第六話『救う手、裁く拳』 (後編)
★前編のあらすじ★
瀬戸内を一望する、海と山とにはさまれた僻所に建つ、私立のカトリック系女学校「聖ミシェール女学園」。
そこの名物(?)「探偵舎」と呼ばれる学生探偵の部活、高等部部長・香織は、同部員で友人である知弥子と共に、昨晩に起きた投身自殺に関して、考えめぐらせる。事前予告と思われる、奇妙な暗号、合致しない謎。
【†サイゴのコトバ†】
タナトス ヒュプノス 誘う空よ
天を衝く十字の墓標に舞う 彼女の体
時はちょうどに駆けるボアー その高み
雨露に濡れるリリス 大樹のエイプの
その元に 見つけて私の 永久の眠り
そんな時、中等部の新入生・咲山巴は二人にこう告げた。
「アレって、考えすぎかも知れませんけど……ひょっとすると……ひょっとすると、ですけど、『殺人』なのかも」
*
「殺人? なぜだ?」
ぐっと、一歩、知弥子は前に進み出た。
蛇のように鋭い目で、射抜くように睨みつける。表情が無表情なだけに、余計に威圧的だ。
「え? ええっと……」
あきらかに、巴は怯えている。
「……自殺にしては奇妙な点が幾つか。そこが、気になったので調べてたんです」
こんな表情で、こんなしゃべり方の知弥子の前で、それでもちゃんと受け答えができる。
――気丈な子だ。勇気もある。巴が、ただ弱々しいだけの子ではないことを、香織もすでに理解していた。とはいえ……。
「奇妙?」
「幾つか。例えば……ある程度決心しての自殺なら、自室のベランダとか、もしくは吹き抜けの中庭に飛び降りますよね。一番、目にする高所なんですから。何故、ビル内の非常階段からなんです?」
何かの謎に引き寄せられるように、この子は既に、昨晩の事件のことを独自に調べていたようだ。……やはり、変わった子だ。
「ん……それは、理由としては弱いな。突発性の自殺なら、むしろ非常階段や屋上なんかの方が多いはず」
統計上、知弥子の意見はたぶん正しい。
「ええ。一目で『ここから落ちたら死ねるな』って、わかるからですね。ベランダとか通路とかでは、柵や手すりで足元がさえぎられているから、高所でも恐怖をあまり感じないように設計されているのが普通です。鉄材の、いわゆる外付けの非常階段の場合は、足元まで見えますから、心因的に畏怖を与える作用も確かにありますが、同時に、死への憧れも喚起させます……」
「ふむ。お前のいってるソレは、ようは行動心理学か」
「……ええっと。確かに、そう分類される物かもしれませんけど」
巴は、プロファイルの観点から考えているのだろうか。
統計データによる「帰納型プロファイル」は、科学警察でも導入されている一般的な物だ。
しかし、行動心理学や専門知識に依る経験則の「演繹型プロファイル」は、とてもじゃないが中一の女の子ができるような物ではない。
「ですから、今回のケースは妙なんです。そこを『高所と感じさせない場所』で何故、投身なんだろうか? って……。あのビル内の非常階段にも明かり取りの小窓はありますが、目の高さより上です。殆どコンクリートの密閉空間で、ただ階段と鉄の扉だけが延々続く『穴ぐら』で、普通はあんな場所から『飛び降りよう』だなんて死に方は、選びませんよ」
「ん」
知弥子は少し考え込んでいる。
恐らくは、「自殺」にまつわる不穏当な知識に関して、彼女がこの中の誰よりも詳しい筈だ。
「……うむ。確かに一般的じゃない、かも知れない。だからといって、変わった投身自殺のケースがあっても不思議では……」
「前後不覚になっての『事故』なら、そうですね。ただ、突発的に、衝動的に、飛び降りる可能性は、ほぼナシなロケーションなんです」
「ふむ。いわれてみればそうだ。『これから死ぬ』という計画性を持って飛び込むなら十分アリだが、そこが高所と認識できない場所なら、ダストシュートに飛び込むようなものだな」
うぅん……と香織も考え込む。確かに。何が何でも自殺をしようと決意して、計画的に死を遂げるなら、まだ他に幾らでも簡易な手はある。
「酩酊するなり、前後不覚になるなりして、脱出扉の外に出る所まで行ったなら、そこから先は衝動的な自殺でもおかしくはないんです。ただ、『そこに至るまでの行動』が、私には腑に落ちないんです。遺書でもあれば、まだ話は別なんですけど」
「む」
少し知弥子は考え込む。
巴は、ケータイサイトのあのメッセージのことは、知らないはずだ。
「そこで仮に、殺人だと仮定して考えた場合、非常階段からの飛び降りで得られる『利点』って、何だと思いますか?」
