第三話『ミステリイレストレイン』(前編)



「あー、小雨、降ってきたね」


 級友の卯上のどかさんは、ヒョイと黄色い線の向こう側まで手をかざし、乗り出すような姿勢で天を見上げていた。


 ぱらぱらと散らばる雨水の粒が、薄暗くなった夕景をかすませる。


 鼻腔をく、何とも表現のできない「雨の匂い」――溶け出した埃や、土が泥に変わる瞬間の、湿り気を伴ったこの独特の匂い――これを、どう表現していいのだろう。的確な言葉を、私はいまだに一つも知らないでいる。




 第三話『ミステリイレストレイン』(前編)

 (初稿・2004.01.09)

 (ノベル版改稿・2019.11.17)




 緑に囲まれた丘に建つ、白木壁の駅のホーム。

 妙に可愛らしいこの駅は、ミシェールへの通学者が利用客の殆どという感じで、小洒落たデザインの小物や、複雑な年輪の古木に駅名が平仮名で書かれた看板など、ちょっと狙いすぎなまでに女子向けなファンシーさがあって、気恥ずかしさも感じてしまう。


「危ないってー。すっ転げて落ちたらどーするのよ。只でさえ、のどっちドジなんだから」

「だいじょーぶだってー。そこまでドジだったらもう三、四年前にあたし死んでるし」

「死ぬような事してるんだ」

「わりとー」


 のほほんと、ゆるやかな笑顔のままののどかさんは、何事につけ楽天家でマイペース。

 私も人の事はいえないけど、結構ドジっ子属性な彼女のこと。いつ、その辺で足をもつれさせたりズッコケたりしていてもおかしくないのだから、気が気じゃない。


「予報通りだ。傘持ってきて良かったー。で、どーだったの? 先輩の呼び出しって」

「それがねェ……」


 私はといういと、ホームの椅子に腰掛けたまま、あと一〇分たらずの待ち時間を有効活用すべく、すっかり冷え切ったお弁当の残りをもしゃもしゃ食べながら、あまり思い出したくもない今日の昼の事を、つい反すうしていた。


