第七話『きつね・たぬき』(前編)

「……ふむ」


 これは、どういうことなんだろう?

 モニターを前に考えこむ。


 何故、こんな所に「」のデータが?

 小四って書いてあるから、三年前に作成された物になる。

 小学生のデータは、あと二人。何のデータかはサッパリ不明だ。

 他の項目を見ると、見知らぬ女子の住所氏名が大量にある。

 ……何だろ、これ?

 ミシェールの在校生、卒業生の名簿だったら、まだ話はわかるけど。

 でも、これ全部、全然ばらばらに違う学校の子じゃん?


 一人だけミシェールの生徒名があった。


【弓塚香織:聖ミシェール女学園・中等部二年松組】


 これも、三年前の物だ。中二ってことは、香織さんが私と同じ歳の頃か。


 ランプがチカチカと点灯した。ヘッドホンを外す。


「カレンやーい、天気いーし、洗濯物干すの手伝ってくんない?」


 頭上の天窓をコンコン叩きながらの、寮母さんの声が聞こえた。


「何だい房子さん、もう昼になるのに」

「今朝はホラ、ばたばたしてたじゃないか。由香里も起きやしねぇし、人もいないし、ヤる気出ないよ。ミキの馬鹿は馬鹿で洗濯物増やしやがるしさぁ。ホラ、いつまでも穴ぐらん中こもってないで、出てきな」


 穴ぐらっていわれてもなぁ。

 普通に考えれば薄気味悪い所かも知れないけど、コンピュータを置くには最適な部屋だ。除湿器だってしっかり動いてるし。


「しっかし……このデータ、いつからあるんだろ?」


 そもそも、この機材はどこから来たんだ?

 まあ、アレコレ考えたって仕方ない。香織さんに聞けばわかることだ。





 第七話『きつね・たぬき』

 (初稿:2004.06.02)




 マシンルームの扉を開け、階段を昇って一階のリビングに出ると、テーブルの上にガラクタを広げたルームメイトの姿が見えた。


「なんだよ、カレン。休日の朝っぱらからパソコンいじり?」

「そーゆーミキは何ソレ。昼食までに片付けようよ」


 机の上には、プラくずやドライバーや関数電卓やモバイルツールがごろごろ。

 そのうち一個には、ミキが首にかけたヘッドセットに繋がっている。

 何かひらめいた時に音声ですぐ記録する為らしい。ものぐさなのかマメなのか、イマイチわかんない女だ。


「こちとら文化祭の出し物で頭痛めてんだよ、発明部の」

「いやまあ、そーゆーのはさ、せめて自分の部屋でやんない?」

「だから、私の机が今、使える状態じゃないんだってば」


 何だかなぁ。


 ミキこと三木みき絵梨華えりか(エリカって呼ばれるのを極度に嫌うせいで、みんな彼女に対しては苗字で呼ぶけど)は、丸顔に丸眼鏡の、丸っこくて愛嬌のある外観のわりに、性格の方はとび抜けて可愛くない奴で、髪型も少年のように短い。