不意に巴の口から発せられた「利点」という言葉に、香織は知弥子と目を見合わせた。
そんな考え方には、及びもつかなかった。
「……他の場所とそことの『差』が、犯人にとって『利』に働く点、か。少なくとも室内で縊死や服毒死ではダメな点――そうだな、まず発見がいつになるかわからないし、それが自殺でないのなら、『誰かが居た』証左となる。科学捜査で調べればイチコロだな」
「ええ。そしてこのケースの場合、死んだ事を外部の人が確認できる点にもあります。タワーマンションの内側、中庭の吹き抜けじゃ、そうはいきません」
「……え?」
「同じことは部屋のベランダから飛び降りたケースでもいえます。しかし、その場合だと、圧倒的に違う点が一つ」
香織も少し考える。
「あ、そうか。部屋には、カメラつきインターホンのセキュリティを操作して招き入れるか、カードキーと暗証番号でしか入れないわね」
あのレベルの最新の高層マンションなら、それくらいのセキュリティは当たり前だ。
「だから部屋の場合、『中に入れる人間が限られている』んです。非常階段なら、建物の入り口さえクリアできれば、それはありません。つまり、これが殺人で、犯人がいたとすると、外部の──」
「中に入れない人間が外におびき出したか、もしくは中に入れる人間が『中にいちゃまずい』って想定になるな。利点……逃走経路か」
え?
ぎょっとして、香織は知弥子を観る。
瞬時の頭の回転で、知弥子と巴は自分とは違う『何か』にまで突き進んでいるような感覚を、香織は感じた。
逃走経路──外で騒ぎが起きれば、確かに野次馬も来る。住人も確認の為にエレベーターで降りたり、場合によっては非常階段で降りる人も、低階層の住人なら居るかも知れない。
階段を移動して、そしらぬ顔でエレベーターに何人かの住民と乗り合わせてそのまま逃げることも、時間をずらせて外に出ることも、ベランダや吹き抜けで事件を起こすよりやり易い──。
そこまでは香織にも理解できた。
「そこなんですけど、前者は考え難いですよ。セキュリティは万全ですから、外部からの脅しで、そんな『裸に近い格好で外に逃げ出す』意味がないです。普通、家の中が一番安全ですから」
裸に近い服装で、この晩秋に──そう。これも、よく考えてみたら、おかしい。……逃げ出す?
「後者の想定だと、例えば殺人なら、逆に『部屋に出入りできる人間の仕業』に犯人が想定され……ん、同居人はいたのか?」
入居するのに何千万円もかかる新築のマンションに、若い女の一人暮らしも、確かに考え難い。
「あんな高い所に住んでるなら、自室から飛ぶ方がはるかに自然ですよ。十五階以上は安全の為にはめ殺しの二重窓で、開けられない構造になっていても、計画性のある自殺なら、それこそ強化複層ガラスをトンカチで叩き割ってでも飛び降りは可能です。その方がずーっと自然です。だから、自然にはできない理由があったと考える方が、ここは素直かな、って」
「ちょ、ちょっと待って。どうして二人とも、殺人の想定で話ができるの?」
「想定は仮定であって、それは現時点の材料からは、確定できません。断片的に……不自然が積み重なって、ひっかかるっていうか……」
どうやら巴も、何かが引っかかっているらしい。
最初の、「そんな所から飛び降りるだろうか?」という疑問。それそのものは些細なもので、そのまま看過もできただろう。ただ、他の要素の積み重ねが、巴に「何かおかしい」と感じさせた――そこまでは、香織にも理解できる。
「例えば、不自然といえば、ケータイもです」
「確かに。何故、あんな物を持って……」
「亡くなったかたの衣類に、ポケットはなかったようです。ほぼ下着みたいで……。脱出窓は両手を使わないと開けられないから、ストラップを手首か首に通して、ブラ下げていたことになりますよね」
「口にくわえるって手もあるぞ」
「あ、それは気付かなかった」
香織には思いつきもしなかった。
「開ける時だけ地面に置いて、また拾い上げたのかもしれませんけど、手首か首にさげていたなら、周囲にバラバラに四散はしなかったと思います」
「む。手首には何も巻きついてなかったな」
「……死体、見たんですか」
「うむ」
みるみる巴は怯えた表情になった。気丈なようでも、中一の女の子では仕方がない。
「そうか。ストラップでブラ下げるかしてたなら、もっと死体に密着するなり、擦過傷なり、破片も体にめり込んでいてもおかしくはないか。手から離れてあさっての方向に落下したと思っていたが」
