味噌汁戦争 chapter2
「夢の世界? ここが、ですか?」
「はい」
長いまつ毛をぱちくりさせた蜆さんの言葉に、私はうなずいた。
今、私は健太郎さんと蜆さんと同じテーブルに座っている。マスターにお願いして、相席にしてもらったんだ。そればかりか、わざわざ店を貸し切り状態にしてくれた。
店内にいるのは、私と健太郎さんと蜆さんとマスターだけというわけだ。マスターはカウンターの向こうで黙々とカップを磨いている。
とりあえず、私は真実を打ち明けることに決めた。話すとややこしくなるので、私がなぜ、どうやってここに来たのかとか、ノーネイムのことは伏せておく。
「ええと、
「みほろです」
「みほろちゃんは、仮にここが夢の中だとして、なにをしにきたんでしょう?」
蜆さんは小首をかしげた。くそう。悔しいけどかわいいわ、この人。
「まずはこの夢を見ている人――夢見人を見つけなきゃいけないんですけど」
ちらと、正面に座っている蜆さんから、視線を横にずらす。
「これはあなたの夢ですよね、健太郎さん」
私の目に映った男、健太郎さんはびくっと肩を揺らした。
「そうなの、かな」
自信なさげに目を泳がせる健太郎さんを見ていると、ため息をつきたくなる。
「そうですよ。だって、この味噌汁の世界で、あなただけ味噌汁となんの関係もない名前じゃないですか」
「それはきみも……」
「私はいいんです」
暴論だけど、構わずに私はぴしゃりと言い放つ。自分でも驚くほど冷たい声が出た。
「私はこの世界、この悪夢を救いに来たんです。健太郎さん、これはあなたにとって悪夢ですか?」
私の追及に、健太郎さんはゆっくりと首を振った。
「とんでもない。蜆さんと出会えたことが、悪夢なわけがない。蜆さんは僕の理想の女性だよ。きみの言う通りなら、それこそ夢にまで見たほどの」
「健太郎さん……」
蜆さんは手に口を当てる。
健太郎さんは、それまでのおどおどした態度から一変、姿勢を正してまっすぐな目で私を見据えた。
そんな顔もできるんじゃん。
「蜆さんが納得しているのなら、誰と幸せになっても構わない。だけど、もしあいつが彼女をいやな気分にさせるのなら、僕は、蜆さんを連れてここから出て行くつもりだ」
「はい、私はついていきますよ、どこへでも」
健太郎さんに寄り添う蜆さんの目が潤んでいる。
はいはい、ごちそうさま。
確かに蜆さんは美人だ。透き通ったビー玉みたいな瞳をしているし、手足は長いし、胸も……うん、自分のBカップがいやになるほどある。
でも――
「そんなに大事な人なら、なんであの男に言い寄られてたときに助けなかったんです?」
「それは……」
健太郎さんは肩を落とした。ええい、もどかしいなあ。
「しかたないんです。健太郎さんが悪いわけじゃないですから」
蜆さんがフォローする。けれど、ますます腑に落ちなかった。
「どういうことですか?」
「あの男が、この世界では一番偉いからさ」
私の質問への答えが、いきなりカウンターから飛んできてびっくりした。見れば、カップを磨く手を止めて、マスターがじっと私の方を向いていた。
「割り込んでしまって失礼。どうしても無視できない話が耳に届いてしまったものでね。許しておくれ」
カップを棚にしまい、マスターは口ひげをさする。
「いいえ。それで、あの男はなんなんですか」
「味噌汁の具と聞いて、お嬢さんならなにを思い浮かべるかね?」
マスターは長ネギ。蜆さんは蜆。私が好きなのは油揚げ。えーと、他には、わかめ、麩……あっ。そうだ。あれがあったじゃないか。
「そう、やつは豆腐なのさ。味噌汁の世界では、人気のある具ほど力を持っている。つまり、豆腐には誰も逆らえないんだ」
最強だよ、と漏らした長ネギのマスターは、天井を見上げる。私もつられて上を見る。大きなファンが、オレンジ色の光を浴びてゆっくりと回っていた。
「だから、このまま蜆さんを豆腐に取られてもしかたないと?」
「そんなわけ!」
健太郎さんはがばっと顔を上げ、そして徐々に語気を弱めていった。
「……ないじゃないか」
最後の方なんかは、もはや聞き取ることがやっとだ。
