メイム2.ディスク管理社会 chapter1

「ごめん、私、リョウくんを好きになったみたいだ」


 いつだったか、友佳里ゆかりはそう切り出した。確か、去年の夏ごろ、蝉の声をBGMに聞いたっけ。


「なんで謝るの?」


 私は当然訊き返した。いやみでもなんでもなく、本当に不思議だったんだ。


「そりゃあ、だって……」


 普段は気丈な友佳里が、珍しく言いよどんだのを覚えている。


「みほろも、好きなんだろ?」


「へ?」


 そのときの私は、たいそうまぬけな顔をしていたんだろう。


「いやいや、それはないって。ぴったりちょうど幼なじみなだけ。それ以上でも以下でもないよ」


「……ほんとか?」


 私は、一秒だけ間を開けてしまった。


「……うん」


 その一秒が、友佳里と、そして私自身に悟らせた。自分でも意識したことのなかった、心の下に積もっている思いを。

 けれど、友佳里の気持ちはそんなことで揺らぐはずもなく。


「そっか。じゃあ、これから告白してくるわ。もしオーケーの返事をもらってもだめだったときも、また、三人で遊んでくれるか?」


「うん」


 今度は間を置かずに即答できた。百パーセントの本心だと、今でも断言できる。

 友佳里とリョウがつき合うと知ったのは、その日の夜の電話でだった。

 電話が終わって、友佳里に「おめでとう」と言ったあと、私は、窓の外の鈴虫の鳴き声に無心で耳を傾けていた。まだ七月下旬なのに、夏は終わったような気がした。

 友佳里は私の友だちで、リョウは幼なじみ。

 大切な二人がつき合うのは、素敵なことだ。

 だけど、私は無意識に、自分に「悲しくない」と言い聞かせていた。

 それからの一年間、友佳里とリョウが恋人同士になっても私たち三人の関係に変化は訪れず。

 友佳里が、見知らぬ子どもをかばって車に轢かれたと知ったときまで、その関係は壊れることはなかった。





「みほろ? 手が止まってるけど、どした?」


 蝉の声を聞いたからだろうか。


 私は、あのときの友佳里を思い出していた。思い出にふけって、授業中なのにぼーっとしていたようだ。

 昨日、リョウが味噌汁を飲んだあと、私は隣の自分の家に帰った。夕方に寝たにもかかわらず、夜も憎らしいほどぐっすり眠れた自分が薄情に思えた。なぜか、夜寝ているときには迷夢に行けなかった。

 そして今日。学校で会ったリョウは、やっぱり眠れていないみたいだった。

 私は寝坊して、学校に行くのはリョウの方が早くて、通学は別々になった。よくあることだ。

 私とリョウは今、お互いに画板を前にして向かい合っている。

 今日の授業は美術だった。一限目が生徒同士でお互いの顔をスケッチし合うデッサン、続く二限目が絵画の歴史を学ぶ座学だそうだ。

 私は美術が嫌いだ。絵を描くのも苦手だし、美術室に閉じ込められている粘土と石膏と絵の具の入り混じった匂いも好きじゃない。

 反対に、リョウは美術が好きらしい。絵も上手いし、手先も器用で、何より、美術室だけ空間が切り取られて別の時間を歩んでいるような感覚が気に入っているのだという。私にはそれがあまり理解できない。

 早く終わらないかな、と私は鉛筆の先をぐりぐりと紙に押し付ける。輪郭しかないリョウの顔の横の余白に、空間を飛び越えてほくろができた。あと四センチ横にずれたら、泣きぼくろになる。


「真面目に描いてないだろ」


「真面目に描く気ないですからね」


 対するリョウは、すらすらと紙の上で鉛筆を踊らせている。紙の中の私は今、どのくらいできているんだろうか。

 ふあ、とあくびが漏れる。

 授業は退屈だし、鉛筆の走る音は催眠術のように単調なリズムを刻んでいるしで、なんだか眠くなってきた。

 先生は今、席を外している。

 少しだけ、少しだけだから。

 あれだよ、いい絵を描くためには適度に脳を休めることが大切なのですよ。……まあ、理屈はなんでもいいや。とにかくやけに瞼が重い。


「みほろ?」


 リョウの声がぼやけて遠くなる。

 私は画板に額を預けた。冷たくて、ちょっと気持ちよかった。

 この眠気は、普通じゃない。

 わかる。迷夢が私を呼んでいるのが。

 ごめん、リョウ。また私だけ、先に行くね。

 私はゆっくりと目を閉じた。

 夢の世界へ、落ちていく――




「はい、というわけで、おなじみのノーネイム・ウォーターハウスですけどね」


「はあ」


 仮面をかぶった男が目の前に現れても、もう私は驚かなかった。上も下も右も左も、真っ白な部屋の中に私はいる。蜃気楼の中に入った気分だ。


「授業中に寝るとは、このフリョーめ!」


 ずびし! と指を差されてしまった。

 このテンション、めんどくさいわあ。


「ここに来たってことは、また迷夢でしょ。さっさと悪夢の世界に連れてってよ。ちゃちゃっと救ってくるから」


「悪夢を一つ救ったぐらいでもう余裕が芽生えているのかい?」


 ちっちっち、と指を振るノーネイム。


「そいつは楽観的すぎやしないかね、ゆとりちゃん」


「みほろですけど」


 私は半眼で言い返し、歩き出す。「あちら」と書かれた看板を通り過ぎ、宙に浮かぶドアのノブに手をかける。


「段取り悪いんなら帰るけど」


「ちょちょちょ、ちょっと待ったあ!」


 ノーネイムは面白いほど焦った。


「連れて行く! 連れて行きますって! ほら、俺、迷夢の案内人だし? ねえ!」


「最初からそうしろよ」


「なんてせっかちな子なんだ……」


 仮面の奥で、ノーネイムが汗をかいているような気がした。


「では気を取り直して、第二の悪夢へレッツゴー! 救世主になるのはきみだ!」


 ぱちんと指が鳴らされると、私の足元の横に真っ黒な穴が開いた。


「あれ、ちょっとずれたかな」


「いいよ、自分で行くから」


 私は迷わず穴の中へ飛び込む。全身が落下の感覚と暗闇に包まれた。

 穴の中を落ちながら、目を閉じる。

 さあ、待ってろよ、悪夢。

 リョウのついでに、救ってあげる。

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