メイム1.味噌汁戦争 chapter1
「お客さん、ご注文はお決まりですか?」
目を開けると、見知らぬおじいさんの顔が視界一杯に飛び込んできた。
「うぇあ!?」
私がのけぞると、ごっ、と後頭部がなにかに当たった。硬いものに頭をぶつけたはずなのに、ちっとも痛みはやってこない。奇妙な感覚だった。
「大丈夫ですか?」
心配そうに私を覗き込むおじいさん。いいから顔をもっと離してほしい。
痛くもない後頭部を、つい反射的に手で押さえつつ後ろを見ると、茶色いレンガの壁があった。
そして、自分が今、田舎のレストランのような場所にいて、テーブルの一つに座っていることに気づく。
「あの、ここって……?」
「喫茶店ですが?」
おじいさんは不思議そうに答えた。口元と顎に白いひげを生やしてウェイター服を着ていて、上品な執事のようにも見える。
「どうぞ、こちらを」
老店員さんは丁寧におしぼりを差し出してくる。
「あ、どうも」
私はそれを受け取って後頭部に当ててから、そういえば痛くなかったことを思い出す。でも、ひんやりとした感触が気持ちよかった。
「ご注文はお決まりですか?」
「じゃあ、コーヒーで。砂糖とミルク付き」
「かしこまりました」とおじいさんは一礼し、テーブルから去っていく。
ようやく改めて周りを見渡すことができる。
私が座っているほかにもいくつかテーブルがあり、ぽつりぽつりと私以外にも客はいた。寂れていないけど、大繁盛してもいない。私にとって理想的な落ち着いた空気の店だった。喫茶店なのにバーみたいなカウンター席も設えてあって、そこで会話をしている男女の姿もあった。
オレンジ色の室内灯が店内を照らしていて、落ち着いた大人な雰囲気の店だ。掃除もちゃんと行き届いてあって、ぴかぴかに磨かれたテーブルがオレンジの光をきれいに反射している。
私が腰と背中を預けている革張りの椅子も高級そうで、深く柔らかく私を包み込んでくれる。店内に流れる、名前は知らないけど聞いたことはある、昔のジャズ調の曲がよく似合う。
って、満喫している場合か。
これは夢! しかも悪夢!
思いっきり自分の頬をつねり、さらに回転を加えてひねりあげる。
よし! やっぱり痛くない!
「……お待たせしました」
気がつくと、おじいさんがソーサーに載ったカップを持って私のテーブルの横に立っていた。
見られちゃいましたね。
いいえ、なにも見ていませんよ、とばかりにおじいさんは黙々とテーブルにコーヒーセットを並べていく。お気遣い痛み入ります。
「では、ごゆっくり」
老練な手つきでコーヒーカップ、ミルク、砂糖、マドラーを置くと、きびきびとカウンターの中へ戻っていった。
とりあえず、これがどういう悪夢なのか、コーヒーでも飲みながらゆっくり考えよう。
それにしてもずいぶん濁ったコーヒーだ。最初からミルクが入っているんじゃないかと思うぐらい。
それでも私はさらにミルクを注ぎ、砂糖を二さじ入れてマドラーでかき混ぜる。くるくるとミルクの線が渦巻き、マーブル模様を描く。
カップを持ち上げ、口元に運ぶ。さて、これからどうしようか。まずはこの夢を見ている人――夢見人を探すのがいいかな。
カップを唇に当て、傾けた直後、私は手を止めた。
コーヒーが、味噌味だったんだ。
さらに砂糖の甘みも加わって、どうしようもなく不味い。
噴き出さずにこらえた私を誰か褒めてほしい。
「すみませーん! マスター!」
たまらず、カウンターの向こうに声をかける。
老店員がすぐさまやってきた。
「おかわりですね。どうぞどうぞ」
マスターは私の目の前にもう一つ、新たに茶色い液体の入ったコーヒーカップを置いた。断じて違います違います。
「そうじゃなくて、このコーヒー、なんなんですか」
「なにか?」
「これ、味噌汁じゃないですか!」
「ええ、そうですが?」
老店員は悪びれもなく肯定した。
味噌汁ぅ?
マドラーでカップの中を漁ると、黒い長方形が釣れた。これは……わかめだ。
つまり私は味噌汁にミルクと砂糖を入れて飲んだのか。
確かに悪夢だ。
そのときようやく、私は店内に立ち込める味噌汁の匂いに気がついた。夢にも匂いがあるんだな。
「私はコーヒーを頼んだんですよ?」
「ええ。ですからコーヒーカップに入れて持って参りました」
「味噌汁を? ここはそういうお店なんですか?」
「うちに限らず、すべての飲み物は味噌汁と決まっております」
常識でしょう? とマスターの目が語っている。
非常識ですよね、と私は目で言い返した。
もしその通りなら、喉の渇きは潤せないし、みんな塩分過多でどうにかなってしまうだろう。ドリンクバーだって味噌汁一色だからなんの意味もなくなる。
でも、ここは夢の中だ。どんなに変な理屈がまかり通っていても、おかしくはない。
「おかしなことを言いなさるお嬢さんだ。あなた、なんの具ですか?」
具?
いったい私はなんの質問をされてるんだ?
「ちなみに私は長ネギです」
マスターは続ける。
「好きな味噌汁の具でしたら、油揚げですけど」
「そういうことじゃないんですがねえ」
ふぅー、と息を吐くマスター。なに? 私がおかしいの?
「このような珍客はあなたで二人目ですよ」
「二人目?」
「一人目はあちらのお客さんです」
マスターは目をカウンター席に向けた。視線の先には、会話を楽しんでいる男女がいる。どちらも十代後半か二十代前半くらいの、若いカップルだ。
女性は、着物の似合う、うなじの色っぽい人だった。喫茶店の中で和服姿をしていても、有無を言わさないビジュアル力がある。男の方は、ぼさぼさ頭にくたびれた長袖のYシャツを着ていて、彼女に釣り合っているとは思い難い、冴えない人に見えた。
「男性の方です。どうやらなんの具でもないようでして。女性の方はうちの常連の
長ネギに、蜆。どっちも味噌汁の具だ。
そして、カウンター席に座っている男の人はそうじゃないらしい。
それはつまり……
「お邪魔しますよ、っと」
からんころん、とベルの音を立てて入り口の扉が開かれる。
サングラスにアロハシャツを着た、つるっぱげの男が入ってきた。肌の色は病的に白い。
男がやってきたとたん、店内に流れていた、聞いたことはあるけど曲名は出てこない歌が止まった。店内が静まり返る。男が連れてきた沈黙は、あんまり居心地のいいものじゃなかった。なんとなく、店が男を歓迎していないように思えた。
「なんだいなんだい、お通夜みたいにしみったれちゃってさあ」
店内を重い空気にした張本人は、高めの声でぼやく。
お通夜という単語で、友佳里のことが頭をよぎった。
「おお、蜆ちゃんじゃないですか。偶然だねえ。もしくは運命ってやつかな?」
色白男はずけずけとカウンター席の男女の間に割り込み、蜆と呼ばれた女の人に笑いかける。下心のにじみ出ている、いやらしい笑い方だった。
「あの、私は今、
蜆さんは形の整った眉を八の字にして答えた。作り笑いを浮かべ、困っているのが見え見えだ。
「こんななんの具ともわからないやつなんかほっときゃいいんですよ! 相手にしても時間がもったいないだけだ!」
色白はやたら大きな声で言う。まるで、ここにいる全員に言い聞かせているようだ。他の客は、みんな下を向いている。
「お客さん、ご注文は?」
マスターが男に忍び寄り、臆面もなく訊ねた。ハゲ男はつまらなそうに鼻を鳴らす。
「ちっ、しょうがねえなあ。不味いコーヒーでももらおうか」
「かしこまりました。では、お席へご案内します」
ハゲ男のサングラスと頭がぎらりと光った。
「ああん? 俺はここに座りたいんだよ。問題あるか?」
男は蜆さんの隣の席にバンと手を置いた。蜆さんとその隣の男の人が少し怯えている。
「……いえ、ご自由にどうぞ」
マスターは一礼して引き下がる。さすがにお客に強くは言えないみたいだ。
「どうです? 蜆ちゃん。このあとディナーでもご一緒しませんか? とびきり美味い味噌汁のフルコースを出す店を見つけたんですよ」
なんだそれ、悔しいけどちょっと気になるな。
それにしても、また味噌汁か。飽きないんだろうか。
私は色白たちを見ながら、手元にあるコーヒーという名の味噌汁を一口すすった。マスターがおかわりで持ってきてくれた、ミルクと砂糖の入ってない方だ。