相変わらず私のこの人への印象はよくないままだけど、ひとまずやるべき道は見えてきた。
「じゃあ、豆腐に蜆さんを奪われたら悪夢だけど、そうならなければ、素敵な夢になるんですね?」
健太郎さんの表情に、期待と不安の色が半々に表れる。
「そうだけど、そんなこと……」
煮え切らない様子の健太郎さんを見て、なんでいらいらするかわかってきた。友佳里の死で、弱っているリョウの姿が重なるからだ。
「ここから出て行って駆け落ちするのもいいですけど、それって逃げてるだけですよね。根本的な解決になってません」
「じゃあ、どうすればいいっていうんだ」
うなだれる健太郎さん。
この人は情けないし頼りないけど、蜆さんを好きだという気持ちだけは本物のようだ。
両想いの恋人は、絶対に幸せにならなくちゃだめなんだ。私は友佳里とリョウに、なにもしてやれなかった。もう、あんなのはこりごりだ。
だから、夢の中ぐらいは。健太郎さんと蜆さんぐらいは、ほどけないようにしっかりと固結びしてみせる。
「お嬢さん、なにかやらかす気だね」
マスターがカウンターの向こうで味噌汁の仕込みをしていた。
煮干しと昆布の出汁の香りが店内に漂う。
「はい、もちろん」
私は、力強くうなずいた。
「でも、これは僕の夢なんだろう? 僕がなんとかするべきなんだ。きみにそこまで力を貸してもらうわけにはいかない」
テーブルを見つめる健太郎さんに、私は自然と笑いかけていた。
「いいから、いい夢見せてあげますよ」
待っててね、リョウ。
こんな悪夢の世界、さっさと救って、ぐっすり眠らせてあげるから。
喫茶店の外に出ると、空は濁った泥のような茶色だった。空まで味噌汁模様ですか。
石畳の路面に、左右に並ぶ建物はすべて赤茶色のレンガで造られている。
行ったことはないけど、イギリスの街並みってこんな感じかなと思った。空は当然、澄んだ青色だろうけど。
鼻をくすぐるのは、街中から漂う味噌汁と、夕方の匂い。
石畳を踏んで、私はてくてくと歩く。後ろには、二つの足音がついてきていた。
とぼとぼと歩いているのが健太郎さん。そろそろと歩いているのが蜆さんだ。
そして、思わぬメンバーがもう一人。私の前をすたすたと進んで先導してるマスターがいた。
「マスターまで来なくてもよかったんですよ?」
茶色い風景の中、私たち四人のシルエットはよく目立つ。
「なあに、若い頃の血が騒ぎましてな」
マスターはあごひげに手を伸ばして梳いていた。この人、若い頃はなにをしていたんだ。
「まさか豆腐の家まで殴り込みに行くなんて、面白いお嬢さんだ」
「な、殴り込みっ!?」
不敵に笑うマスターと驚く健太郎さんに、ため息が漏れる。
「話し合いですよ、話し合い」
私は指を立ててくるくると回した。味噌汁の空を、かき混ぜるように。
「でも、ですよ」
蜆さんが遠慮がちに口を開いた。
「豆腐さんは、話して、わかる方とは思えませんけど」
私は指を回すのをやめた。
「でしょうね」
「でしょうね、って……」
後ろで、蜆さんが眉をひそめている気配が伝わってくる。
「だけどここは夢の中。なにが起こっても不思議じゃないでしょ?」
レンガ造りの建物を、何軒も追い抜いていく。左右を通り過ぎる赤茶色を眺めながら、マスターに訊ねる。
「豆腐の家って、こっちなんですか?」
「もうすぐ見えてきますよ。そら、噂をすれば、だ」
マスターは前を指差した。前方に、大きな家が建っている。
いや、家というよりもはや城だ。暗い茶色の中で激しく自己主張する、西洋風の純白の城。
中央にある円錐の塔は空を指す矢印のようにそびえ立ち、周りは豆腐を連想させる石垣が丸く囲んでいる。どれもが、まばゆいくらいの白一色だ。
すっかり味噌汁色に慣れていた目に、その輝きは痛かった。
「あそこ、住みたいですか?」
私は蜆さんの方を振り返る。蜆さんはふるふると首を振った。
「私は、きれいな城よりも、健太郎さんの隣がいいです」
「そーですか。だったら、ずっとそこにいられるようにがんばりましょーね」
私の台詞は自然と棒読みになっていた。なんかばからしく思えてきて、足取りが重くなる。
