第六話『救う手、裁く拳』(前編)
早朝の、澄んだ空気の中を、黒いセーラー服の一団が歩んで行く。
高等部二年・
枯葉をサクリと踏む音、朝もやに溶けた、緑の匂い。この季節の、いつもの通りの朝。
馴染みの顔の「おはよう」の声。
高等部の校舎までは、結構な距離がある。おかげさまで、箸より重いものを持ったことがないようにも見えるここの生徒たちも、実際には皆、健脚ぞろい。
幾人かと朝の挨拶を交わし、庭園風の敷地を眺めながら、いつものように木立ちの角を曲がる。
急に、視界に影がさした。
見慣れた、真っ黒な制服が立ちふさがる。
しかし、目の前の娘から放たれる「黒さ」は、何かが異質だった。
「や」
たった一言の挨拶。
ミシェールで、こんな口のききかたをする子は彼女くらいだ。
声には、感情が全く感じられない。
腰まで伸びたストレートの黒髪。まっすぐ切りそろえた前髪。
薄笑いを浮かべたような、それでいて無表情で、切れ長の一重の瞳、肌は蝋のように白い。
どよんとした、闇のオーラにでも包まれているような、独特の圧迫感。
「……おはよう、知弥子さん。いい加減、ちゃんとした挨拶を覚えた方が、あなたの為にもなるわよ?」
ため息まじりで、香織も挨拶を返す。
いくら人形のように整った顔の美少女でも、知弥子のように挨拶もまともに出来ないようでは、それも台無しだと思う。
人形といっても、どちらかというと「髪の毛が伸びる呪いの市松人形」のような印象も受けるけれど。
第六話『救う手、裁く拳』
(初稿:2004.04.25)
「相変わらず香織は虚礼が好きだ」
感情の感じられない声で、知弥子は口を開く。
「礼節と虚礼は違うわ」
知弥子はそのまま無表情に、きびすを返してすたすた歩いて行く。
「それで、一体私に何の話かしら?」
小走りに後を追う。知弥子が、あそこで自分を待ちぶせていたのは間違いない。
返事はない。
小さくため息をついて、香織も横に並び、無言で進む。
正直、知弥子が何を考えているのかは、香織にも、いまだに良くわからない。
知弥子は明らかに異質な少女で、ミシェールでも最大の問題児とされている。
やたら体言止めで喋るおかしな言葉遣いだけでなく、素行から態度から何から何まで、彼女に良い評判はない。知弥子自身に、他人と打ち解けようとする意思が全くないのだから、尚更に。
知弥子には、理解者がいない。
自分が、果たして知弥子の理解者になれるのか? そう思った場合、香織にも自信がない。保護者ぶる気にもなれない。
それでも、知弥子から目を離す気にはなれない。
「回りくどいわ、知弥子さん。話したいことがあるなら、普通に呼び止めて普通にお話しなさい」
「昨日──人が死んだ」
「えっ?」
ぎょっとして、一瞬目をみはる。「また?」とは、口に出来なかった。
何度目だ?
「新聞は」
「今朝の? ざーっと目は通したけど……何か事件でも?」
「自殺。H市内」
「ああ、あのニュースね。確か投身自殺……」
昨晩──午後七時三〇分頃、N区H町Aコーポ在住・北島範子さん(二十六)飲食業の自殺記事。午後六時半頃に職場には「少し遅れる」との電話を入れ、それを最後に、地上三〇階から身を投げた(らしい)、と記事には綴られていた。
思い出すと、少し憂鬱になる。
自殺の話は、とくに飛び降り自殺となると、香織にとって「嫌な思い出」と直結する。
同時に、香織がそういった記事には「必ず目を通している」のも、この一年と半ほどの付き合いから、知弥子には十分知られているのだろう。
ひとまず、少しだけ安堵する。彼女の周辺でまた誰かが死んだ、という話ではなく、訃報に食いついただけのようだから。趣味の良い話とはいえないけれど……。
「うむ。付け加えると、その三〇階がそいつの住居、3021号室。行ったら、もう死んでた」
──行ったら?
