第二部・幾星霜、流る涯 Once Upon A Long Ago

第十話・閻獄峡ノ序『白蝋地獄』(前編)


 ──凡て、燃え尽きてしまえばいい。




「おい、やめろ! 馬鹿な真似はよせ!」


 見知らぬ男が後ろからそう叫ぶ。

 ……構うものか。

 すがる神も頼るよすがも何もない、あの村の、地の底を這う亡者どもよりは、遥かにましだ――俺はそう、思っていた。

 だが、どうだ?

 信心は――俺を救ってくれるのか?

 否。


 俺は――ただただ、それだけを信じて来た。

 だが。


 ガスッ、ドスっと揉み合う音が。

 奴らとあの男が格闘でもしているのか。

 ……この隙に、俺は今、やるべきことをやるだけだ……。


「わっ、おいっ! 自分が何をしてるのかわかってるのか!?」


 瞬時、辺り一面が炎に包まれる。

 悲鳴と絶叫が響く。

 そう、これで――俺は解放される。


「う、うわぁぁああ! た、助けてくれェ!」

「焼け死んじまうゥ!」

「くっ……いいから早くこっちに来い! クソっ、火の手が……!」


 メラメラと何もかもが炎に包まれる。バキバキと爆ぜる音。どろどろと溶解する肢体に、死臭が充満して行く。

 嗚呼、――何と心地善いことか。

 やっと終わる。これで、終わる。すべて、凡てから解き放たれる。


 これが―― これこそが、


  地獄だ。






 聖学少女探偵舎


 第十話

『閻獄峡ノ序──白蝋地獄』

  (初稿:2004.08.30)





       ★





 ──昭和二十九年、秋の終わり頃のこと。



「弓塚さん、ここってホント、なーんにもない田舎なんですねェ」


 ひっつめに結わえた長い三つ編みに、赤いラインの入ったセーラー服の少女が、舞い散る粉雪の中、ほぅっと、白い息を吐いた。


 まるで硝子ガラスごしに見渡したように、そこかしこに白がぼんやりかぶさった景観の中、少女の黒い制服は、やけに映える。

 降り始めたばかりとはいえ、こんな中でそうボヤボヤとはしていられない。高い山に囲まれた地域だけに、ここにはもう冬が訪れている。


「はは。それを云うなら、真冬君の通ってる学校の辺りだって、似たようなもんじゃないか」


 軽く笑いながら、弓塚は雪に覆われた案内版を手で払う。矢印と『園桐まであと1㎞』の文字が見えた。

 たかだかあと一キロで、町か村に着くのだろうか?

 周囲の何もない景色をざっと眺めながら、小首をかしげる。


「でも、全方位ぐるりと山なんて、そうそう見られませんよ。ミシェールは前が海だから、風の加減で潮の匂いも混じってましたけど、ここは本当に山の匂いしかしないんですもの」


 積もった雪を軽く蹴りながら、少女は嬉しそうな顔を向ける。

 耳が落ちそうな寒さだと云うのに、子供はどこまでも元気なものだと、弓塚は歯を鳴らしながら感心した。


 その少女――絹谷きぬたに真冬まふゆは、広い額に意志の強そうな眉目の、まだあどけなさの残る、小柄な女子中学生だ。


 この少女が、H県警の警察官である弓塚の目の前で、これまで二つ、いや、三つの怪事件を、またたく間に解決したというのが、今でも少し、信じられないでいた。

 今回にしても、何から何まで信じられない。


 物のか何かに化かされでもしたかの如く、いまだ弓塚の頭の中は、がかかったまま曖昧で、何がどうなっているのか、何がどうなったのか、サッパリ理解も合点も行かない上に、細部に至ってはろくに思い出せもしない。


 軽く、放心しているのだけは間違いない。


 ――落ち着け。理性を取り戻せ。


 こんなことで運転事故でもしでかそう物なら、真冬君やその家族にも申し訳が立たないじゃないか。


 こんがらがった頭の中味を解きほぐすよう、弓塚は頭を大きくぶるるんと振る。その顛末がどうだったか、最初から順に、記憶を反すうしてみる。


 確か、始まりは――

 H県東部F市の川辺で発見された、あの極めて猟奇的な死体――。

 石柱を抱いて、荒縄で縛られた、「全裸女性死体」の謎を追ってのことだ。


 最初それは、まるで昨夜にでも溺死したばかりの、真新しい「」と思われた。

 実際には、正確な死亡推定時刻すらわからないという、何とも不思議な亡骸だった。

 完全なる、全身屍蝋化。

 こんな死体が、あって良い物なのだろうか?