あら、美味しい。味噌汁だと知ったうえで味わったら、さっぱりとした風味でよく出汁の効いていることがわかる。マドラーでわかめをすくい、口に放り込む。そうか、マドラーってこう使うためのものなのか。
「でね、そこのレストランのテラス席から見える夜景が最高なんですよ。夜空に輝く星々の美しさと言ったら、まるで味噌汁の中の豆腐のようだ」
斬新な比喩だ。
色白は執拗に蜆さんを誘っていた。蜆さんの反対側に座っている男を、最初からいないもののように無視してべらべらと喋っている。
気に入らないな。
つるっぱげの方じゃなく、健太郎と呼ばれた男がだ。
自分の好きな人を他の男に強引に誘われて。自分の存在を簡単に消されて。悔しくはないのか。困っている彼女を、なぜ一人にしているのか。
なぜだか、無性にいらいらした。
「お待たせしました」
マスターが色白の前にコーヒーカップを音も立てずに置く。プロの手際だった。
「遅えよ」
男は乱暴にカップを持ち上げ、がぶがぶと味噌汁を一気に口の中に流し込む。
ああ、なんてもったいない飲み方。
「おい、長ネギ!」
男は勢いよくカップをテーブルに置く。カップとソーサーがガチャンとやかましくぶつかって鳴いた。
「おかわりですね」
「違ぇよ!」
男は喉を震わせてマスターに怒鳴る。
「不味いんだよ! このコーヒーが! こんなもんに金が払えるか!」
そうかなあ。確かにコーヒーとしては失格だけど、私はこの味噌汁を不味いとは思わない。ミルクと砂糖さえ入れなければ、また飲みたいと思える料理だ。
「申し訳ありません。勉強不足でした。お代は半分で結構です」
「ただにしとけや! こんな不味いもん飲まされたんだからなあ! おい、お前らもそう思うだろ!?」
色白ハゲ頭は店内をぐるりと見回す。他の客が下を向いているなか、唯一顔を上げている私と目が合った。
「あ、あの」
私はおずおずと手を上げる。夢の中でも私の人見知りは治らない。けれど、言わなくちゃと思った
「私は、美味しいと思いますよ。この味噌汁」
「ほう?」
店内の空気が凍り、緊張の糸が張り巡らされる。
マスターは私を見て目を見開いていた。
色白男は声色にどすを利かす。
「俺の舌が、間違ってるってのか」
「そう、かもですね」
私の返事が気に食わなかったのだろう。色白は立ち上がり、ずかずかと私の席へやってきた。
「この世界で俺に逆らうってことがどういうことか、知らねえみたいだな」
サングラスの奥の目が、間近で私を捉えていた。
私は一回だけ息を吸い込み、吐く。
「知りません。でも、この味噌汁が美味しいってことはわかります。ちゃんと飲んでみてください。今度はゆっくりと」
そして、テーブルの上にあるカップを男に差し出した。
男は歯を見せてにやりと口角をねじ上げる。真っ白な歯だった。
「面白え。俺が不味いと言ったら責任とれよ」
おもむろに私の手からカップをひったくり、またもや一気に飲む。喉の鳴る音がこっちにまで聞こえてきた。
「ちょっと、ゆっくり飲んでくださいって言ったじゃないですか」
話が違う。これじゃ、また不味いと言われて終わりだ。
すると、色白の顔が青ざめ、男はカップを床に取り落とした。コーヒーカップが割れる。
でも、それ以上に大変なのは男の方だった。自分の喉を手で押さえ、苦しげにうめいている。
いったいどうしたんだろう。
…………あ。
そこでようやく、私は気づいた。自分が渡したカップが、おかわりではなく、ミルクと砂糖を入れてしまった一杯目だったということに。
色白は口をぱくぱくと動かし、必死に酸素を吸い込もうとしている。
「てめっ、なに、飲ませやがった……!?」
ミルクと砂糖を入れた味噌汁です。
「まさか……毒!?」
ミルクと砂糖を入れた、味噌汁です。
「ちっくしょう……小娘、ツラ覚えたから……な……!」
色白男はそう言い残して、おぼつかない足取りで店を出て行った。病院にでも行く気だろうか。大げさな。
からんころん。男が開けたドアが閉まる。
「またのお越しをお待ちしております」
口ひげを震わせ、笑いをこらえながらマスターはうやうやしく一礼した。
店内に、ゆるやかなジャズのBGMが戻ってくる。
マスターは頭を上げ、こっちを向いてにっこり笑った。
「お嬢さん、あんた最高だ」
え? そう?
ぱちぱちと、どこかの席から拍手が贈られる。
こうして、私のコーヒー(味噌汁)代は、ただになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます