死神のナイフ

 死神が見える。


 黒い靄のような服を身体に纏わせ、髪は長く、顔を完全に覆い隠している。手足は枯れ枝のように細い。その全身は輪郭がぼやけていて、まるでめまいで倒れそうな時の視界のようだ。


 死神は語らない。


 表情が見えないし、声を聞いたこともないし、ジェスチャーもしてこない。しかし、何かを伝えようとしているというのはわかる。


 死神は普段は消えていて、特定の場面でのみ現れるからだ。


 わたしがキムラミナミやその取り巻きから語彙の乏しい罵倒をぶつけられている時、その死神は現れる。まばたきするといつの間にか隣にいて、こちらをじっと見つめている、ように見える。目が髪で隠れているので視線の動きはまったくわからない。しかし確実に、わたしへ何かアプローチしようとしているのがわかる。

 なぜそれがわかるか?

 簡単なことだ。


 死神は、キムラミナミたちがガミガミ喋っている間、わたしに向かってナイフの持ち手側を差し出しているのだから。




     ◇◇◇




「よーう、英梨亜えりあちゃん。元気? プレゼントは受け取ってくれたぁ?」

「おい、ミナミが話しかけてんだからこっち見ろよ」


 教室で、朝の会が始まるまでぼんやりしていると、見慣れた二人組が現れた。

 わたしの座る席の前まで来て、机に手をついてニヤニヤ笑う。


「……プレゼント?」

「そうだよぉ。上履きに入れといてあげたじゃん。学校来る途中で拾った、雪の塊をさぁ」

「アハハッ! ミナミ最高なんですけど!」

「あれ? 英梨亜ちゃぁん、上履き濡れてんじゃーん。どしたのぉ?」


 わたしは足先の湿り気に意識を少し向ける。今日は冬にちなんだ嫌がらせか。毎日毎日、飽きないものだと思う。中学生になったんだから、こんなことはそろそろ卒業したらどうなのか。


「黙ってちゃわかんねえんだよ、ミナミが喋ってんだぞ」


 取り巻きのガタイの良い女子生徒が唾を飛ばす。汚い。キムラミナミは背は高いが細身なので、威圧感を持たせるにはこういった取り巻きのような装置が必要だ。しかしこいつ自身はいつもキムラミナミを立てるような立場に徹しているので、名前を忘れてしまった。


「いいよいいよ、カナ」


 カナというらしい。まあ覚えておく意味はない。


「でもちょっとお仕置きは必要だよね-。カナ、髪の毛掴んで」

「おし」

「……!」


 取り巻きの女がわたしの髪の毛を掴んで、無理矢理に上を向かせる。キムラミナミと目が合った。

 痛みに声を上げそうになるが、こらえる。

 精一杯の拒絶を込めて、キムラミナミを睨んだ。


 するとキムラミナミは、何故か頬を染めて、ニヤニヤニヤと口元を歪めた。


「ねえぇ、そんな反抗的な目、していいのぉ? ウチの彼氏にチクるよ?」

「ミナミの彼氏はガチの不良なんだぜ。おまえなんか金属バットで頭かち割られて終わりだな」

「謝れば、チクんないであげるよ。『許してください』って。ほら、謝りなよ。謝れ。謝れ」


 謝れ。

 コールが続いて、わたしは、ふと視線を横にやる。

 そこには死神が立っている。

 黒い靄に包まれて、輪郭はおぼろげだ。

 骨のようなその手で、やはり、ナイフを差し出している。

 受け取れ、と言わんばかりに。

 わたしはじっとそれを見ている。

 死神は周囲の人間には見えないようで、キムラミナミも、その取り巻きも、驚いたり怖がったりしている様子はない。実体がないのだろう。事実、死神の身体をクラスメイトがすり抜けて通ったりしている。

 しかし。

 そのナイフは、手を伸ばせば触れそうなほどの、現実的な質感を持っている。

 これは幻覚ではなく。

 きっとわたしはナイフを受け取ることができるのだろう。


 少しの間、考えた。

 そして答えを出す。


「……『許してください』」


 わたしは感情を込めずに言った。

 すると、キムラミナミが恍惚の表情をして「……キャハッ!」とキンキン声で笑った。

 身体を震わせて、サディスティックに蕩けた顔をする。


「……しょ、しょーがないなー、許してあげるぅ。ま、さっきのウチからのプレゼントがあまりに嬉しいものだから、びっくりしちゃったんだよねぇ~? 次はもっといいものをあげるからさ、楽しみにしててよぉ。キャハハッ! じゃぁねぇ、英梨亜ちゃーん」


 そうしてようやくキムラミナミたちはわたしの席の前から去っていった。

 わたしは表情を浮かべずに、また普段通りにぼんやりと窓の外を見る。

 死神はもう消えていた。






 他人が嫌いなのと同じくらいに、自分が嫌いだ。全員死ねと思わない日がないのと同じように、自殺したいと思わない日はない。それでも一片の自己愛がわたしを生かしている。やはりどこかでわたしも救われたいと思っているらしい。相談したことがあった。戸籍上、親とされている人間に対してだ。毎日、中学で起きていることについて。わたしの親とされている人間は言った。