 長い黒髪、美しい顔。齢の頃はまだ二十歳はたち代の娘だろうか。体の何ヶ所かは荒縄と木綿地の襤褸ぼろ布で結わえられてはいても、ほぼ全裸の、なまめかしき女人の姿をし、目をこらせば生者と同じ肌の肌理きめを持ち、まつげはおろか、産毛や無駄毛すらも確認できる――それは、「人」ではなく「物」と化した存在。


 その肌は透けるような真白で、最早生気のかけらも残ってはいない。

 なのに活きて、微笑むかのようなその「」とした屍の表情。そのふくよかな丸みを描く肢体に、手袋越しにそっと指を這わせてみても、まるで瑪瑙めのうか玉石のような硬い感触――。


 何だ、は。


 生きた体と同じ姿をしながらも、その薄い微笑を携えた女性の、たとえば耳たぶの一部、まぶたの一部、腕脚の表層の幾つかは、ポロリと鋭利な断面を見せて、美術の教室に飾ってあった石膏像のように欠損もしている。ここからして、何とも奇妙な気分になる。

 八朔はっさくの皮のように厚みをもって、べろりと四角く剥がれた腿の一部からは、灰色に褪色した筋組織が。

 川底の石に削られでもしたか、微妙な引っ掻き疵が背に、ボタンほどの円形の凹みが腕にも見受けられる。

 女性らしい「柔らかな曲線」を描きながら、その丸みが、重力などの世に無いかの如く、ザクリと幾らか削り取られているあたり、これはもはや自然の摂理から外れた物にしか感じられない。


 ――これは余程出来の良いマネキンか、蝋人形に違いない。……そう思い込んでみようにも、その妖艶な姿から放つ「」の匂いは、矢張りそれがおぞましい忌物であることも思い知らされる。


 そして、体や布の幾つかに書かれた、為体えたいの知れない梵字や経文が、厭が上にも不気味さを際立たせていた。


 ――何なんだ、は?


 鑑識も、大学の偉い先生すら、こんな死体は見たことがないと、目を丸くするばかりだった。

 それもそうだろう。「自然死」でこんな死体が出来るわけがない。自然でないなら、それは犯罪が絡む物で、何者かの意図によって出来上がった物……となる筈だ。

 では、誰が、何故、どうやって、こんな死体を「」のか?

 そして、何故その死体を、どのような思惑を持って、川に捨てたのだろうか?


 何をどう考えたって、そんな物、常人にはわかりっこない。理解の埒外にも程がある。

 奇妙にして妖艶、奇ッ怪きわまる美女の怪死体。

 これは一体、この世のことか? 何ぞ猟奇の文學から、抜け出して来たものなのか?

 弓塚だけでなく、捜査一課一同、首をひねり、頭を抱え、さりとて進展するでなく、学者からのより高度な分析を、ただ待つだけであった。

 そしてその、何とも不思議な猟奇怪事件を発端に、まさかこんな年端も行かぬ小娘との、不思議で危険な二人旅になろうとは、この時の弓塚は想像だにはしていなかった。





 少女探偵・絹谷真冬の事件簿

 CASE.3 「白蝋地獄」




「うっぷ……」


「どうしました? 車酔いです?」

「いやいやいや、自分で運転してて、それはないって……」

「だって、結構揺れますものねぇ、この車」


 気分が悪い。

 何がどうして、どうなったのか、それがちゃんと思い出せないせいだろう。


 は思い出すべきじゃない――そう、心のどこかが警鐘を鳴らしている。とはいえ、このまま朦朧もうろうとしたままでいるわけにもいかない。

 呼吸を整え、再びジープを駆って山道を少し降りると、目前になだらかなスロープの銀世界が拓けた。


 視界を白く塞ぐように、眼前にそびえたった岩山に隣接する、大きな旅館が見える。


 ――助かった。あそこで少し休むか。


 年季の入った造りで、思った以上には立派だ。この山奥には不釣り合いにも思う。

 ご丁寧にもスキー用のリフトまで見えた。こんな施設は、まだ本邦でも珍しい。


「ああ、ホントだ。眉唾かと思ってたけど、パンフレットにあった通り、ちゃ~んと立派な旅館じゃないですか。温泉もあるんですって。こっち側から降りて大正解でしたよ。かく、今日のところは一風呂あびて、ゆっくり疲れでもとったらいかがです? 昨日から大変でしたでしょ」


 寒の入りに生まれたから「真冬」と名付けられた、と少女は云っていた。寒さには強いらしい。

 疲れはともかく、お湯にはさっさと漬かりたい気分で弓塚は一杯だった。


「まあ……大変っていうか何ていうか。まさか隣の県の山奥まで足を運ぶことになろうとはね。とりあえずは、こっちの署が協力的で助かったけど」

「あれは面倒な事件だから、弓塚さんに押っ付けたかっただけですよ」


 笑いながら、少女は米軍の払い下げらしい革ジャンパーを羽織る。


 ――ある種の泉質の冷泉の沸く岩山、ある種の宗教儀式、この二つを追って、少女の指揮でO県山奥の廃村までジープを駆り、顛末はともかく、この一両日で一通りの解決は得たらしい。


 、というのは、いまだ弓塚にはそれが何だったのか、納得どころか理解も出来ていないからだ。

 そもそも、いくら何でも警察が年端も行かない女の子を頼るようなことは、普通ならばない。

 確かに真冬は、最初に弓塚が出会った時に、奇っ怪な「女学生密室首斬り死体」の事件を即時解決した頭脳の持ち主であり、続いて瀬戸内の孤島で起きた「紅髑髏事件」では、学者顔負けの知識を披露して、金色祠に隠された秘宝の碑文を解き明かし、三人の相続人を手にかけた連続殺人犯を逮捕する切っ掛けにもなった。

 それらの件から、どうにも弓塚には上司や周囲から過剰に期待されることにもなり、ややバツの悪い思いもさせられたものの、いずれにせよ、そんな超絶的頭脳の才媛とはいえ、これ以上気味の悪い事件に中学生の少女を巻き込むつもりは、弓塚には更々なかった。


 それでも、警察の捜査力ではどうにもならない、完全に行き詰まった不思議な紋様の解読に、仏事にやたら詳しいこの不思議な少女から、その道の識者でも紹介してもらうつもりで、真冬のもとを訪れたのが、ことのはじまりだった


 真冬の、少女にしては過剰なまでの特殊な知識は、住職を務める曾祖父や、そこに出入りの僧籍の者たちや知識人から、「門前の小僧(いや、この場合は小娘か)、習わぬ何とやら」で身につけたものに違いない、とは理解していた。

 屍蝋美女に墨で施されていた、謎の経文のようなものは、大学の学者先生ですら、いまだ分析はできていない。しかし真冬の知り合いならば、何かヒントになるような物を知っている可能性もある。

 先般の黄金祠の碑文など、まさに「まともな学者」には絶対に読み解けない、複雑怪奇な物だったのだから。


「しかしなぁ……」


 ちょっと思い出しただけでもゾッとする程不気味で猟奇、それでいて艶かしく妖しい、生きているかのように美しい全裸女性の、蝋人形のような真っ白い死体。施された呪術の紋様。

 こんな気味の悪い話を、中学生の少女相手には、とてもじゃないが話せはしない。

 まずは、そこをどうやって切り出そうか。

 ここからして、思案のしどころである。


 なのに。


「ふむ。これは印度の物を無理から漢字に解釈したものでしょうね。但し、最澄、空海といったお大師様から由来の、通常の漢訳とは相当違いますねェ、和字が入ってますよ。それと略押……僧籍の使う花押みたいなものですけど、それの影響が読み取れますねェ。とはいえ、禅僧でこれはあり得ませんし」

「あ、いやその、あのねっ」


 まいった。


「となると、幾多か違う宗派を経て合宗したり、土着の信仰と混じったり、極端に異化、特化されて行った、まあ江戸時代は後期以降でしょうね。こんな勝手な解釈じゃ、まともな学者先生にわかるよしもありません。それと……ご遺体はあきらかに発見現場とは別な所で『精製』されたもので、四国……いえ、鉱泉のことを考えると隣のO県かな」

「あ、ちょっ、ちょっと! しゃ、写真! 返しなさいって!」


 油断も隙もあったもんじゃない。


「まる裸ってわけでもないですよね、荒縄とか布とかも最小限……あ、これって古いつむぎ……いえ、この光沢の具合だと、木綿紬ですよね。となると、やっぱり隣県あたりで正解かなァ。これに関してなら、詳しい人を知っているんですよ。ちょっと訊いてみましょうか」

「いや、最初からそのつもりだったんだけど。あ、いやちょっとォ!」

「何をいまさら隠そうとしてるンですかぁ。いじゃありませんの、減るもんでなし」

「減ったら大ごとだってば! いやそれ、捜査上の重要書類なんだから、ちょっと!」


 弓塚が後ろ手に隠していた、書類や写真の入った大判茶封筒をヒョイと勝手に奪い取り、ふむ、と写真を一目みて、少女はそう云うが早いかテキパキと旅支度を整えて、あれよあれよの間に弓塚の腕は引っ張られ、この僅か二日そこいらの間で、目まぐるしい出来事に巻き込まれる破目になった。


 正直なところ、弓塚自身、事件の概要が何だったのかをいまだに理解していない。

 兎も角、「犯人」らしき男は犯行を自供し、無事、この手でお縄にはつけた。

 死体を加工した現場も発見し、今頃はO県警の捜査員が、あの「現場」に詰め掛けていることだろう。

 まったく、何から何まで狐につままれたような気分だった。


 現場、か。


 ……だめだ。

 思い出せない。 いや、違う。


 、のか? 何を?

 はぁっと、深呼吸をする。

 僕は、何をどうしちまったんだ……?


「しかし、その……なんで君には、そんな写真だけチラっと観て、場所までわかったんだい?」


 一段落した今ならもう良いだろう。そんな基本的なことを訊く余裕すら、なかったのだ。

 たかが木綿紬ごときで、場所まではわかるまい。隣県備前では安政年間の頃から、物産として烏城紬を関西に卸しているくらいは、和装の何たるかも碌に知らない弓塚の知識の中にも、一応はある。


「確かに、あの写真程度じゃ木綿か生糸かを判別するのが精々ですけども。ただ、江戸文様縞でそうとう使い込んだ年代物の襤褸ぼろだってことは、わかります」

「それが、何で……?」

「少々おかしいんですよ。風にするんだったら、せめてもうちょっとは良い生地を使いますでしょう? となると、アレは仮の、まだまだ製作過程の状態だった物じゃないか、って」

「それは……僕には、よくわからないなぁ。死装束なら、安物でも白の着物だろうし」


 だいたい、風って風だ?


