ディスク管理社会 chapter4

 ぱち、ぱち、ぱち、と、拍手の音が私の耳を打つ。

 気づけば、ノーネイムが手を叩いていた。


「ブラボウ、みほろちゃん。そしておめでとう。これで二つ目だ」


「……どーも」


 褒められているのに、相手がこいつだとなんか白けるな。


「実を言うとね、今回は正直だめだと思ってたんだよ。必ず犠牲が出る悪夢だったからね。でもきみは見事全員を助け、ハッピーエンドをもたらした」


「そんなにたいしたもんじゃないよ」


 私だって、友佳里に助けられたんだから。


「いつか、現実でもサキに会ってみたいな」


「サキ? それが今回の夢見人の名前かい? ――まあ、なにはともあれ!」


 一面真っ白の部屋の中で、ノーネイムはばんざいをした。


「残る悪夢もあと一つ! リーチ! ハラショー! 素晴らしい!」


 芝居がかった大げさな動きに、私は一歩後ずさる。


「では、幸運の女神にしばしの休息を。出口はあちらです」


 仮面の男は一礼してから、腕を折り曲げてエスコートする。

 腕の伸びた先には、例の扉があった。


「あと一つ、悪夢をクリアすれば、願いを叶えてもらえるんだよね?」


「もちろんさ。みんなをハッピーにしたら、きみもハッピーにならなくちゃ」


「言葉だけは信じるよ」


 私はドアノブに手をかける。

 ノブを回し、扉を少し開けてから、私はノーネイムに振り向いた。


「ところで、願いとは別の特典ってやつ、今回もあるの?」


 ノーネイムは顔を上げる。目の下の、涙の跡のようなラインが怪しげに光った。


「それはきみ自身がすでにわかっているんじゃないのかな?」


「あっそう」


 とくにそれ以上用はなかったし、答えとしては充分だったので、今度こそ私はドアの先に体を進ませた。


「いってらっしゃいませ現実へ。またのお越しを羊ともどもお待ちしております」


 ノーネイムの声を背に受けて、私は現実の世界へと浮上していく。




津星つぼし! おい、津星」


 目を覚ますと、私は美術室の机に突っ伏していた。やば、ちょっとよだれ出てる。慌てて制服の袖で口元をぬぐう。

 先生が私を呼んでいる声が聞こえた。


「みほろ、やっと起きたか。先生に当てられてるよ」


 隣に座っているリョウが小声で状況を教えてくれた。サンキュー。

 起きたとたんに鼻につくのは、粘土と石膏と絵の具の匂い。うえー、これだから美術室は苦手だ。

 画板と紙と鉛筆は片付けられている。デッサンの授業は終わっていて、今はもう座学に移ったらしい。


「津星。この『オフィーリア』を一九八四年に描いた作者の名前を言ってみなさい。そうしたら授業中に居眠りしたことは水に流してやる。オフィーリアに免じてな」


 なにが面白いのか、先生は豪快に笑っていた。

 黒板には一枚のコピー用紙が貼られている。白いドレスを着た外国の女の人が、水の中に沈んでいるのか浮かんでいるのか、よくわからない瞬間を切り取った絵だった。

 その女性は、この世のすべてを許したかのような、あるいは諦めたかのような、なんとも言えない表情で、どこか別の世界を見つめていた。少なくとも私はそんな印象を受けた。

「わかりません」と答えようとしたら、リョウがこっそりノートの隅に答えを書いてくれていた。

 私はそれを読み上げる。


「ジョン・ウィリアム…………ウォーターハウスぅ!?」


 すっとんきょうな私の声が、濁った空気の詰まった美術室に反響した。




 美術を含めた授業が終わり、私たちは学校から解放され、校門へ吐き出された。リョウと二人、並んで歩く。


「今日はびっくりしたよ。みほろ、ウォーターハウスのことなにか知ってたのか?」


「いや、知ってるというか、知り合いというか……」


 自然と歯切れは悪くなる。まさか、夢の中で同じ名前の人に会ってます、とは言えない。この夏の暑さに頭をやられたと思われるだろう。

 肌の表面に玉の汗がじんわりと浮かぶ。こうやって二人で下校するのも、ずいぶん久しぶりだ。友佳里と友だちになってからは、ずっと三人で下校していたから。

 じーこじーこと蝉が鳴く並木道を進みながら、横を見る。リョウの目の下には、まだどす黒く深いくまが刻まれていた。

 あと一つ、悪夢を救うまで、リョウは大丈夫だろうか。いや、平気なはずがない。私は少し会えたけど、今は夢の中ぐらいでしか、友佳里には会えないんだ。その夢を見ることすら、リョウはできない。

 人は眠ることでいったん自分をリセットして、起きて生まれ変わることで新しい日を過ごす。でも、リョウはずっと友佳里が死んだ日を引きずったままだ。

 眠るにはなにをしたらいい?

 適度な疲労感があれば寝やすくなるだろうけど、それでもリョウが眠れなかったら、体が耐えきれないだろう。回復することができない疲労がたまっていき、いつか必ずパンクしてしまう。

 ほどよく疲れて、でも楽しめるものはないかな。

 いや、あった。


「リョウ、ちょっとこれから寄り道につき合ってくんない?」


 リョウは首を回してこっちを向く。


「いいけど、どこに?」


 その声にいつもの元気は宿っていなかった。こんな状態のリョウを誘うのは気が引けるけど、思いついてしまったものはしょうがない。なにかを変えるためには、なんでも試してみないと。


「ちょっとカラオケに行こうよ。どうせ眠れないんなら、起きてる間は少しでも楽しんだ方がいいでしょ。それに、なにか歌ったらすっきりするかもよ」


 リョウは一瞬、言葉に詰まったけど、遠慮がちに口を開いた。


「みほろは、カラオケが苦手じゃなかったっけ?」


「うん、音痴だからね」


 せっかくリョウが包んでくれたオブラートを、私はびりびりに破く。

 構うもんか。

 それにね、きみは知らないだろうけど――


「今日の私の喉は、いつもと違うのだよ」


 この日、私はカラオケで生まれてはじめて九十点台を出した。

 二時間歌い倒したあと、リョウが言おうとして飲み込んだことはすぐにわかった。

友佳里ゆかりみたいに歌が上手くなってたな”

 悪夢の世界を救うたびに、私のできることは増えていく。

 少しずつ、友佳里に近づいていく。

 それでも、私は決して友佳里には届かないし、なれない。

 私は私のまま、私にしかできない方法で、リョウを眠らせてみせるんだ。

 カラオケから家に帰る頃には、蝉と交代して鈴虫がメインボーカルになっていた。

 今日も私は、鈴虫の声に耳を傾ける。

 気持ちが現実に追いつかなくて、心を整理したいとき、この静かで落ち着いた鳴き声は、私の中を満たしてくれる。

 きっと私のディスクには、鈴虫の声がたくさん収録されているんだろう。

 ついに明日から夏休みに突入する。

 願いを叶えるまで、救う悪夢はあと一つ。

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