第十一話 閻獄峡ノ破『紅き焔』(後編・その8)
8.
「完璧な推理でもないし、あなたの推理には、……まずDを前提としての
「……すみません。でも、今の私にはこれが精いっぱいです」
「もし、これがBであったなら、そもそもCの理由の真逆で『楓おば様と同じ服装』に
「……はい」
見抜かれていた。そう、私は
提示不能の「
「ふふ……でもそこは、無理もないわ。当事者の証言さえあれば、あなたの推理は最初から無理なく完成したのに。状況説明だけからの安楽椅子探偵で、半世紀以上前のことを、普通ここまではわからないわ。あのね、喜一さんは
「……タエさんも、ですか?」
「そう。だから、寝耳に水だったのよ。
……逆だったんだ、順序が。
そうなると――
三人で立てた犯行計画で、それは既に動かせない物となっていた。取り止めを申し出ようにも、もはや一人ででも喜一さんは実行するつもりでいたのかも知れない。そこで、アリバイ工作として「時間のかかる位置」に誘い出すことが必要で、楓さんが祠を提示した。その場所への反対の理由は、喜一さんにもタエさんにも特にない筈で、その時点で一人で決着をつけることを楓さんは胸に秘めていた。
喜一さんのアリバイ工作に向かうタエさんに、「変装用」として渡した服と同じものを、楓さんは用意して、通路でそれに着替えてから現場に向かった――。
足りないピースが、ぴたりとそこに
だから、この計画は「
そして記事も、お婆さんの話も、そんな意味では間違ってはいなかったんだ。心中は心中でも、無理心中だけど。
「……つまり、協力者を裏切って計画変更し、自らの手で殺しに行った訳ですね」
「裏切って、とは違うわ。喜一さんの手を汚させないため。一人で背負い込んで、自分の手でケリを付けるつもりだったの、楓おば様は」
「……激しい人だったんですね」
「私にそっくりだったらしいから、そんなことないわ。きっと、清廉でのんびり屋で素直で、可愛らしい女性だったと思うの」
ふふっと、笑みを綺羅さんは浮かべる。
「凄烈の鬼女でしたのね。まるで燃えさかる紅き焔のように」
にこやかに微笑みながら、酷いことを面と向かって部長は口にする。
「とにかく、知り得ない情報を後から出すのは、反則ですわ!」
「この子のお話を聞く限り、知り得ない情報を主軸にしないで、十分推理できていたと思うわよ? それで殆ど正解だったもの。やっぱりミシェールの子は並じゃないわね」
うぅん……そうは言われましても……。
「……本当はもっと、深い理由や葛藤があったはずです。殺す者、殺される者の間に、協力する者の間に。怖れ、不安、殺意、敵意、恐怖、悪意、怒り、諦観──きっと、大きなドラマがあったんじゃないかって。本に書き下ろせば、それこそ分厚い本の上下巻組くらいになる程の」
……私には、仔猫のけんかのようにじゃれあう綺羅さんや部長のようには、この事件の顛末を楽しめない。辛い。
ここで楓さんが行った行動は、同時にただ一つの結果しか導けない。「喜一さんにアリバイが成立する状況」を作った上での、殺害。
なのに。
「でも……それら要素の全てを外し、項目のみに着目し、枝葉を落とし、単純に『トリック』だけを鳥瞰する。そうすることで見えてくる物もあります。……この事件、初代部長がスピード解決をしたのは、」
――つまり、これが、「
くすぶり続けた一〇年の歳月を
そして、きっと
喜一さんの刑期を考えると、それしかない。
楓さんの思惑とは裏腹に、それだけの憎悪を、殺意を、「
「それ以上はおよしましょう? 無粋よ?」
「……はい」
「えっ!? ちょっ、お待ちなさいよ! そこまでいっといて、一体それっ、」
