メイム3.トンネルの向こうは chapter1

 木ノ下きのした友佳里ゆかりとはじめて会ったときのことを忘れはしない。

 中学の頃、リョウがいじめられていたときだった。

 私とリョウは人見知りで内気で、お互いしか友だちと呼べるものはいなかった。

 いつも私と一緒にいるリョウが、「お前らつき合ってんのかよ」とはやし立てられるのは日常茶飯事だった。

 それだけならただの茶々で済むのだけど、限度を超えてあっけなく心の垣根を壊してくる輩というのはいるものだ。


「お前のお古でもいいから、津星つぼしをくれよ」


 校舎裏にリョウを呼び出し、一人の男子はそう言った。

 私はリョウが心配になってあとをつけただけだったけど、その台詞が聞こえてきて頭が真っ白になった。

 リョウは顔を真っ赤にして、なにも言わずにただ男子に殴りかかった。

 けれども、当然ながら彼は喧嘩慣れしておらず、その拳はひょいとたやすくかわされて空を切った。

 自分の拳の勢いに振り回され、足をもつれさせたリョウを男子はあざ笑う。そればかりか、足蹴にし始めた。

 きれいな制服に男子の靴の裏の形をした泥が付き、リョウをばかにされてもなお、私は動けなかった。怖くてなにもできなかった。

 そこへ現れたのが、友佳里だった。

 私の前をずかずかと横切り、彼女はいきなり男子の顔面をぶん殴った。

 唖然とする男子に、友佳里はこう言った。


「女はものじゃねえ。人は踏みものじゃねえ。だせえ真似すんな!」


 それから友佳里は男子をもう二発ほど殴り、撃退した。

 踏みものじゃないけど、殴るのはいいのか。

 私はそんなことをぼんやり考えていたと思う。

 けれど、彼女は確かに輝いていて、まぶしかった。

 友佳里に対して、私が憧れを、リョウが恋心の種を抱いたのは、間違いなくそのときだろう。

 出会った瞬間から、彼女は私たちにとってかけがえのない人になったんだ。

 友佳里みたいになりたくて、友佳里もいろいろなことを教えてくれて、私とリョウは強くなることができた。

 彼女のおかげで、今の私たちがある。

 友佳里は私たちの友だちで、恋人で、ヒーローで、ヒロインだ。

 だからか。友佳里が死んだと聞いたときに、私の中からなにかがすっぽりと抜け落ちた気がしたのは。

 彼女は、道路に飛び出した子どもをかばって車に轢かれたという。

 子どもは軽傷で済んだ。その子は友佳里の葬儀に親と一緒に来ていたけど、状況がわからないみたいでぽかんとしていた。

 正直、私はその子を許せる自信はない。

 こんなことを思うのはお門違いだとわかっていても、どうしても、その子さえいなければと、思ってしまった。

 私はひどいやつだ。

 でも、友佳里を誇らしく思う。

 最期まで彼女は彼女らしかったと感じる。

 彼女の死は、決して無駄なんかじゃないと言い切れる。

 だけど、果たしてリョウはそう割り切れるだろうか。それだけが、ずっと心配で、心に刺さったままの「くい」だ。

 彼は、友佳里の最期に、その場に一緒にいられなかったことを気にしている。そんな必要はないのに、おそらく自分を責めている。

 そのせいで、眠れないのだろう。夢を見られないんだろう。

 なら、私が二人のためにできるのは、リョウを安心させて、眠らせてやることじゃないのか。

 そのために、私は眠る。夢に迷って、悪夢を救う。友佳里とリョウのためなら、それぐらいしてみせるよ。




 小さな頃からお邪魔して、私がすっかり常連になったリョウの部屋は、友佳里の死後、カーテンが閉められっぱなしだ。

 まるで彼の心を表すように、ふさぎ込んでしまっている。まだ外も明るいお昼過ぎなのに、室内には人口の明かりが点いている。

 クーラーは効いていて涼しいのに、部屋全体が病んでいる感じがする。

 ついに夏休みになってしまった。友佳里の葬儀からもう三週間が経っている。いい加減に眠らせてやらないと、そろそろリョウの体は限界だ。くまがひどすぎて、目のあたり全体がブラックホールみたいになっている。