「ですから、死に装束とか、そういった宗派じゃないんですって」

「いや、それがもう、僕にはサッパリなんだけど。それって、こっちの方にある弔い方ってことなのかな? ……それで場所を特定できた、とか?」

「いえ、それはないです。第一、紬といえば生糸、おかいこさまの真綿からつむぐ物ですけども、庶民が絹を着ることを制限されていた徳川とくせんの時代には、木綿紬も多く出回っていたんです。勿論、裕福な商家向けに生糸の紬もきっちり流通していましたけどね。お国によっちゃあご禁制だったり、紬だけは許されたりで、お江戸の頃のお沙汰はわりとまちまちなんですけども。……って、話が脱線ですね、あはは。ともあれ、持ちが良いから、何年何十年、代々着古して伝えていったり、破れれば修繕したり、それも効かなくなったら千切って雑巾なり紐なりにってのはわりと当たり前で、まあそういった廃物利用なんでしょうね。ヘタしたら、軽く百年は経ってる物かもですよ?」


 いや、さすがに木綿が百年はもたないだろう。


「まあ、場所に関しては……、川の水では、あんな完全な状態で屍蝋化はしませんでしょう? あきらかにヨソで加工された物で、ならばあの形にも意味がある筈で」

「意味……あれに?」

「石抱きなんて普通なら拷問ですけど、あの仏さんは丁寧に扱われてましたし」


 少女はあっけらかんと、まるでモノのように死体の話をする。


「とすると──つまり、儀式か何か……? あんな葬り方の宗教って、あるんだ」

「あるわけないですよ」

「エッ?」


 ……じゃあ、なんで?


「だから、そんな宗教、見たことも聞いたこともないです。ないなら、じゃあ、知られていない隠された宗教なのか、新興の怪しげな物なのか、あたしが興味あったのは、ようはその見極めになんです」

「じゃあ……君は知ってて、ってワケでもなかったんだ?」

「様式の一つとして、経文にある言葉で何を祭っているのかは、おぼろげですが、それがわかれば彼女のおかしな姿にも、意味は見出せますから」

「いやちょっと待って!? あの経文、読めたの?」


 さすがに驚く。学者先生の何人もが首をかしげていたような、奇っ怪な物だというのに。それを、中学生の小娘が、か?


「だから、おぼろげです。無学な人間には書けない内容なのに、宗教事に関して無知としか思えない解釈が多いんですよ。逆にこれは、宗教に関心を持っているたぐいの現代人には書けません。梵字も経典も解説つきで手に入る世の中なんです。だからこそ、これは歴史を積んでいます、少なくとも江戸の頃からの」

「なるほど、それは確かに『推理』ってやつかな。普通の学者先生じゃ、たちまちはわからないか……」


 彼らは身に着けた知識に照らし合わせ、合っているか否かを見抜くことに長けてはいても、理解の外の謎解きには向いていないだろう。

 未知なる何かに出会った時、学者は先ず、徹底したフィールドワークとデータの蓄積から始めなければならない。そして、それには年数もかかる。


「そして姿……最初は大陸の人かと思いましたけど、この纏足てんそくのように爪先の曲げられた足にも、両手が左右で上段下段にズレているのも、あれは理由があって固めてあるんです」


 固める……硬度の高い鉱泉、マグネシウム、カルシウム……つまり脂肪の金属石鹸化を起こす化学反応か。それくらいなら、専門ではなくても弓塚にもわかる。


「豆腐をニガリで固めるようなものです。しかし海水じゃ、細胞膜が壊れてグチャグチャになってしまう。川の水じゃ、いろんな生き物につつかれて食われて流されて、コケむして、原型も留めません」

「低温で、かつ、ミネラルの含まれた、水棲生物もいない水か……確かに鉱泉と考えるのは妥当かな」

「脂肪を脂肪酸に変える細菌は必要ですよ。まあ、どこにでもある菌ですが」


 可愛らしく微笑むこの小娘は、弓塚の前で何とも背筋のゾッとくるような話を、理科の実験のように平然と語る。


「ですが、警察医の方はそうは思っていませんでした。何故かって云うなら、風呂の水でも何でもいいですけど、仏さんからいっぺん血を全部抜いて、それから浴槽にでも真水へ漬けておけば、三ヶ月から半年ほど、完全屍蝋化には一~二年ほど、時間をかければ屍蝋はどこでだって作れますから。ヒトの体にはそもそも、全身をセッケンにするだけのミネラルは充分含まれているんです」


