第三話『ミステリイレストレイン』(後編)
★前編のあらすじ★
瀬戸内を一望する、風光明媚な地に建つ「聖ミシェール女学園」。
古き伝統を刻んだそのお嬢様学校に通う一年生・咲山巴は、『探偵舎』と呼ばれる奇妙な部に入部を勧められた。
それを振り払い、帰宅の途中に遭遇した電車の「人身事故」の前で、巴は何かに気付き、駅に電話を入れた。
「……『犯人』は、この電車に乗っているかも知れません」
★
ゴゴン、ガガンと騒音が続く連結部。
ケータイを握る手に、力がぎゅっとこもる。
間違いなくいえる事は、これは『事故』じゃなくて『事件』だという事。
下り線、S駅からH駅にかけての方向に検問がある。
一駅前にもパトカーを置いていた。
今でも何かを探している。何を? 誰を?
犯人は、つまり『逃走した』に違いない。
理由は判らないけど、誰かをホームで突き落とし、そして血相を変えて逃げ出したのだろう。
改札を乗り越えて、逃亡? それは、ちょっと難しい。S駅はわりと大きいから、電車の出入りのタイミング、人波をかきわけて、階段も上り下りして、駅員さんが何人もいる改札側から、アクション映画のワンシーンのように自動改札を乗り越えるのは、かなり困難だろう。
では、犯人は他にどんな行動を?
――被害者を突き飛ばす。
電車は止まる。位置的には先頭車両の方。既にブレーキはかけていて制動中、止めようもない状態で、事故――いや、事件が起こる。
その止まった電車の先には――線路。
周囲はざわめいている。乗車を待つ人たち、車内で入り口前に集まり、降りようとする人たち、悲鳴をあげたり目を伏せたり、少なくともその場で取り押さえようなんてする人は、まずいない筈。
犯人はどうした? 逃げる? どこに?
後ろを向いても群衆、駅員さんの姿。
前を向いても電車、いや。
――「空いている」空間がある。
その線路に咄嗟に飛び降りて──逃走。
進行方向先の駅に、検問をかける理由なんて他に思いつかない。
走って犯人を追うような熱血漢の駅員ばかりでもないだろうし、先ずは目の前の処理が先だろう。鉄道警察隊の何人かが追って、即時連絡を回して検問を敷いて……でも、何故か「今も」捕まっていない。
事件発生から、まだ小一時間と経ってない筈。
『えーっと……ちょっとアナタ、それ、どこで聞きました?』
「いいえ、どこからも聞いてません」
『まだマスコミ発表しとらんのじゃけどねェ。まぁ最近じゃ、ネットとかでアっと間に広がるしねェ。いい? そういったイタズラをされてもね、こちらも忙し──』
やっぱり『事故』じゃなくて『事件』だ。
電話口の向こう側の駅員さんは、ちょっと方言がきつい感じの、私の言葉をあまり本気では受け止めていない人なのはわかる。だいたい、誰がどう聴いたって、私の声は子供の声なのだから。ちょっと、くやしい。
それでも、ハナから相手にしていないという感じでもない。
話せば、ちゃんと聞いてくれるだろうか。
「あの、犯人……消えたんですよね?」
『ん?』
「囲まれた高架の上だから、本来なら逃走も出来ない筈で、普通ならS駅からH駅側に走って行ったなら、逃げ場もなく次の駅で捕まる筈……ですよね?」
『……ん、何? アナタ目撃者なの?』
「いいえ……」
『ほいじゃ、何でそんな事知っとるんね?』
……ヤマをかけたわけじゃないけど、どうやら今の考えで正解だったようだ。
少し、ため息を吐く。
「事故なら、『腕に腕章のない』制服の警官がパトカーで駅に駆けつけはしませんし。鉄道警察隊と、せめて鑑識の人だけですよね。広域の聞き込み捜査は、生活安全課ではなく刑事課の仕事だと思います」
捜査権、取調べ、急訴事件での逮捕権も鉄道警察隊は持っている。でも、それは線路と駅との閉ざされた世界の中だけの事。だから、レールの外では、他の部と連携を取らないといけない。
つまり、この犯人は外に出た「可能性」があって、それでも駅を張っている。
おかしな状況だ。
『……ん、ちょっと待ってね。アナタ、その車両のどこにおってかね?』
プレートを見上げ、その番号を読み上げる。
『はいはい、ちょっと電話、代わりますけぇ、待っとってね』
待機のオルゴールが鳴る。
やっぱり胸がドキドキする。
あきらかに、私は出しゃばり過ぎている。
黙っているべきか、気付いた事を報告するべきか、正直かなり迷っていた。
恐らくは計画性のある犯罪ではしに、衝動的な事で、犯人はそれこそ「魔がさした」のだろう。どう考えたって、この犯行はズサン過ぎる。
計画犯罪なら、目撃者の大勢いる場所で人は殺さない。それすらも「計画」に含めたトリックがあるなら話は別だけど──そんな物は考え難い。
話はもっと単純で、目先のまやかしでウヤムヤになっているだけなんだ。
そう、まさにそれは、部長のいう「つまらない事件」――現実の、それはとても冷たく、夢が無く、そしてやるせない出来事で。
そして、どんな事件だって被害者もいれば犯人もいる、その家族もいる。
「被害者の無念」って言葉はよく耳にするけど、それはもう、想像の中にしかない。
犯人の気持ち、遺族の気持ち、その周囲の人たちの気持ち。
それだって、想像するしかないにしても、確実にそれらは存在し、命ある限りいつまでも続く物で──。
ふっと、赫田先輩の言葉が脳裏によみがえる。
――推理とは推察し、理に適う道程を解き『真実』を暴く事。──人の心に土足で踏み込む事も厭わない。知的にして残忍な活動なのね、それは。――
「わかってるよ、それは……」
事件に関わる事とは、それに
まして、それが人の生き死にに関わる事なんて。
だから──私はあの時、ただ、黙った。
それが正しい事だったのかは、今でも判らない。
私には、そうするしかなかったんだ。
でも、『これ』は違う。
犯人はまだ生きている。逃げている。継続している。
終わった事件でもないし、半世紀前の事件でもない。
だからこそ、しなきゃいけない事がある。
『……ああ、もしもし。お電話かわりましたけどね……』
落ち着いた口調の、お爺さんっぽい声が聞こえた。
『えーっと、アナタは、その電車に乗っているんですね?』
「……はい」
ガチャリ、と扉が開いた。
一瞬びくりと全身が震える。
車掌さんじゃない。
痴漢や無賃乗車の監視に乗り込んでいる、緑の腕章を着けた、鉄警隊の制服。
イヤホンを耳に、小型の無線機のマイクに話しかけている。
「はい、いました。女の子です。小学……いや中学生、ミシェールの制服ですね」
「あっ、あのっ……!」
心臓がばくばく高鳴る。イタズラと思われて補導されるのだろうか?
静まれ、静まれ……鼓動の高まった胸を押さえる。
……それにしても、この制服を着てて小学生と間違える事はないでしょう、ちょっと!
胸に添えた手からは、ほとんどアバラ骨と皮の感触しかないけれど、こう見えてももう、ブラだってしているのだ(AAカップだけど)。私はもう、子供じゃない。自分でそう思ってるだけかもしれないけど、でも一応。
うん。
落ち着いて──落ち着いて……。
耳元の電話からも声が聞こえた。
『はいはい、えー。イタズラじゃないのね? アナタはその……目撃者?』
ちょっとカチンと来たおかげで、鼓動も落ち着いた。どうにかして、毅然とした声を作る。
そう、闘わないといけないんだ。
「いえ、現場には居合わせていません」
『ん、S駅の方にいるお友達から、電話とかメールとかで、事件の事聞いたワケじゃあ、ないんじゃね?』
「あ、はい。この電話じたいも借り物で……」
『じゃあ、なんで事件の事知っとってんかね? それに、犯人がどうこうとか……』
怪訝そうな声。怪しまれたり疑われるのも無理はない。いや、もちろん犯罪と関わるようには思われてはいないだろうけど、普通にどう考えたって、こんな連絡を入れる女子中学生なんて、イタズラと思われても仕方がない。
どう、説明できるのだろうか。これには、正直あまり自信がない。
「駅で人身事故って掲示を観て……あの、事件発生は一六時二〇分より少し前ですよね?」
既に、事件発生から一時間を超えたあたりの筈。今の世の中なら、居合わせた人のケータイから、ネット等で情報が伝搬されていてもおかしくはない。無責任なガセの流布や、イタズラだってないとはいえないし、その点からでも
でも私は――少しでも早く、この現状をどうにかしないといけない、そう考える。
「それで、えっと……あの、」
焦りが、口調をたどたどしくする。
喉がカラカラに渇く。
こんなに湿り気のある車内なのに。窓をバチバチ叩く雨音すらも、轟音のノイズにかき消されない勢いで聞こえるというのに。
『ん……もしかしてあなた、『探偵舎』の人?』
「エッ!?」
意外な所で意外な相手から「探偵舎」の名前が出て、息を呑んだ。
……どうして?
ふと、弓塚部長の言葉を思い出した。
半世紀前とはいえ、母校に「事件解決をした生徒」がいた事を。
――警察が来る前に、その事件は解決しちゃったの。
つまり、解決した後に警察は来たって事じゃないか。
なら?
……もしかすると、警察にも初代部長の活躍は、今でも知られているのだろうか?
一つ確かなのは、電話口の向こう側にいるこの人は、「探偵舎」が何なのかを知っている。
そして、この人は駅員さんではない。警察隊の人と連絡をしているなら、多分そっち方面で間違いないと思う。
私は――どういえばいいのだろうか?
……ウソも方便か。「はい」という?
今は一刻一秒を争う。
いや、ダメだ、ウソはつけない。
心の正しさを揺らがせては――いや、何が正しいのか、幼稚な私じゃわからなくても、少なくとも自分でそれを「正しい事」と信じる行動を執れないない限り、毅然とは喋れない。
「いえ、違います……。探偵舎からは、入部しないかって誘われましたけど」
『ほうね、そりゃぁ、大したもんじゃねえ』
「え?」
『ウンウンなるほど。それで……あなたが気付いた事は、何でしょうかね?』
「え?」
明らかに、口調も態度も軟化している。
そもそも、目撃情報ならともかく、中学生の女の子の「意見」を聞こうだなんて……?
普通は、思わないよね。
頭の中にふくらみ始めたクエスチョンマークを、とにかく振り払う。
「えーと……」
一通り、さっき脳裏を駆け巡った事柄を、整理して復唱をする。
『……ふむ。周囲の状況から、犯人失踪を知ったと。それは『推理』かぃね?』
「はい。いえ、まだ『推測』や『憶測』と考えてもらって結構ですけど、捜査員を広域に敷いて、発生から一時間近く経過してこの状況は、他には考え難いですし。あの……犯人、もう誰なのかは、特定されていますか?」
『被害者と口論していたのは目撃されとるんじゃけどねェ。まだ何とも……目撃証言から聞き込みして、被害者の関係者にも色々伺っとる最中なんじゃけどね』
発生からまだ一時間そこら。周辺の人間関係まで、さすがにまだ割り出せてはいないだろう。
「服装髪型くらいしか判ってないんですね?」
『二〇代から三〇代の、スーツを着た男性、って事だけじゃねぇ。それがこう、忽然と消えてね。なんとも謎めいた話でねェ』
「……『謎』なんかは、ないと思います。単純な話なんじゃないかな、って」
『え?』
「下りホームで被害者の人も犯人の人もH市行きの電車を『待っていた』んですよね? なら、やっぱりH市に行く為に駅に来たんだから、S駅から一度、上り方面に戻って手前の、いやもう一つ手前かな、そこで待って、この列車に乗ってる可能性があります」
『え? いや、あのね。どうやって犯人が駅に戻っ──』
「思わないですよね、普通は。だからこそです。次の駅にはもう連絡が行って、警官が待ち構えている、それくらいは、どれだけ混乱していても犯人だってわかります。なら、戻る方が得策です。S駅からH駅まで一番安全に追っ手の目を誤魔化して移動できる手段はこの、新快速の電車ですから」
『いや、高架じゃし、金網やら塀やらあってね、そう簡単には乗り越えられんのよね。だからS線上で、どこかに潜んでないかと、今んとこ捜査中なんじゃけど。水路溝とかね』
「勿論、乗り越えた可能性の方も重視して、S町内で捜査をしていますよね?」
『まあ沿線にざーっと人をやって、町内も調べよる最中じゃよ』
「人が作った物を人が超えられない筈はないです。誰かの監視の目が確実にある次の駅や、S駅のホーム、その近くのレール上に犯人が居る事も、近付く事も、ほぼないと思います、自首するか、諦めるかじゃない限りは……」
できる事なら、そのどちらかを選んで欲しかったけど。それが出来なくて逃走したんだから、今更そんな話をしても仕方ないけど。
『……ほじゃあ、犯人は乗り越えて逃げた、と? ん~。まあ、その可能性も念頭には入れちょるんじゃけど、現にそんな目撃情報が来てないんでねェ、まだ何ともねェ』
「だから、これは想像です。論拠となる物も証拠になる物もない、可能性の提示だけの話ですけど。──雨の降り始め、傘を開いて歩く高架の下の人波を観て、飛び降りて逃げる事を思いついたんじゃないかな、って。落下可能のポイントは、どこかに必ずありますよ」
頭から真っ逆さまに落ちるのでなければ、案外高い所からでも人間は飛び降りられる筈。それに、ゴミ袋とか植え込みとか、クッションになる物が目に入れば、一か八かでトライする事もあるかも知れない。
『ん、まあそうじゃろうけど』
「検問をはって、捜査員を出して、それで三〇分以上見つからない場所の検討、そうなると線路上にはもう居ないと思います。一番簡単に思いつくのは、そのまま高架から降りてS町に潜む事だと思いますが、それでも……」
『時間の問題じゃろうね』
「犯人の自宅がS町にあって、そのまま引きこもるなり、荷物や金品をまとめて高飛びとかも一応、考えられますけども――」
S町の住民が、スーツで夕刻からH市内に向かう用事はちょっと思いつかないけど、可能性がないわけじゃない。新幹線や飛行機に乗り換えるにも、急ぐならむしろ逆方向。でも。
「もう一つの可能性、地元民じゃない場合なら、つまりH市に帰宅するつもりで駅にいて、今回の事件が起きたのなら、宿泊施設も限られている中、手配の出回っている不審者じゃ、ウロウロしていたら割り出されるし、長時間の滞在も出来ない――いえ、実際そうではなくとも、犯人はそういった強迫観念にとらわれていると思います。
そうなると、H市に一刻も早く戻りたくなる……と思うんです。逃亡するにせよ、閉じこもるにせよ。『犯行後』でなら、急がば回れで逆方向に行く事だって考えられますし。もっとも、何もかもかなぐり捨ててそのまま着の身着のまま逃亡するような人なら、おそらく初動でもう、捕まっているとは思いますけど」
長距離移動の乗り物にそのまま乗るか、走ってどこまでもボロボロになって逃げ出すか。考えナシの衝動殺人の末に逃亡するなら、そのどちらかのパターンにも陥りやすい。そこですぐ捕まったなら、それはとても簡単な事件。
そこですぐ捕まらないから――つまり、一端クールダウンして、「考える時間」が出来てしまった事こそが、今の状態なら――。
それは、犯人にとって、とても不幸な事だと思う。
「……それで、S駅の規模ならタクシーもすぐに拾えます。だからといって、タクシーで直にH市に行くのも危険と考えた、と思います。結局は他人の運転する車での長距離移動、どこかから連絡が入れば、すぐに止められます。事件直後の何分後かには、こういった事件なら無線連絡も回るでしょう。いえ、実際はどうかはわかりませんけど、犯人ならそう考えてもおかしくはないでしょう」
周囲の全てが監視の目となり、全てが追っ手となって自分に迫るような感覚は、意図せずして犯罪者となった者なら、きっとある筈。無線機の連絡なんて、まさにそういった恐怖に直結しているだろう。
現に、私は目の前の鉄警隊の人の無線機音にすら、「補導されるのではないか」との思いから、怖くて萎縮してしまった。
――なるほど、これは、本当に体験してみないとわからない感覚だ。何百、何千と読んだ本だけではどうにもならない事。百聞は一見にしかず、百見は一触にしかず。
「タクシーか、何だったらバスか。可能性だけの話で、何の具体性もないですけど……。ともかく、まさかS駅周囲で拾った客が、駅の事件の犯人だとは、たちまち思われないにしても。だから事件の連絡が回る前に、短い時間ですぐに降りられる駅迄、でしょうね。五分から十分くらいで」
『ふむ、あなたのソレは……そうねぇ、行動心理学かね。確かに、聞き込みで情報が今の所ないから、可能性はないとはいえんねぇ。で、あなたが探偵舎の子なら、それだけでこちらに連絡はして来なかったよね?』
「はい……この犯人は意味のない事をしています。早ければ今晩、遅くても明日とか明後日までには捕まる筈です。だから──」
もしかすると、自首する勇気もその間には出るかも知れない。
でも、この電車に乗っている間は、その間だけは、隔絶され、切り取られた時間の中だから。
『犯人、目星がついたわけじゃね?』
「だから──早く終わらせるべき、だと思って」
『あなた、犯人がどこにおるんか、判るんかぃね?』
「……正直、かなり弱い根拠で、それだけで決め付けられる材料はないですけど。幾つか複合的に、状況を組み立てた場合、考えられるケースにそれはたまたま合致していて……あの、すみません。本当に『わかった』わけではないかもです、その……」
駄目だ、自信がない、声が萎む。震える。
現段階ではあまりにそれは、か細い推測で、偶々目私のについただけの事で、ただの思い込みかもしれない。ゆらぐ。
『もしもし? あのね、いや、大したもんじゃよ。プロファイリングっちゅうのかねェ、それは。わかりやすいし、オトナのわたしも納得できる話じゃったよ。それに、わたしらもね、だいたい『降りたならここに違いない』ちゅうような箇所は、何ヶ所か探しとったんよ。常識的な場所はね。でも、ここは手ェも背ェも
「は、はい……」
『ほじゃけ、何でもえぇけ、何か気ィづいた事あったら、ゆうてみんさい』
「は、はいっ」
自信を。
おなかに力をいれる。呼吸を整える。
「S駅の二つ手前の駅、乗り込んできた乗客で、この時期にカッターシャツだけでいるのはおかしい、と思ったんです。上着は脱ぎ捨てたんでしょうね。雨が止んで二〇分、中途半端に濡れて屋外にいた事になります」
『うん、まあ確かに、ソリャ偶然って事もあるけどねえ。一雨来て濡れた後に駅の近くの屋内にいたのかも知れんよね?』
「はい。ですが、一雨来て『頭だけ濡れて』? カッターシャツだから濡れているかどうかは遠目でもわかります。でも、それも勿論、有り得ない事もないですから──任意に、切符を拝見とか、そんなので良いですけど、尋ねてみて……何か隠してる人なら経験上、わかりますよね?」
ちらりと鉄警隊の人を見上げる。
『……うん、まあ、ちょっと聞いてみるかね。えーと……あ、ちょっと待ってね』
「あと沿線ぞいから、S駅近辺のタクシーの拾い易いポイントまで、最短コースを犯人は隠れながら、急いで走ってる筈です。捜査員は線路の周囲にいますよね? だから、上着……」
『うん、丁度いまね、発見の連絡入って。S駅脇のゴミ箱に、脱ぎ捨てたずぶ濡れのスーツが突っ込んであったんじゃて。盲点じゃったねえ、これは』
通信機で何かを連絡し、うなずいて鉄道警察の人はドアを開けて出て行った。締りが悪いのか、半開きのままでレバーが揺れる。
溜息を、ふーっと吐く。
上着は、あった。
考えの幾つかは、間違っていなかった。
でも。
「……やっぱり私、余計な事したかも」
『ん、余計?』
「あっその、」
うっかり、口にしてしまった。
「……無関係な、ゆきずりの相手と喧嘩になってならともかく、縁故なら、すぐに犯人の目処もつくでしょうし」
『いや、縁故とも限らんよ。ゆきずりの相手だと、出頭の意志がなきゃ、迷宮入りにもなりかねんしねぇ』
「それはきっと、加害者の人もずっと長い時間苦しむ事になりますよ」
『相手の良心にもよるよ。世の中にはねェ、ふてぶてしい奴だって、大勢居るけぇね』
「必ず後悔はします。生きている限り、苛まされない人なんて居ません。いつまでも隠し通せる事でもないし、だから──ケリは着けないといけない、って。
……この加害者の人は臆病ですよ。必死です。戻って電車に乗るなんて、結局は『意味がない事』です。過程がどうあっても、結果は何もかわらないのに、ショートカットに車を利用する、アリバイを作る訳でもなし、一刻一秒も早く『戻りたい』ってだけで、咄嗟に王道パターンを使ったんじゃないかなって。トラベルミステリーの常套手段は、いつでも二時間ドラマでやってますから」
『ん、まぁ、意味はあるんじゃないかねぇ。捜査の目は、誤魔化せたしね』
「最低でも二、三〇分間は完全に、ですね。でも、それだけです。未来を考えての行動じゃないです」
──だから、結局は衝動犯罪なんだ。
「魔がさしたのは二度。一度目は突き飛ばした時、二度目は、高架から飛び降りた時。傘越しに『誰の視線も自分に届いていない』って思った瞬間に、逃げる事を思いついたんでしょう。誰もが傘を差している時間、傘がない人ならそれこそ、降り始めた最初の一瞬以外に視線を上げなんてしませんし、飛び降りの目撃情報は殆どないでしょう。それがなければ、観念してすぐにでも、捕まっていたんじゃないかって……」
そして、それはどっちにしたって時間の問題でもあって。
『その犯人を、すぐにでもこうして捕まえて欲しい、って考えるんは、余計な事じゃとは思わんけどねェ。探偵としての正義感ってモンじゃあないんかねェ?』
探偵、って。
そうたやすく、簡単に口にして、しかも私を指してそう呼ぶのには、少し面食らう。
どういう事なのだろうか。
……少なくとも、私は探偵じゃないし、そんな物になる気もない。
「……違います。捕まえて欲しいとか、捕らえたいとか、そんなのじゃないです。私、人が人を裁くとか、断罪する事なんて、本当はそう簡単に出来る事じゃないと思っ……あッ! 警察の人に向かってこんな事いってゴメンなさい!」
『いえいえ』
「……その。詐欺や窃盗、傷害で、直接被害者と加害者が折り合いをつけるならともかく、殺人では……どんなに罪を悔いても、反省しても、死んだ人は生き返らないし、償う事だって出来ないのと同じように。
反省しない人も、悔いない人も、やっぱり居るかも知れませんけど。でも、そんな心の内までは、どうやったって、わかりません。
被害者の家族や周囲の人だって、許せなかったり、許したり、どちらにしても勝手に思うだけで、そのどれもが正しいとも思えません。
何より、殺害された『被害者自身』じゃない時点で、どれだけ近しくとも親しくとも、結局は他人で、許そうと、極刑を望もうと、他人事の話ですし……」
『……不思議な考え方をするんじゃねぇ、あなたは』
「……だから、人を裁くのも
『ふむ。さすがはクリスチャンの学校の生徒じゃねぇ』
でも、無信心者です――とは、いえない。
私は――単に、幼稚で、善悪の何たるかもまだわからない、ひねくれてて、あやふやで、無知なままの子どもだから。子どもじゃない、と意地を張っても、やっぱり客観的に考えて、容姿も頭も子どもなのは、間違いないかも知れない。
「私は、ただ……そんな事で長い時間、加害者も、被害者やその周囲の人も苦しんじゃいけないって、そう思っただけです。赦すも赦さないも、捕まえるのも裁くのも、それが神の所業であっても、人がそれをやらないといけない。それが、人が人と生きる『社会』の決まりですし。
……だから、捕まえるのは警察、起訴して送るのは検察、判決を下すのは裁判官、」
『暴くのは、探偵じゃね』
「……ただの、女の子ですよ」
『でもあなたは、ほんの僅かな情報から、ただ電車に乗っているだけで事情を掴んだ』
「犯人がホントに捕まらない限り、ただの妄想癖の女の子のたわ言です」
『捕まると思うかね?』
「……五分五分です。さっきの鉄道警察の人……大立ち回りにならなきゃ良いんだけど」
只の妄想なら、それも良い。
想像力旺盛な、思い込みの激しい女の子の、頭の中だけの作り話なら。
ちょっと怒られて、それで終わりだ。
再び心臓がドキドキする。
そっと、胸に手を置いた。
「……その心配はないよ」
声が聞こえた。
知らない男性の声だ。
「……えッ!?」
受話器を離して低く驚きの声を漏らした。ゴトンゴトン、とノイズだけに包まれた蛇腹の連結部、扉の向こう側からだった。
『ん、もしもし、どうしました?』
ケータイから声がする。急に離したせいで車両のノイズだけしか聞こえなくなったのだろう。
「……君は……凄いな」
扉の向こうからくぐもった声。向こう側には確か──トイレがある筈だ。
そっと受話器に手を被せた。
正直、怖い。でも、相手の声に危険を感じなかった。
「……自首する事を、お勧めします。……そこに、隠れていたんですね」
返事はない。
「S駅の前を通過するのを、目に入れたくなかったんですね」
数秒間置いて、ゆっくりと返事が聞こえた。
「……ああ」
どうしてそんな事を、なんて聞かない。
事情は知らないし、知らなくて良い。
そこまでは、踏み込めない。暴けない。
かける言葉が、見つからない。
「……自首、するよ。逃げて逃げ切れる物じゃない。確かにそうだ……」
窓側をザザーっと、大粒の雨が叩いた。
「私は……あなたにどういえば良いのか、わかりません。でも、」
救う事も、赦す事も、それは「人」の成せる業じゃない、私はそう思う。
私に出来る事はただ、「暴く」だけだった。
でも、あと一つだけ。
ポケットの中の大珠六、小珠五三を連ねた
「……祈る事。私に出来るのは、それだけです」
懺悔室のような狭いトイレの中にいる、顔も知らない殺人者に対して。
静かに私は、十字を切った。
To Be Continued
★
EXTRA EPISODE 03
「はい、弓塚です。ああ、おじさま?」
弓塚香織は、広いリビングの一角にある受話器を取り、つい会釈した。電話の向こう側の相手なのに、こういったお辞儀のような仕草をしてしまうのも、彼女の癖の一つ。
軽くウェーブの入った長い黒髪に、やや長身すぎる少女は、年齢相応には見えない女性らしさを備えてはいるけれど、これでもようやく十七歳になったばかり。
こういった電話の態度こそ「おばちゃん」的でも、落ち着いた丁寧な話し声の中に、まだまだ幼さが見え隠れしている。
「……ええ、そうですか。はい、確かに。その娘はうちの部で入部希望……なのかしら? まあ、そういった縁のある子ですの。ええ、勿論。判りました、わざわざ申し訳ありません、いえこちらこそ。では……」
「ん、何だい香織。探偵舎がどうしたって?」
部屋の衝立の向こう側から、張りのある女性の声がした。
「ええ、お婆さま。S署の長辺さんからで、何でもウチの新入生の子が、事件を解決したんですって。しかも、犯人に自首をさせたそうよ?」
「へえ」
お婆さま、と呼ばれていても、その女性の声には若々しい張りがあった。
「事件って、盗難か何かかい?」
「それが、どうやら殺人事件みたい。殆ど安楽椅子で、即、解決しちゃったんですって! 凄い子よ。今日だってウチの部で……」
ハッと何かをいいかけて、香織は黙った。
「ふむ、ゾっとしない話だねェ。新入生って事は、まだ子供なんだろ?」
「でも、頭の良い、毅然とした子よ? 少し意地っ張りで、融通のきかないくらい生真面目すぎるきらいはあるけど。ちさちゃんとは好対照だわ」
「チサちゃんって、ああ。あの子はその。ホラ、ばかだから」
「それは可哀想よ、お婆さま!」
「まー、あの子もなァ。突飛な思考や行動には目を見張るトコあるけど、論理性がねェ」
「ああ見えて、ちさちゃん、私やお婆さま以上に機転が効く点もあるわ。それにしても……巴ちゃんったら、凄いわ。おじさまも感心してらっしゃったわよ? まるで、昔のお婆さまの再来みたいだ、って」
「よしてくれよォ。アタシは大した事ァしてないさ。周りが持ち上げただけだヨ」
それでも、祖母が幾つもの事件を――それこそ、両手の指でも足りない数の怪事件難事件を解決した事を、香織だって知っている。そのお陰で「探偵舎」の存在は、何人かの地元の警察上層部にも知られていた。
とはいっても、祖母の時代と、母の時代に限られた話のようで、香織の代で謎に満ちた猟奇的怪事件や死屍累々の難事件を、その手に触れ、解決するような機会はなかった。
――少なくとも、過去に大きな事件に遭遇した時、香織にはそれを解決はできなかった。
「それにしても、十数分かの列車の中で事件を知り、解決だなんて……どうやったらそんな事できちゃうのかしら?」
「ん。ようは集中力と推察力だね。その子の天賦の才……能力っていうか、性癖っていうべきかねェ。僅かな情報でも余さず拾って組み立てる、常習的に何かをそうやって考えて生きてきた子だろうね。夢想家だけど現実派、中々いないタイプだろうナ」
「ちさちゃんだと、夢想家の方が過ぎるようね」
「アンタもだよ」
はははっと祖母は笑った。
「しかしその子、大丈夫かねェ」
「大丈夫……って、何がですの?」
「人が人を殺すような話に関わるのはね、とっても辛いんだよ」
「それは……何となくは、判ります」
本当は、「何となく」ではなく、香織にだって身にしみて判っている。でも、その事は祖母には秘密にしていた。
「何となくじゃア困るんだよ。知りたくない事を知り、暴きたくないような事まで暴く事もある。救う事もないし救われる事もない、そんな事の方が多いのさ、殺しなんてェのはね」
「ですがお婆さま。迷える者、救いを求める者にこそ、主の導きはあるのでしょう?」
「あ~、ヤソの神さんの事ァさっぱりワカンネ」
「お婆さまったら! お婆さまもミシェールの生徒だったじゃないですか!?」
「知んねー。神学の授業とかあんなモンいちいち聞いちゃいねェさ、アッハッハ! つか、うちは代々仏教だっつーの。ウン、まあ、アレだね。人を救えるのは結局は人だけなんだよ、神頼みはいけない」
「お婆さまったら……」
豪放な祖母と生真面目な孫娘、不仲ではなくとも、かみ合わない事も多くある。
「ま、今ここでチラっと話で聞くだけで、じっさいどんな子か知りゃあしないけど、まあ、その子はきっと、才はいっぱいあるんだろうけど……だからこそ、頼り過ぎてもいけないし、孤立させてもいけないよ。
守ってやれ、とはいわないけどさ――まあ、ナニサマかってんだよねソレ。でも、何か救いを求めている時があったら、なるたけ助けてやんなよ。うすらデカいお前なら、力にはなれるだろ。腕力なら」
「うすらデカいは余計ですわ、お婆さまったら……」
百七十五にも届く長身は、憧れの目で見る生徒も校内には多いものの、香織にとっては結構気にしているコンプレックスの一つ。
「うすら、じゃねェな。バカでかい、か。まあともかくアレだよ。目ェかけてやんなよ。可愛い後輩だろ?」
「ええ。探偵舎の、有能な期待のルーキーですわ」
にこやかに、香織は微笑み返した。
To Be Continued
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