 机の上のコップには二人分のコーラが注がれている。コーラの色よりも、リョウのくまは深く黒かった。

 部屋の時計は四時二十分で止まったままだ。写真立ても寝かされている。本当に寝るべきは、持ち主だろうに。


「カーテンぐらい開けたら?」


 私は窓を指差した。恋人がいなくなったからって、日照権まで奪われたわけじゃない。

 期待はしていなかったけど、返事は返ってきた。ただし、それは答えじゃなくて質問だった。


「俺たちが友佳里とはじめて会ったときのことを覚えてるか?」


 下を向いた状態で、リョウは床と私に語りかける。

 忘れられるはずないじゃない。

 リョウはベッドに腰かけた姿勢で続けた。


「あのとき、俺は友佳里に助けられた。でも、それが悔しかったんだ」


 彼も、あの日を頭の中に思い描いていた。


「本当は俺が怒るべきだった。みほろをばかにされて、俺があいつをぶん殴らなきゃいけなかった。それを友佳里に代わりにさせてしまったことが、情けなかったんだ」


 それは、久しぶりに聞く、リョウの怒りの声だった。


「あれから俺は、みほろも、そして友佳里も守れるくらい強くなろうと決めた。そう、決めたのに、なにも守れなかった。たった一人の大切な彼女も助けられないで、彼氏面なんてできやしない」


 それは違う、と言いたかった。リョウはまぎれもなく友佳里の彼氏だし、私たち三人の時間を守ってくれたと、そう伝えたかった。

 なのに、今のリョウを見ていると、上手く口が動いてくれない。動け、この口。いったいなんのために付いているんだ。

 リョウは手で目を覆った。


「それどころか俺は、友佳里が助けたあの子を、睨んでしまった。最低だ。友佳里が守った、命なのに……!」


 私だって、似たようなことを考えたよ?

 どうか、これ以上自分を責めないでほしい。

 なにも言えずに、どうにか視線だけで訴えていると、リョウは手で目を隠すのをやめてこっちに気づき、眉を下げた。


「……ごめん。みほろだって、友佳里が死んで悲しいのに。そんなことにも気づけなくって。俺ばっかり」


 いいよ、そんなの。

 リョウは聖人君子じゃなくて、友佳里の恋人なんだから。誰よりも悲しむ権利がある。でも、自分を責める義務はない。

 リョウはいつも、自分の優しさに苦しんでいた。それを弱さだと思い込んで、恥じていた。友佳里は、きみのそれが、好きなのに。

 私はタンスの上に伏せてある写真立てを見上げた。あの中に閉じ込めてある笑顔を、取り戻したい。

 だけど、そのためにはリョウの目の下にある、どす黒い闇色のくまが邪魔だ。ぽっかりと心に開いた穴のような目元じゃあ、彼は写真と同じ笑顔を浮かべられない。

 夢だ。リョウに必要なのは、ゆっくり寝ることで見られる夢。心臓の鼓動より大事な夢。

 夢の中で、もう一度友佳里に会ってほしい。それが叶うのなら、私は橋になる。リョウと友佳里をつなぐため。現実と夢を結ぶため。一本の橋になってみせる。

 クーラーが、私の胸を静かに燃やす。コップを手に取り、飲み干したコーラはガソリンとなって、私の中に火を点ける。なんて冷たい火。リョウを眠らせるためには手段を選ばない、冷徹な炎だ。