 いや、私だって人のことはいえないけどさ。


「文化祭っていうと、ミキ、去年バカな物出して怒られてたじゃないか」

「バカとは失敬な。敬虔けいけんなるクリスチャンに向けての奇跡の商品でしょに」

「いや、奇跡安売りしてどうするの。そもそもアレ、奇跡じゃないし」


 思い出しても頭が痛い。

 昨年、ミキが発明部で出品しようとしたモノは、何ともバチあたりなことに「奇跡を呼ぶマリア様ストラップ」だった。

 頭のスイッチを押すと「血の涙を流す」ギミックつき。


「詰め替え用の血もあるよ」と誇らしげに胸を張ったミキの頭に、「どあほう」と罵倒&チョップを喰らわせた記憶がある。

 勿論、先生たちに差し止められたのはいうまでもない。


「今年は前回の反省を踏まえてさ。おなじ失敗は繰り返さないよ人間は進歩するってモンだよ。ホラこれ、スイッチを押すとだな、イエズス様が両手から血を……」

「ばかたれ」


 ペシっと小気味よい音を立てて再びチョップを喰らわせた。


「アイテテテ! いや痛いってソレ!」

「本気でアホか、君は」

「いや、だって詰め替え用の血まだ残っててさ。もったいないじゃん」


 頭痛い。

 そりゃ、変わり者同士という点では、ミキと私に共通する物も多いけどさ。

 それにしたって、その……。


「学校の、えび茶色のだっせぇジャージ平気で着るかなぁ。休日にさ」

「おいおいコラ、急に人様の格好に対してディスんなや! そーゆーカレンだってジャージじゃん」

「いや、一緒にするな」


 私が着てるのは、白くてえりの大き目の、スポーツブランドのジャージ。ストリートの男子が着歩いてるようなソレだ。


「同じ同じ。イイじゃん誰に見せるでもないしさ」


 ……ったく。ミシェールの生徒でありながら、何とも深窓の令嬢のイメージとは程遠いもんだ。ま、これも人のことはいえないけど。


「ミキちゃんは、も~! 机、片付けましょぉよー。お昼ごはんの準備、できない~」


 舌っ足らず気味に、こっちはどう見ても「お嬢様」っぽい雪重ゆきえが、眉間にシワを寄せて近づいて来た。


 いや、「お嬢様」じゃなく「お嬢ちゃん」か。


 外はねカール気味の髪にカチューシャ、ミキとは逆の方向で「その格好で外歩けないって!」と突っ込みたくなる、少女趣味満載のエプロンドレス。

 小動物っぽい可愛さに溢れてる子だから、これまた、こんな格好がシッカリ似合うので厄介だ。


「ユキエも固いコトいうなって。散らかってても食事は出来るしさ」

「ヤだぁー」


 時計を見ると十一時半ぐらい。台所からは、ミートローフの香りが漂っていた。


「あ、これ良いな。スレートPCじゃん。しかもwinじゃなくてLinux入れてんだ?」


 ひょいとテーブルに置いてある機械を一つつまむ。


「そんな死語使ってるヤツもういねェって。いや触るのは良いけど分解は勘弁な。ってカレンだってモバ持ってるじゃん」

「いつものマイクロノートは修理に出してるし。今持ち歩いてるのはこの二個だけだよ」


 腰のベルトから自分の極小タフネススマホとタブレットを二つ取り出して広げる。それぞれに役割も性能も違う。


「あ、カレンはその貰いもんのジャンク、ずーっと弄ってたんだ?」

「3コイチでやっとリカバリも済んだんだ。さて、ちゃ~んと動くかな?」


 カバーを折り返してBTキーボードにしながら、私とミキとで無理強いして寮内に設置して貰ったWi-Fiを拾う。今じゃ他の寮にも入ってるけど、以前は職員室に有線回線引いてるだけだったんだ、この学校。どんだけ時代遅れなんだよ。

 性能が、いやいやOSの仕様が、と一しきりミキと話していると、みるみる雪重の表情が変わって来た。


「な、何しゃべってるかわかんなぃ~」


 宇宙人同士の会話を目撃したかのように目を白黒させている。

 いつもなら私とミキが少数派の変り者でも、今じゃ立場が逆転だ。


「そこまで難しい話してないって。今日びタブなんて園児でも操作できるしさ。まあメーカー側の思惑に甘んじてるだけじゃ面白くないから、色々やっちゃうんだけど、雪重も買う?」

