三
その後も、服用と点滴による抗生剤の治療が続く。
だが、一向に抗生剤が効いている気配はない。
点滴をすると、むしろ熱が上がって寒気がより一層強くなる始末だ。
おそらくそれは、薬に体が反応して、免疫力を高めるために発熱するのだと思うのだが。
とはいえ、抗生剤が効いていないことに変わりはない。
治療を始め、早、一週間以上は経とうとしている。
こんなにも抗生剤にしぶとい菌などというものがあるのだろうか?
抗生剤が効かないとなると、自分自身の免疫力が、この病原体を滅するのを祈るしかない。
これまで考えもしなかったが、薬の効かない病というのは大変、恐ろしいものだ。
回復せぬまま症状は悪化し、体力は刻々と吸い取られていく。
このまま熱が上がり続ければ、早晩、昏睡状態に陥って、救急車で運ばれることとなるであろう。
ひょっとしたら、そのまま――。
などという想像までしてしまう、そんな、本能で危険を感じるほどの状況だった。
目の前をちらつきだした「死」という予感に、私は熱に浮かされる頭をもたげながら、もしもの時の遺言書まで、病床で書き記した。
すると、死を覚悟したことが良かったのか、その夜、不思議なことが起きた。
否。そう言うと、京極堂に
「この世に不思議なことなど何もないのだよ」
と言われてしまいそうな、きっと何かの生理現象で説明のつくものなのであろうが、
神秘体験――
「そう言っても過言ではないのだよ」
と私自身には思えるような、奇妙な体験だった。
その夜。
熱と。頭痛と。身体のだるさにいつの間にか眠りについていた私は、
深夜突然、痛みが延髄から左側頭部に走り上がり、そこで大爆発するかのような激しい痛みに襲われ、その悪夢のような現象に咽ながら飛び起きた。
初め。ついに頭の中の血管が切れたのかと思った。
それくらいの、ビックバンが起きたかと思うような爆発的な痛感である。
しかし。身体はどこも異常はないし、手足に痺れなどもない。
一体、何が起きたのだ?
私は理解できぬまま、しばらく痛みにもんどり打つ。
だが。その側頭部の痛みが消え始めた頃。
不思議と身体が楽になったのである。
なぜだか寒気も消えているし、後頭部の痛みも軽い。
そして、これを境に私の症状は、快方へ向かい出すこととなったのである。
また、祖父に貰ったうがい薬でうがいを始めたことが良かった。
扁桃腺は、細菌やウイルスが体内に侵入しようとするのを監視し、即座に防衛体制を敷くためのセンサー。
消毒をし、そこに病原体がいなくなれば、身体も熱を下げるという仕組である。
ただし。
病状が次の段階に移行したのか、この頃より医者が予言した通り、今度は喉が腫れ上がり、唾を飲み込むのも辛い状況にはなっていたのだが。
ところで、深夜の不思議な体験をしたその折、私の中でもう一つ起きていた奇妙な出来事がある。
突然の激痛に飛び起きたその時。
夢現の内に私は、
「伯爵は英語にまだ不慣れだから、“ヤキを入れる”という言葉はわからない云々」
と、訳のわからぬことを心の中で叫んでいたのである。
伯爵――。
それは、いきなり話が飛躍してしまうのだが、かの有名なドラキュラ伯爵である。
なるほど。トランシルバニアに住むドラキュラ伯爵は、ドイツ語には慣れ親しんでいるのだろうが、英語はイギリスに渡るために勉強し始めたばかりなのだ。
おそらくは――そんな夢を見ていたのであろう。
というのもこの時分、幾分、熱が下がって頭がはっきりしている時には、頭痛から気を紛らわすために、ブラム・ストーカー著/平井呈一訳の『吸血鬼ドラキュラ』(創元推理文庫)を読んでいたのだ。
なぜ、そのような本を読んでいたのか。
実は倒れる直前まで、とある小説賞に応募するため、昨年の秋に書いた超短編八百文字
ちなみに他に二冊、吸血鬼関連の書を借りている。
だが、もとはと言うと、この本を最後まで通して読む気はしていなかった。
というのも、字が小さい上に文章が詰まり過ぎていて、あまり読む意欲が湧かなかったのだ。
否。文章自体は読み易いのだが、とにかく段落が少ない。延々と一続きで文章が続くのである。
これは編集が少し拙いのではないか、とも思う。
そんなことでまだ元気な内は、必要なエッセンスだけを吸収すれば事足りるので、あえてすべてを読む気にはなれなかったのであるが、それが思わず病床に就くこととなり、気晴らしに手元にあるこの本を取ったとまあ、そういう次第である。
それでも初めのうちは話がまどろっこしく、途中で読むのはやめようと思っていた。
特に、熱の出ている時にこの文章の詰まった紙面は辛い。
しかし、その内に、なんだか無性に先を読まずにはいられなくなってくる。
どうにも読むように仕向けられている――。
そんな気がした。
それから後も、この本を読んで寝るせいか、ドラキュラ伯爵の夢ばかりを見た。
そう思ってみると、今回の病は微妙に吸血鬼と
例えば、この病の症状は皆、首筋に関連したものなのだ。
原因は喉に――扁桃腺に病原体が侵入したためであるし、頭痛も後頭部から延髄にかけてのものである。
唾が飲み込めないほど、喉が腫れ上がるという症状もある。
そういえば、この飲み込めないというのは恐水症――狂犬病の症状に似ていなくもないが、狂犬病といえば吸血蝙蝠が連想される。
吸血蝙蝠――正式名チスイコウモリは、狂犬病の菌を運ぶのだ。
勿論、私のものは狂犬病ではないのだが。
それに。
犬といえば、狼――人狼だ。
さらに加えれば、後頭部の痛みがもしかしたら肩の凝りからくるのではないかと考え、
私はピップエレキバンを二つ、首筋に貼っていた。
あたかも二つ並んだ磁石付きパッチが、喉を噛まれた牙の痕ででもあるかのように。
また、私は病床に伏せる間、『ドラキュラ』で伯爵の城に囚われた主人公ジョナサン・ハーカーや、伯爵に狙われ、日に日に血液を失っていくルーシー・ウェステンラのように、夜が来るのがたいへん恐ろしかった。
夜行性ではない人間という動物の性か、日が沈むと、まるで体内にいる魔物が目を覚ますかの如く、昼間は下がっていた熱が再び上がり、症状が悪化してしまうからである。
そうして寒気と頭痛に朦朧とする意識の中で、私は血液ではなく、精気を奪われ続けた。
あと、診察料や検査費、薬代等で財布よりお金も――。
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