メイムEX.むすんでひらいて
――みほろ。
誰かが私の名前を呼んでいる。
聞き覚えのある声だった。
いつの間に移動したのか、私は今、学校の教室にいた。ちょうど自分の席に座らされている。
教室の中は私以外に誰もおらず、私が休校日だということを忘れて間違って登校したみたいな状態になっている。
窓からは強い日差しが注ぎ込み、外では蝉の鳴き声が暑さで揺らめいている。座る主のいなくなった机の群れは、段ボールに入れられた捨て猫に近い寂しさをまとっていた。
「え? なんで学校?」
思わず独りごちる。私の疑問は無人の教室に空しく広がった。
もちろん返事はない。
目が覚めたのなら、私はリョウの部屋にいるはずだ。そうじゃないということは、ここはまだ夢の中だ。
私は、もう三つの悪夢を救ったんだよね。あとは、願いを叶えてもらうだけなんじゃないの?
てっきり、あの真っ白な
まだ、なにかしなくちゃいけないのか。
やるべきことは全部やったはずだ。
私は、一刻も早くリョウを眠らせないといけないのに。
まさか、実は救ってもらう悪夢は四つでした、とか、なしだよ?
そもそも、ここは本当に夢なんだろうか。
私が教室で居眠りしていた、なんてオチだったらやだなあ。
頬をつねる。痛くない。やっぱり、まだ夢から覚めてはいない。
ひょっとすると、迷夢に行くにはさらに寝る必要がある?
私は机に突っ伏した。木の優しい冷たさが頬に染みる。
あー、気持ちいい。じゃなくて。
なんで私は、ここにいるんだろう。
誰へ向けたでもなく思った心のつぶやきに、返事があった。
「私が呼んだんだ」
また、誰かの声がした。
私はがばっと体を起こす。
声の主は正面にいた。
その正体を見て、私は目を丸くした。
「
私の一つ前の席に、友佳里が座っていた。後ろ向きに椅子に腰かけ、背もたれに肘を乗せている。
「よう、久しぶりだな」
友佳里はにかっとまぶしい笑顔を見せた。
ぎっ、と椅子が軋む。友佳里は椅子を斜めに傾けて、四本のうち二本の足だけを床につけてバランスを取っていた。
そう言えば、友佳里はよくこうして遊んでたな。授業中も、先生の目を盗んで椅子をゆらゆら動かしてたっけ。懐かしい。
そうか、ここは、友佳里が私にリョウへの想いを伝えた場所。私たちの関係に、目に見えない変化が起こった転換点。
あの日、あのとき、この場所で。私は誰よりも、リョウよりも先に、友佳里の恋心を知ったんだ。
でも、それと今の状況に、なんのつながりがあるんだろう。
「呼んだって、友佳里が私を? ここに? なんで?」
私の頭はクエスチョンマークでいっぱいだ。
対する友佳里はなんでもお見通しな目をしている。
友佳里は私をしっかりと見据えて、唇を動かした。
「迷夢について、話がある」
迷夢。
友佳里の口からその単語が出たことに、びっくりした。
私はおそるおそる、訊ねる。
「迷夢のこと、なにか知ってるの?」
友佳里はうなずいた。
迷夢のこともそうだけど、それだけじゃなくて、私の知らないなにかも、知っているようだ。
友佳里は指でピストルを作って私に向けた。人になにかを教えるときの彼女の癖だ。まぎれもない本人だという証明にもなった。
「人は、死んだら夢の世界の住人になるみたいだ。私は夢の中をうろついて、そして迷夢の存在を知った。みほろが頑張っていることもな」
私が悪夢の世界を必死に駆けずり回っているのも、見られていたのかな。それはだいぶ恥ずかしいぞ。
そこで、あることをふと思い出した。
「あっ、まさか、ディスクの夢で私の歌声が友佳里の声になったのって……」
「ああ、そうだ。懐かしいメロディが聞こえてきたんで、つい口ずさんだんだけど、まさかみほろが歌っていたなんてな。歌い終わったあと、みほろは急に穴の中に消えていったから、追いかけも挨拶もできたかったけどな」
「やっぱり! ありがとう!」
そういうことだったんだ。
そうじゃなきゃ、説明がつかない。
謎が一つ解けた。友佳里は、死んだあとも、夢の中でも、友佳里のままだ。そのことが嬉しくて、私を安心させた。
「みほろのことを追いかけているうちに、
蜆さん。そういえば、人は死んだら夢の世界に行くとさっき聞いた。
もしかして、蜆さんは健太郎さんが小さいときに亡くなった近所のお姉さん本人なのかもしれない。きっとそうだ。だからトンネルの夢のとき、あの人は昔の健太郎さんを懐かしむようなことを言っていたんだろう。
「それでな、みほろ」
友佳里は笑わずに、私をじっと見る。
「みほろは悪夢を三つ救ったから、願いを叶えてもらうんだろ?」
「うん、そうそう」
そのはず、なんだけど……
今、私は迷夢に帰れずに、夢の中の学校にいる。
友佳里が私をここに呼んだというのなら、わけがあるんだろうけど。それは、よほど大事なことなんだろうか。リョウに時間があまりないということは、友佳里なら気づいているだろうに。
友佳里は指のピストルをほどいて、手を机について身を乗り出した。
「その願いについて、話があるんだ」
「なに?」
私は耳を傾ける。友佳里のことだ。きっと素晴らしいアイデアを考えてくれたに違いない。
友佳里はつばを飲み込み、真剣な表情で言った。
「みほろは、私を生き返らせようとしてるのか?」
…………
……あ。
ああ!
私は興奮して、手をぱんと胸の前で打つ。
「そっか、リョウを眠らせることしか頭になかったけど、友佳里を生き返らせればリョウもぐっすり眠れるし、また三人で遊べるね! さすが友佳里! あったまいー!」
目から鱗が落ちる思いだった。そうだ、その手があった! これこそナイスアイデアだ! みんながハッピーになれるって、こういうことだったんだ!
やっぱり、私はばかだ。こんなことにも思いがよらなかったなんて。
ごん。友佳里が椅子をゆらゆらさせるのをやめて、椅子の足を四本とも全部地に下ろした。
納得する私を見て、彼女は少々面食らったような顔をしていた。
「ほんとに、私を生き返らせようと、思ってなかったのか?」
「うん。リョウを寝かせようとばかり思ってたからね」
そこまで考えてなくてごめん、と私は顔の前で手を合わせる。
友佳里はぽかんと私の両手を見つめ、やがて吹き出した。
「あっはっは。いいよ。みほろらしくていいや。そっかー、最初から頭の中になかったかー」
こりゃまいったなー、と友佳里は目元を手で覆っている。
そこまで笑わなくてもいいじゃん。ごめんって。
けど、おかげで私の願いは変わった。リョウを眠らせることよりも確実で、もっといいものに。
「わかった。叶えてもらう願いは、友佳里を生き返らせることにするね」
私がそう言うと、友佳里の笑い声が止まった。
え、私、なにか変なこと言った?
友佳里は厳しく強い口調になる。
「それはだめだ。私は、もしみほろが私を生き返らそうとしていたら、それを止めるように言いたくてここに呼んだんだ」
きっぱりと言い切られてしまった。
友佳里の声は透き通っていて、私の耳にまっすぐに届く。
いつしか、蝉の鳴き声もぴたりと止んでいた。
私も、時間が止まったように固まる。
「……え?」
友佳里は、なにを言ってるの?
自分を生き返らせるなって?
なんでせっかくのチャンスをふいにするの?
友佳里がいれば、リョウの悲しみは止まるのに。
彼女の目が、冗談じゃないことを語っていた。
研ぎ澄まされた、本気の目だ。
「いいか、みほろ。迷夢をあまり信じるな。ノーネイムに気をつけろ」
友佳里は鋭い口調で言った。
「迷夢は願いを叶えてくれる、っていうのは少し違う。本当は迷夢は、都合の悪い出来事を夢にするんだ。例えば私を生き返らせようと思ったら、私があの日、交通事故の現場に居合わせたことが夢になる」
「じゃあ、友佳里が生き返ったら……」
友佳里は重苦しく首肯する。
「私があの子どもを助けたことがなかったことにされるから、あの子はそのまま事故で死んでしまうだろうな」
友佳里が身代わりになって救った子どもの顔がフラッシュバックする。
葬儀でも、自分が助けられたことさえわからずに、ぼーっとしていた小さな男の子だ。友佳里を生き返らせたら、あの子が、死ぬ?
友佳里とあの子、生きてくれるのなら、本音を言えば友佳里の方がいい。自分が薄情だという自覚はある。
でも、私は薄情だけど、あの子になんの罪もないということぐらいは、わかっているつもりだ。
友佳里の代わりに死んでくれなんて、天地がひっくり返っても言えやしない。そんなことを言うくらいなら、自分の舌を引っこ抜いた方がましだ。
生きてる分際でそんなことを望むなんて、図々しいにもほどがある。
それに、あの子は友佳里が命を懸けて守った子だ。
あの子の命をなかったことにするなんて、友佳里の努力と死を無駄にして、侮辱することになる。友だちだけは、裏切れない。
でもさあ。
目に映る友佳里の姿が、ぶれる。
「やっぱり、友佳里ともっと話したいよ」
私の頬が、目からこぼれ落ちる涙にくすぐられる。友佳里の顔が見られなくなって、うつむいた。
友佳里を困らせるだけだと、頭ではわかっている。それでも、この思いをぶつけずにはいられなかった。
予想通り、いや、予想以上に友佳里は苦しそうにうなっていた。私の胸の中で芽吹いた罪悪感が、狂い咲く。
「やめろよ」
友佳里の声も震えていた。
普段の強い姿のせいで忘れがちになるけど、彼女にだって怖いものはあるんだ。それはとても当たり前で、大事なこと。
誰でも、生きてる以上は死が怖い。
「私だって、死にたくなかったよ」
彼女は私の手の上にもう片方の手を重ねて、しっかりと握ってくれた。
「だけどな、みほろ。未練はあるけど、私は後悔なんてしてないよ」
友佳里は優しい声の色になった。
「私もみほろも、前に進まなきゃいけない。私は夢の世界を、みほろは現実を歩いていくんだ」
それに、と友佳里は続ける。微笑んでいるのが声だけで伝わってきた。
「みほろは、リョウくんの背中を押して、一緒に歩いてやってくれ。それができるのは、もうお前だけだ」
「私で、いいの……?」
私の不安そうな声を、友佳里は包み込む。
「ああ、みほろがいい」
私は彼女の言葉に甘えて、ゆっくりと沈んでいく。
友佳里が死んでから張り詰めていた心の糸が、丁寧にほどかれてちょうちょ結びされるようだった。
「友佳里ぃ……」
私は思い出の教室の中で、友佳里だけに涙を見せる。友佳里の死後、こんなに泣いたのははじめてだった。涙がこらえきれずに、次から次へと流れ落ちる。どうしよう、止まらない。
「私が死んだくらいで、あんまり落ち込まないでくれよ」
やっぱり、きみはそう言うんだね。
友佳里は苦笑していた。
「なあ、みほろ。お願いだ。リョウくんを頼むよ」
その願いは悲しく、そして重かった。人類の未来と同じぐらい、私にずしっとのしかかる。でも、これを今まで胸の内に抱えていた友佳里もつらかったんだ。私だけ泣き言を言うわけにはいくもんか。
友佳里の手が、体が、透けて教室の景色を映し出す。
「約束、してくれるか?」
しないわけがない。首を力いっぱい上下に振る。
友佳里の言葉を、私は抱きしめる。
「にひっ」
最後に、友佳里は笑って消えていった。
「待って! まだ……」
言いたいことがあるのに……!
私の気持ちもむなしく、友佳里と入れ違いに、蝉の声が戻ってくる。夏の教室は、埃と汗と、友佳里の香りがした。
私はしばらく机に顔を押し付けて震えていた。
それからいくら時間が経ったろう。
三分かもしれないし、一時間かもしれない。
愛也さんが教えてくれた時間感覚という言葉を思い出した。
私の今の気持ちは寒色だろうから、時間が早く流れているのかもしれない。
だったら、過ぎていく時間がもったいない。
とにかく、私は顔を上げ、椅子を蹴る勢いで立ち上がる。
私はもう、迷わない。現実でも夢でも、迷うもんか。
迷夢だって、終わりにしてやる。
私は教室のドアを開け、外へ飛び出す。
最後の迷夢に、行くために。
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