上では、さすがに雲は白いらしく、茶色の空の中を白い模様がちぎれて流れている。まるで、間違って味噌汁に入れたミルクみたいだ。さて、今度は不味い結果にならなきゃいいけど。
やっぱり味噌汁は、飲んでみなくちゃわからないもんだ。
私は健太郎さんに最後の確認をする。
「蜆さんは俺の彼女だ、って、はっきり言ってくださいよ」
「いやあ、そんな~」
「照れるところじゃないですからね」
頬をかく健太郎さんを見て、少し不安が募ってきた。
大さじ一杯の不安を抱えたまま、私たちは豆腐の住む白い城の前に着いた。
城の外壁、これまた真っ白で大きな門の横には、インターホンが備え付けてある。城なのに。
インターホンを押す。ピンポーン、という音のあと、返事があった。
「誰だ」
豆腐の声が聞こえてくる。私はマイクに向かって話しかけた。
「例の味噌汁を飲ませた小娘です」
「そうか。俺は忙しい。帰れ」
ガチャ。あっけなく切られてしまった。
しかたない、作戦その二だ。
「蜆さん、お願いします」
「……はい」
蜆さんは指で優しくインターホンを鳴らす。
ピンポーン。
「しつこいぞ!」
「お気に障ったのならすみません。蜆です。今お時間ありますか?」
「こりゃ失礼しました! もちろんですとも! どーぞどーぞ!」
門がゆっくりと開いていく。ふーん。美人って、人生で欲しいものに常に半額シールが貼られているみたいだよね。
門をくぐり抜けた私たちは、立派に手入れされた洋風の庭を横切る。味噌汁を噴き出す噴水と、味噌汁の溜まったプールは、さすがに吐きそうだった。
「自分が味噌汁のすべてだと誇示したいのでしょうなあ」
とは、マスターの言。
外観と庭は西洋風なのに反して、城の中は日本式で、床板の張られた一本の通路を、無数の襖が連なって挟んでいた。さすが夢の世界。もうめちゃくちゃだ。
私たち四人は玄関で靴を脱いで、中に上がり込む。歩を進めるたびに、ぎぃっと鴬張りの床が鳴った。
「ところで健太郎さん」
マスターのあとに続きながら、後ろに問いかける。
「どうして、そこまで蜆さんのことが好きなんですか?」
「どうしてって……」
健太郎さんは言うべきか迷ったような間を開けて、それから口を開いた。
「昔、子どもの頃に仲がよかった近所のお姉さんに似ているんだ」
声には照れくささと気まずさが同居している。
意外な理由だった。
「大きくなったら結婚してあげる! なんて、身の程知らずなわがままを言ったりもしてね。でも、彼女は事故で帰らぬ人となってしまった。だから蜆さんに会ったとき、あまりにも瓜二つだったので驚いたんだよ」
……へえ。見た目だけの理由じゃなかったんだ。それでも、別人と重ねているのはいただけないけどね。
「もちろん今はそれだけじゃありませんよ?」
慌てたように健太郎さんは手と首を振った。
本当に?
私は蜆さんへ振り向く。
それでいいの?
「いいんですよ。私も、なんだか健太郎さんとお話しているとほっとするんです」
返ってきたその答えは甘々だった。ミルクと砂糖がたっぷり入っている。
「みほろちゃん。恋の形は人それぞれさ。正解なんてありゃしないよ」
「そういうマスターは、恋をしたことがあるんですか? なんだか積もる話がありそうですけど」
「長生きの秘訣は、ミステリアスでいることさ」
老紳士の背中はそれだけしか答えてくれなかった。
それからいくつもの襖の横をよぎり、階段を上がり、ついに私たちは最上階の最奥の襖にたどり着いた。ひときわ立派なその襖には、達筆な字で「豆腐最強」と書かれている。なんだこの四字熟語は。
ちょっと癪だったので、私は先頭にいたマスターを追い越し、すぱぁん! と勢いよく襖を開けた。襖に書いてあった「豆腐」と「最強」が左右に離れ離れになる。少しだけすっきりした。
「ようこそ蜆ちゃん――だけじゃないだと!?」
すっきりしたのは視界もだ。襖の向こうには、開けた和室が広がっていた。畳の、懐かしくも緊張感を煽る独特な匂いが鼻に入ってくる。木目調の天井も高く、槍で突いたら忍者でも落ちてきそうだ。
部屋の奥には水墨画の掛け軸と日本刀が飾ってある。その前に色白のハゲ頭、豆腐は鎮座していた。サングラスは外していて、細い目が見える。
「貴様らぁ! 蜆ちゃんを出汁に使ったのか!」
なんか血走った目で上手いこと言ってる。
私は健太郎さんを前に押しやった。
「この人が、あなたに言いたいことがあるそうですよ」
「このタイミングでですか!?」
尻込みする健太郎さんの背中を、ぐいぐいと押す。
「ほう、なにかな? 聞かせてもらおうじゃないか」
豆腐は手近に飾ってあった日本刀を手にし、すらりと鞘から抜いた。
銀色の刀身と豆腐の眼光が鋭く光る。明らかに話し合いをする雰囲気じゃない。
「やっぱり無理だってば、今は」
弱音を上げる健太郎さんに、そっと耳打ちする。
「その恐怖心は、蜆さんへの思いよりも大きいですか?」
健太郎さんは、はっと目を見開いた。どうやらスイッチが入ったみたいだ。
「それに、これは夢で、あれは豆腐なんですよ?」
「……? ……!」
最後の一押しも効いたらしい。健太郎さんが、もう迷いのない足取りで、豆腐に歩み寄っていく。
「言いたいことがあるんなら、さっさと言いな」
笑う豆腐を前にして、健太郎さんは一度うつむき、けれどもすぐに顔を上げた。
「豆腐さん。僕は情けない男です。蜆さんを幸せにできる保証もないし、あなたほどの地位も力もない。彼女を好きになる資格なんて、ないのかもしれない」
健太郎さんは、突きつけられている日本刀の刀身を素手で握りしめた。
でも大丈夫。これは夢だ。痛くない!
「けど、蜆さんは、そんな僕を好きだと言ってくれました」
「っぐ、このっ……!」
ひるまない恋敵に焦った豆腐は、刀を引き抜こうとする。けれども刃はぴくりとも動かない。あんたは、本当の恋の力の強さを知らないんだ。
健太郎さんは真剣な声音で続ける。
「だったら、その気持ちに全力で答えるのが、僕の本懐なんでしょう」
蜆さんの恋人は、日本刀を握ったまま、空いている方の手で豆腐の横っ面を殴った。肉を打つ音が、広い和室内に響く。
「ぐほお!」
豆腐の頬にひびが入り、白い肌の破片が飛び散った。
そう。どんなに強くても、豆腐は豆腐だ。
最強の具材は畳の上に仰向けで倒れ、大の字になる。
私も、蜆さんも、マスターも、ただ黙って事の成り行きを見ていた。
「蜆さん!」
ようやく刀から手を離し、豆腐を殴った拳と意思を固くして、健太郎さんが叫ぶ。
「はい」
名前を呼ばれた彼女は、動じることなく返事をした。
「僕と、一生つき合ってください!」
蜆さんは、一筋流れた涙を人差し指でぬぐい、笑った。
「はい、喜んで」
誰よりも幸せになってうなずいた彼女は、女から見ても嫉妬するのも忘れるほど、ただただ純粋にきれいだった。
「そんな、そんなやつと……? そんなことってあるか……! 蜆ちゃん! 俺の気持ちは、どうすればいい!?」
空気も読めず、頬を押さえながら上半身を起こした豆腐が、せっかくのいいムードに横槍を入れる。
蜆さんは、深々とお辞儀をした。
「ごめんなさい、豆腐さん」
そして顔を上げ、はっきりと思いを告げる。
「私は、この人に毎朝お味噌汁を作ると決めたんです」
それは、この世界で一番素敵な言葉に聞こえた。
「もういいだろう、豆腐」
マスターが豆腐を見下ろす。
「お前さんは、力の代わりに味噌汁のもっとも大事なものを忘れちまったんだ」
「大事な、もの?」
聞き返す豆腐を、マスターは諭す。
「温かさだ。私ら味噌汁は、人を温めてほっと一息つかせるためにある。欲望に目がくらんで、冷えてしまったらおしまいさ」
マスターは豆腐に歩み寄り、しゃがんで手を差し伸べた。
「もう一度あっため直して、出直そうじゃないか」
笑いかけるマスター。
その手を、豆腐は。
「長ネギごときが、俺を見下すな!」
はたいて、振り払った。
「俺は諦めねえぞ! この世界では俺が一番なんだ! 欲してなにが悪い! 蜆は俺のものになるべき女なんだよお!」
豆腐はわめく。その様は、見ていられない醜さだった。
「その男さえいなければ、そいつさえ死ねば、よかったんだ!」
ひときわ大きな声で、豆腐はそう叫んだ。
死ねば、よかった?
私の胸が、かっと熱くなる。
こいつは言ってはいけないことを言った。思ってはいけないことを思った。
両想いの恋人の仲を、死で引き裂こうとした。
恋人に死なれた人が、どれだけ悲しむかわかっているのか?
眠れないほど苦しむ男がいることを、知っているか?
リョウと友佳里のツーショット写真が頭をよぎる。
「マスター、悪いけど」
私の体は勝手に動き、畳を蹴って走り出す。
豆腐と私の間の距離が、なくなっていく。
「こいつはもう、腐ってるよ」
走る勢いに任せて体をひねり、足を回転させ、私は豆腐の頭を思いっきり蹴飛ばした。
「人の恋路を邪魔する豆腐は、頭の角をぶつけてしまえ!」
豆腐の頭部が、粉々になって弾け飛ぶ。いくつもの白い破片が飛び、畳に叩きつけられる。
健太郎さんたちは、ぽかんと口を開けていた。
この人たちは、この世界の住人たちは、豆腐がどんなにひどいやつでも、どうしても遠慮してしまうだろう。
これは、この夢に関係のない私だからできること。
きっと、私はこうするためにこの世界に来たんだ。
言って聞かない相手には、暴力で解決すればいい。これは夢の中だから許されることだ。
たぶん、これでいいんですよね?
私は振り返り、健太郎さんたちにそう言おうとした。
けれども、喉から声が出ない。
肺の中を、空気がすり抜けていくようだ。
自分の体が薄れていくのがわかった。私の体から、色が抜け落ちていく。
そうだ。これで、悪夢は終わりなんだ。
何かを叫んでいる健太郎さんと蜆さんの姿が、私の視界から消えていく。
二人とも、幸せにならなくちゃ許さないからね。
体が重さと色を取り戻したとき、真っ白な部屋の中に私は立っていた。
迷夢だ。と、いうことは。
「大人しそうな顔して、意外と乱暴なんだね」
後ろから声をかけられる。
「……ノーネイム」
振り向くと、仮面と帽子を着けた男、ノーネイム・ウォーターハウスがそこにいた。「あちら」と書かれた矢印型の看板にもたれかかっている。
「かなり強引な解決法だが、まあよしとしようか」
ノーネイムはぱんと手を叩いた。
「なにはともあれ第一の悪夢、クリアおめでとうございます、みほろちゃん」
ああ、そっか。戻ってきたのか。そして、私はあの悪夢を救えたんだ。
「健太郎さんと蜆さんは、幸せになれるの?」
「健太郎? ああ、
他人事のように道化師は言う。
やっぱり、あれでよかったのかな。
口では上手くものを言えないけど、手は先に出ちゃうんだよね。
昔からリョウの頭を叩いたりして、友佳里に笑いながら止められたっけ。
「お疲れさまでした。次の悪夢に行くまで、現実でごゆっくりお休みくださいな」
ノーネイムと看板が差している方には、長方形のドアが白い空間にぽつんと浮かんでいた。
「普通、逆じゃないの? 寝ているときに休むもんでしょ」
「普通はね」
意味ありげに言うノーネイムは帽子を目深にかぶる。
「でもここは
仮面の口が笑う。
「あまり長くいるもんじゃないよ、ここは。早く起きて、
「なんでリョウの名前まで――」
「さあ、行った行った」
ドアが勝手に開く。ノーネイムに背中を押され、私はドアの外に締め出された。
「ああ、そうそう」
最後に仮面の男は言う。
「願いは悪夢を三つ救うまで叶えられないけど、一つ救ったせめてものお礼に、少しだけプレゼントをあげよう」
真っ白な空間から、ドアを通じて暗闇の中に放り出される。
「どんなものかは、起きてのお楽しみだよ」
そこで、私の意識は黒く塗りつぶされた。
「……はっ」
目が覚めると、そこはリョウの部屋だった。
私は机に突っ伏して寝ていたみたいだ。
どれくらい夢を見ていたんだろう? 部屋の時計は四時二十分のままだから、時間はわからない。
コップに入ったオレンジジュースの氷は、とっくに溶けてしまっていた。
「おはよう」
ベッドに座ったリョウが笑いかける。目の下のくまは変わらず濃い。
「ごめん、私が先に寝ちゃった」
「いいって」
リョウは軽く手を振る。私の中の罪悪感を払うように。
「……今何時?」
「六時だね」
「夜の?」
「うん」
三時間ぐらい寝ていたのか。ずいぶん長い間、悪夢の世界にいたような気がするのに。
私は迷夢のことを全部覚えていた。