 血抜き――確かに、屍蝋化する前に付けられたと思しき傷跡はあった。喉と、腕と……今となっては判断つかないものの、大腿部にもあったのかも知れない。

 それが死亡後に付けられた傷か、その傷によって死に至ったのかは、鑑識班でもまだ判断はできていない。何しろ、切り傷の生活反応検出など不可能な死体だから。

 とはいえ、遺体の状態からしても、死因はともあれ血液が故意に「抜かれた」のは間違いはないだろう。これもまた、背筋に寒気が走るような話でもあるのだが……。


「仕組みは理解できるけど、でも、それだったらどうして? 何故、真冬君は、これがどこかの水槽ではなく鉱泉でだと?」

「時間ですよ。加工は、かなりの短期間で行われていると考えて良いです。あんなご遺体じゃ、正確な死亡推定時刻は掴めないから警察医の方も苦労してらっしゃるでしょうけど……」

「時間って……。君には、それがどれくらいかかった物か、写真一目でわかったのかい?」

「ん~、少なくとも、この夏の終わりからひと月ちょっとは過ぎてから、かなァ? 今年は冷夏だったけど、その後の残暑が厳しかったので、精々がこの二、三ヶ月前後にお亡くなりになったのかな? 夏の暑いほうが良いんですけどね、屍蝋化には。これは、ちょっと信じられない程のスピードですよ。普通に考えたなら、薬液水槽……なんでしょうけど」


 どうしてそんなことまで?


「表面の破損が少ないからには、年の単位で漬かっちゃいないかな、って。そもそも、水に漬けてたんじゃ、体は屍蝋化はしても、ふやけた状態で大凡おおよそ『見るに堪えられない姿』になってますでしょう?」

「まあ、そりゃぁ……」


 いわゆる土左衛門だって、警察の仕事をしていれば幾度となく目にはした。幾度となく目にしようとも、とてもじゃないが、慣れやしない。


「瞼や長いまつげまで完全でしたし、かなりの短期で加工が済んでます。この人は、質素ながらお洒落な人でしたね。自分が美人なことを自覚して、身だしなみにも気をつけていたんだ。それでもねやを共にする相手もなく、妊娠線もなかったです。清廉な人だったのかも知れません」


 大した観察眼だ。

 さすが探偵を自称するだけのことはあるが、写真数点だけでそこまでわかるのだろうか。

 確かに、実物をこの目で観た弓塚には、われてみれば「真新しい」物だったと実感できる。だからこその生々しさでもあったのだろう。

 他にあの写真だけでわかる点というと……弓塚も弓塚なりに、少し考えてみる。


「夏から秋にかけての特徴……となると、日焼けの跡とか?」


 いや、そんな目に見える特徴はあったっけ?


「ふふ……、メラニンなんて流れてしまうものですよ。ホトケさん、真っ白だったじゃないですか。まるで浮世絵の幽霊が実体化したみたいに、すごく綺麗で……」

「いや、綺麗だったけど!」


 幽霊という言葉に、ぶるりと震えた。

 形容としてそれは、あの女性の死体に、あまりにも的確すぎた。

 真白な肌、白蝋の如き体に絡みつく、長い黒髪。死体でありながら、それは警察官として弓塚が幾度となく観て来た死体たちとは全く違う物だった。


「とすると……?」


 クスっと真冬は微笑んだ。


「あたしはまだ全然ですけど、夏場の女性は大変なんですよ。水着だって最近じゃ、ビキニっていうんですか? この春に水爆実験なんてやりやがった島の、ふざけた名前をつけたイヤラシイやつも流行っちゃって。いずれにしたってU字首のワンピースばかり、袖ありの水着なんてお年よりしか着やしない。恋人や配偶者がいればまた、ちょっと違いますけどね。商売によってもそうでしょうけど。でも、この人は……」


 写真を取り出す。


「まばらで薄いですが、脇の毛がだいたい1センチ長に揃ってますね。伸びる速度は人によりけりですけど、ようは『切っ先が揃ってる』って点です」

「そりゃ……確かに女性の視点だなあ、うん」

「袖の長い服を着る頃になれば、見せる相手もいないなら、手入れも億劫になるもんですよ。こんなのはアメリカから入ってきた文化なんですけどね、今の風潮ならそのうち女性のみんな、一年中脇の下を剃る時代になっちゃうような気もして厄介ですねェ」

「あ、うん……いやその」


 年端もいかない女の子にそんな話をされても。弓塚の方が気まずくなる。


「薬剤の水槽に漬けた可能性も考えられますけど、それにしちゃあ縄にしろ柱にしろ、この布きれにしたって、小物がいちいちナチュラル過ぎますし。どっちみち家庭の浴槽じゃ運び出しようもなし。なら池のある庭でこの秋に加工? それも考えにくいです。研究所や病院の水槽で、誰にも知られず作った可能性も考えられますが、あの経文から見て代々伝わった儀式と想定するなら、自然にある物を利用した、それも、人目につかない場所……そう考えた方が、自然かなぁ、って」

「ふむ」


 それに、ただ「浸ける」だけではこうも綺麗な屍蝋にもならないだろう。湿度の高い、それでいて腐敗を免れる状況……となると、確かに、手法を「鉱泉」の沸く岩山のどこかに絞った消去法に納得はできる。

 しかし、鉱泉なんて山奥なら井戸の数だけあると考えていい。何百、何千とあるだろう。

 つまり要素として、もうひとつ「場所」のヒントになる物から、絞り込んだ材料があるに違いない。


「そして、……これは弓塚さんに説明するのはチョット難しいかなァ」

「僕の知らないような難しい話なのかい?」


 宗教の話となれば弓塚自身、専門外なのもわかっている。それでも、後で報告書もまとめなければならないのだから、無視するわけにもいかない。


「かいつまんでで良いよ、説明して欲しい」

「ん~。隠さなきゃならない信仰……淫祠邪教いんしじゃきょうと云えば真言立川流が有名ですが、それ以外に、ちゃんとした神様だってのに、見た目のせいで、よくわかってない人からは『邪教』と呼ばれ、うとまれる物もあるんです。例えば聖天様、歓喜かんぎ天ってのをご存知です?」

「ん? ああ、何か雑誌で見たことあるかな。確か、夫婦和合の……あ、いやその、えーと」


 赤面しながら言葉を濁す。

 弓塚の知識の中にも、「抱き合った男女の仏像」という淫らなイメージは一応入っている。確か、浅草や京都にもそれらを祭った寺があった筈だ。


「おおかたカストリ雑誌でしょ、あはは、あたしが女の子だからって、遠慮するコトはないですよ。でもね、あの神様はエロスの神様じゃあ、ないんだ。十一面観音と抱き合うのは大日如来であったり、ガナバディの双身だったりもします。御姿のバリエーション豊富さはナンバーワンの神様で、輸入元が仏教帰依かヒンドゥーかで解釈も変わって来るんですよ」

「がナ……何だって?」


 一体、この娘は何を急に云い出すのだろうか?


「ガネーシャ、象の神様です」

「……いや、全然わかんないよ。ええっと、君の爺さんは浄土真宗だっけ?」


 わかり切っていたことでもあったが、真冬の言葉や知識は、あきらかに弓塚のキャパシティを超えている。


「ええ、安芸門徒です。それと、ミシェールの近くに宝堂サンって云う真言密教のお寺さんもありますよ。住職の話が面白いのと毘沙門様が立派なので、ちょくちょく上がらせてもらってます。ちなみに真言宗では聖天様を拝むのを今では禁止されてるんですよ、扱いの難しい神様だから」

「えーと。君の学校、クリスチャンのだろう?」

「いいんですよ、どんな神様を拝もうと。全てご利益はあるんですから。よいしょッと」


 扉も開けず、少女はそのままジープから飛び降りる。進駐軍の払い下げを借りたもので、幌もないオンボロ車だが、だからと云って女の子がそんな降り方はないだろう、と弓塚も少し呆れる。


 黙っていれば可愛い女の子なのに、どうにも元気で口も達者で、その上とびきりに頭も良い変わった娘だ。のんびりした性格の弓塚はただ振り回される一方だった。


「その、カンギ天とあの死体に何の関係が……ん、抱き合う……?」


 石柱を抱きしめた、なまめかしい屍蝋の姿が脳裏をよぎった。


 ──まさか?


「いわば──あの仏さんは『即身仏』みたいな……あ、いや即身じゃないか。まあ、そんなように創られたんでしょうね」

「なっ、女性の即身仏なんて……!?」


 さすがにギョっとする。あの遺体は、ミイラというより蝋人形のような姿だったからだ。そもそも黒く長い髪になまめかしい肢体……何をとっても尼僧には見えない。


「尼僧の入定にゅうじょうは宗派問わず珍しくもありませんよ。密教で即身成仏ってなると話は別ですけど、いや、だから即身じゃなく、死後にミイラへ加工した物が殆どの国での信仰対象なんです。大陸で祭られてるのなんて殆どソレですよ。本邦だって亡骸をを拝むのはわりと当たり前、修験道あたりじゃ病死した僧を内蔵くり抜いて燻製にして木乃伊ミイラを作ってましたし、生きてる内から仏様になろうなんて頭おかしいのは、云っちゃナンだけど密教の独自文化みたいなもんですから、アハハ。中には補陀落ふだらく渡海なんていう、生きたまま坊さんを逃げられないよう舟に押し込めて流すっていう、非道いものもありますし」


 だから、そんな話はわかんないって。


「まあ、だからようは、彼女は『抱きかかえる姿』になる形で、屍燭化されたんでしょうね。そしてきっとそれは本人の希望だったんじゃないかな、って。つまりあの犯人さん、ヤったのはあくまで『死体遺棄』ですよ。そう悪い人じゃない」

「は?」


 真冬が何を云っているのか、弓塚にはしばらく理解できなかった。


 ……死体加工を目的とした宗教儀式?

 仏像に似せた姿の死骸を拝むって!?

 何故、それが本人の希望?


 唖然とするほど、それは不気味で奇っ怪な行為に思えた。

 なのに、少女はのん気な表情のまま、雪をリズミカルに踏み、旅館の玄関へと急ぐ。

 黒いセーラー服に羽織った、パイロット用の毛皮フードつき革ジャンが、不釣合いのようでいて妙に似合っている。


 O県警に連絡し、既に市内の本署へ連行された、あの陰気くさい男のことを思い出した。あわや自殺する寸前だったその男を、真冬の推理で探し当て、弓塚が取り押さえた。

 真冬の追及の前に一通り「俺がやった」と自白した後、男は黙して何も語らず、きっとこれからの取調べは、困難を極めそうだと感じた。


「あの犯人さん、云ってみりゃ『仏師』ですよ。でも、彼女を普通に葬ってやりたい気持ちもあって。二つの意志の間で揺れ動いて、本尊として祭りたい連中との引き合い、奪い合いから、あんなコトに……」

「……僕には、サッパリ理解できない」


 首を振る。それに、何故本人の希望でああなったとわかるのか。


「それは、弓塚さんがマトモな人の証拠ですよ」


 にこりと微笑み、真冬は旅館の玄関を開けた。


「ごめんくださいましー」


 ……この娘は、この若さでどうしてそこまで奇妙なことを色々知っているのだろうか?

 首をかしげながらも、弓塚も荷物を手に、ついて歩く。

 ただ博識だけでなく、神仏に詳しいのに信心深いようでもなく、きわめて理知的に、パズルか何かを解くように神様の話もできる。科学知識だってある。なんとも不思議な子だ。


「……つまり、そういった妙な宗教の知識があれば、場所もわかったんだ?」

「逆かな。いやね、歓喜仏は全国で祭られてるんですよ、大っぴらにじゃありませんけど。悪い神様じゃないんだ。ただ、意味解釈は由来よりも姿の方がそれでも力は強くって。歓喜仏信仰の殆どが、今でもどうやったって子宝成就のものであるように。全国中、男性器女性器を祭った神社だってあるじゃないですか」

「コホン、いや、あのねぇっ!」

「ある種の形の像は四国一帯から備中備前には様式が固まっているけど、それだってバリエーションは多いです。その圏内で、これといった聖天さまが『祭られていない』場所を、逆に埋めていったんです。逆逆か。はは、聖天様の真言だ」


 最後のほうは良くわからない。何はともあれ昨日一日、郷土資料の山のような書類を集めさせられ、それらと首っ引きで方々に電話をさせられ、更にはああでもない、こっちでもないと探し歩かされた原因はわかった。

 まるで奴隷のようなこき使われ方を、弓塚はこの笑顔の少女から受けていたのだ。


「つまり、……隠れ信仰になった物を探していたんだ?」


 隠れざるを得ないだろう、そんな不気味なものは。


「ただでさえ御一新の廃仏毀釈で、仏閣全般エラい目にあってますからね。ここいらの土地に至っては、もっと早い時代から、それこそ光政みつまさの頃から神仏分離をやってますから余計に厄介で。目立つ異端さの信仰は、隠れて歪まざるを得ないんです。地方の道祖神のように溶け込み慕われるものは、お上に何と云われようが残りますけど」

「歪んで……おかしくなった、と?」

「いや、そうでも……。それでね、航路しかないのに瀬戸内を渡るのは考え辛い。だから四国は外して、そうなると案外狭められるものなんです。あとは幾つかのお寺さんに連絡を入れて、檀家の少ない地域を更に狭めて。どうもこの辺り、園桐そのぎりの一帯、チョイとおかしいんですよね。池田の殿様のせいか、儒教文化がピンスポットで根付いたのかどうかわかりませんけど、お寺さんが殆どないんです」

「ふむ……。そして泉質と照らし合わせ……か。凄いもんだな、それだけのコネクションや知識量がなければ、そんなのわからないよ」

「あの妨害して来た変な連中の御蔭で、却って狭められましたよ」

「冗談じゃない。君に万一のことがあったらどうするんだと、ヒヤヒヤし……」


 すっと、真冬は弓塚に近づいた。

 右手で弓塚の左手をギュっと握り、ぴたりと密着する。


「え?」


 そう厚みのない胸と、腰が、ぎゅうっと密着する。身長差のせいでヘソの辺りに真冬の胸がくっついている。小さな頭がもたれかかった。


「いや、あのね、真冬君っ」


 どうしたことかと、たじたじになる。


 きゅっと弓塚の手を握ったまま、小さな女の子は抱きしめてくる。


 両足の爪先がギュっと弓塚の足先を踏む。


「アイテテテテっ……ってッ、ニャっ? にゃニほをっ?」


 むぎゅうっと、真冬の左手が弓塚の鼻をつまんでいた。おかげで変な声が漏れる。


 クスクスっと笑い、肩を震るわせながら、頭二つぶんは背の低い真冬の笑顔が下から見上げた。


「六處之愛。鼻を触り、手を握り、胸と腰を合わせ、女が足を踏む。これが、歓喜仏の姿なんです」

「愛……ですか」


 からかわれたのだろうか。

 教えられたのだろうか。


「です。体の六ヶ所をぴったりと合わせて。慈しむ、慈愛と献身、優しみ、麗わしみ──おかしな邪神じゃ、ありません。さらったり墓から暴いたり、イケニエのように殺した娘のむくろで、慈愛の仏は成り立ちませんよ」

「文字通り、ホトケで仏を作った、ってわけか……」

「ホトケとはホドケ(解け)、とも云います。解脱者、釈尊の意もありますが、人は死ねば皆、ホトケ。魂が抜ければ容れ物はただの骸となり、腐り、朽ち、塵芥になる。即身成仏の解釈もまた、難しい所ですけどね」


 まるでちぐはぐなチークダンスのようにくっついていたのを、弓塚はあわてて離す。


「もしや勝手に作ったアヤシゲな宗教で、由来ある仏身に似せてバチあたりにご遺体をオモチャにした、頭のおかしい奴だって可能性も、考えられました。それを──」

「君は、確かめたかったんだ」

「ええ。あの人……綺麗で、穏やかな顔でしたから」


 カラリと奥から音が鳴った。


「はい、失礼しました。ようこそいらっしゃいました。あれ、お二人?」


 恰幅のいい男が、すまなそうに顔を出す。田舎にしてはやけにバタ臭い顔だ。時計を見るとお昼の十二時半近く。食事時だったのだろう。


「はい? ええ、そうですけど。ねえ、聖一ニイサン」


 急に下の名前で呼ばれて弓塚はキョトンとする。


「はいっ?」

「ええっと宿帳……聖一ニイサン、どうします? お泊りに? それとも夕刻には出ます?」

「あ、ああ。二、三時間もあればO市内には出られるだろうし……」

「ご兄妹で?」

「兄妹同然ですの」


 ニコリと微笑み、宿帳に「絹谷真冬」と名前を書く。

 ははぁ。

 苗字が違う男女で、休憩なり宿泊なりはちょっとまずい、とでも思ったのか。

 偽名を書くような不正はできない性格で、だから兄妹のような仲の関係を訴えてみたのだろう。勝手にイトコか何かとでも思ってくれれば、嘘を云ってるわけでもなし。

 意識してないようで、案外女の子らしい小賢しさもあるものだ、と弓塚も少し苦笑する。

 どう考えたって、恋人同士とかおかしな関係には見えるわけもないだろうに。

 そもそも、真冬は誰が見たって、まだまだ子供だ。

 弓塚も隣の欄に名前を記入していると、その間にも矢継ぎ早に真冬は男に話しかける。


「ええと、おなかペコペコなんです、お昼いただけないでしょうか?」

「スキーのお客さんもよぉけおってじゃけ、常に用意してありますよ」

「へえ、そんな風には見えなかったなァ」

「しかし、そんな軽装でよう来れましたなぁ。それも、あんなジープで……ああ、駐車場のほう案内しますわ。喜一、おーい喜一? あれ、おッかしいなァ。ほいじゃ、何かあったかいモンでも後用意しますけぇ」

「助かります。あの、どなたかいらっしゃる予定でしたか?」

「はい? ええ、ええ。いや、うちに湯治で寄宿しよっての学生さんがね、今日お客さんが来るから、云うとってねぇ」

「へえ、聖一ニイサンも気付いたんだ」


 真冬が、そっと後ろから小声で話しかける。

 まあさすがに、、と驚くのは少し変だ。


 しゃりっと、背後から雪を踏む音が聞こえた。

 振り向くと、紫の羽織りに、頭巾で顔を隠すようにした女性が、和傘を手にそこに立っていた。


「いらっしゃいましー。ええと……」


 蚊の鳴くようなか細い声で、女性が答える。


「……克太郎さんの……」

「ああ、克太郎さんのお客さんですね? 部屋は奥に突き当たって二階右端ですけぇ」


 コクリとうなずき、畳んだ傘をかかえるようにして、しゃなりしゃなりと女性は奥に進む。ちょっとその時代じみた姿は、異様にも思えた。


「作り声だね」


 ボソリと小さく、真冬が弓塚の耳元でささやいた。


 顔を隠し、声色を変え、何者なのだろうか。

 路傍の不審者なら職務質問もできるところだが、宿の客で管轄外の県。首はかしげてもそれ以上できることはない。


「そうだ、電話お借りします。代金はもちますので」

「ええ、どうぞ」


 スリッパを履き、既に真冬は板の間に立って、つい今しがた頭巾の女性が登って行った階段を、下から眺めている。

 肩に真白な雪を積もらせた若い男が、ぶるりと震えながら玄関から現れた。


「ああ、どこ行っとったんな喜一。お客さんの車、車庫の方に案内……いや、こっちで入れとってのほうがええかね」

「すんません旦那さん、いやお客さんの注文で炭を」

「はい、これジープの鍵で……あ、もしもし?」


 カウンターに車の鍵を置くと同時に、O県本部と繋がった。


『おお、弓塚巡査部長いいところで!』


 いきなりO県警の警部の大声が響いた。少し苦手な相手だ。


『昨日、弓塚巡査部長が捕縛した連中、ありゃあ国宝級の仏像なんかを、海外にうりさばきよった窃盗団の一味らしいんよ。指紋も合致して、ほんま大手柄よね。いやあ、本署一同、感服いたしましたわ』

「……はぁ!?」


 何だ、そりゃ? 本気で狐につままれたような気分だ。

 兎に角、真冬から話を訊かなければ──。


             後編につづく

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