「許してやんなよ。その子、あんたのこと好きなんじゃないの? あんた一応、美人なんだしさ」

 許さないし、本当に気持ち悪いな。






 学校に行けなくなった。かといって家にいる気にもなれない。わずかな小遣いを持って、適当に駅前をぶらつく。自販機でジュースを買って、飲んだ。夕方になるまでベンチに座っていると、見知らぬ男の人が声をかけてきた。どうしたの、もう暗くなっちゃうよ、帰る家がないのなら僕の家に泊まらないかい。概ねそんなこと。笑ってしまった。聞いたことはある。家出少女を自宅に連れ込んで、猥褻な行為をしたがる人間が世の中にはたくさんいるらしい。生きていて恥ずかしくないのだろうか。

「ありがとうございます。でもわたし、帰ります」

 丁寧にお辞儀して、わたしは駅前を去った。冬のチャイムが四時半を報せた。

 あんた一応美人なんだしさ、という親のような人間の言葉を思い出す。

 ふうん。

 そうなんだ……






 三丁目の団地に足を踏み入れる。

 わたしの住むマンションの前に着くと、そこでうろうろしている人間がいた。

 キムラミナミだった。

 わたしは少し驚いたが、いつもの罵倒が来るのだろうと思いつつ、無視して家に入ろうとした。


「待って!」


 必死な声。

 わたしは懇願するようなその声色に意外性を感じ、振り返った。


「あ、あの……」


 俯いたキムラミナミが、もじもじと両指を絡ませる。


「い、今まで、ごめん。学校、来てよ。もう、ひどいことしないから……」


 わたしは心臓にどろりとした汗をかくような感覚を味わっていた。

 謝っている?

 今までわたしをいじめてきた、キムラミナミが?


「わ、わたし、本当はあなたと、仲良くなりたくて。でも、普通に話しかけても無視されるし……ちょっかいを出すしか、なくって……」


 ちょっと、待って。

 それ以上喋らないで。

 気色が悪い。吐き気がする。

 わたしと仲良くなりたかった?

 わたしは、わたし自身とすら仲良くなりたくなんてない。

 ゴミクズみたいなわたしを好きになるおまえはゴミクズだ。

 死ね、死ね、死ね。


「英梨亜ちゃん、わたし、なんでもする。今までの償いのためなら、なんでもするから……だから、学校、行こう? みんな、待ってるよ……?」


 隣に死神が立っている。

 差し出されたナイフを迷わず奪い取った。


 どぐん、と心臓が大きく打つ。


 ナイフから流れ込む死神の力が、わたしの体内を侵していく。


 わたしを中心に風が巻き起こり、枯れ葉を吹き飛ばし舞い散らせる。


 稲妻のような衝動が脳幹の奥を貫いて、わたしの身体を黒い靄が包み込む。


 風が止んだ。


 佇むわたしは、漆黒の着物を着た、死神だった。


「え、英梨亜ちゃん、それ、何……?」


 わたしを前にして、人間の顔がみるみる恐怖に青ざめる。

 無造作に持ったナイフに気づくと、視線がそこに釘付けになった。

 そんな人間を見てわたしは、ぎぎぎと頬を歪めて笑った。


「なんでもするんだよね? じゃあ、死んでよ」


 肉を貫く感触が脳髄にぶちまけられ、わたしの全身を快楽が駆け巡る。「あ、が」人間が白目を剥いて苦痛に身を捩る。まだだ。ナイフを人間の体内で暴れさせ、ぐちゃぐちゃに掻き回す。「ぎ、や、あ」甲高い悲鳴が団地に響く。うるさいな……。ナイフを抜いて、次は喉に突き刺した。「ごぼ」鈍い声を漏らして悲鳴が止まる。びぐんびぐんと痙攣する様子は何か別の生き物のようだった。


 あ……

 これ、楽しい。


 しばらく人間とナイフで遊んでいると、パトカーのサイレンが聞こえてきた。

 警察官が集まってきて、やめなさい、と怒鳴ってくる。

 わたしは肉の塊でしかなくなった人間を見下ろし、口の端を吊り上げた。

 満足だった。

 でもこのまま捕まる気にはならなかった。

 こんな楽しいこと、やめられるはずがない。


 死神になったその瞬間から、わたしはその力をどのように使うことができるのかを理解している。

 わたしは自分の身体を黒い靄で隠し、それから、靄ごとその場から消え失せた。

 血塗れの死体に、さよならを告げて。




     ◇◇◇




 他人が嫌いなのと同じくらいに、自分が嫌いだった。

 今は少し違う。

 ちょっとだけ……自分が、好きかも。




     ◇◇◇




 あれからわたしは、街々を好き勝手に渡り歩いていた。

 毎晩のようにわたしは、駅前のベンチで、道の電灯の下で、繁華街の地べたで、誰かを待つ。

 わたしを誘拐してくれる変態を待つ。


「きみ、こんなところで何してるの。親は?」


 深夜のバス停に座っていたら、男の人が釣れた。

 思わず、にやぁ、と笑ってしまう。

 その気がなくてもその気にさせるため、わたしは身体をくねらせる。


「家出、しちゃって……。帰るところが、ないんです……」


 上目遣いで、熱っぽい視線。


「おにいさんのおうちに、泊めてくれませんか……?」


 そして内心、嘲笑う。

 この人間をバラす時のことを思い浮かべる。

 後ろ手に、死神のナイフを隠しながら。






 ――『死神のナイフ』了――

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