、お」


 男性はその場でアルマジロのように体を丸めてうずくまった。

 路地裏に血だまりができていく。

 わたしの手と包丁は真っ赤な血で汚れている。

 よろめきながらも、わたしは立ち上がった。


 そこへ男性の手が伸びてくる。


「嫌ぁっ!」


 包丁を振り下ろして、男性の手のひらを貫いた。

 タガが外れた。

 何度も斬りつけて、斬りつけて、斬りつけた。返り血を浴びながらわたしは、これは何なのだろう、と思った。結花さんの言葉が嬉しくて、勇気が湧いた。もしも最悪の事態に陥ったとき、抵抗できるように、ランドセルに包丁を忍ばせた。男性のいる道を安全に通り抜けられたら、公園の草むらに隠して、それから学校へ入るつもりで。けれどこんなことになるなんて思っていなかった。どうしてわたしはうずくまる男性を滅多刺しにしているのでしょう。わからない。怖いわ。誰か助けて。止まらないの。男性はもう声も上げず、ただ痙攣するのみ。死んだふりをしているのかも。念入りに殺さないといけないわ。ああ、どうしてなのわたし。振り下ろす腕はもう疲れてずきずきと痛むのに。強く包丁を握りすぎた手にはもう感覚がないのに。飛び散った鮮血を浴びて血塗れになっているのに……

 それなのに。

 ああ、結花さん。ごめんなさい。

 綺麗で、お淑やかで、上品で……あなたが憧れと言ってくれた沙織は。

 ほんとうは、悪い子だったみたいだわ。


 男性のスマートフォンが鳴る。


 見ると、通知画面にメッセージが来ている。


〝もう始めてるのか?〟

〝お楽しみ中か?〟

〝返事がないってことは始めてやがるな〟

〝これから俺と××と××も合流する。まだガキは壊すなよ?〟


 意味は、よくわからなかった、けれど。

 これから、


「ふ、ふ。うふふ、ふ……」


 ああ……こわい。怖いわ。

 怖くて怖くて、たまらないわ……。


「うふふふふふふふふふふ………………」




 ――『蟻地獄の沙織さん』了――

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