第十二話 閻獄峡ノ急『黒墨の帳に』(前編・その1)

 第十二話 閻獄峡ノ急『黒墨のとばりに』


          (初稿・2004.11.01)




 ──すべて、燃えきてしまえばいいのに。








 嗚呼。ゆるして。赦して。赦して――。


 愛しきあの子を、わたしは――妾の愚かさから、二度とこの手で抱くことも出来ないのです。


 何故に、我が身のこのじん


 されど、どうにもできない、忌々しくも枷の如く、この身に纏わり縛るその、かずかず

 振りはらおうにも振り拂へない細腕で、逃げだそうにも妾は弱すぎて。だから――赦して。


 何故に私は、うしなつづけるの――。


 何故に――。


 一つ積み……二つ積み……彼の世の責め苦を想うだけで、妾は居たたまれなく――。

 ちらちら舞う雪の中、あてどなく妾はさまよい歩きます。そう――あの日のように。


 あの日。あの時。私は粉雪の舞うバス停で、あのひとを見ました。陰鬱な面持ちの……確か、どこかで見たような――。


 ――貴女は、 はぁ……お久しぶりです。


 しゃくをする、生氣のない彼に、あァ、あの村の――と、すぐに氣附きました。


 どうなさいましたの、こんな處で。


 そうこえをかけると彼は、まるで木のうろのような光の無い瞳で、虚ろに空を見上げていました。


 ――僕は、もう貴女の知つてゐる僕ではありません。僕は――全てを捨ててしまつたのです。


 あなたほど熱心な人が、何故?


 ――愛しき人を、喪ひました。中也のうたなら、それこそ、自殺しなけあいけません……と云ふことでせう。

 僕は――死にそびれました。最低の、屑野郎です。


 嗚呼――なんということでしょう。


 ――それでも、僕には救ふものがある。縋るものが。さう、信じてをりました。さう信じて――僕は、愛しき人の亡骸に刃を立てて、そして…… 嗚呼、きつと僕は、どうかしてゐるに違ひない。どうかしちまつたに違ひない。


 おっしゃらないで、よろしくてよ。


 きっと、このひとは――しんえんのぞいてしまったのでしょう。わかります。今の妾には。


 ――あの時、最初つから何もかも、全て捨ててしまへば良かつた。捨てる勇氣もなかつた。だから……もう、今更、悔いても遲いのですが。自分で氣附くの前に、僕は壞れてゐたのです。

 だから、全て……さう、全て。この手で……今からでも、燃やしくしてしまはうかと、さう思つてをります。


 燃やす……嗚呼、素晴らしいですわね。

 羨ましい。


 ――ええ、すべて。燃え盡きてしまへば。


 嗚呼……妾も。いつか、あの家のすべてを、この手で――


 燃やし尽くしてしまいたい。


 何もかもを。


 この絶望も、歎きも。


 この後悔も、過ちも。


 この慚恚も、よすがも。


 この因習も、呪いも。



 いつか、いつの日か。すべて、すべて、すべて――燃え盡きて、しまえば善い。









 聖学少女探偵舎


 第十二話『閻獄峡ノ急──こくぼくとばりに』


          (初稿・2004.11.01)


              『閻獄峡ノ急──約束の地』より改題。



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