 炎は私の中で勢いを増し、渦巻いていく。これはきっと、誘導灯だ。さあ、私を迷夢へ連れて行け。

 全身に食らいつく眠気に身をゆだねる。これで最後だ。次に起きたとき、リョウはやっと安眠できるんだろう。

 私は決意の瞼を下ろした。

 最後の迷夢へ行くために。




 目を開けると、そこは白い部屋だった。「あちら」と書かれた矢印型の看板に、宙に浮かぶ長方形のドアがある。

 けれども、あいつの姿がない。


「ノーネイム!」


 私の声が、真っ白な空間に響き渡る。


「はいはい。聞こえてますよ」


 にゅっ。

 下に開いた黒い穴から、仮面を着けた男が顔を出す。ゲームセンターのもぐら叩きを思い出した。本当に叩いてやろうかな。

 ゲームセンターと言えば、よく友佳里とリョウと三人で行った記憶がある。恥ずかしがるリョウを引っ張り込んで、プリクラも撮ったりした。

 私が思い出に浸っているうちに、ノーネイムは穴から全身を出し、白い地面の上に立っていた。

 私は彼に一言、言ってやりたかった。


「人を呼んどいて、いないってどういうこと?」


 責めるような私の口調を、ノーネイムはひらりとかわす。


「いやいや、約束を破ったのはきみの方だぜ、みほろちゃん」


「私?」


 なにかしたっけ?


「言ったはずだよ? 迷夢は人が寝たくないときに眠ることで行きつく場所だってね。でもきみは自分の意志で眠りについて迷夢に来ようとしてしまった。本来なら入場お断りだよ」


「……あっ!」


 そういや、そんなこと言ってたな。しまった。


「でもまあ、俺はきみのことが気に入っているからね。今回だけ特別に目をつむってあげよう。なぜならここは夢の中」


「えぇー、私のこと気に入ってんの?」


「えぇー、不満なのかい?」


 ノーネイムは仮面の頬の部分をぽりぽりとかいた。


「なんか今日のみほろちゃん、ぴりぴりしてない?」


「ません。だからとっとと悪夢の世界に送って。小芝居も茶番もいらないよ」


「……ですか。でも、急いては事を仕損じると言うよ?」


「善は急げ、とも言うでしょ」


「急がば回れだよ」


 ああ言えばこう言うノーネイムに、堪忍袋の緒が切れる。


「あーもう! いいから! 私には時間がないの!」


 いらいらして、頭をかきむしる。

 ノーネイムは親指と人差し指で、仮面の両目の下にある、涙の跡のように見える線をなぞった。


「時間がないということはないよ。その時間を別のことに使ってしまっているから、必要なときに時間が回せないだけさ」


「今はそういう哲学もどきはどうでもいい。送るの? 送らないの?」


 ノーネイムは仰々しくお辞儀をした。


「もちろん悪夢の世界にお送りしますとも。ただね、みほろちゃんと話すのもこれが最後になるかもしれないと思うと、寂しくってね」


 なんで、今さらそんなセンチメンタルなこと言うわけ? ないがしろにしづらくなったじゃん。

 ノーネイムは喋る。仮面の口は笑っていた。


「きみと話すのは楽しかったよ。嘘じゃない。本心さ」


「……私も、あなたと話すのは、ちょっと腹が立つけど、嫌いじゃないよ」


「それは僥倖だね」


 では、とノーネイムは帽子を目深にかぶる。


「入り口はこの穴だよ。ここを通れば悪夢までまっしぐらさ」


 それから、下に開きっぱなしの穴を指差した。

 え、ここに潜れと?


「なんか、あんたが出てきた穴に入るのって抵抗あるなあ」


「軽口が叩けるのなら上々」


「ごめん、本心だから」


 とりとめのない掛け合いが済んで、私は穴の縁に立つ。足を入れる前に、仮面の男は声を投げかけた。


「いよいよ最後の悪夢だ。いってらっしゃいませ、レディ。そして、無事に帰ってきて、ぜひ願いを聞かせておくれ」


「お安い御用ですとも」


 私は迷いなく穴の中へ飛び込んだ。

 セットした髪が乱れるのも構わずに、私は高速で長い穴の中を落ちていった。

 ついに正念場だ。

 心臓の鼓動が早まるのを感じる。

 どんな悪夢だって救ってあげる。

 鬼でも蛇でも存分に出てくるといい。私は結果を出してやる。

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