「素人に勧めるなら林檎のにしとけって。んで追々脱獄の手引とか教えりゃいいし」

「むしろキーボードついてるヤツの方が入門には良いと思うけどなぁ。このミニキーボード付きのWinフォンなんてどう?」

「撤退したヤツじゃねーか! 未来なんにもねえよ!」

「わ、わかんないよぉー、何はなしてんのかサッパリぃー。ヤだなぁ、ヤだなぁ、二人してぇ。変なジャージー」

「いや、ジャージは関係ないジャージは!」

「いや、私のジャージは変じゃない!」


 つっこみながら、母艦から転送済みのさっきのデータを表示させる。


【咲山巴:箱島小学校・四年2組】


 ふむ。


 メールチェックをした後、素早く地図サイトに繋げる。


「ちょっと待てカレン、それは私のジャージが変って話か? みんなも着てる物だろ?」

「うん。あーミキ、これちょい借りて良い?」


 B5サイズのタブレットPCを外部モニタがわりに接続し、ファイルを開く。地図サイトはこっちの方が見やすそうだ。えーと、箱島小学校の位置は……。


「いいけど、ん? 殺人鬼の件でも調べる気? わぁ探偵部って悪趣味だァ」


 殺人鬼?


「あの事件なら、探偵のお呼びじゃなくて、プロファイラーの出番だよ。それにさ、今更あんな事件ほじくり返しても何も出ないよ」

「日本におけるプロファイル研究はまだまだ未発達だよ。それに警察でのポジションも私の趣味に近いかな」

「そう? つーか、どっちの? 探偵? 科学捜査?」

「どっちとも。まあ、過去の事件をデータベース化して行動を計る、これは科学捜査の領域なんだな。警察は地方行政だから県ごとに内容は違うけど、科捜研の多くに今はプロファイルの部署がある」

「なるほどね、ようはカレンの土俵か」

「ただ、確かに探偵の仕事じゃないね。既知の犯罪を元に類推するだけだから、未知の犯罪には対応できない」


 だから、事例の少ない犯罪では、プロファイルには限界があるんだ。


「……って、えーと。何その、殺人鬼って」

「ん、カレン知らない? うッそォ? 日本人で知らない奴いないよ?」

「悪かったな外人で」


 地図に映し出されているのはH市内の中心地。繁華街にも近く、周囲は住宅街。


「いや、日本中どころか世界中でも話題になってたんだぞ?」

「その頃、私ゃアメリカだよ。しらない。何だっけ?」

「二~三〇人は殺した、超凶悪なヤツ。有名だぞ? 中年男性ばっか狙ってグッチャグチャのメッチャメチャに刻んで殺す、シャレにならない凶悪なの」

「ん……ああ、何かあったな、そんな事件。……え、あれってH市だっけ?」

「県内全域よ。ここの近くでも死体いっこ見つかってる」

「うひぇ」


 思い出した。

 シリアルキラー(連続殺人)の本場・アメリカと違い、日本では滅多にない事件だったろう。

 犯人は身元不明なまま、最後は射殺されたと聞いた。ゆえに、その事件の全容は「未解決」の闇の中だ。

 ただ、記憶がちょっとゴッチャになっている。あれ? 連続猟奇殺人? いや、大量殺人って聞いた記憶も……。


「うわーこわい話してるぅ! ヤだなぁ二人ともー」


 雪重は耳を塞いで今にも逃げ出しそうだ。


「いや、だからその殺人鬼と何の関係が?」

「その地図の小学校さ、そこ死体が一個発見されてんのよ。毎日のようにTVでやってた」


 こんな、四方八方マンションやコンビニの場所で?

 しかも小学校で?


「ヤだなぁ、そんなの発見した子供は一生心の傷になっちゃうよ?」


 ふむ。

 そんな大事件なら、すぐにネットで大量の資料が見つかるはずだ。焦って調べる必要もない。しかし、ちょっと、何かが引っかかった。

 巴の母校で?


「う~ん……」


 何か、嫌な考えに行き着きそうで、そこで電源を切る。いいタイミングで房子さんの声が響く。


「なーに唸ってるんだよ。唸りに出てきたの?」

「え? いや、洗濯物……はもう終わってるか、しまった」


 ここでミキが暇をもてあましてるくらいだから、房子さんが私を呼んだのは、べつに急ぎの用事でもなさそうだ。単にマシンルームから出したかった口実だろう。

 休日の朝から若い娘がこもってたんじゃ、まあ無理もないや。

 頭を切り替えよう。

 考えたって、わかる話じゃない。

 窓の外には、青空が広がっている。

 何事もなく、事件もなく、今日はのんびり休日を過ごそうか。


 この寮──カトレア館は、意図してかどうかは知らないけれど、今や変わり者や困った子ばかりの「隔離施設」状態だから、人数も少ない。

 他の寮棟はまだ寮っぽい建物なのに、ここは一見ふつうの民家(いや、ペンション?)風の、趣のある洋館に、中二の小娘ばかりが八人。

 それが、今日ここに居るのはたったの四人。やけに広く感じる。


「しっかし、半分実家に帰っちゃうのもいつものことだけどさ、三年生たちにしても、今頃沖縄だしさ」


 裏手にある三年生の寮は、まったく無音だ。


「連休に修学旅行かぶせちゃうのは、イヤガラセに近いよね、しかし」

「一応受験生だし、授業減らしたくないんだろね」


 受験といっても、ここの学校なら殆どはそのまま持ち上がりで高等部に行くのだけど。


「あ~沖縄かあ。いーなー。めんそーれー。サンダーライガーとかソーキそばとかだっけ。あとヤクザが銃打ち合ったりとか」

「たぶんそれ、サーターアンダーギーな。あとお前キタノ映画の観すぎ」

「あ~ヒマだぁー。私もどっか行きてぇ~」


 やれやれ。

 騒々しい部長がいなくても、騒々しいルームメイトがいる。

 まあ、騒がしいのはキライじゃない。変な女だがミキには感謝してる。

 彼女がいなかったら、結構私も肩身の狭い思いをしていたかも知れないし。

 孤立しがちな私でも、探偵舎やこの寮ぐらいに個性の爆発した子の中でなら、逆に落ち着ける。


「なんだよカレン、そこで油売ってたのかい。洗濯干すの全部おわっちゃったよ」


 カラになった洗濯カゴを持って寮母さんが戻って来た。

 いけね、と舌を出す。


「悪ィ。あ、じゃあ昼の支度手伝うわ」

「手伝うのは当然。あぁ、由香里もまだ二階に居んのかい? そろそろお昼だし、誰か呼んどいで。今朝あの子、朝食抜いてたしさ」

「あ、じゃあアタシが……」


 立ち上がりかけた雪重をささっとミキが制した。


「あ、良い良い、私呼んでくっから」

「え? でも……」

「良いって良いって。台所手伝ってきな。ついでにそこのバケツも持ってって」

「待て、ミキ。そりゃ自分でやる仕事だろ」


 寮母さんの言葉も無視して、そのままタタタっとミキは階段を昇って行く。


「あ、待ってぇ。由香里ちゃん今朝、ちょうし悪いってゆってたし」


 トトトっと雪重も後を追う。


「そういや、今朝、由香里を起こしに行ったときダルそうだったねえ」


 ふむ、と寮母さんは腕を組む。


「ん、そうなの?」

「多佳子と紀美子を送ってった後に朝食に呼んだら、布団あたまからかぶっててね。『今朝はいいですぅー。ちょっと寝かせてぇー』ってさ。ハハっ。ま、休日だからほっといたけど。平日なら叩き起こしてるけどね」

「はは。まーたまた。由香里をひっぱたくなんて出来ないでしょ」


 あの子は、雪重に輪をかけて甘えん坊で泣き虫で弱々しい子なんだから。


「そりゃ、カレンとミキみたいな腕白坊主なら遠慮容赦なくひっぱたくけど」


 いや一応女の子だし。これでも。


「うっわァァああああッ!」


 アホほどの大声が響いた。ミキの声だ。


「あー騒がしい。何考えてんだ、あのバカ」


 ギシギシ、ダダダっと階段を踏み鳴らして、ミキが駆け寄ってきた。


「人体消失……っ! 消えたっ! 消滅だっ! うわっスゲー!」

「はいはいはい。黙れ」

「何だよ、騒々しいナァ、この子ったら」


 寮母さんも、作業の手は止めないままでも呆れ顔だ。


「居ないんだよ、居ない! 由香里が!」

「あ、そ」

「あ、そじゃないって!」

「天気良いし、散歩でも行ったんだろ。調子良くなったなら良いこったよ」


 そういって、心配する様子もなく、寮母さんは台所に引っ込む。


「だね。じゃ、皿でも並べ……」

「いや、ちょい、カレン! 来なって!」


 ミキにぐいぐい肩を引っ張られ、階段の下まで連れて行かれた。


「だから、何だよ。ワケわかんない奴だなぁ君は」

「人体消滅だよ! あり得ない!」

「だから、べつに珍しくないよ? いちいち断らないでフラっと寮を出るなんて、しょっちゅうでしょに」


 その上、この辺は畑と山しかない健全な田舎だし。


「いやっ! そーじゃなくてッ! 見れ!」


 騒ぐミキをひょいっと押しのけて、部屋の様子を見る。うん、確かにもぬけのカラだ。

 窓もきっちり鍵はかかってる。ベッドは、さっきまで寝ていたかのように毛布が少し乱れている。他にこれといって妙な所は見当たらない。


「ドアの鍵は開いてた。鍵っつっても、ここのは便所の鍵みたいなもんだけどさ!」


 室内に居て、プライベートがほしい時にかけるカンヌキみたいなもので、外出する時なんかは寮母さんに外から施錠してもらう形式だ。貴重品用の金庫こそあるけど、個人の部屋鍵は寮生は持っていない。

 まあ、盗られて困るモノがあるでなし、勝手知ったる仲同士の寮生活。着替え中とか寝る時くらいしか、そのカンヌキ状の鍵もかけないけどさ。


「じゃ、気付かない間に出かけたんでしょ。すぐ戻って来るって」

「ありえなーい!」


 ミキは叫びながら食らいついて来る。


「あのさっ! 私ゃ、ずーっと居たんだよリビングにっ! 今朝に多佳子と紀美子が実家に帰ってからだから、朝の6時前だよ。それからずーっと!」


 多佳子と紀美子はバレー部員で、本当は昨日の夕方には帰る筈が、練習が長引いて遅くなり、最終便に乗り損ねたといって戻ってきた(里帰りにたびたび飛行機ってのもどうなんだ、しかし)。

 今朝は始発に間に合うようにと早くに寮を出て、その時は朝食の支度中で、彼女らの早起きに付き合わされるような形で、リビングにはミキと私と雪重が揃っていた。


「ふむ……」


 リビングには、二階への「」の階段がある。あれからリビングの真ん中にずーっと陣取ってたんじゃ、確かに見逃しようもない、か。


「ミキがトイレ行ってた隙とかは?」

「そんなの音や気配でわかるじゃん。だいたい、小さい方に一回行っただけだし三〇秒とかかっちゃいない」

「はええな! じゃあその三〇秒を狙いすまして、足音を殺して素早くタタタっと……」

「なんでそんなコソコソ出て行かなきゃいけない?」


 確かに。

 雪重は不安そうな瞳で、おどおどとミキと私を交互に見ながら、眉を八の字にしている。


「ど、どォしよぉ~」

「どうするもこうするも……」

「カレン、計って」


 ミキは、ポイっとウォッチを投げる。


「こっから、そぉっと……抜き足、差し足……音たてないよぉーにっ」


 そろり、そろり。ミキは階段に向けて変な歩き方をはじめた。


「おいおい何の冗談だよ」

「階段、こっから難関だ。ギシギシいうからなァ。そぉーっと、そぉーっと。体重を壁に……」


 壁に手をついて、忍者のようにそろり、そろりと階段を下りる。少しだけ板がミシミシ鳴った。


「何だかなぁ。あ、雪重、あと頼むね」


 私もミキについて歩く。


「この音聞こえるかなぁ。ギリギリだなぁ」


 そういえばトイレは階段の真下だ。

 そろり、そろりと降りて、つま先立ちに玄関に進んだ。


「そーれ、タタタっ……駄目だ」

「ん?」

「今、何秒?」


 ウォッチに目を落とす。


「二十二秒……まあ、ギリ……いや余裕かな?」

「無理だ」

「なんで?」


 ミキは、真新しい玄関の敷物を指差した。

 洋館でも住むのは日本人だから、土足で生活の場に上がるのは抵抗があるのだろう。土間と靴箱が入り口にはあり、来客用と個人用のスリッパがかけられている。そしてクリーム色の足拭きマット……ん?


「今朝、多佳子と紀美子を送った時と違うな。赤茶色のマットだったよね?」

「あの時にさ、多佳子におみやげ渡したらイラナイってつっかえしやがってさ」

「何?」

「だからほら、コレの試作品」


 ひょいっとバチ当たりなイエズス様人形を差し出した。


「要らんわボケ」

「いや、その時にさ。気付かなかったんだけど詰め替え用の血のボトルが落ちちゃってたんだよ。マットに」

「……え?」

「九時半頃かな? 婆さんが外に出ようとして気付いたんだ。マットの色でわかんなかったようだけど、完全にインクが染みてて。ほら、足跡うっすら残ってるだろ」


 フローリングの床にマット、段差が一段、そして土間。段差の所にひとつだけ、擦れた赤いモヤのような染みがある。


「雑巾がけをやらされた」

「いや、そりゃ当然だ」


 指でそっと触る。匂いからして、インクは遅乾型の透性アクリル系か。簡単には乾かないタイプだ。


「この玄関から階段は丸見えだから、雑巾がけで目を離した隙に、ってのはナシだぞ。水だってそこの水道だし。バケツとゾーキンはまだあそこだ」


 テーブルの、さっきまでミキの座ってた足元を指差す。


「片付けろよ!」

「やるよ! あとで! あのさあ、由香里はいつ外に出たんだ? 私ゃその後はトイレにも行ってないよ? ずーっとテーブルの前だし」

「ん~……」


 難しい所だ。


「コレって、外に出られる『状況』と思う?」

「……いや、別にコレとは関係なく出られるんじゃないの? 出る寸前にインクに気付いたとか、またいで行ったとか」

「こんなの直に踏まなきゃ気付かない。そして踏んだら確実に気付くよ。そして、そんな状況なら私だったら靴下を脱ぐね」


 ふむ。確実に気付くかどうかは断定できないとしても、つまり「そんな時間はない」って話になるか。


「ついでに、私がここで拭いたのは婆さんが踏んだ足跡だけで、他のは無い。まあ証拠を知らずに隠滅しちゃった私の証言しかないのもアレだけど……」

「なるほど。出るだけなら出来ると思うけど……『時間』って条件つきだと一気に無理臭くなるね」


 踏んで気付かずに……なら足跡はつく。踏んで気付いたなら、その処理に時間がかかる。


「そそそ。靴下とか脱いでたらもっと時間もかかるし、しかも、足跡をつけないよう、バランスとりながらになるね」

「インクついたままの足で脱がずに靴はいてGO! もアリかもだけど、それだったら房子さんの足跡以外無かったってのが、無理な話になるか。マットを踏む前に気付けた……は、赤茶色のマットに染みた赤インクをどう事前に気付けたか? って話だしな。 マットをピョンとまたいで踏まなかった、って可能性だってゼロじゃないけど……」

「だから、可能かも知れないけどどんどん無理めいて来るんだ、想定が」


 確かに、偶然が積み重ならなきゃいけなくなる上に、異常な行動を強いなければならなくなる。


「スリッパ……は最初から履いてないか。ぬき足さし足で急ぐなら尚更か」

「ここにないからたぶん部屋かな。で、そんなダッシュで逃げ出さなきゃいけない状況ってどんな理由? 泣き虫で甘えん坊の由香里にさ」


 ……まあ、あの子ならインク踏んだぐらいでも泣き出すか。


「ついでにあのコアラなみの動作の由香里がそんなキビキビ動けるとは思えないね」

「玄関じゃなくて勝手口なら? 階段下りて玄関まで行くのと、台所に行くのとで時間に大差ないよ」

「だから、台所には婆さん居たんだから、どうやって勝手口から出るんだよ」

「房子さんだって、ずっと台所に居たわけじゃないでしょ?」

「少なくとも私がトイレいってる間は台所にいた」

「う~ん……」


 難しい。


「つまり、少なくとも玄関から朝六時以降に由香里は出ていない筈だよ」

「六時には房子さんが部屋にいるのを確認したんでしょ?」

「家に帰る二人を見送った後だね。で、そこなんだよなぁ。二階の窓には全部内側から鍵かかってるし……どこかにトリックがある筈なんだこれは」

「トリックねぇ……」


 発明部なのに、大した探偵っぷりだ。

 ミキは再びギシギシっと階段を鳴らせて二階に駆け上がる。


 同じ建築家による物なのだろうか。このカトレア館は、妙にあちこち探偵舎に似ている。アール・ヌーヴォー調の、蔦模様の窓。二階廊下の窓は、ねじ回し式の鍵が全て内側から締めてある。


「仮に大脱出のトリックがあったとして、庭に降りればカレンなら気付くっしょ?」

「場合による。ヘッドホンで音楽聴いてる時もあるし」

「……まー由香里に二階から縄ばしごやロープで下りるなんて無理か。むしろ、違うトリックだなぁ」

「どんな?」

「朝に由香里がいたのは婆さんが証明してる。午前中に抜け出てないことは私が証明してる。同時に、カレンがずっと地下室で、雪重も一階と台所の手伝いをちょろちょろやってて一度も二階に上がってないのは私が証明できる」

「房子さんが嘘をつくメリットはないね」

「で、私も婆さんも嘘をいってないとするなら、どっちかが、あるいは両方が、騙されていることになる。そこがトリックだ」

「ほう」


 バカなことばっかりやってる子だが、こんな時の頭の回転には見習いたい物もある。

 しかし、


「……百歩譲ってそうだとして、だったら本人が何か抜け出したくて仕掛けただけの話になるんじゃないの?」


 雪重が一瞬、ぎくりとしたような顔で私を見た。


「ともかく、これは事件じゃないよ。悪いけどミキが一人で騒いでるだけじゃない?」

「捜査する気はないってコト?」

「推理する気もね。まあ、そっちは私の専門じゃないし、どっちみちこの件に関しては、私は探偵役になれそーにないし、なる気もないよ」

「私だって『発明部』部員、カレンとこみたく『探偵部』じゃないしなぁ。あ、そうだ、餅は餅屋。カレンが降りるなら、じゃあ他に頼めば良いんだ」


 他って。


「大福姉妹でも呼ぶ気? そりゃ、あの子らの家、こっから近いから自宅に居るなら一〇分くらいで来られるけど……」


 そういえばあの姉妹、いつも二人とも同じ服装だったのに、最近突然カチューシャとか、ちょっとした小物で色違いの物を身に着けるようになったな。

 どういった心境の変化だろ? 確か、巴と事件調査に出て以来だ。


「あの子らに頼んでも解決してくれるとは思えないって。迷い犬探しとかじゃなし。でも、適任は居る。知ってるぞ、カレンとこに入った、一年の新入生……咲山巴か。あの子に頼もう」

「え? ちょ、ちょい待ち」

「何? 都合悪いコトでもあんの?」


 ……今はちょっと巴に何かを訊きたくはない。

 只でさえ、あの子のことが頭に引っかかっているのだから。


「あれだけ嬉しそうに凄い子が入部したぞ~って自慢してたのに何さ。こんな時こそ名探偵の出番でしょうよ。私とカレンで頭つき合わせてらちがあかないんだよ?」

「いや、そーだけどさぁ」


 困ったな。

 今、巴と何かを話すのは気が進まない。

 さっき変なデータを見て、あんな話を聞かされた後じゃ、意識するなっていう方が無理だろう。

 うっかり、何か余計なことに首を突っ込みそうだし、それは場合によっては巴にとって「嫌な話」になるかも知れない。


 ──殺人鬼──


 いや、まさかね。



         (後編につづく)

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