 おかしな性格の先輩に、血なま臭い事件の話……。

 何なんだろ、それって。一体。

 んだろう。


「さそはふぇふぇう(もぐもぐ)ようなんふぁふぇど(もぐもぐ)、あんまひ(もぐもぐ)んーっと、のぃ気ひゃなひなぁ(もぐもぐ)」

「喋るか食べるかどっちかにしようよ。ていうかさぁ、トモエちゃんとこ、おうち帰ったらもう夕飯どきなんじゃないの? 今そんなに食べててだいじょーぶ?」

「育ち盛りだから大丈ー夫」

「育ってないじゃん」

「むぐぅ」


 いやコレでもかなり育ったんだって! と、いちいち反論はしない。「未発達なのはお互い様じゃないか」と、小娘同士お互いに軽口をたたき合ったって、虚しいだけだもの。

 まあ、これでも小学生の頃よりは相当背も伸びた筈なんだけど、……今だって平均よりはやや、ちょっと、結構、小柄なのも事実。


「探偵舎って、変わった先輩多いよね」

「ん、ノドチン知ってるの?」

「のどちんゆうなー!」


 彼女は、私の頭の上でポカリと殴るマネをする。きっと不本意な仇名なのだろう。


「んとね。校内でも、有名な人ばっか居る部だって聞いてる。例のあの赫田先輩とか、大福姉妹とか、他にも色々」

「校内の事ってあんま興味ないからなー」


 赫田先輩がカワリモノなのはまあ、理解できたけど。確かにあんなじゃ、否応もなしで目立つのも無理はない。

 弓塚先輩が目立つのだってわかる。あんなに美人であんな長身、高等部じゃなく中等部にいたならば、学園内に疎い私でさえも、きっと覚えていただろう。

 そして他にも変わった先輩がいるのだろうか? って、何姉妹って? 何それ。

 ……嗚呼、ダメだダメ! 好奇心猫を殺す。あんな部に興味をもっちゃ、そのうち神経がどうにかなっちゃいそう。


 お弁当のふたを閉じで巾着袋におさめ、頭を切り換えるべく、文庫本を一冊取り出す。

 読みかけだった蓮實重彦の映画評論集で、観た事もない映画の評論を先に読んでしまうのも正直、自分でもどうかと思うけど、語り口が面白いのでつい、引き込まれてしまう。

 いつか観る事もあるだろう。でも、私は映画はそれほど詳しくはないし、映画館だって殆ど行かないけど、本を読むのは大好きだから、こういった邪道な楽しみ方だってアリなのだ、ウン。……と、自己肯定。


「トモエちゃん、そういえば本読んでるか勉強してるかだよね、いっつも」

「うん。まあだから、『ガリ勉』って仇名だったんだよね、小学校まで」

「うっそー」

「ほんと」


 不本意な仇名っていうなら、『ノドチン』に限らず、昔の私もそうだった。

 今じゃ、まったくそんな事もいわれなくなったけど、授業以外の時間なんて予習復習しかする事がない。それでいて趣味といえば読書だけだから、常に本を開くか、ノートに何か書いてるか。

 これ以外の私の姿が学校では一切ないのだから、そりゃあそんな仇名をつけられてもしょうがない、と思う。


 実際、本を読むなんて本当に息抜きで、くだらない話や馬鹿な物語をクスクス笑いながら読んでいる事もあるけども、なにしろ小学生の世界というのは「本を読んでる」=エライになっちゃうんだから。

 そしてエライとかカシコイとか勉強できるとかは、同じく小学生の世界では、決して褒め言葉にもならないのだから。


 わかってる。年に何百冊読んだからって、偉いわけじゃないよ。そりゃあ、読む本の質や読む態度によって違ってくる事だけど、ただ漫然と日に文庫本4、5冊読むのと、一日中匿名掲示板あたりの罵倒やガセだらけの書き込みをだらだら眺めるのと、何の差があるでもないのだし。

 文字情報とその流れを眺め、たゆたう感覚。書痴というより文字中毒。ただそれが私には心地よい、というだけ。

 勉強のつもりで読んでるわけじゃなし、快楽の一環として自堕落に文字を愉しんでいる。寝転がってのテレビのと、本来、読書癖なんてそう大差なんてないんだ。


 咀嚼し、かみ砕き、血肉として身につけない知識は一過性の物で、付け焼き刃にすらならないのだから、ただ読んでる、知ってるってだけで偉くなれるわけがない。

 現に私は、「雨の匂い」を表現する手だてを知らない。きっと巧い表現で、詩的にそれを表した良い文章だって読んだ事はある筈なのに、カケラもそれが出てこないのだから。


 そして私は相変わらず愚かで、浅はかで、いつまで経ってもあの人には遠く及ばない。


「まあ、本読んでるからってべつに偉いわけじゃないし。うん、『読書家』っていうよりは『文字ばか』なのかな、私は」

「でも、まったく読まない人はアタマ悪そうじゃないの」

「んー。『まんが読んでると頭悪そう』って偏見とか、あるけど。それもどうなのかな。頭良さそうな漫画だってあるんだし。星野之宣とか諸星大二郎とか」

「すっごい頭悪そうな漫画もあるよ。例えば……」

「いや具体例はいいって。だから、それは個別のコンテンツの問題であって、メディアそのもので偏見を持つのはよくないって話なーのー!」

「ん~」


 ちょっと考える仕草をして、のどかさんは私の読んでる本を指さす。


「でもソレはなんかずるい! 映画とかアカデミック~な題材で、なんかむつかしい漢字の、なんかアタマよさそうな人の書いてるあたま良さそうな評論ってかんじする!」

「頭良さそう、じゃなくって。頭良いんだよこの人!」

「いや、知らないし。わかんないし。あとさっきトモエちゃんのいってたホシノとかモロボシとかも知らないし。これで例えばその、今読んでる本が『バカドリル』とかだったらさぁ、少しは今いってる事にウンウンってうなずけるんだけどさぁー」

「う~ん、バカドリルを人前で広げて読む度胸はないなぁ、まして制服着たまんまの中学女子で」

「だからー、そういったのがズルいって思うのよ! だいたい、中一女子が『個別のコンテンツの問題』とか、日常会話でいわないってば、ふつー。トモエちゃん変だって。まんがとか読んじゃおうよー。カバーつけないで、高橋ヒロシとか。どおくまんとか。まあ、ナナとかホットロードでもいいけどさ。女の子なんだし」

「罰ゲーム? えっ、何なにナニ? それって何の罰ゲーム?」


 軽口を叩きあいながら、こうして今だって、長い通学時間を読書で過ごしている。我ながら、面白味のない学生生活だと思う。

 でも、まあ、学生の本分は勉強なのだ。これはこれで良い。今どきのワカモノ(って、中一の私がいうのもアレだけど)の好む遊びの類が、しょうじきサッパリなんだから。


「んー、珍しいなぁ、ダイヤ乱れてるのかな。もう来ておかしくないんだけど……」


 のどかさんはケータイを取り出して何かを確認する。いわれてみれば、もうとっくに到着している時間じゃないか。


「いや、ケータイの時計より駅の時計信用しようよ」

「してるよぅ。事故情報探してるの」


 校内持込禁止でも、遠距離通学の子に親が持たせるのは避けられないようで、登校時に職員室に預けて下校時に返却する形でケータイを持っている子は多い。

 かくいう私も、入学時には両親から携帯電話を買ってもらったけど、校則とかしつけ云々の問題以前で、普段持ち歩く癖が全くないせいか、いつも部屋の充電器に刺しっぱなしに忘れたままだったりする。なきゃないで、べつに普段の生活には困らないってのもまあ、事実。

 それはそれで、ちょっとマヌケな話かも。


「んー、まだ事故とか出てないみたいだけど」


 のどかさんは、ウェブのページで詳細を調べているみたい。その時、アナウンスが響いた。


 ──S線上の人身事故により、H行き下り線新快速一六時二〇分発は三〇分間遅れ一六時五〇分、上りF行き各駅停車一六時三五分は通常通り、繰り返します──


「あー」

「あーこっち側かぁ」


 私はH市のH駅で、のどかさんはその途中の大き目なS町の駅、つまりその事故発生のラインだから、下り側の影響はモロだけど、三〇分遅れ程度なら、まあ、それ程苦にはならないか。


「ってことは、三つ前の車庫あたりで留めてるのかな、S駅行き」

「それ、よくわかんないんだけど。事故起きたのが下りの方なら、事故発生の手前くらいまで、出すだけ電車出せばいいのに、なんで大もとの方から停めてるの?」

「そしたら他に留める所ないんだから、後続のH市行きのお客さんが車内で立ち往生しちゃうじゃない。車庫のある方だと他の軌道と分岐してたり新幹線も停まるけど、一旦こっち側に入っちゃったら、他にH行きの路線ってS駅まで一本なんだしさ。それに、ここらの停車駅って、屋根すらない所も多いんだし。ど田舎なんだし」


 のどかさん、詳しいなぁ。


「そういう物なんだ。ていうか、殆ど野ざらしの無人駅に自動改札置いてるのもヘンだよねえ。それにしても……人身事故ねぇ……ヤだなぁ」

「珍しくはないよぉ。首都圏だと二日に一人は飛び込んでるし。国交省のリストなんて見ると、中央線なんてだいたい二週間に一人のペースだよ? わ、でもすごい! よくそんな程度で調整できたなぁ。運休にしないで遅延じゃない?」


 ニコニコ笑顔の級友の、こんな時の楽観笑顔はちょっと怖い。

 珍しくはない、っていっても。

 私が電車通学を始めて半年ほど、これが初めて遭遇する人身事故なのだから、ここいらじゃ滅多にない話。東京さ、おっがねえ所だぁよ。

 そりゃあ、軽度の遅延ならちょくちょくあったけれど。レールに異物とか、倒壊したセメント片とか、強風で電線にアンテナ線がからまるとか、信号に異常がとか。それだって、月に一回あるかないかのペース。