「……ちょっと待って、自殺のニュースを聞いて、駆けつけたって話じゃないのね?」
もう死んでいた、ということは、報道される前に向かったという話ではないか。
さすがに、首をかしげる。
「本当に自殺かどうかの、確認。バス代百九十円、往復で三百八十円を払った。わざわざ」
「バス代の話なんてどうでも良いでしょ!? 話が飲めないわ、一体、何が……」
「自殺予告。それを目にしたからだ。いや、予告かどうか、わからない。暗号。だから『確認』に行った」
「止めに行ったわけじゃないの?」
「死にたい奴が死ぬのはそいつの勝手だ。そいつの人生だ」
「死んで良い人間なんていないわ」
香織の言葉に、知弥子は口の端で少し笑っただけだった。
いや、笑ったのかどうかは、表情が変わらないのだから、わからない。
「だから、見極め。死ぬしかないような状況も、死んだ方が救われることもある。苦しんで苦しんでどこにも出口がなくて、誰も助けてくれない、そんな相手に『生きていれば良いこともあります』なんて、つまらんウソをいえるか」
「万分の一でも可能性があるのなら、私だったらそういうわ。死んだら何もかもおしまいでしょ? 死は決して、救いなんかじゃないわ」
「現代医学では助からなくて、絶望的な苦痛にさいなまされ、金のかかる延命措置しか手がない状態で『スイッチを切ってくれ』と頼む相手を前に、それでも『生きていれば良いこともあります』なんて、香織はいえるのか」
「それは極論よ」
一事が万事、知弥子が口を開けばこれだ。
香織とは、こんな口論(?)ばかりが続く。
「だからだ。死ぬしかないようなら、しょうがない。でも、中には『そんなので死なないで良いだろ。バカか』って相手もある。それを見極めて、見届けるつもりが」
「……行ったら、死んでいた?」
「残念だ」
「……残念ね」
「確認できなくて」
「残念って、そっちなの?」
「死なないで良いようなことで死にかけていたなら『バーカ』とでも、いってやるつもりだった。だいたい、生きたくても生きられなかったヤツもいる。ナメてるのか、と」
「……そうね」
おかしな口ぶりだが、知弥子は──助けるつもりだったのだろうか?
「しかし、行ったらもう、人だかりだ。読み間違ったのかどうか、そこだけが気がかりだ」
「読み間違ったって、何を……ん、暗号? 何なのかしら、その自殺予告って……」
ひょいと知弥子は、ケータイを胸元から取り出す。
「自殺願望のある奴の集うポエムサイトに」
「なんでアナタ、そんな所を見てるのよ!」
「おもしろいから」
ピっと操作して、何かの画像を映した。
「この書き込み。削除される前に保存しておいた」
「……自殺予告なの?」
「一見、そうは見えない。でも、そう読み解ける。私のわかる符号があったから、ピンと来た。これだと、夜の九時から十一時迄に死ぬと出てる」
書き込み時刻は夕方の六時五〇分。
全く意味不明の『詩』だ。どう見ても自殺予告には見えない。
【†サイゴのコトバ†】
タナトス ヒュプノス 誘う空よ
天を衝く十字の墓標に舞う 彼女の体
時はちょうどに駆けるボアー その高み
雨露に濡れるリリス 大樹のエイプの
その元に 見つけて私の 永久の眠り
「……これがどうして、自殺予告って?」
「ヒュプノスとタナトス、典例の符号。昏睡の眠りと死。だから睡眠薬……今はミン剤っていうか、睡眠導入剤。抗ヒスタミン剤の類、ソレだと思った。投身とは、気が付かなかった」
う~ん、と香織は首をかしげる。それを自殺と結びつけるには、さすがに理由付けが弱い。そもそも意味もまったくわからない。何かの『言い換え』系だろうか。
「タナトスなら、今なら村上龍とか出そうだけど。若い女性よね?」
「誰だそれ」
「……。んー、場所までは、わかったのね?」
知弥子の示したアドレスを香織も確認する。地域コミュニティのサイトだから、H市近辺なのは予想もつけ易い。別のコーナーの掲示板では「出会い系」めいたやり取りも多くあり、その殆どがH市内の若者のようだ。
「部屋番号も」
少し、ひっかかる。
「何故、暗号って思ったの? こういっちゃ何だけど、私にはいくら何でも、これだけでは自殺予告の暗号だなんて、思えないわ」
「うむ。占い師……占星術、というヤツか。本業はホステスだが、趣味で占い気取りの真似ごとを、こいつは掲示板でやっていて、以前にも謎かけめいたことは、何度かしていた」
ふむ。
天を衝く十字の墓標──これは、香織にもピンと来た。
この春にH市中心部に建てられた、高さ百六十メートル超の高層マンション。中空の中庭が吹き抜けになっている、何度かTVでも紹介された物だ。断面自体が十字型で、中層部の張り出し部も、下層には窓が無いデザインのせいか、夜間の遠目からは、角度によっては十字型にも見える。
でも、それだけで結びつけるのは難しい。
確かに、この事件が発生したのはその建物だけど、事件の記事を見た後ならともかく、事前にこの詩からその建物だと判断するには、さすがに香織にも無理な話だ。
「そこは、生活圏や、それまでに漏らした奴の無駄なプライバシー露呈の差もあるな。地理的にも、あのでかい竹輪みたいなビルだろう、と事前に当たりはついていた。いや、」
「ちくわ、って……」
「訂正。ちくわぶ」
同じだ。
いや同じじゃないけど、同じようなものだ。
少し考え込む。謎めかした詩篇に、どうとでも解釈できる語を盛り込むのは、「占い師」の得意技だ。ちょっとメンタルに特殊な気質の入った女性となると尚更で、言い換え、
知弥子が場所を特定できたのも、事前の情報収集に依る所も大きい。
ただ、時間や部屋番号まで合致したとなると、偶然とも思えない。
九時から十一時……何だろう?
「八十八星座に関係あることかしら?」
「ここに書かれた単語に、相当する星座はない」
「あ、そうか。じゃあ……え~と」
「それだ」
「えっ?」
「占星術は黄道星座に限らない。九星、六曜……」
「ああ、
「これだけの説明でわかるか、さすが香織だ」
「この語群からなら、確かにそれ以外に考えようがないわ。でも……それは知弥子のヒントが大きいわ。それに、これだけを見て自殺予告なんて、普通は思いつかないわよね」
いわれてみれば、というか、いわれない限り気が付かないにせよ、出て来る単語からその考え方に結びつくのも、確かに不思議ではない。『ボアー』なんて不自然な動物は、そうそう出てこないだろう。
「時間はそれで良いとして、部屋番号は……」
指を折る。
占星術なら、時間を表す十二の動物と、空間を表す十干と組み合わせて数字を示す、六〇支干がポピュラーだ。「壬申の乱」や「戊辰戦争」など、日本史でも欠かせない。
甲乙丙丁戊己庚辛壬癸……。
「きのえ、きのと、ひのえ、ひのと……」
「こうおつへいていぼきこうしんじんき、と覚えないか?」
「和読みの方が意味を覚えやすいわよ。基本的に木火土金水の『五行』に兄(え)と弟(と)で十パターンだから。『雨露に濡れる』……は水の弟|(みずのと)、つまり癸(き)ね。『リリス』は蛇。癸巳(みずのとみ)だから三〇か。『大樹』は木の兄(きのえ)で甲、甲申(こうしん)で、二十一。ええっと、投身した人は3021号室の住民だったわね?」
十干に十の倍数を足し、十二支にも十二の倍数を足して行けば、数字は簡単に出せる。
「そうだ。しかしよくそんなのがすらすら出てくるな。女子高生で」
いや、あなたにいわれても。と突っ込みたいのをこらえた。そもそもその十干十二支に真っ先に気づいたのはあなたでしょう……。
「私はお婆ちゃんっ子だったのよ」
もともと十二支と十干を合わせて「
「しかし、死亡時刻は7時半。私が到着したのもそれくらい」
「亥の刻(九~十一時)の前に戌の刻(七~九時)に……ってこと? 一時|(いっとき)は二時間単位だから、ズレがあってもおかしくはないけど……」
「にしても、早すぎる。むしろ酉(五~七時)の方に近い」
「時間の数え方だって色々あるわ。九つ八つ七つのように逆順もあるし、日の出を『明け六つ』、日没を『暮れ六つ』とするのが江戸庶民の数え方だけど、季節によって時刻も狂うでしょ? 今はもう晩秋だし……」
「現代なら時計はどこにでもある。特殊な数え方がある可能性も、捨てきれないが……」
「占星術には陰陽遁とか色々あるようだけど、そんなのじゃあ、私にはわからないわ」
「私もだ。そこまで専門過ぎる物ならお手上げ。まさに、本人と、その解読のキーを持つ誰かにしか解けない『暗号』になる」
「偶然……は、ないわね。符号しすぎている。実際、人が死んでいるからには、あなたの読み解き方も、そう間違ってはいないと思う。でも……おかしな話よね。何故、自殺予告を、暗号なんかで?」
「しるか」
知弥子も、何かを考え込んでいる様子が少し見える。感情変化は、注意して見ていなければわからない程、微かな物だった。
「何故、予告とズレていたか。そこが気になる。私の読み解き方が間違っていたのかも知れない。だから、香織にも訊いている」
「暗号解読は、私じゃ専門外だわ。そうだ、中等部のカレンちゃんなら……」
「あいつは苦手だ。ガキのくせにデカい」
他人の好き嫌いも多い。困ったものだ、と香織はまた苦笑する。
だいたい、その「デカい」カレンは香織よりもほんの少し、背が低いのだけど。
「うぅ~ん……何かが原因で、早めたとか?」
「前後不覚だったようだから、その可能性も捨てがたい。死体をちょっと調べた。ヒジの裏っかわに、注射の痕が幾つかあった」
「あ、あなた、ちょっと、その……」
いや、今更ソレをいっても無駄か。
今にはじまった話ではない。
何十メートルもの上空から投身自殺した遺体がどんな状態になっているのか。想像もしたくない。まして、その
思えなくても、知弥子はそれが「できる」子だ。過去、何度もそうだったように。
「……覚醒剤の常習者、と考えて良いの?」
「覚醒剤よりダウナー系、ヘロインの可能性が高い」
そんな麻薬の種類の話をされても。
「……遺体の状況は……どうだったの?」
あまり聞きたくはないが、それを知るのが手がかりにもなりそうだ。
「コンクリートに、穴が開いていた」
「えっ?」
「地上三〇階から、ドーン。プチ隕石だ。頭なんて原型も残ってない。胴体もぐちゃぐちゃ。そこから手足がニュっと……」
「や、やめてよ! 私が聞きたいのはそんなのじゃなくて!」
「服装とか?」
「そう」
「赤かった」
「……そりゃ」
想像したくない。
「ネグリジェかシミーズか、そんな薄着、足も裸足。足の裏は汚れていた。あとは、手にケータイを握っていたらしい」
「ケータイ?」
「二つ折りの普通の。百メートル近い高さからだから、コナゴナだ。周囲に散らばって原型も留めてない」
「とすると、遺書がわり……いや、違うなァ。メモリーに何か遺言とか、逆に『見られては困る物』が入ってて、持って飛び降りた……は、さすがにないかな。う~ん」
残すなら部屋に、消したいなら単に消去でいい。そもそも、何か不審なところがあれば、そもそも自殺(……と確定されたわけではないにせよ)との見方で記事にはなっていなかったろう。
「手に握って飛び降りる意味が、わからない。となると直前の通話か。一般人の私に、もはやそれ以上を知りようもない」
「私だって、教えて貰えるとは思えないわよ」
それに、事件性が認められない限り、警察だってそう簡単に、検察を通して電話会社に記録を要求できないはずだ。
「……薬物使用は、確かなの?」
「不明。常習の痕跡は視認できた。ただ、直前に打ったのかどうかは、血の滲んだ新しい傷を確認できなかった。わからない」
「判らない?」
「なにしろ、既に全身が真っ赤だ。いちいち血を全部ふき取って確認できる状況じゃない。どちらにせよ答は、行政解剖か司法解剖で出している頃」
「一応いっておくけど、そうそう何かを教えて貰えはしないわよ」
香織の祖父は、以前、警察署長を勤めていた。
祖父の部下だった幾人かも、現役でほうぼうの地方署長や特種な役職に就いている者も多い。祖父は人望にあつかったらしく、今でも家族ぐるみの付き合いで顔なじみの警察、検察関係者は多い。
「つまり知弥子は、そういったインサイダー情報が、私から欲しいわけかしら?」
「そうでもないが。いや、それもあるが。色々、どうも、ひっかかる」
この事件で頭にひっかかっているのは、どうやらお互い様のようだ。
「……ダイイング・メッセージの可能性……さすがに、ソレはなさそうね」
死者の伝言。
暗号化で一番ありえるパターンが、犯人に対してそれを隠す手段。
それなら、不特定多数の、どこかの誰かに対して発信する意味もある。その場の犯人の目さえ誤魔化せれば良いのだから。
――いや、それもちょっとおかしい。つじつまが合わない。
「自殺にダイイングメッセージを残す意味はなし」
「自殺ならね。でも、他殺の可能性は……んー、なさそうだわ」
新造の、高層高級マンションならセキュリティも万全のはずだ。
「飛び降りたのは、自室から?」
「いや、非常階段。ただし、あんなデカい建物に、普通の鉄材の外付け階段はない」
通常、ビル内の非常階段なら、窓一つないような、暗くジメついたセメントの穴ぐら状態だ。
現場のビルでも、蛍光灯で煌々と照らされていてもやはり密閉空間で、所定階毎に避難具と脱出窓が設置してあるのをTVで見た記憶がある。
脱出窓は、住民ならイザという時、誰にでも操作できるはずだ。
はしご車の届くのは精々十階までで、地上五〇メートル以上はNYのテロ以降の定番として、パラシュートが設置されている。
知弥子の説明によれば、そこから投身したらしい。
……もっとも、パラシュートを開くにしては中途半端な高さではあるけども。
「防災は完璧。バルコニーも手すりから先に簡単に乗り越えられない構造。あの高さでは、窓から植木一個落としても大惨事になる。ただ、避難の為の脱出窓がこう使われるとは皮肉な話だ」
「他に遺留品は? ケータイ以外に……」
「何もなし。飛び降りたとみられる階段にも。スリッパも履いていなかった。部屋はオートロックで閉まっていたが、話によると電気もつけっぱ、シャワーの湯も出しっぱだったらしい」
やっぱり、知弥子の姿勢は少しひっかかる。
「……ねえ、あなたは本当はもっと、投身した人のことを『知っている』んじゃないの?」
「何故? 確かに、現場の破片からケータイの機種まで徹底的に調べたが」
「……あなた、よくそこまでやるわね」
「粘ってたから。住民も大騒ぎで、管理詰め所で騒いでたのを、ずっと聞いてた。警察は発生から十分後に。死体が持って行かれたのは三〇分後、結構かかったな。拾い集めるのも大変そうだった」
「あなたもヒマねえ……」
「他にこれといった娯楽もない」
娯楽。
どこをどう間違ったら、これが「娯楽」になるのか……。
「でも、『調べただけ』じゃわからないようなこともあるわ、『知って』いないと。まず、何故その書き込みがその女性の物だって断定できたの?
「ふむ」
「それが
「なるほど」
「それに、どう考えてもあの詩を見て自殺予告とは、私にはやっぱり、思えないわ」
知弥子は表情も変えずに無言でいる。
暫く黙った後、口を開いた。
「あの女のことを『知っていた』かって? 知らん。知らないが、知っている」
「え?」
「書き込みは主に昼間。夕方七時過ぎに出勤、早朝近くに帰宅して酔っ払った口調でメチャメチャな書き込みをするパターンだ。登録IDの板だから成りすましでもない。あの女は、わりと長くあの掲示板に居座っている」
「つまり、投身した女性とあの詩を書いた人の一致は、以前の書き込みの情報から?」
「だいたいH市内中心部、水商売、女性、性格は『境界例』に近い。自分勝手で強引で寂しがり。オカルト好き。仕事付き合い以外で打ち解けられる相手は殆どいない感じだ。二〇代の中盤から後半。使用機種も独自のデザインのS社のケータイだから、破片でも判った。それと、詩集。ある本の話題をしていた。マイナーな本だ。青臭いナルシスト向けの。破滅する女の話が書かれている」
「それが、符号?」
「凡庸すぎる。ヒュプノスとタナトスなんて手垢がつきまくったキーワード。あんな本に感化される馬鹿の気が知れない」
つまり、読んだわけだ。
村上龍は知らなくても、そういう特定個人に関わりそうな情報なら目を通すのね……。
「でも、一つだけ納得はした」
「何を?」
「腕の注射の痕。あれなら、死んでもしょうがない」
「……しょうがない、なんていっちゃダメよ。立ち直れる機会だって、生きていればきっとあったはずよ。それが……」
立ち直る、という言葉に、知弥子はまた口の端で少し笑ったような気がした。
「ないね。死んだ方が救いだったかも知れない。あの女が救いを求めていたなら、それは死へ向かう扉にだろう。そこだけが出口だった」
「あなたの考えは、間違っているわ」
「ならば香織も間違ってる。立ち直るかどうかなんて、重要じゃない。『今』という状況、そこからどう抜けるか、だ。渦中に在る者に、それ以外に何を考えられる? 将来か? 未来か? 明日にも人は死ぬかも知れない。『可能性』なんて、そんな宝クジに夢を託すような生き方を誰もが出来るか」
「極論よ」
「香織もだ」
「……人が生きるということは、『選択をする』ことよ。考え、経験と知識とに照らし合わせ、最善を尽くすことよ。ただ食事をし呼吸をし、それだけが生きることじゃないわ。彼女は……愚かだったかも知れないけど、考えて考え抜いて、『自殺』しか選択の道がなかったなら、それは間違いなく『被害者』なのよ。そこまで判断をせばめ、それしか選べない人生を歩んだとしたなら……」
「自らの選択に何の文句のつけようがある、何だ? 社会とか環境のせいにするのか? バカバカしい。バカがいるなら『バカだなぁ』と笑えばいい。同情もまた、楽しみ方の一つ。香織はそっち。私と香織の違いは、単にその『楽しみ方』の差だけだな」
「それも違うわ。知弥子は『死にたい奴が死ぬのはそいつの勝手だ』っていったけど、そもそも死にたい人なんている訳ないじゃない」
「そうか?」
「生きてゆく上で、辛い、回避できない、そんな困難に対して『それしか思いつかない』状況は、決して『死にたい』訳じゃないのよ。誰だって、本当は自分を否定なんてしたくない。私の考えはは、楽観的かもしれないけど、あなたの考えにはやっぱり、賛同はできない」
「賛同できるできないは個人の主観。観る側の勝手だ。そして私らは何だ? 探偵役だ。信条も信仰も感傷も倫理も全てそぎ落とし、物証と論証とに理の仕組みを見る、そうしないと見えない事実もある」
「だから、それが極論なの。極論は、多くの場合は正論だけど、世の中は正論だけで動いていないし。複雑で理不尽で、だからこそ考えないといけない多くのことがあるの。考えを破棄し、枝葉をそぎ落とした物が極論よ。でも、そぎ落とされ捨てられた中に在る物を見落としてはダメなの。そんな考えに人の心はないわ」
「論理に心も何もない。ついでに、私は私を肯定なんてしない。在って良いような存在ではないだろう、私らは。香織だってそうだ」
「私は私を否定しないわよ」
「私は私なんか死んじまっても良いと、いつも思ってるよ」
……平行線だ。
知弥子と話をすれば、いつもこうだ。
ため息をひとつ吐く。
いつか知弥子が判ってくれればいいのに。そう思っても、その道のりはきっと遠いだろう。無駄な口論のようにも思える。
何故、早朝からこんな話を。とてもじゃないが、高二の女子同士の会話ではない。
「まあ、事件、他殺と考えるより素直に自殺と考えるべき。問題は、ズレだ」
「部屋番号が同じ解き方で正解なら、時間だけ別の表記はおかしいわ。薬で前後不覚になって、決行を早めたとかはどうかしら?」
「飛び降りる勇気づけに、一杯ひっかけた可能性か。重度の中毒者ならこの世の未練とばかりに最後の一服もありえる。が、ラリったせいで自殺の決行も中止してしまうリスクもある」
それはリスクかしら……。
「自殺をやめるつもりだったとか。するかどうかもまだ決めかねていた。ハッキリしない、だから、暗号という曖昧な形にした、とか……?」
「弱いロジックだ」
「う~ん……」
香織は頬に手をあてて考える。隣で、知弥子もまた、黙って考えていた。
よくある自殺と一蹴できそうな話でも、どうにもスッキリしない。
木立ちを抜け、目の前が明るく拓けた。
石畳が続き、中等部校舎が見える。手前には小さな噴水がある。
噴水の前に、一人の少女が新聞を広げ、眼鏡を額にのせ、眉間にシワをよせて座っていた。
香織は苦笑する。あの子は──。
「あッ! お、おはようございます、弓塚部長」
こちらに気付いたか、背をのばしてピョコンと立ち上がり、慌てて小さな女の子は丁寧にお辞儀をした。
「おはよう、巴ちゃん。お行儀が悪いわよ? こんな所で座ってそんな……」
「あわわ、はい、スミマセンっ、あの……」
「なんだコイツは」
不審そうな目を少し向け、知弥子は巴を睨んでいた。この顔で睨まれたら、初対面の、それも中一の女の子では、たまったものでもないだろう。
即座に、割って入る。
「知弥子さん、この娘が、新しく探偵舎に入った、中等部一年の……」
「ああ、
「ぅぅっ……」
「あら、珍しい。知弥子が他人の名前を覚えてるなんて」
「香織が興味を持ってる子なら、そりゃあ興味も沸く」
なるほど。知弥子は自分に『興味』を持って接しているわけか。
「そして、こちらが同級生の黒峯知弥子さん。探偵舎の先輩ね」
「エッ! きょ……あっ、いやそのっ。は、はじめましてっ!」
「きょ?」
何をこんなに緊張しているのだろうか、この子は。
コイツ大丈夫なのか? と視線で知弥子が訴える。
たしかに、巴は見た感じ、頼りなさ気な子だ。一生懸命なのもわかるけど、力みすぎてカラまわりしているようにも見える。
でも、巴が決してそんな、ただそそっかしいだけの子ではないことも、香織は既に知っている。
「あの……ちょっと、気になった事件があったものですから、駅で新聞を買って……」
巴は、眼鏡を胸ポケットにしまい、バタバタと新聞を畳む。
「事件?」
「……はい。あの、昨日、市内で飛び降りがあったじゃないですか」
「え?」
「アレって、考えすぎかも知れませんけど……ひょっとすると……ひょっとすると、ですけど、『殺人』なのかも」
香織は知弥子と目を見合わせた。
無表情で、感情のわかり難い知弥子の顔に、それでも大きく、『驚き』の表情が浮かんでいたのが目に入った。
(後編につづく)
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