メイムメイム

二石臼杵

メイム0.おいでませ迷夢

「あれから眠れないんだ」


 リョウのその言葉が、私に友佳里ゆかりの死を強く実感させた。


「いや、もしかしたら眠れてはいるのかもしれない。でも、ちっとも夢を見なくなってしまった」


 そう言うリョウの目の下には、どす黒いくまができていて、目のあたり全体が洞穴のように見えた。じっと覗き込んでいると、吸い込まれてしまいそうで不安になる。

 友佳里の葬儀が終わってからもう半月になる。

 その間、リョウはまったく夢を見ていないんだ。

 恋人の死を突きつけられたんだから、当然の反応なのかもしれない。

 かくいう私も、最近ろくに眠れていないのだから。

 私たちは今、リョウの部屋にいる。

 彼の住む一軒家の二階の、南側にある部屋。窓のカーテンはぴったりと閉められていて、夏の日差しは一筋も入ってこない。

 昼間にもかかわらず天井のLEDの灯りは大活躍で、リョウの纏う空気とは裏腹に室内を不自然なほどに明るく照らし出していた。クーラーの音がやけに大きく聞こえる。

 高校最後の七月も半分以上が過ぎた。目いっぱい遊んだり課題に苦しんだりするはずの夏休みがもうそこまで迫っているのに、私たちにはそれを楽しむ準備がまだできていない。心が散らかったままだ。

 リョウは自分のベッドに腰かけ、私は机を挟んでその正面にある座椅子に背を預けていた。

 机の上では、表面にびっしり水滴を浮かべたコップが夕焼け色に染まっていた。からん、と中の氷が溶けて崩れ落ちる。


「睡眠薬もいくつか飲んでみたけど、これが全然効かなくてさ」


 私の視線は、横にあるタンスの上に吸い寄せられていく。

 そこには、空になった薬の瓶があり、その横に小さな写真立てが伏せられていた。その中に切り取られた風景を、私は知っている。

 友佳里とリョウのツーショット写真だ。

 今となっては、もう二度と撮ることはできない。


「でもさ、無理して寝なくてもいんじゃない?」


 私は慎重に提案してみる。眠れないときに無理に眠る必要はないし、寝たいときはいずれ訪れるはずだ。


「うん、それはそうなんだけど」


 リョウはゆっくりと力なく微笑んだ。


「夢の中でもいいから、友佳里に会いたくてね」


 その笑顔が痛々しくて、私はなにも返せなかった。


「あの時計」


 リョウが自分の座っているベッドの枕元を指差す。目覚まし時計が置かれていたが、時刻は四時二十分だった。

 私は自分のスマホを見る。うん、やっぱり。今は午後三時五分だ。


「あの時計、この前からずっと止まってるんだよ。それも、友佳里が車に轢かれたのとほぼ同じ時間に」


「そう、なんだ」


 リョウの目の下のくまが、いっそう濃くなった気がした。

 友佳里の死の時間に止まったままの時計。

 果たして、その時計は友佳里なんだろうか、それともリョウ自身のことなんだろうか。

 友佳里とリョウはつき合っていたけど、私たちはよく三人で遊んでいた。

 私とリョウは幼なじみで、私と友佳里は親友だったからだ。

 だから、二人がつき合うと聞いたときも、態度は変えずにいられた。つもりだ。

 私もリョウも昔から人見知りで引っ込み思案で、二人ぼっちで遊ぶことが多かった。

 友佳里とは中学で出会った。彼女は強く、優しくて、ぐいぐいリョウと私を引っ張ってくれた。そのせいだろうか。すぐに打ち解けられたのは。

 今の私たちを見て、彼女はどんな反応を見せるだろう。

 私が死んだくらいでなに落ち込んでんだよ、とか苦笑しながら言うんじゃないかな。友佳里ならそうするような気がする。

 けれど、もう友佳里はいない。

 今度は、私がリョウの手を引いていく番なんだ。

私は机の上に上半身を乗り出した。


「ねえ、寝られないんなら、せめて話し相手ぐらいにはなるよ。話していれば、そのうち眠くなるかもしれないじゃん」


 リョウは目をぱちくりさせている。


「眠たくなるほどつまんない話してあげる」


 私はにっと歯を見せた。不謹慎かもしれないけれど、今のリョウに必要なのは明るい笑顔だと思った。

 それに、私にとっては生きている人間をないがしろにする方が、よっぽど不謹慎な気がするから。


「クラスの土山くんが、弁当を食べるときにいつもほっぺにご飯粒をつけている話なんだけど――」


「本当につまんなそうだなあ」


 それから私は話し始めた。とりとめのないものばかりだったけれど、話しているうちに自分の方が気持ちの整理ができているような感じがして、不思議とすらすらと口から話題はこぼれ落ちる。

 リョウはたまに「あー」とか「うん」とか「へえ」とか、短いけれどちゃんとこちらに合わせた相槌を打ってくれた。

 それに気をよくした私もついつい話すことにのめり込んで、カーテン越しでも真夏の高い日が傾いてくるのがわかった。

 そして、二時間ほど話した頃だろうか。

 まぶたが重くなってきた。そうだ、リョウを眠らせようとしていたけど、私も寝不足気味だったんだ。

 ここで私が寝たらだめだ。そう自分に言い聞かせるほどに睡魔は手強くなっていき、私を眠りの世界へ引きずり込もうとする。

 その誘惑に耐える私をあざ笑うように、眠気は私を包み込む。

 それから、私の両目は完全に閉ざされた。

 消えかける意識のなか、最後に目に映ったのは、四時二十分のまま止まっている時計の文字盤だった。




 目を覚ますと、私は知らない場所にいた。

 真っ白に輪郭のぼやけた部屋だ。右手側にドアがあって、目の前には扉を指す矢印の形をした看板が立っていて、「あちら」と書かれている。

 白い空間の中は耳が痛くなるほど静かで、落ち着かなかった。

 ここはどこだ? 確かにリョウの部屋にいたはずなのに。私が左右に視線を巡らせていると、


「ようこそ、お嬢さん」


 不意打ちで声をかけられて、心臓がひしゃげるかと思った。

 いつの間にそこにいたのか、どこから現れたのか、看板に両肘をついて腕を組んでいる男が立っていた。

 その男はつばの広い帽子をかぶり、顔には仮面を着けていた。仮面の口元は笑っていて、目の下には涙を思わせる線が引かれている。

 私はとっさにどこかに身を隠せないかと思ったけど、真っ白な部屋には看板とドアがあるだけで、結局、仮面男と向き合うしかなかった。


「不審者……」


 思わず率直な感想が口を突いて出てしまった。


「ひどいな」


 仮面男は笑った。


「きみの理屈だと、ピエロはみんな不審者だ」


 似たようなもんじゃん。

 私は内心でため息をついて心を落ち着かせる。


「あなた、誰ですか」


 仮面男は私の疑いの眼差しを受け止める。


「俺はノーネイム・ウォーターハウスと申します」


 名前まで不審だった。


「ノーネイム、さん?」


「呼び捨てで結構」


 ノーネイムは敬称を手で遮った。


「ノーネイム、ここはどこ?」


「記憶喪失みたいな台詞だね」


「来た記憶がないから訊いてんの」


 かんらかんらと人をばかにしたように笑う。この男は、なんとなく好きになれなかった。


「ここは迷夢メイムだよ」


「メイム?」


 私は聞き慣れない単語を復唱した。

 ノーネイムは人差し指を立てる。


「迷う夢と書いて迷夢という。人はね、寝たくないときに眠ると、本来自分が見るべき夢に行けず、さ迷うのさ。そしてたどり着くのがここというわけだ」


 仮面の男は仰々しく両手を広げる。真っ白な空間にノーネイムの声が反響した。

 反対に、私は蚊の鳴くような声で訊ねる。


「ここは、夢の中なの?」


 私のか細い質問の蚊は、ふらふらと空中を泳ぎながらもノーネイムに届いた。


「試しに頬をつねってごらん。ああ、もちろん自分のね」


 言われた通り、自分の頬を指で強めにつまんでみる。けれどまったく痛みを感じなかった。


「古典的だが、夢の世界だと信じてもらうためには手っ取り早い方法だろう?」


 得意げに言うノーネイムが、うさん臭く思えたが、今は彼の言うことを飲み込むしかなかった。

 ここは夢の中。現実では私は眠っている。なら――


「じゃあ、あなたは何者? 私が作った夢の登場人物?」


 仮面の奥でノーネイムはくつくつと喉を鳴らした。


「俺は迷夢の管理人だよ。案内人と言ってもいい。迷夢に迷い込んだ人を導くのが俺の役目だ」


 それを聞いて安心した。


「なら、ここから出して。私は寝ている場合じゃないんだ」


 リョウが眠れなくて苦しんでいるのに、私だけのうのうと寝ているわけにはいかない。


「そうもいかないのさ、津星つぼしみほろちゃん」


 フルネームを呼ばれて、私は一瞬どきりとした。

 私の動揺にお構いなしに、ノーネイムは指先で「あちら」と書かれた看板を指で叩いた。


「迷夢から覚めるには条件がある。きみにはこれから三つの悪夢の世界を訪ねて、救ってやってほしい」


 はあ? なにそれ?


「なんでそうなるの? たかが夢でしょ? さっさと帰してよ」


 自然と声に棘が生える。


「されど夢だよ。人は寝ているときに夢を見て脳を整理し、明日に備える。実は夢というのは心臓の鼓動と同じぐらい大切で、なくてはならないものなのさ」


 ノーネイムのその言葉に、私は背筋が寒くなった。夢が心臓の鼓動と同じくらい大切? なら、夢を見続けていないリョウはこのままだと……

 私はその先に考えを巡らせるのをやめた。


「ますますここにはいられなくなったよ。本当に寝るべきは私じゃない。こんな夢、すぐにでも起きて忘れてやる」


「まあそう逸らないで。迷夢は決して悪いことばかりじゃない。誰かの悪夢の世界を三つ救ってくれたら、報酬として一つ願いを叶えてあげるからさ」


「願いを? なんでも?」


「ああ、なんでもだ。夢の中でじゃなく、起きたあとでもその願いは現実に反映されることになる。例えば悪夢をクリアしたあと、一億円が欲しいと願えば現実でも一億円が手に入るのさ」


 悪魔みたいな話ぶりだな、と思った。

 でも、もしその話が本当なら――

 私は――


「どうやって、悪夢を救えばいい?」


「お、その気になってくれたかい?」


 どうせ夢なら、試してみても損はない。

 私は睡魔と悪魔の誘いに乗った。

 ノーネイムは嬉々としてドアの方を見た。


「迷夢は悪夢に通じているんだ。俺が送るから、ここから他人の悪夢に行って、その夢の主――夢見人ゆめみびとをハッピーエンドに導いてほしい。どうやってハッピーエンドにするか、誰が夢見人なのかを見つけるのかもすべてきみの役目だよ」


 では、とノーネイムが指を鳴らす。

 私の足元に真っ黒い穴が口を開け、私を飲み込んだ。

 体がジェットコースターみたいに下に落ちていく。


「おいでませ迷夢へ。いってらっしゃいませ悪夢へ」


 真っ暗な闇の中を滑り落ち、上から降ってくるノーネイムの声を聞きながら、私は思った。

 ドア使わんのかい。

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