 ──繰り返します。尚、S駅ではお降りがn番ホームに変更されています。お間違いのないように──


 アナウンスは続いているけど、頭にはあまり入らない。雨がザーっと勢いを増した。

 ミシェールからこの駅までバスで十数分、そこから五十分~一時間強ほど電車に乗る毎日は、最初は結構こたえたけど、今ではすっかり慣れてしまった。

 慣れてはいるけど、でも人身事故は初めてで、何かこう、胸のあたりがゾワゾワする。


「あれ、ホーム変更って、珍しいね。信号掛頑張ったのかな。田舎だから、ここらじゃ融通きくのかなァ。S駅なら車庫もあるし。でもグモで三〇分復旧は凄いなァ。普通、もっとかかるよねぇ」

「いや普通っていわれても……」

「東京とかだと、まーず早くったって小一時間かなぁ。お掃除とかじゃなしに、乗り入れの調整で済んだのかなー」


 っていうか、グモって何よ?


「じきに帰宅ラッシュだし、通常化を優先したんだね。路線上じゃなく駅で起きたのかな。だからすぐ片付けられたっぽイ」

「片付けって、何を……」


 何、っていってゾクっとした。いや、あの、その。「片付け」って、ちょっと!


「ダイヤの事だよぉ。ん、でもホーム移動ってことは結構面倒な状況なのかな、飛び散って。事故現場がS駅ホームだったら、チョットやだなぁ」

「どこでもヤだよぉ!」


 なんでそんな話をのほほん笑顔のままで出来るんだよぉ!


「……でもさノドちゃん。きっとS駅か、その前後の駅だろうね」

「んー、まずそーだろうねぇ。上り下り一本づつのホームしかないちっちゃい駅なら、まず一時間コースだし、大都市のH駅まで他じゃ複数の線繋がってる所ないし。ああそうか、K線一時間二本だから隙間の調整でずらしたんだ」


 何か小さなメモ帳のような物を眺めながら、のどかさんはふむふむと感心していた。


 ……ダメだ、どうしても想像してしまう。


「乗車時……ていうか、入ってくる電車に轢かれたのかな」

「人身事故だと、普通はそうだね。降りたお客さんがいつまでも線の近くにいないし、いざ発車ってタイミングで、駅員さんがチェックしてるとこに飛び込まれるとかは、発車妨害にはなっても人身事故ってかんじには、まずならないし」

「うーん、まあ、足を滑らせたか、押されたか……いや、まだ四時かそこらで押しくら饅頭はないか。転倒とか、脳震盪のうしんとうが妥当かなぁ」

「ん。だいたい八割以上は自殺なんだけどね」

「いや、そんなデータにいちいち詳しくなりたくないし!」


 ……いずれにせよ、H市行きの人か。


「あ、雨やんだ」

「ヤな天気だなぁ、降ったり止んだり……」


 丁度、アナウンスと警笛がプォーンと鳴り響いた。

 電車の到着と同時に、何十人かの黒セーラーが線の前に並ぶ。

 一時間三本のうち一本の新快速だと、S駅までは各駅停車で、S駅からH駅まではノンストップの直行だから、普通列車よりは若干ラクだ。


「あー良かった、ちゃんといつもの115系転換クロスだ、振替輸送で105系まわって来てたらどうしようって心配してたー」

「……何語?」

「まあ、なんてゆーのかな、この辺りはいまだにJRじゃなくて『國鐵コクテツ』なのよ、うんうん」

「いや、あの。よくわかんない」


 獲物を狙う鷹のように、素早くのどかさんは席を二人分確保して手招きした。いつもはスローモーなのに、こんな時だけは異様にはやい。

 みるみる車内はミシェールの制服で一杯になる。真っ黒に赤ラインのセーラー集団は威圧感があるので、痴漢じゃなくても敬遠しそうに思う。当然、ミニスカの子は一人もいない。

 ちょっと長めの停車時間とアナウンスの後に、電車はゴトンと音を立てて発車した。

電光掲示板に流れる「人身事故」の文字に少し眉をひそめる。


「……はぁ~、今日はなんだか、疲れた一日だったぁ」

「まだ終わってないよー、一日はさ」


 流れる車窓の景色をぼーっと眺めながら、私はもう一度、お昼に出会った先輩達との事を考える。


 探偵。


 探偵ゴッコなんて、やっぱりバカげてるよ。それも、女子校の女の子が、だよ?

 そんなのは、物語の中だけに留めておけば良い話で。SFとか、アニメとか、ミステリーだってそうだけど、架空の出来事に対して、ああでもないこうでもないと、設定がどうこう、由来が時代性が作者がと適当に分析して、討議ディベートしあっていればそれだけで良い話。うん。

 なにも、それを現実に持ち込む必要なんてないと思う。ていうか、無理だってば。

 だいたい、どんな事件だって被害者もいれば犯人もいるんだし、その家族もいる。それを面白がってアレだコレだいうのはやっぱり不謹慎だと思う。

 パズルやクイズみたいな物じゃないんだよ、現実の犯罪事件なんて……。


「なんかトモエちゃん、コワい顔してるー」


 ぼそりとのどかさんが小声で呟いた。


「いやいや、私にしてみれば怖いのはキミの方だよ」

「なんでー?」

「自覚、ないんだ」

「え、えぇ? なんでー!?」


 さすがにミシェールの生徒だけあって、周囲には大声で話し込むような子もいない。そもそも電内でペチャクチャお喋りするような人なんて、そう滅多にはいないか。

 場違いな学校に来てしまったように思えても、この静かで生真面目な女学生たちの中でなら、私は目立たないし、ガリ勉なんて呼ばれる事もない。それは私にとって、ほんの少しでも安心できる事。

 ちょっとはしゃぎすぎたか。反省して、私も口をつぐんだ。

 急に黙ったせいか、のどかさんもやや不満そうな顔をしながら、鞄から本を取り出して読み始めた。私も、教科書でも取り出して読む事にするか……。

 って、のどかさんの取り出した本を見てズッコケた。

 西村京太郎の時刻表ミステリー。

 マテ。


「いや、あのさ。もうちょっと女子中学生らしい物読もうよ! いや、私がいってもゼンゼン説得力ないけど!」

「うん。んー、いいんじゃないー?」

「……もしかして……やっぱり、いや。まず間違いなくそうだと思うけど、今更だけど……のどっちってその、『鉄っちゃん』?」

「いやー。私なんか、まだまだ。この世界、奥が深いもんで」


 ……ちょっと彼女に距離を感じた。


「……はぁ。ミステリーねェ。嗚呼、もうミステリーもミストレスもマッピラだわ」


 吐き出すように呟いた。


「ミストレスって、えーと、ああ、あそこの部長さんと何かあったの?」

「ないよ、別に」


 ない、って事もないけど、まあ、私にしてみれば何もないない。


「んー、私は推理小説好きだなぁ」

「私も浴びるほど読んだよ、昔はね」

「今は?」

「もう読まない」

「なんで?」

「……ヒミツ」

「ミステリアスだ」

「謎なんてないよ、世の中にはさ。見えてない事がウヤムヤになってるだけなんだし」

「それを謎っていうんだよ」


 そりゃそうだけど。

 ……ちょっと前に、同じ事を誰かにいわれたような気もする。


「……だいたいこの世にトリックらしいトリックなんて、小説の中だけのウソんこだし。その時刻表トリックだって、とうに死んだような物じゃない? それ、ずいぶん古い本でしょ? 最近コンビニとか駅の売店に、再販で並んでるような」

「キミ、読んでる最中にヒドイ事ゆーねー」


 確かにそうだ。ちょっと私はイラついて八つ当たりしている。

 でも、いい機会だし、勝手知ったるのどかさん相手なのだから、もうちょっとだけイジワルな話を続けてみた。


「時刻表トリック物がさ、過去に、なんでこんだけ1ジャンル築いたか知ってる?」

「勿論。日本ほどダイヤに忠実な運行をしてる鉄道がないからだよー」


 そう、天候の問題か事故ぐらいしか乱れる事がないし、そのどっちも、滅多にある事じゃない。いや、その「滅多に」が今まさに私たちの身に起きているわけだけど。


「でも、それが何故衰退したかわかる?」

「んー?」


 のどかさんは手を頬にあてて考え込んでいる。


「降参!」

「はやっ!」

「あ、わかった。乱発のしすぎとか?」

「まあ、確かにそれはあるけど……」

「でも、ネタなんて幾らでもあるじゃない? ダイヤ改正も結構あるし、廃線もあれば新造のラインだって幾らでもあるんだから」

「でも、パターンなんてある程度決まってるよ。ようは時刻表トリックて、いかにショートカットするかの手順でしょ?」

「そればっかりじゃないよォ」

「そればっかりじゃないにせよ、時刻表物は結局、パソコンの発達と同時に萎んじゃったんだ。ちょちょいとデータ検索すれば、簡単に抜け道もトリックも判っちゃう。これは西村さん自身もいってた事だよ。だからある時期からは、殆ど書いてないんだ」


 そのためか、「トレインミステリー」ではなく「トラベルミステリー」と呼ばれるようになっている。

 巧緻な時刻表トリックには心揺さぶられるし、アクシデントで破綻しそうな時の犯人の緊張感、または、それらアクシデントから偶然に、場当たり的な犯行が不可能犯罪に出来上がってしまう展開等々、感動する物も多くあるのだから、衰退してしまったのは少し寂しいものもあるけども。それでも、時代性をあまり考えない2時間サスペンスドラマでは、わりと古くさい時刻表モノでも、平気で今でも新作で放映していたりもする。

 あ、いや。私はもうミステリーはいいんだってば!


「ああ、確かに旅情モノばっかりになってたねえ。ん~、でも、時刻表眺めてアレコレ考えるの面白いけどなぁ、旅行の手順とか乗り換えのタイミングとか」

「いやソレ、ぜんぜんわかんない」

「勉強といっさい関係ない所でさ、分別されてたり記号や番号割り振られた何かを暗記するのって、すっごい楽しいじゃん?」

 また、のどかさんったら、業が深いことを……。


「ん~、それ、マニアの根源だねぇ。選手とか怪獣の名前丸暗記とか、ジャンルで区切っての作家名とかスタッフ名とか、劇伴のMナンバーとか、そういったシリアライズに興味もって、まず『覚える』事に快楽を感じる層ってのは一定量いて。まあ、だからこそ鉄は定番のオタク趣味の一つなんだろうけど……私はノーサンキューだなぁ」

「電車通学なんだからさ、電車好きにならないと損だよ」

「いやその感覚だけは、さっぱりわかんない」


 ほとんど一本道のS線では時刻表トリックの組み立てようがないなぁ、とフッと思った。他は大回りになるローカルが、要所の大き目な駅から幾つか伸びているだけで、それではショートカットにならない。

 ここら辺から近い他の交通機関といえば、あとは精々空港くらいで、なぜか我がH県では、とても不便な山奥にそれが建っていて、ようは県の両端の都市でモメたあげ句に「間をとって真ん中で」という事になったのだろう。こんな物をショートカットのトリックに使うのは、さすがに無理がある。


 屋根もないような野ざらしの駅と、いかにも駅らしい昔ながらの平たい駅舎とを、次々と止まる。「駅の隣にマクドナルド」なんて常識は、ローカル線では殆ど通じない。学校の近くの田舎駅は、さすがに通学駅だけあって、隣接するオープンカフェもあれば、構内にミルクスタンドもあったけど。

 慌てて買った百円傘を握る人、小雨なので濡れて待っていた人。二~三人づつでも停車の度に次々と乗り込む。降りる人は殆どいない。

 濡れた乗客が増えると同時に、車内の湿気はどんどんと高まってくる。もう冷房を入れる季節じゃないし、肌寒いくらいのシーズンだけれど、蒸し蒸しする空気には、いかんともし難い。


 ぼんやりと眺める灰色に近い空は、だんだんと暗い赤紫色に変わる。

 時折、小雨が水滴になって窓を叩く。


 ……憂鬱な気分が、中々晴れない。


 五時を過ぎればもう日も沈む季節。ギシギシっと車体を揺らしながら、いつもならこのカーブの先で眼下に広がる、ギラギラ鮮やかな輝きを水面みなもに浮かべた瀬戸の夕景。でも、今日は墨のように真っ黒。

 浮かぶ小島も、鉛色のもやがかかって見通せない。


 ……死と血のイメージが、頭から消えない。

 ただでさえこんな空模様、電車の中で。

 考えても仕方のない事だとわかっていても。


 一瞬、サーッと勢いを増した小雨の粒が、車窓から見える水墨画のような景色たちを、一息で磨りガラスのように隠した。


 途中の駅で何人かは降車し、濡れたカッパやフード付きダウンの客、バスかタクシーで来たのか、濡れずに傘もない客数人が乗り込む。立って吊り革を持つ人も増えてきた。S駅に着けば、これがもっと増えるはず。

 さすがにミシェール生徒がみっちり詰まった車両には、男性客も殆ど乗り込まないけど、おばさんやOL風の乗客も何人か増え、老人に席を譲る上級生もいる。

 床は、傘からつたわる雨垂れで濡れて来る。秋物のパンツの足元が雨で変色している女性もいる。急な雨はとんだ災難だったろう。


「……事故、たいへんだなぁ、雨は直後か、直前にだよねぇ」


 ぽそっと、のどかさんが呟いた。


「いや、想像させないでよ!」

「想像っていうか、もうじき現実のモノとして目にするよー」

「カンベンしてよぉ~」


 嗚呼、もお! 今日は何か厄日なんだろうか?


 雨もピタリと引いた次の駅、喫茶店と隣接した野ざらしのホームで数秒停車し、手荷物を台車にのせたおばちゃんと、頭髪だけ濡れたカッターシャツの乗客の二人を乗せ、再び電車は進む。小さな駅だとどこも停車は十数秒といった所だ。こんなスケジュールでダイヤが正確なのはやっぱり凄い。

 S駅の手前の駅あたりで、赤いランプが目に入った。

 ……あれ?


「ここ?」

「……パトランプだよ」

「まあ救急車のお呼びじゃないよね。一瞬だし」

「だ、だから想像ッ!」


 させないでよっ!


 ……でも、変だ。

 駅の外側にたぶんパトカーは一台。改札の外に軽装の警官が暇そうにしている。乗り込む乗客や駅員の顔に緊張感も見えないし、むしろ不思議そうな顔をしていた。ここで何かがあった訳じゃなさそうだ。

 駅に隣接の百均で買ったのか、乾いた傘を手にダッフルを着たショートブーツの若い女性が、黒尽くめの車内に乗り込む。


「……まあS駅、だね」

「ヤだなぁー」


 そして、S駅に停車した。


 ここだと停車時間もやや長く、何十人か、百人以上かが、イッキに乗り込む。時計をチラリと見る。一七時一九分、一分の停車を含め、きっちり三〇分遅れに正確だ。

 扉が開いた瞬間、思わず鼻と口を押さえそうになった。

 ほんの微か──雨で溶け出した地面の汚れの独特の臭いや緑の匂い、油っぽい臭いと混じって、確実に──臭いが、ここの空気の中に混じっていた。


 わかっている。雨のきざしの匂いは湿度に反応する粘土中のペトリコール、雨の降り注いだ後のカビ臭い匂いは、土壌の細菌の作り出したジオスミン。この二つが主だった「雨の匂い」の原因である――今ではどんな科学の本にでも、それこそWikipediaでも丸写しされている豆知識。でも、そんな「成分名」じゃない。

 私は、雨の匂いを表す言葉を知らない。

 それでも、臭いは――あまたの文学で、ミステリーで、ホラーでも、さんざん語られる臭いが何なのかは、知っている。


 血。 


「ビンゴだ。あーヤーだなーぁ。んじゃ、トモエちゃんお先にー。また明日ね」

「ビンゴて。あーあぁ」


 こんな事態でもあっけらかんとしていられる彼女が、ちょっと羨ましい。

 死体なんて勿論見えないけど、向こう側のホームには制服の警官や駅員が大勢いて封鎖されているのがわかる。先頭車両のある辺りに、ビニールシートも幾つか被せてあった。

 想像したくない。したくなくても──想像してしまう。どうしても。

 読書ぐらいしか趣味がなくて、いつも何かを、行間から書かれていない幾つもの事を、空気を、風を、世界を、私は想像し、頭の中に組み立てて来たんだ。

 パトカーや警官の数。

 一瞬で心が昏くなる。なんで今日って、こんな事が続くんだよぉ!?


「……あ、ちょっと、ノドちん」

「ん?」


 降りようか。いや──まず確認しないといけない。


「……ケータイ、貸して」

「ん、いいけど、停車時間あと何秒もないよ?」

「……ごめん、じゃあ良い」

「いや、いーって。どうせ二個もってるし。こっちのガラケー貸しちゃう。返すの明日でいいよ」

「二個って」

「あたしなら、スマートフォンの方あれば問題ないもん。どうせどっちとも電話かけるのには使ってないしねー。あ、車内で使うのはマナー違反だよ。関東じゃ、優先席の近くじゃなきゃ今はOKってなってるけどさー」

「うん、連結部の人いないトコで使うから」


 建前上はペースメーカーを使っている人への配慮だけど、ケータイ禁止の事実上の目的は、やっぱり騒音の迷惑で、それでも、どれだけナンセンスな物であろうと、ルールはルール。ちゃんと守らなければならない。


「そっちの方は、どーせスパムしかメールも来ないしさー。あ、履歴でエロサイトとか変なトコにバンバン繋げてたら、そのぶん請求するからねー」

「しないって! あ、もう電車出るよ」

「おーっと! あ、じゃあ明日ね!」


 特に何も詮索せず、マナーモードにしたケータイを私に手渡して、トトトっとのどかさんは小走りに、改札までの階段をかけ昇って行った。


 信用されているのか、彼女が極端にお人好しなのか、個人情報保護にまるで無頓着なのか、どちらにせよ他人様のケータイで長電話とか変な使い方をする気だってないけど、これはホント有り難い事だ。普通「貸して」っていったって、素直にホイと貸してなんかくれないだろう。


 ……それ以前に、私は自分で自分の今の行動が、ちょっと信じられなかった。


 何でこんなモノを急に借りたんだ?

 私は何に気付いたんだ?

 妙な胸騒ぎが、心の中で警鐘する。


 ガタン、と音を立てて発車する。

 このまま電車はノンストップでH駅まで進む筈だ。

 ノンストップ。

 そう……「だから」ここから外に連絡するには、これしかない。


 ここはもう、出る事も乗り込む事も出来ない、動く密室。

 思い過ごしや考え過ぎなら、それも良い。

 このまま普通に過ぎるのなら。


 電車の音が変わる。


 ギュインギュインと高速に、各駅停車の時とは違う音をたてる。車窓から幾つもの赤いランプが見えた。

 駅毎にそのランプを通り抜けて行く。

 一駅、二駅……まだ、続く。

 確信した。


 席を立って、誰も居ない連結部に進む。

 トイレぐらいしかないし、満員時にここに駆け込む人は少ない。

 どこにかければいいのか。警察? いや、ちょっとおかしい。どこに……駅?


 サイトを検索し、電話番号を調べる。

 ガタンガタンと轟音の中、足元の揺れる蛇腹を眺めながら、耳に密着させ、手で覆ってノイズの入らないように気をつける。

 握る手が少し震えている。

 チキチキキ……

 プルルルル……


「はい、こちらH駅──」

「あ、あの……S駅での『』ですけど……」

「はい?」

「今、あの……H行き新快速、S駅一七時二〇分発の中なんですけど……『』は、この電車に乗っているかも知れません」


             後編につづく

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