しぃ、っと指を一本、口の前に立てて綺羅さんは微笑む。
……
そして、薄く微笑む綺羅さんは、ふっと村の真ん中へと目をやる。
アリバイ工作は、捕まるわけにはいかない前提の物だから。でも、それにしてはその場しのぎにしか思えない。つまり、科学捜査の結果が出るまでの時間だけ、誤魔化す必要と考えれば。
初代部長は、それを
「主犯は楓おば様。共犯、実行犯は喜一さん。タエさんは脅されて、アリバイ工作の共犯、ということになって、この話は解決したの。うちの家族以外は、この村にだって『それだけ』しか知らされていないわ。喜一さんは最後まで、自分一人の犯行だと主張してたわ。俺一人でやった、八幡の連中も皆殺しにするつもりだった、って。そこは開き直りとして一笑に付されたわね」
「楓さんの自発的行動の痕跡と道程を、初代部長は開陳して、喜一さんの単独犯ってことにはならなかったわけですね」
「そう。それと、最初に刺したのが楓おば様であるという、状況証拠の確定……これは、現場に触れられない安楽椅子探偵のあなたには無理な点かしらね。動機は……」
「あ、そこはおっしゃらなくても良いです」
無音と無風の凪が、私と綺羅さんを包む。
先輩達も、ただ黙って私たちを見守っていた。
いわれなくても、わかること。
もし、何の落ち度もなく、理由もなく、その克太郎さんって人が殺されたのなら、この話は
殺されるに至る理由があり、喜一さんが減刑されるだけの、楓さんに同情が集まるような理由。事件の詳細は伏せられていても、それら「理由」だけは、この狭い村の中、きっと伝わっていた筈だ。
私は、そんな「悲劇」は聞きたくない。
「ふふ。ともあれ、あなたのお話は大変興味深かったわ。探偵が推理する所なんて、滅多に観られるものでもないわよね」
滅多にどころか、普通ないですけども。
「……いえ、これはその、既に解決済みの事件の答え合わせみたいな物でしたし」
「じゃあ、……あなたの推理力で、
視線を向けると──真っ赤なランプを点滅させたパトカーとバンが、大きな屋敷の前に泊まっていた。
「綺羅お嬢様……大変じゃ」
一瞬、クマか何かと思って目を見張る。日本人離れした風貌の、髭もじゃで巨体の男性が、綺羅さんの背後からのそりと現れたから。
「あら、しばらく顔を見ないと思ってたら、また戻ってらしたの? 園桐にはもう帰らないと思ってたのに。それと、お嬢様はやめて。力輝さんは、とうにうちの使用人ではないでしょ?」
ああ、この人が力輝さん。事件から半世紀以上も経っているのだから当然のこととはいえ、お婆さんが口にしていた「腕白坊主」の表現とは、相当に乖離し過ぎな風貌で、少し驚く。
「ちょっと神戸の方にな。いや、そんなーは今ぁどーでもよーてじゃな、その……奥方様が……」
「死んでいたのね」
えっ?
「……知っとってですか」
「いいえ、今あなたに聞いて初めて知ったわ。いつも悠然としたあなたが、そこまで慌てて知らせに来るだなんて、私の家族の身に何かあったくらいじゃない。それに、もしそれがお父様やおじさまの身にだったら、いちいち知らせにも来ないでしょ? 祝杯をあげる方に忙しくて」
「……そんよーなことぁないがの」
ええっと。身内の方がお亡くなりになった知らせを受けたというのに、綺羅さんは妙に落ち着いている。……なんて人なんだろう。
「それに、自分の死期が近いことを、お婆様は毎日おっしゃってたわ。だから、その覚悟は既にできています」
「……確かに、奥方様はいつ召されてもおかしゅうないお歳じゃが、しかし……詳しゅうは聞いとらんが、
怪死!?