「いえ、そこはどこに落下するかはわかりませんし。手元から離れていても決して不自然ではないでしょう」
「なら、どこが不自然なんだ?」
「えーっと……先ず、この状況だと『自発的に』扉を開けて、彼女が非常窓の外に出て行った方がしっくり来ますよね? 誰かに非常窓に押し込められて、突き落とされるような状況じゃなくて」
「揉み合ったら、つき落とす方も危ないな」
「それに、不意に脱出窓の扉を開けたら非常警報が管理室には伝わる筈です。五分としないうちに、誰か来ますよ」
「む。それで、何故『ひょっとすると殺人』になる? 逆じゃないのか?」
確かに。
「それだと自殺って考える方が、やっぱり自然なんじゃないかしら? 自発的に……なんでしょ?」
おかしい、あやしいといえばおかしい所だらけだけど、自殺と考える方がこの事件は素直に落ち着く。警察も、そしておそらくその発表を受けての報道も、自殺として扱っているのもそのせいだろう。
「だから、同居人なり、合鍵を持っている誰かの存在が確認できれば、まだわかりやすいんですけど……鍵も持たずに、下着同然で若い女性が外に出る状況……」
「酔ってたんだろう。鍵がなくても、そんなの下着姿で管理室に行って、開けろといえば問題ない」
「いや、無理です」
「無理よ」
「何故だ?」
困ったことに、知弥子には常識もない。
「……えーと、とにかく、家の鍵も持たずに裸同然で、ケータイだけ持って出るのは、変ですよね。だから、あのケータイが本人の物かどうかを確認したかったんですけど……」
「本人の物で間違いない。S社の最新モデルで、三ヶ月前に買い換えた話を自慢してた」
「う~ん……」
巴は何かを考え込んでいる。
「本人の物かどうかが、重要なの?」
「鍵や服よりケータイが重要な局面が、思いつかないんです。それに、危機があれば警察にもケータイで連絡できますよね。それか、誰かに助けを求めるとかも……」
「危機?」
瞬時、巴の言葉にハっとする。
確かに――。
「自殺の為の行動というより、まるで『何かに怯えて、逃げ込んだ』感じじゃないですか。少なくとも『エレベーターからは逃げられない』想定、です」
裸足で、半裸で、ケータイ一つ持って、非常階段に。しかも、脱出扉の向こう側に……これでは、「隠れる・逃げ込む」と考えた方が、しっくりくる。
「あの建物のセキュリティは、訪問者をカメラとマイクで確認する形式だったわね」
「もしそれで、顔なり声なりを知っている誰かが、危害を加えるために近づいていたなら……? いや、それなら記録も残る」
「部屋の中で殺されるとかしてたら、きっと調べられるわよね。でも、このケースだと違うんじゃないかしら」
「そこは、まだ断定もできません。電話とかメールで『今から行く』と連絡があっただけかもしれません。いずれにせよ、それは時間的にもかなり切羽つまった状態で、かつ『逃げなきゃいけない相手』だった、と……」
つまり、『居留守を使っても無駄な相手』ね……。
「取る物も取らず逃げなきゃいけない状況で、非常階段を降りた──でも、見つかりそうだから、脱出窓の扉をあけて、狭いテラスにでも隠れた、ってことになるのかしら? ……幾ら何でも危険すぎるし、向こう見ずな行動だわね」
それに――「助けを求める」? それでは、まるで……。香織には、何かが頭に引っかかっていた。
「非常階段に逃げ潜んで、そこで足音が聞こえたら、脱出窓の向こう側にでも逃げ込む可能性はあります。なにしろ『高所』を感じさせませんから、扉を開けることじたいに恐怖感はないでしょう。ここで重要なのは、その『迫って来る何者か』は、鍵で部屋に入れる相手と想定しないと成り立たない点なんです」
香織はため息をついた。
あのニュースだけを見て、この子は、そこまで考えられるのか。
「同居人……そっち方面を調べるの、忘れてたわね、確かに……」
つけ放しの電気、出したままのシャワー……。
慌てて逃げ出した、とも考えられるけど、『まだこの部屋には誰かいますよ』と、数分、数秒でも時間をかせぐための工作かもしれない。確かにそんな真似をするなら、今の巴の話に出た可能性は、考えられなくもない。
「しかし、それだけでは殺人だとは断定できない」
知弥子はそれでも、冷静にそう口にする。確かに。
怪しむにはまだ、弱すぎる。
「そうですね。背後に暴力団がいたとしても、ちょっとまだ、断定はできないと思います。ゴメンなさい、いささか早急でした……」
「ちょ、ちょっと待ってよ、巴ちゃん! なんで、あなたそんなことまで?」
「あ、載ってました、スポーツ紙に。これ一紙だけですけど……」
ガサガサと巴は、派手な色の新聞を広げた。香織にとっては顔をしかめたくなるようなタイプの新聞だ。
西日本版のこの地方向けページに、小さく、投身自殺者に薬物使用の痕跡か? と、載っている。
「スッパ抜かれたか。このリークには何か裏もありそうだが……警察の組織犯罪取締部と麻取なりとで、連携が取れてないのもあるか……。少なくとも初動から、生活安全課ではなく、マル暴の検案で動いてるのは確かだろう」
「芸能人ならともかく、一般人の自殺にまでこんな報道をするのはどうかと思うわ……」
「それか、リークではなく独自取材の可能性もあるか。野次馬は何人もいたし、私だけが気付いていたと限らない」
「私は気付きませんでしたけど……」
ぼそっとつぶやいた巴に、知弥子も食いつく。
「ん、お前もいたのか?」
「近所だったので……夕飯の後、サイレンが気になって。私が行った時はもう死体はなかったし、そもそも怖くて現場、まともに見られなかったんですけど」
「見られないのに、何で行ったんだ」
「何だっていわれても……その……」
「野次馬か」
「……はい」
「いやな性格だな」
「……ゴメンなさい」
「はいはい、下級生をいじめないの!」
巴の上から覆いかぶさるように睨みつける知弥子を、香織は引き剥がす。
「しかし近所だったのは良かったな、こっちはバス代三百八十え……」
「だから、バス代なんてどうでもいいでしょう?」
「あの、黒峯先輩、バイクは……?」
巴の言葉でハっと思い出した。確かに、ヘルメットも今日は持っていない。
今朝はバスで早くに登校し、自分を待っていたのだろうか、と香織は気がついた。
一緒のバスには居なかったのだから、最低でも一便以上前からだ。
「ああ、先日ちょっと、その。爆破炎上した」
…………。
巴と香織は、それ以上なにも追及できなかった。
「……確かに、警察だって正式発表はしてなくても、リークくらいはしていてもおかしくないわね。常識的な新聞なら、まだ鑑定のつかない間は書かないわ。遺族や死者への配慮ぐらいあるもの」
「ソースとして信用に足るかどうか、少し怪しいとは思ってましたが、先輩が確認したのなら事実なんでしょうね……。いずれにせよ、薬物使用が確かなら、背後に暴力団がいるのは間違いないですよね」
「ヤクザの絡まない麻薬の話があるなら逆に聞いてみたいものだ」
「じゃあ、組織的犯行……?」
「に、してはお粗末だ」
「……そうね、知弥子さん。巴ちゃんに、あなたの知っている話を全部してあげて。きっとヒントになるわ」
「うむ」
知弥子は、よどみなく事務的に、箇条書きでも読み上げるように、昨日の一件に関しての暗号(?)の詩文、その解釈、目撃情報を語った。
【†サイゴのコトバ†】
タナトス ヒュプノス 誘う空よ
天を衝く十字の墓標に舞う 彼女の体
時はちょうどに駆けるボアー その高み
雨露に濡れるリリス 大樹のエイプの
その元に 見つけて私の 永久の眠り
巴は真剣なまなざしでそれに耳を傾け、考え込み、そして、何かを悟った表情で、ゆっくり口を開いた。
「ああ……、わかりました。犯人」
「早ッ!」
「あ、いえ、あの! 犯人とは限りませんけど、ともかくその……捜査線上にその人の……いえ、アナグラムで考えられる可能性は他に幾つかありますけど、『名前』が……その暗号に含まれてると思います。すごく単純な考え方ですけど。でも、暗号そのものの『単純さ』から考えれば、そこまで難しい謎でもないはずです。もし、該当する方が捜査線上で浮かんだなら、任意同行で調べて貰う必要もありますね。主犯か実行犯かはわかりませんけど」
「え?」
さすがに、目を丸くした。
何故、名前までわかるの?
「待て。ちょっと待て。……何故だ!? わかるのか?」
語気をやや荒げて、知弥子が巴に食らいつく。
「あっ、あくまで可能性です。まだ確証はないですけど……」
「確証はなくても、お前の判断力で『読み取れる』何かがある、ということだろう」
「……はい」
「だが、私にはそれは読み取れていない。一体……一体、私は、何を間違えていた? 何を読み損ねていたんだ?」
がしっと、知弥子が巴の頭に片手を乗せて、ワシ掴みにした。
「あの……」
ちょっと、知弥子……!
香織は慌ててその手を引き剥がそうと手をのばす。しかし、巴は怯むこともなく、まっすぐ知弥子を見つめていた。
「黒峯先輩、気を悪くしないで下さい。先輩の解釈は、凄いと思います。私も、これは……こんな事件でも起きない限り、こんな暗号、わかりません。解けません」
「気休めも同情もいい。お前の判断力と思考力は十分、評価に値する。その上で、お前に見えていた物が私に見えていないわけだ。何だ? なにを間違えていた!?」
掴んだ頭を左右に軽く揺らす。
「あわわわわ」
毅然とした巴も、さすがに目を回しだす。これは止めなければ、と香織も手を出そうとした瞬間、巴は言葉を続けた。
「……これは、おそらく――『自殺予告』じゃ、ありません。『助けを求めていた』んです」
「……!? ……しまった!」
知弥子は片手でケータイを取り出し、再び液晶画面を眺めた。
「そうだ、間違いない。これは……自殺予告じゃない。何かを告発する暗号だ」
「ちょ、ちょっと待って。どういうコト?」
「見ろ、香織」
ぐいっと液晶画面を前に突き出す。
「そうだ、クソっ。香織のいった通りだ。番号が同じ解釈で読み取れるなら、時間だって同じだ」
「……あの、黒峯先輩」
「知弥子でいい。私を苗字で呼ぶ奴は教師とか警官とか敵だけだ」
「けい……!?」
巴は目をまん丸にして驚いている。知弥子に耐性のない人間では、そりゃあ驚くだろう。
香織にとっては、それはもう「ヤレヤレ」とうんざりする話だったが。
「あの……時間は関係ないです。それはもう、知弥子先輩が間に合ったかどうかとか関係なしですし」
「時間に気付いていたら解釈だって変わっていた。しまった……!」
「え? ……あ、そうか。十二進法にゼロはないわね」
「それだ」
香織は指を折る。甲乙丙丁だから末尾四の……。
「癸に巳、甲に申なら亥にも何か付く。『ちょうど』……『丁度』に亥だ」
「丁亥……干支で二順目の最後……二十四時か」
「あの女がもう働きに出てる筈の時間だ」
「二十四時に、その部屋で薬物の受け渡し、って解釈で良いんじゃないかと思います……ええっと、『彼女』にかかる薬物ってありますか?」
「ヘレン。……ヘロインか。死と昏睡にぴったりな薬だ。ヒロインとひっかけてるのかも知れない、いや、それはちょっとバカか」
「ちゃんと考えた暗号じゃありませんよ。咄嗟に、特定の誰かに対してわかるようなレベルでの暗号なら」
頭をがっしり掴まれたまま、巴は毅然と言葉を続ける。
「えと。暗号の想定って、限られているんです。一般的な物ならデジタルの、機械で解読する物が主ですよね。暗証番号とかメールなんかが身近ですけど……」
「アナログでの、難解な
「いわゆる、古来からの
「誰にでも解ける物は暗号にならないわけか」
「そうとも限りません。でも、宛先が不特定の暗号を送り出すケースは、限られてるんです。相手の連絡先がわからないとか……誰だかわからないとか……そういった場合、難しい謎は要らないんです。ごく簡単な
「誰だかわからない相手に謎かけなんて──あ」
そこで知弥子は何かに気付いたような顔を、一瞬みせた。
気のせいか、少し悔しそうだ。
常に無表情で、感情を浮かべない知弥子にしては、それはとても珍しいことだった。
「人形が旗を振って踊ってるような凝った暗号なんて、すぐに作れないし、解けないです。誰かに解いて貰う前提なら、きっとかなり単純な筈です。数字や隠喩だって『そのまんま』じゃないですか。だから、タイトルから考えれば犯人……とは限らないけど、彼女にとっての、きっと『告発』すべき相手の名前も、すごく単純に割り出せるものじゃないかなぁ、と……」
「……そうだな。気付くべきだった。暗号は解読する『誰か』なしに成り立たない。誰でもないどこかの誰かに、四方八方に向けての遺書なら、暗号になんてするか」
「不特定の誰かに、判って欲しかった、って可能性もあるわ」
「だったら匿名の掲示板に、名詞を外して普通に書き込む。こんな回りくどい真似をするか。誰か──誰に、だ?」
「あの……もし、暗号解読可能な相手が『いる』なら、その解読のカギに対しての共通項を持った相手、ですよね?」
「普通はそうだ」
「しかも、連絡先も知らない間柄の相手、となります」
「…………」
ジっと、知弥子は黙って液晶を睨む。
名前も顔もわからない、掲示板の向こう側にいる『誰か』。常連である自分のことを知っている『誰か』。本当の自分なんてカケラも知らないはずの、それでも自分の思いのたけを臆面なく吐き出していた『リアルの自分ではない本音の自分』を良く知る、どこかの誰かに。
そんな相手に、彼女は救いを求めていたのだろうか。
「具体的に誰ってわけでもなしに、それでも何人かは助けてくれそうな、気づいてくれそうな常連の『心当たり』を想定していたと、そう考えるべきでしょうね。掲示板コミュニティでの『隠語』は、それそのものがある種の暗号みたいなものですけど。もう一つ、暗号に『せざるを得なかった』のは、暗号にしないと『まずい』から、の可能性も考えられます。つまり、」
「……この掲示板を犯人、またはそれに近いヤツに見られている可能性も考えられた、ってことか」
「クローズドな掲示板じゃないんだから、誰だって閲覧はできますしね。犯人に『余計なことを書いている』と勘づかれた、あるいは、被害妄想でもそう思い当たるフシがあった、とか」
その考え方でなら、彼女がこのメッセージを、無理にでも「暗号」にした意味は、理解できる。
とはいえ、万が一にでも解読される可能性があるのなら、そんな公の場所で、何故?
それが香織には少し理解できない。
「ようは、『ここ』しか思い当たれる、頼ることのできる『誰か』のアテがなかった、って話でしょうね。犯人には気づかれないよう留意しての暗号、だとするなら、それが犯人に簡単に解読できては、ちょっとおかしな話になります。なら、犯人にはこの掲示板の閲覧者で『解読できる』共犯がいる可能性も高いです」
救いを求めていた相手が、告発した相手の共犯者だった──と?
「ねえ、知弥子さん。あなたがその暗号を解読できたのは、『たまたま』の偶然なの?」
「……詩集だ。どこにでも売っている。ヒュプノスとタナトスの符号に託し死ぬ遺言。ただ、それをそれと認識できる相手がメッセージの『対象』で、犯人に対してはそれは除外される関係性ってことか。確かに、物好きにあんなものを読むのは自傷とナルシズムに満ちた頭おかしい系の女だけだな。だから犯人──そいつが男とするなら、この暗号化で『解読はされない』と、踏んでいたのだろう」
しかし、それは解読されてしまった。
「この死んだ女に限らず、目立つ常連は何人かいた。罵り合ったり馴れ合ったりは茶飯事で、その常連の中の誰かに宛てていたのだろう。そして被害者、犯人、メッセージの受け取り主で最低三人はこの暗号を既に理解出来ていたとする。受け取り主が犯人と共犯なら──」
「知弥子さんが来るよりずっと早く、犯行が決行されてても不自然じゃなかった、って話です。いや、むしろ……」
「その書き込みのせいで、殺された、と考えるのもアリだわね」
時間的には。
「相手の名前を出したんじゃな」
「それはまあ、まだ可能性の話ですけども。いずれにせよ犯人に、それがまだ読まれているとは思ってなかったんですよ。だから……死ぬ直前まで、そのことを『誰か』に知らせたかった。きっと、同じ書き込みを他の掲示板にもマルチポストしていたんじゃないでしょうかね、直前まで。彼女自身、逮捕されたくなくて警察にも密告できなかった。電話で頼れる相手もいなかった、とか――」
「つまり……」
目を閉じ、知弥子は天を仰ぐ。
右手はまだ、巴の頭をわし掴みにしたままだった。
「真のダイイング・メッセージは……彼女がケータイを握って死んでいた、その事実か」
暫く無言で空を見上げていた知弥子は、やがてゆっくり、口を開いた。
「この女には、殺されて然るべき理由があったのかも知れないな。とんでもない悪党だったとか、性悪だったとか。実際、リアルでのあの女が、どんなヤツだったのかまでは、わからない」
……何をいい出すんだ、この人は? と、そんな目で香織は知弥子を見る。
いや、知弥子の性格なら既に判っていた。
「……死んで良い人間も、殺されて良い人間もいないわ」
「香織はおかしなことをいう。死んで良いようなヤツも、殺されて当然なヤツも、この世にはワンサカいる。ただ……この女に関しては、私は理由を知らない。理由があるのかないのかも知らない。だから、事実は一つ、私は『彼女が殺されるのを傍観してた』こと。それだけだ。メッセージに気付けなかった。それは、私の落ち度だ」
「あなたが悩むことじゃないわ、それは……」
「悩んではいない。他人が死のうが生きようが、どうだって良い」
平然と、そして無表情に、知弥子はそういってのける。
──そう、この子はこんな性格なんだ……。
「何につけ、女を殺そうとしてたヤツがいた。女は危険が迫っていることを知っていた。救いを求めていた。私はそれを、部分だけわかっていながら、全てを理解出来ないでいた。そして女は死んだ。これは、私のヘマだ」
ああ、そうか──彼女が責任を感じているとすると、「そこ」か。
「自殺願望者の掲示板なら、そう解釈してもおかしくないですよ。特定の相手だけにわかるキーワードの暗号を解けなかったことは、それは責められる話じゃないはずです」
「本当に死にたいやつがこんな所に書き込むか。手首を切るヤツだって死ぬつもりで切っちゃいない」
「……えーと……」
「そんなのは、理由は有ったり無かったりするが、生きるのが辛いとかめんどうだとか、そんな奴が愚痴をはく場所だ。本当に死ぬ奴なんて滅多にいない。滅多にいないから、時々ほんとに死ぬ空気読めないバカのせいで話題になる」
それを確かめに──本当かどうかを確認のためにバスに乗った知弥子は、果たしてどんなつもりでそこを見ていたのだろうか。
「あの、殺人だったとして……殺すつもりだったとも限らないです。止めるか捕まえて拘束するか、そのつもりだったのかも知れません。逃げ込んだ場所がそんな所だったから……」
「揉み合って、落下……か」
「そういった状況を想定した場合、逃げ惑う彼女を追い詰めて、犯人が最初に何をしたかを考えるなら、きっと『ケータイを取り上げる』ことでしょうね」
一一〇番されては元も子もない。また、誰にどんな助けを求めるかもわからない。
揉み合いになり、奪い合いになり、落下。犯人は──ケータイの送りメールの情報や履歴を確認したら、きっとそのまま投げ捨てただろう。
「でも、みすみす死なせたのも、犯人を逃がしたのも、事実だ。これはムカつく。だから、落とし前は着けさせて貰う」
「あなたの出る幕でもないわ。あなたのせいで死んだわけでもないもの。大丈夫、私からちゃんと手配してもらうように……」
「……救いを求めていたんだ。だが、伸ばした手を、気付けていたとしても、救えたか。無理だ。私にそんな真似が出来るか。私の手は──人を救うに値しない。そんな力はない。私にあるのは……」
「バカなことはいわないで。結果論で判断しても仕方ないじゃない。あとは警察に任せましょう。不審な点だって、きっと現場からは見つかる筈だし、そうなれば捜査線上にこの人の名前も浮かぶ筈だわ。理由は何であれ、それが事実なら罪は償って貰わないといけないし。殺人の理由は……逮捕されればきっと明らかになるでしょ?」
「手ぬるいな」
「あっ、あのぅ、えっと……まだ殺人と決まっては」
目を白黒させながら、小さな一年生は交互に、香織と知弥子の顔を見上げて首を左右に振っていた。
「香織は正攻法でやればいい。私は私なりにやる。叩きつぶす」
「……そうは、させないわ」
「香織は勝手にやれ。私も勝手にやる」
掴んだ手を左右に振りながら、知弥子はじっと、巴を睨んだ。
巴の頭が、がくんがくんと左右にゆれていた。
「……お前、凄いな。こんなちっちゃいアタマに何が詰まってるんだ?」
「あ、あのぅ……」
「およしなさい」
払いのけようと伸ばした香織の手をサっと知弥子は避けた。
「なるほど。私もこいつに興味出てきた。しかし香織は、いい目をしてるな。よくこんなの見つけてこれた」
そういって、また、知弥子はすたすたと独りで進んで行く。
「……巴さん、大丈夫?」
「はい……あの、今の……」
「ああ、気にしないで。あの子なりにきっと……あなたの頭を撫でてるつもりだったのかもね」
「撫でる?」
「乱暴でしょ」
はい、と返事もできないせいか、巴は困った顔をして、それが香織にはおかしかった。
――昔、知弥子に似た友人が死んだ。
投身自殺だった。
変わり者で、皮肉屋で、何を考えているのかもよくわからない、詩や文学が好きな少女だった。
それでも、香織にとっては大切な、実の姉のように慕っていた、一つ年上の女の子。今でも、何故彼女が死んだのか、どんな理由で、何を思って死んだのかも、まるで理由は掴めていない。
香織が探偵舎に入ったのは、その友人の死の原因を知りたかったからだ。
知弥子から目を離せないでいたのも、その為だった。
でも、
「……強そうな人ですね。色々……」
「ええ、強い子よ」
だから、大丈夫。知弥子は。
ただ、あの子が暴走するのだけは止めないと……。
To Be Continued
★
EXTRA EPISODE 06
これは一体、どーゆーコトなんだろ?
「う~む……」
広げた新聞の前で、私は考え込んでいた。
「おはよう、巴ちゃん。どうしたの?」
「ああ、ノドチンおはよ。う~ん……」
クラスメートののどかさんが、ペシリと私にチョップするそぶりをみせて、隣に座った。
「新聞こんな所で広げて、腕組みして唸ってるだなんて、何だかどこかのおじさんみたい」
いや、鉄道好きな子にそんなコトいわれても。
とりあえず、バタバタと新聞を畳んでカバンに収める。
どうも気になる。おかし過ぎる。
一昨日に暴行事件で逮捕された男が、あらいざらい犯行を自白したという、奇妙なニュース。
彼こそが、先週に自殺に見せかけてホステスを墜落死させた犯人らしい。
名前は依田実。
アナグラム──文字の入れ替えと考えるなら、場所関係の可能性も考えられたから、ストレートに『名前』が正解だったのはちょっとホっとした。
タイトルの通り、あの「詩」の末尾の語を上から並べただけの、単純な物だ。
最初っから、そんなに難しい暗号ではなかったのだろう。
あそこの常連の誰か──個人なのか、複数なのか、その誰かに通じれば。
警察相手でもなく、そんな話をして、誰にどう助けてもらうつもりだったのか、今となっては私にはわからない。知弥子さんぐらいにしか、その掲示板のことはわからないのだから。
それにしても、逮捕の経緯がおかし過ぎる。
酒場で半狂乱になって、同行の女性に暴行を加えて取り押さえられたらしい。
その後、取調べの最中に犯行を自白。
同行の女性ってのが、ちょっと気がかりだ。
男は元暴力団関係者で、無職と表記されている。実際には何かの運び屋でもやっていたのだろうか。
奇妙なのは、彼に関係した暴力団事務所や自宅に、前日からボヤが出ていたこと。
同行の女性も、未成年の家出娘らしい。スポーツ紙の報道では、ネットの掲示板で知り合ったとか何とかあって、そのまま補導されているようだけど。その女性にそれ以上言及した記事はさすがにない。
そして一番奇妙なのが、「女の幽霊にさいなまされて自白」という、どうにもこうにもヘンな供述のせいで、面白がって一躍あちこちのニューストピックで紹介されてしまったということ。
ありえない。
この悪質な犯行は、悪くても終身刑から減刑されて二〇年前後、良くても十年前後の懲役はつくだろうけど、自白とか色々あるから、模範囚を通せばもっと早く出られるかもしれない。
でも、この奇妙な逮捕劇の為にきっと、今後何年、何十年となく、雑誌記事やネット、バラエティー番組のネタにされたり、怪事件として紹介もされ続けると思う。
そもそも、暴力団事務所からくすねた薬物を勝手に売りさばいていたという経緯から、そこの組に大規模な警察の手入れも行われ、いずれにしてもこの犯人は早く出られたとしても、色々とまずい状況かも知れない。
刑務所の中が今は一番安全なのかも。
そこに、ヤクザの追手でも来ない限りは。
「う~ん……」
「巴ちゃん、さっきからヘンだよ。一体どーしたの?」
「ヘンっていうならこの世にはもっとヘンなことあるよ。あ~。わっかんないなァ」
「わからないって、怪事件でも起きたの?」
私が「探偵」というワケのわからない部活に関わっていることは、のどかさんには承知のことだけど。
「正しくは、『怪解決』ってカンジだなぁ」
「ん? よくわかんない。事件を解決するのって探偵の役目よね?」
「そっか……ああ、いや、まさか。う~ん……」
弓塚先輩が事前に根回ししていたのなら、依田って人が逮捕された時点で、それとなく自白を誘導するよう、余罪を追及していたとしておかしくない。
状況からすると渡りに船、彼にとっては逮捕こそ救いの手だ。でも……。
おかしくないけど、そういった経緯とは明らかに違うじゃないですか、コレって!
「正攻法じゃない『解決』……まさか、ね」
「まさか、って何が?」
「いや、なんでもー。さ、教室行こっか」
私の頭の中に、ケーブルテレビでやっていた「必殺仕事人」とか、何か「法で裁けぬ悪を討つ」系のドラマのBGMが、混ぜ合わさったように流れていた。
いや、まさか。
女子高生にそんなコトできるわけがないって。
あはは。
はは……。
むぅ。
To Be Continued
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます