トンネルの向こうは chapter3
かつうん。こつうん。
真っ暗なトンネルの中、二人分の足跡が反響する。
私たちがトンネルを歩き始めてから、体感時間でかれこれ一時間は経つ。その間、どちらも無言だった。
……気まずい。
人見知りにとって、よく知らない人と時間を共有するのは精神を削られることに他ならない。
自分から声をかけるのは勇気がいるし、気の利いた話題なんて私の引き出しにストックされているはずもない。
お願いだからなにか話してよ、天才科学者さん。
ちらと前を伺うも、愛也さんは黙々とトンネルの中を進んでいくだけだ。科学者に愛想というものはないのかもしれない。
……あっ、そうだ。そう言えば、訊きたいことはあった。
「あの、すみません」
「なにかね?」
私は、専門家に訊いてみたかったことを口にする。
「ノーネイム……その、
「なんだ、そんなことか」
愛也さんは息を吐き、私の胸騒ぎをあっさりと「そんなこと」と切り捨ててから、解答を示す。
「本当だ」
あんまりなことに、答えはイエスだった。
「そもそも夢とは、人が生きていくために必要な睡眠の四分の一を占めている。呼吸などと同じ、立派な生命活動なのだ。フランスのある研究者が『人間に夢を見せない実験』を行ったところ、被験者が生命活動に支障をきたしてしまった。そこで、動物実験に変更したのだが――」
「ど、どうなったんですか?」
「その動物は死んだ」
「……え?」
淡々とした口調が、いっそう恐怖心を煽る。
私の目の前が、真っ暗になった気がした。
夢を見ないと、生き物は死ぬ?
私が想像している以上に、はるかに今のリョウは危険な状態だ。のんきに歩いていた今までの自分を、ぶん殴ってやりたい気持ちになる。
「……む」
ふと、突然愛也さんは立ち止まった。つられて私も歩みを止める。
「……どうしたんですか?」
「気づかないのか? この異変に」
愛也さんは白衣をはためかせながら言った。
ん? 白衣がはためいているってことは――
「……風が、吹いてる?」
トンネルの先から私たちに向かって、わずかに逆風がそよいでいる。
「それだけじゃないぞ。見ろ、下を」
愛也さんはライトを消す。
その言葉に従って視線を下に向けると、トンネルの床がぼんやりと淡い青色に光っていた。床だけじゃない。壁も天井も、トンネル全体がぼんやりと青い光を灯している。蝋燭に似た、淡い光だ。
「なに、これ?」
「ようやく気づいたか。まあ、俺も終始ライトを照らしていたから気づくことができたのだがな」
私は背後を見る。光は後ろに行くほど弱く、前に行くほど少しずつ強まっているようだった。光の描く、緩やかなグラデーションだ。
最初は真っ暗な道だったのが、未来へ近づくにつれて青白く発光している。ゆっくりと歩いてきたとはいえ、いつの間にか光に包まれていることに気づけない。そのくらい、滑らかな変化だった。クイズ番組で写真の一部が徐々に変わっていく問題が解けたときの感覚を思い出した。
さっき「夢を見せない実験」の結果を聞いたとき、暗闇の中にいたはずなのに、わざわざ目の前が暗くなった感じがしたのは、無意識のうちに周りが明るくなっていたからなんだ。
「この光、なんなんでしょう」
私の問いに、さすがの天才科学者はすぐさま答えを導き出した。
「おそらくは、時間感覚を狂わせているのだろう」
「時間感覚?」
聞き慣れない単語を私は繰り返す。
愛也さんはやや早口で説明する。
「人は赤などの暖色系の色を見ると時間を長く感じ、青などの寒色を見ると時間を短く感じるという。たとえば、赤い壁紙の部屋の中では三十分しかいなくとも一時間いたように感じ、逆に青い部屋では一時間いても三十分しか経っていないように感じる、といった風にだ」
えーと、つまり、青色に包まれた人は、一時間を三十分に感じるってこと?
「これは仮説だが、このタイムトンネルで未来に行く仕組みとは、青い光で人の時間感覚を狂わせ、三十分しか経ってないのに一時間先の未来へ飛んだと勘違いさせてしまうということなのではないだろうか。色によるウラシマ効果のようなものだな」
ウラシマ効果。その言葉なら私でも聞いたことはある。
「でも、私たちは亀を助けたりしてませんよね?」
私がそう言ったとたん、なぜだろう、愛也さんにすごく悲しそうな目で見られてしまった。
「ともかく、だ」
とうとう目を逸らされた。愛也さんは咳払いを一つ。
「俺たちはこの青い光の中で一時間歩き続けた。だが、トンネルの外は何十年も経過しているかもしれない、ということだ。夢の時間と現実の時間感覚の違いも影響しているのだろう」
「え、だったら帰るときはどうするんですか? その時間感覚っていうのを使っても、過去に戻れるわけじゃないんでしょう?」
「きみは根本的なことを忘れているな。これは夢だ。トンネルを逆戻りして帰る必要などない。夢から覚めるだけで、我々は現実の時間へと戻れるのだぞ。色と夢を利用した時間移動。素晴らしい。これは大発見だ。やはり、俺の研究に間違いはなかったのだ!」
そんなことより、私の目を見て喋ってくださいよ。
「そして風が吹き込んでいるということは、出口が近い証拠だ。さあ、行くぞ津星くん。未来を俺たちの目に焼き付けるんだ」
未来の前に助手の姿を焼き付けてくれませんか。
私の無言の訴えを無視して、愛也さんは歩みを再開した。青い光があるので、もうライトは点けていない。
なんとなく釈然としないままに、私もあとを追いかけた。
ばかにされっぱなしなのは癪だけど、今は黙ってついていくしかない。
でも、なんとなく、いつかこの人をぎゃふんと言わせてみたかった。
「見えたぞ! ついに出口が!」
愛也さんが勝手に一人で納得してから、さらに歩き続けること数十分。
私たちの百メートルほど前に、大きく口を開けた半円の穴と、そこから差し込む白い光が姿を現した。
白い光は青い光を打ち消し、トンネルの内部を露わにする。トンネルの内側は、コンクリートではなく、表面がつやつやの金属のようなものでできていた。
「どうした!? もっと喜べ! 興奮しろ! 俺たちはこれから未来の世界へ行くんだぞ!」
はしゃぐ三十代と対照的に、私の胸の内は不安に塗りつぶされていた。
なにかいやな予感がする。
内部がはっきりと見えたとき、私は、自分の胸にぽっかりと開いた穴が、このトンネルになってつながっているような気がした。
親友の欠けた穴がつなぐ未来。それは、どうしても喜ばしいものだとは思えなかったんだ。
なぜなら、私はまだその喪失感を克服できていないから。
この夢は、愛也さんの夢だ。だけど同時に、私が来た瞬間から、私の夢でもある。
もし、私の心の風景が、未来に影響を及ぼしていたら……
そう考えると、トンネルを抜けるのが怖くなった。
「なにを怖気づくことがある? 行くぞ」
愛也さんが白衣を翻して早足になる。
そのとき、いきなり出口の光が閉ざされた。忘れかけていた青白い光が私たちを照らし出す。
地鳴りのような揺れがトンネル内を満たし、私の肌をも震わせた。
「夢の中で地震だと!? ありえん!」
愛也さんの叫びを引き金に、うごめく影が出口から押し寄せてくる。
影の正体は、視界を埋める大勢の人だった。全員で何人いるのか、数えるのも気が遠くなるほどの人の群れ。
その誰もが、恐怖を顔に張り付けていた。
トンネルの向こうから、何人もの人がなだれ込んでくる。
人々は泣き叫び、あるいは怒鳴りながら、一つの大きな波となって私たちを飲み込んだ。
私と愛也さんはあっという間にはぐれ、互いを見失ってしまう。流されないようにするだけで精いっぱいだ。
無数の人が、未来から過去へ向かって逆走している。私のそばを、数えきれないくらいの人と熱が通り過ぎていく。
彼らは、一様に切羽詰まった様子でなにかを口走っている。私の耳は、溢れかえる叫びの中からいくつかをかろうじて拾った。その内容は、こんなものだった。
「こうしている間にも、どんどんひどくなっていきやがる!」
「このトンネルが開いている間に急いで逃げないと……!」
「時間がない、早く行かせてくれ!」
「ぐずぐずしていると、あれに巻き込まれるぞ!」
その中で、ぽつりとつぶやかれた小さな言葉が耳に残った。
「こんな時代になるとわかっていたら……」
いったい、未来はどうなっているんだ。
私の全身に鳥肌が立つ。背中に氷を入れられたみたいに、寒気がする。
未来で、なにかとてつもなく恐ろしいことが起こっている。それがなにかはわからないけど、危険なことだけは確かだ。
人の濁流が落ち着いた頃、私と愛也さんだけがトンネルの出口付近に残っていた。あれほどいた人が、今はみんな影も形もない。帰ってきた静寂が逆にうるさかった。
「まったく、なんだというのだ! なにがどうなっている!」
苛立たしげに地面を踏みながら、愛也さんは出口へと進む。私も、おぼつかない足取りでついていく。
そこで、私たちは見た。トンネルの先、未来に広がる光景を。
私たちの目に映っていたのは、ただただあてどなく無限に続く、荒野だった。
生物の温もりなど、残ってはいない。
私と愛也さんだけが、ぽつんと取り残されている。命と文明の気配は、そこにはもはやなかった。
「なんだこれは!? なにが起きた!? 第三次世界大戦か!? 地球規模の天災か!? 未知の病原菌の発生か!? まさか、地球外生命体の侵略などとでもいうつもりじゃあるまいな!?」
愛也さんのとめどない疑問は、どれも空しく荒野に響き、枯れ果てた大地に吸い込まれていった。
私のいやな予感が当たってしまった。きっと、ろくな未来じゃないんだろう。愛也さんの挙げた可能性のどれかかもしれないし、あるいは全部かもしれない。
「こんなことってあるか! ちくしょう! 輝かしい未来への第一歩となるはずだったのに、待ち受けているのが絶望だと!? 俺は、こんな未来を見るために研究していたわけじゃないぞ!」
愛也さんが地面を蹴る。それだけで地は崩れ、夜よりも黒い穴が開く。世界そのものがもろくなっている感じがした。
私たちはしかたなく、トンネルの中へ引き返した。
私は、力なく手を下げて立ち尽くす。
もしかして、私の、せい……?
私が来たせいで、この夢は悪夢になった?
未来が、たいへんなことになった?
しかも、愛也さんの説が正しければ、この夢は正夢だ。
これが、現実になる。
今までの悪夢とはわけが違う。
夢の世界だけじゃなく、現実の未来も救わなくちゃいけない。
そんなの、どうしようもないじゃない……。
私は自分の肩にかかった、あまりにも大きすぎる重荷を今すぐ捨てたくなった。
今まで通り、力押しでどうにかできる問題じゃない。
最後の悪夢が、よりによってこんなものだなんて。
甘かった。今までと同じように、なんだかんだで解決できると思っていた。
私の視界はぐんにゃりと歪む。
どうすればいい?
隣で、罵倒に疲れた愛也さんが膝から崩れ落ちる。
「あんまりだ……。俺はただ、人類の、みんなの夢を、叶えたかっただけなのに……!」
夢を、叶える。
その言葉が耳に入ってきたとたん、リョウの顔が脳裏に浮かんだ。
瞬間、私の頭は一気に冷たい炎にあぶられた。心が冷静に燃え盛る。
そうだ。私にも、叶えたい夢がある。
こんなところでつまずいているわけにはいかない。
悪夢がなんだ。未来がなんだ。現実がなんだ。
たとえ全部が最悪だとしても、私がリョウの寝顔を諦める理由にはならない。
あの優しい幼なじみを、私の大事な親友の恋人を、これ以上、苦しませるもんか!
こんな未来、願い下げだ!
私は拳をトンネルの壁に打ち付けた。焦りとやり場のない怒りが胸を満たす。
どうやって、この悪夢を終わらせようか。
私は横を向く。さっき壁を殴った腕が、まだしびれていた。トンネルに、雀の涙ほどの小さなひびが入っている。
私の脳が高速で回転する。目の裏側に、電流が走る。
ひょっとして、これか?
私は訊ねる。
「愛也さん。このトンネルは、あの未来につながってるんですよね」
「残念ながらそうらしい」
愛也さんは力なく答えた。けど、その答えを聞いた私は、反対に力が湧いてくる。このトンネルが未来につながっているのが事実だというのなら。
「なら、たぶん大丈夫です」
私は壁から拳を離し、自分の肩に近づけて横を向き、ボクサーのように構える。
狙いは、この壁だ。親の仇だと思って、睨め。
「……なんの、つもりだ?」
愛也さんは呆然と私を見つめた。
私は行動で答える。
「こうする、つもりです!」
顔の横にあった拳を、放り投げるように思いっきり壁に叩き込む。重い音がした。肩のあたりまでしびれが伝わってくる。拳から血が噴き出す。けど、痛くはない。
「このトンネルが未来につながっているんなら、壊せば、少なくともあの未来へ続く道はなくなります。回避できるんですよ、あの未来は――!」
今度は反対の手で、もう一発!
いきなり壁を殴り始めた私を、愛也さんは唖然として眺めていた。あんまり見ないでよ、恥ずかしいじゃん!
三発目。最初に入れたひびが、野球のボールほどの大きさになった。
私はひたすら殴り続ける。両手はもう血まみれだ。
まるで自分の拳が割れたかのように、愛也さんは悲痛な叫びを上げる。
「無理だ、殴ったぐらいで壊れる代物じゃない!」
「こんな夢の中で諦める方が、私には無理です!」
私は負けじと言い返した。
やっぱり私は、自分の手を出すことでしかなにかを解決できそうにない。そのやり方しか知らない。
それはきっと、科学者から見ても、そうでない人から見ても、利口な手段じゃないんだろう。乱暴な女だ。
だけど私には、なにもしないで止まっている方が利口だとは思えない。自分にできることがあるのなら、それが結果につながらなくても、見当はずれな道だとしても、貫き通す価値はあるはずだ。
四発目、五発目。立て続けに拳を振るう。私の手から流れ落ちる血が、トンネルの地面を真っ赤に濡らした。でも大丈夫、痛くない。
六発目、七発目。腕が眠気を帯びたように重くなった。まだやれる。
八発目。腕のダメージが、なぜか足にきた。膝が震え、目がまともに照準を合わせられなくなる。大、丈夫――
視界がぼやける。夢の中なのに、猛烈な眠気に襲われた。こんなときに寝ていられない。寝るべき人は他にいる。私は、絶対にリョウを安眠させてやるんだ……!
私の足元には、自分の血の水たまりができていた。それに足を取られてしまい、体がぐらりと傾く。
あ、これ、転んじゃうな……
そう思ったとき、私の肩を支える手があった。温かい手のひらだった。
愛也さんの手じゃない。誰?
「若いときの苦労は買ってでもしろと言うが、無茶まで買わなくていいんだよ」
渋い声がする。上を見ると、私を覗き込む、口ひげをたくわえてウェイター服に身を包んだ老紳士と目が合った。
「マスター……?」
そこにいたのは、私が最初に訪れた味噌汁の悪夢の住人、長ネギの具のおじいさんだった。
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