夢は目が覚めたら忘れてしまうものだけど、私の中には色鮮やかに残っている。
今でも鮮明に思い出せる。喫茶店でマスターに出されたあの味噌汁の匂いを。
味噌汁。そうだ。
私は立ち上がり、訊ねた。
「おじさんとおばさん、もう帰ってきてる?」
「いや、まだ二人とも遅くなるって」
リョウの返事を聞いて、私は親指を立てる。
「おかずを一品、作ったげる」
「いや、みほろ、料理できないだろ」
リョウが心配して止めるのも無理はない。
彼の言う通り、私は料理ができないからだ。
だけど、今なら。あれの作り方なら、自然に浮かんでくる。
リョウの家の台所に立つ。幼なじみだからこの家にはしょっちゅう遊びに来ているものの、キッチンに入ったのは今日がはじめてだった。
鍋を取り出し、クッキングヒーターの対面、私の後ろにある冷蔵庫からカップの味噌を拝借する。
水と昆布を鍋に入れて、慣れない手つきでヒーターのスイッチを入れると、しばらくして昆布の表面に泡が付き始めた。
菜箸で昆布を取り出し……あちち……昆布を取り出し、入れ替わりに鰹節を入れる。鍋の中をゆらゆらと泳ぐ鰹節は、そのまま活きのいい鰹に生き返りそうだった。
表面のアクを取って、再沸騰させてから加熱を止めてボウルに濾す。作り方が頭の中に自然と浮かんでくるとはいえ、なんでこんな二度手間なのかさっぱりわからない。最初から鍋に入れたままじゃだめなの?
冷蔵庫の中にあったけど、手に取るのをちょっとためらった豆腐を、ええいままよと包丁で切る。夢の中でも豆腐をばらばらにしてたなー。ちょっとしたデジャヴ。
さっき作った出し汁を、水で戻した乾燥わかめと豆腐と一緒に鍋に入れる。やっぱり二度手間じゃないか!
沸騰したら味噌を溶き入れて、いよいよゴールが見えてきた。
煮立たせないように気をつけて、沸騰する直前で長ネギを入れる。もう一度、煮えばなで火を止めれば完成だ。
本当は蜆さんも使いたかったけど、さすがに材料がなかったし、味のバランスもあるからごめんね。
私は、お椀によそいだ渾身の味噌汁を、二階のリョウの部屋に持って行った。
「お待たせ―」
「……本当にできてる」
リョウはぽかんとしていた。
お前は私をなんだと思っていたんだ。
「あったかいものでも食べれば、ぐっすり眠れちゃうかもよ?」
お椀と箸をテーブルの上に置くと、リョウは震える指で持ち上げた。おい。
味噌汁の表面に波紋が広がる広がる。こぼすなよ?
リョウはおっかなびっくりといった様子で、お椀を傾けて味噌汁を口に含んだ。うん、そろそろ怒るぞ?
しばらくの間のあと、彼はゆっくりと息を吐き出し、一言漏らした。
「……………………美味い?」
なんで疑問形なのかな?
「みほろ。美味いよ、これ」
目を丸くしてそう言うリョウに、鼻が高くなる。もっと褒めてつかわせ。
……けどさあ。
ノーネイムの言ってたプレゼントって、美味しい味噌汁を作れるようになるってこと?
夢とはいえ、世界を一つ救った見返りとしては、ずいぶんぱっとしない。
それに、味噌汁以外は相変わらず作れそうもないときた。なんだかなあ。
でも、美味しそうに私の作った味噌汁を飲んでくれているリョウを見ていたら、ま、いっか、と思えるようになってきた。
味噌汁は、飲んでいる人だけじゃなくて、それを見ている人の心までも温かくする。
私はそれを知ることができた。
お椀を空にしたリョウは、手を合わせる。
「ごちそさま」
「うむ。お粗末さま」
味噌汁をたいらげたリョウには、それでもまだ眠くなりそうな気配はなかった。まあ、これだけで眠れたら苦労はしない。
私がお椀と箸を片付けて部屋を出ると、ぽつりとリョウのつぶやいた言葉が聞こえてきた。それは本当に小さな声だったけど、私の耳にしっかりと焼き付いた。
「
……そうだった。友佳里は料理ができた。もちろん味噌汁以外も作れる。
結局のところ、私は友佳里にはかなわないのだ。
だけど、それがどうした。
友佳里は友佳里。私は私だ。負い目を感じることなんてない。
待っててね、リョウ。絶対に、きみを眠らせてみせるから。
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