その舞台の幕が上がるまで

志賀福 江乃

第1話



『君はさ、何かに真剣に取り組んだことはあるかい』


 ふと、スマートフォンの着信がなった。その画面に表示された友人の名前に、私はすぐに緑のボタンを押した。電話に出てみると、しばらく彼女は無言だった。向こう側からは、何もかも消えてしまったのかと思うほどの静寂が聞こえ、彼女の息遣いだけが存在を示していた。間違えたのかと最初は思った。そして、私がどうしたの、と声をかけようとしたその時、彼女が、震える声で第一声を放ったのだった。長い沈黙の後、消えてしまいそうなほど小さい掠れた音に心配になって、私は一瞬黙ってしまった。しかし、なんとか、どうしたの、大丈夫、というと彼女は、少し自嘲して大丈夫じゃないな、と言った。


『ちっとも大丈夫じゃない。最悪な気分だ。君で言うならゲームの電源をセーブ前に親に抜かれるくらい最悪だね』


 それは最悪だね、と答えると、だろう、と笑う。笑っていたけれど、声はちっとも弾まない。彼女は例え話が好きだ。それに少し、常人ではない独特な話し方をする。初めは慣れなかったけれど、徐々に慣れていけば彼女の言葉遣いや雰囲気に呑まれて、いつの間にか彼女の虜になる。そんな不思議な彼女が、今にも消えそうな声で電話をかけてきていた。


『さっきも聞いたけれど、君は何かを真剣に取り組んだことは? 寝る間も惜しんで、遊ぶ時間も、何もかもを犠牲にして、命をかけてもいいと思ったようなことはあるかい』


 うーん、と悩んで、ぱっと思いついたのは、ゲームくらいしかない。私には打ち込むほどの趣味はなく、暇なときはゲームをしてるくらい。命や何もかもを犠牲に、とまではいかないが、最近発売された無人島生活をするゲームに寝る間は確かに惜しんだ。まぁ、幻の魚釣りくらいかな、と答えると、ふふ、と電話越しに笑い声が聞こえた。そして、彼女はぽつりぽつりと話し始めた。私はなんとなく窓際に寄って、散りゆく桜を眺めながらその話を聞いていた。




 私はね、この夏――2020年の夏に、なんとしてでも成し遂げなければならないことがあった。私が踊りをやっているのは君も知っているね。そうそう、バレエだとかジャズとかだよ。君も一度見に来てくれたけれど。え、あぁ、ありがとう。妖精のようだったなんて、あまり私のガラじゃないな。でもまぁそのように見えていたなら嬉しいよ。踊り子冥利に尽きるね。この夏に、私はずっと憧れていた舞台に立てることになっていたんだ。大好きで尊敬している先輩が立った舞台に。練習も開始した。私は、その練習だけは何があっても休まず、気持ちの乗らない日も奮迅して頑張ったんだ。リハーサルがある日は、カラスよりも高いところに飛べそうな気持ちになったし、リハーサルが終わって帰ったあとはその復習を何度も何度も身につくまで寝ずに一心不乱に納得がいくまで練習し続けた。親に止められるまでね。いや止められてもやっていたか。


 今回指導してくれた先生は素晴らしい方だった。踊りについて私の考えは180度変わったんだ。踊りで客の心臓を鷲掴みにする、そんな人だった。その人に習えるだけでも私は幸福でこの舞台を完成させたら死んでもいい、と本気で思っていたんだ。

 共に出演する、同志達も中々、素晴らしい人達でね。共に教え合い、支え合い、時には叱咤をする、優しい仲間だった。しかし、誰一人として同じ人はいなくてね、個性豊かで、踊らせるとその個性が、バラバラに主張して、子供が乱雑にしまった色鉛筆セットのようになるのだよ。けれど、練習を重ねていくうちに、別の色合いを持っている仲間たちが綺麗に揃ってきた。ほら、色鉛筆セットの新品を開けたとき、綺麗に色が並べられているだろう? あんな感じさ。決して個々の色は忘れず、かと言って互いに邪魔し合わず、引き立たせる。綺麗に整えられただけで、まだ画用紙に絵を書くところまではいってなかったけれど、きっとこの色鉛筆で絵を書いたら素晴らしいものが出来上がるだろう。そんな予感がするチームだった。例えが難しかったかい? ふふ、申し訳ないね。どうも未熟な芸術家というものは、物に例えてしまいがちでツマラナイな。

 そんなことはさておき、私は、心の底から舞台の完成を願っていた。それに努力もした。怪我をしたって、どこか痛く立って耐えながら練習していた。私だけじゃない。周りの皆もだ。でもね、そんな私達の努力も思いも時間も、全てあっという間に、なくなったんだ。大切なものは失ってから気づくというけれど、それは本当だったと身を持って思い知らされたよ。


 ほら、今こんなご時世だろう。よくわからないウイルスが蔓延して人々が多く亡くなって、私達の娯楽や文化は奪われ、まともに家からも出れやしない。人をとにかく一気に集めちゃいけないとかで、学校も休みだし、舞台も何もかもが自粛だ。けれど、夏の舞台は平気かな、なんて私達は思っていた。なんとしてでも、やり遂げたかった。それなのに、私達の願いは届かなかったのだよ。舞台は中止になった。延期にすらならない。延期にできないほどこの世の未来は見えていないのだろう。

 私は、見えない未来は嫌いだ。予定が見えていればその目標に向かって走ればいいだけなのに。その目標が全てなくなった今、私は胸にぽっかり穴が空くどころか、もうがらんどうになってしまった。もう嫌だ、こんなのは、もう嫌。これがまだ誰かのせいでの中止ならどれだけ良かったことか! 誰も悪くない、この世界の誰も。蔓延してしまったウイルスも仕方のないことだし、舞台が中止してしまったのも仕方のないことだ。でも、でも、仕方のないことだからこそ、悔しいんだよ!! ずっとあの舞台に、憧れていた。輝く先人たちを見て、いつか並びたいと心に決めていた。それなのに、私が家でゴロゴロとしている間に、大切な舞台は消えてしまった。


 この喪失感はどうしたらいい。全てなくなった。命を懸けたいと思っていたものは消えた。必死に練習していたあの時間は、無駄ではなかったけれど、それでも面白いものができる、と心の底から思っていたからこそ、私は、どうしようもなく悔しい。助けてくれ、誰か、この世界を変えてくれ。きっと、こんなこと不謹慎だと思う人達もいるだろう。今の世は皆我慢している。必死に耐えている。きっと舞台をやりたかったとこんなことを叫ぶのは許されないことだ、失礼なことだ。だが、私はどうしても悲しいんだ。私のやり場のない気持ちを君にぶつけてしまってすまない。でも、涙が止まらない。あぁ、もう嫌だ、誰か、誰か、助けてくれ。私達は、舞台がなくなってしまったらどこで息をすればいい? 私達にとって舞台は、魚にとっての川や海と同じなんだ。あぁ、干乾びてしまいそうだ! 心が死んでしまう! 身体が可愛そうだ。鍛えてきた筋肉や酷使した関節や骨が可愛そうだ。誰にも見られることなく、きっと錆びていくんだ。いつになったらこの地獄は終わるのだろう。私達より苦しい思いをしている人は、私が想像できないくらい沢山いるのだろう。でも、誰かに聞いてほしかったんだ。だから、君に電話したのだよ、許してくれ。







 彼女は、ひと思いにそう言うと、すん、と息を吸った。そして、少しずつ聞こえてくる嗚咽。彼女の声は、心の叫びだった。悔しさと悲しさとやるせなさが全て伝わってきて、私は心がきゅう、と締め付けられた。私は舞台人ではないから、彼女の苦しみはわからない。それに医療関係者とかでもないから今のこの世界をどこか他人事のように感じている。彼女が言っていたように不謹慎で失礼だ。だが、そんな私でもこうして友達の叫びを聞くことはできる。今すぐ彼女のそばに駆け寄って、抱きしめたい。けれど、それも叶わない。かといって、彼女を励ますような言葉を生憎私は持ち合わせていなかった。友達を慰めることすらできない自分の不甲斐なさに腹がたった。


『すまない、君を困らせてしまった。慰めてもらいたかったわけじゃないんだ。まぁ、身体さえ生きていればきっと、いつか舞台はリベンジできる。それでも、どうしても、気持ちがごちゃごちゃになってしまったんだ』


 すまない、と何度も彼女は、泣きながら謝ってきた。なんで、私に謝るの、謝らないで、と言っても彼女は謝る。きっと、彼女は私じゃなく、舞台をともに成功させようとしていた先生や仲間、そして、舞台関係者だけじゃなくこの世界のすべての人に謝っているのだ。誰でも苦しいはずなのに、誰も悪くはないのに、こんなふうに思ってしまってすまない、と。だけど、そういうふうに思うのは仕方のないことだろう。こうやって感情を吐き出すことくらい、私が許す、そういう旨を伝えると、彼女は笑った。そして、また泣きながらありがとう、と呟いた。


『多分まだしばらく落ち込むよ、私は。でもきっと、この非常事態が終息して、世界が平穏に戻ったその時はまた、舞台で私は生き返ろう。まだ幕は上がっていないんだ、諦めずに、耐えよう。2020年の夏は、もしかしたら地獄かもしれない。でも、その先にある2021年の夏は明るいものになると信じようじゃないか。希望を捨てたらいけないよね』


 そんなふうに考えられる彼女に、私は心の底から素敵な人だと感嘆した。それじゃあ、また愚痴らせてくれよ、なんて最後はおちゃらけながら電話を切った。


 窓の外では、いつも沢山の人に開花を喜ばれ、見られるはずの桜が、誰にも喜ばれず、見られることもなく、淡々とその花びらを散らしている。その光景は酷く悲しい。しかし、きっと、来年や更にその先の未来はみんなでまた桜を見られるだろう。2020年は望まれない最悪な年になるかもしれない。だが、きっと来年は大いに盛り上がる春夏秋冬を過ごすだろう。そんな先の見えない未来を期待して、私達は今日も踏ん張るしかないのだ。

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