こちらを振り向き、にこりと綺羅さんは微笑んだ。
その瞬間、彼女の瞳が「人工物」の輝きであることに気がついた。
さっそく喧嘩腰で部長はくってかかる。
「穏やかな話じゃありませんわね。怪死がどうとか、とにかくご家族がお亡くなりになったんでしょう? どうして、そんなにも平然としていられますの!?」
「さぁ? そうねぇ、もしかして……これが
……何かが、チクリと胸の中を刺す感覚がする。思い出す。思い出したくないことを思い出す。慌てて、私はその記憶を押さえ込む。
……以前にも、そんなことがあった気がした。
私は──
To Be Continued
★
EXTRA EPISODE 11
──昭和四十四年。
俺は、どう反応していいのかわからないまま、じっと黒いコーヒーカップの中をのぞき込んでいた。
目の前には、美佐が微笑んでいる。
最後に会った時には、小さな子供だった。今では、見違えるほど立派に、美しく成長している。
あの時の真冬さんと同じ、黒いセーラー服に身を包んだ、誰がどう見ても清楚な「お嬢様」だ。
俺はというと、薄汚い油まみれの作業着だ。
一緒に座る事じたいが場違いに思える。
いや、場違い以外の何者でもない。
居て良いわけがない。俺のような汚らしい奴が、美佐とは……。
「冷めますわよ?」
微笑んだまま、彼女は小首をかしげた。
俺から見て、彼女が美佐だとは、最初は一切わからなかった(当然だ)。
しかし彼女の目からは、俺だと即、判ったのだろう。
あの事件の頃、ハタチちょっと過ぎだった俺は、今では三十路もなかばを過ぎた
大きく違ったのは、この、サッパリいう事を聞かなくなった右足ぐらいだ。
「……猫舌なんです、すみませんお嬢さん」
「お嬢さんだなんて、そんな風には昔はおっしゃらなかったじゃない?」
くすくすと美佐は笑った。
「昔と今じゃ違いますよ。お嬢さんも……俺も」
だいたい「おっしゃる」なんて言葉遣いをする子じゃなかったろう。私立の女子校ってのは、大したもんだ。
「そう? 喜一さんは、ちっとも変わってないように見えるわ」
そんなワケはないだろう。苦笑する。
やはり、あの頃の俺と今の俺は違う。
今の俺は、「
何の未来もない。ましてや、やり直しのきくような年齢でも、体でもない。
「……すまない、やっぱ、俺ぁお嬢さんと一緒に居て良いような人間じゃないんだ」
立ち上がり、ヒョコヒョコとレジへ向かう。
どうしようもなく絶望的な気分になる。綺麗で、純粋な娘さんに美佐は育った。俺はどうだ? 俺のような人殺しと、話なんかしちゃいけねぇ。そもそも俺が彼女に近づいちゃいけないんだ。
美佐も俺の後をついてくる。哀しいかな、俺の脚力では振り切る事はできない。
「良いも悪いもないわ。だって、喜一さんはもう、出所したんでしょ?」
「最悪な事にね。終身刑でも良かったんだ。弁護士も全部断った、何もかも認めた、なのにこんなに早く出て、どこに顔向けして良い?」
皮肉な事に、この足のせいだ。これで刑務所を早くに追い出された。
「それは、何かのお導きだと思うの」
「はは……何だそりゃ。ヤソの神様の学校じゃ、そんな風に教えるのか?」
「いいえ、私は……確かにミシェールには通って、神学を六年間学んだけど……正直なところ、よく飲み込めてないの」
照れ笑いのように美佐は微笑む。屈託のない笑顔で。勘弁してくれ。
「いいか、俺は……人殺しだ。知ってるだろう? 近づいちゃいけねえんだよ」
「どうして?」
「人が人を殺すのは、許されざる罪なんだよ」
「神は悔い改める者を許しますわ。あなたは、自分の罪の深さを認めているもの」
「だから、俺ぁそんなワケわかんねえ宗教じゃねーんだよ。知らねえよ神様なんて。いやしねえ。見えねぇ、神さんが何してくれる?」
なんだよ神ってよ。頭イカレてるのかよ、こんな可愛い顔をして。
「では、喜一さんを許さないのは誰です?」
「そりゃあ……」
園桐の者か? どうだろう。故郷にはもう帰れない。帰る気もしない。そもそも、あんな忌々しい地を、故郷だと思いたくもない。
「誰かがあなたを許さなくても、それはもう、拘束力があるわけじゃないわ。法は、国は、あなたをもう許したから、ここにいるんでしょ?」
「法の裁きが絶対じゃねぇさ。それに、許さねェ奴なんて、どこにだっている。何より俺が、俺を、きっと一生許さねェんだ」
「何故?」
「……それは」
いえない。
俺は、楓お嬢様が好きだった。それが、どうにもならない想いでも。
だから……楓お嬢様の
克太郎は死ぬべき屑だった。気障ったらしく嫌味なインテリ野郎で、いつも時代錯誤な和装で歩いて「書生さん」なんて呼ばれちゃいたが。中味はとんだ屑の、強請り野郎の強姦魔だった。
お陰で、タエに変装させるのも苦労した。精々上からすっぽり隠せるのが、一張羅のコートくらいで。あれで、真冬さんに「で、喜一さんとニイサンの見た、黒いコートはどこにありますの?」の一言に、肝が握りつぶされそうな気分だった。
……今にしてみれば、あの女探偵さんには色々と感謝している。
悪い事はできないもんだ。それを、とことん身につまされた。
とにかく、あの卑劣漢と楓さんを、心中みたいにみせるのだけは、本当に反吐が出そうだった。しかし……。
嗚呼、畜生! もう、思い出したくもねェ!
「私は、喜一さんが悔いている事を知っています。喜一さんが二度と過ちを犯さない事を知っています。あなたは、充分にそれを償ったわ」
「充分なわけないだろ。たかが檻に何年か入ったぐらいで、死んだ人間が生き返るか?」
「ええ。たかが檻に何年か入ったくらいで、罪が償えるとも限らないわ」
「……わかってんじゃねーか。じゃあ、だったらなんで!?」
「ただ無為に、時間を潰すためだけに、檻に入っていたのではない筈です。悔い改める心を持つ者を、自らの罪と向き合う者を、主は許します。喜一さんは、そうやって何年も過ごして来たんでしょう?」
罪を悔いてたわけじゃねえ。
俺は……あの家の連中を
俺は、楓さんの刃になり損ねた。天誅の槌になれなかった。炎の一爆ぜにもなれなかった。何にもなれない、ただの出来損ないのやり損ないのポンコツだ。
楓さんは物静かで、美しい人だった。しかし、激しく強い意志の持ち主だった。無理もない。あんな
しかし、今となってはそれを
確かに、刺したのは楓さんだ。だが、血まみれで息絶え絶えの克太郎に
どうしてそんな方法しか俺は選べなかったのか。……今更後悔したって、どうにもならねえ。過ぎた事を、起きちまった事を、
許してくれといっても、死んだ克太郎が許してくれるわけもない。
そこには居ない。もう居ない。俺にしか見えない血まみれの姿で、俺にしか聞こえない唸り声で、克太郎は毎夜、枕元に立つ。罪の意識が生んだ幻覚であれ何であれ、俺の中でそれは、確かな存在だ。
だからこそ、云える。
そうとも。俺にあるのは、それだけだ。呪いと、怨嗟と。どうにもならないどん底で、信じる物はもう、何もない。這い上がれもしない、許してくれる者も誰もいない。確かな物なんて何一つない。救われる事など、永遠に――。
「私が、許します」
善く通る声で、美佐が口にした。
「ナニサマのつもり? っていいたくなる言葉だけど、神を喜一さんが信じていないなら、神様の言葉は届かない、響かないわよね?」
「あ、あぁ?」
「でも、喜一さんは私の姿を見る事ができる。私の言葉を聞く事ができる。私に触れる事ができる。なら、私を── 信じて」
直視できない微笑みを、美佐は俺に向ける。
……俺は、涙が自然に溢れていた。
To Be Continued
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