丑ノ章

無辜の預言者・上

 妖怪・くだんの少女、牛王寺ごおうじ黎夢りむは幼い頃から休日を、読書などの趣味に費やさんと決意していた。何者にも邪魔されず、神秘的な世界への冒険に没頭したかったのである。……こればかりは、祖父の繁礼しげのりですら彼女の衝動を止める事は出来なかった。動物的な分類をするなら彼女は牛(くだんとは人と牛の混ざった様な妖だからである)だが、さながら猪突猛進、破竹の勢いである。読書という静的な趣味に耽る者の感情は、しかし『激動』の二字である。情緒の安寧を手ずから崩し、喜怒哀楽を全て文字の海に委ねる────。彼女にとって読書とは、命を賭してでも吸収するべきものであった。


「……なんて、あんまり盛り過ぎだよね」


 読書好きが高じて、黎夢は自分でも筆を執っている。まだ他人様に見せた事は無いが、いずれは出版社へ持ち込みする事、推敲して貰う事に憧れを抱いている。

 件は予言こそ出来るが、自分の将来を視る事が出来ない。予言すれば己が死ぬからである────そう教えられて来たのだが、黎夢は予言をして死ぬ事が無かった。兼ねてより不思議に思ってはいたのだが、古書店の資料の力を以てしても、原因を知る事は叶わなかったのである。彼女は『恐らくは私が変なのだ』と割り切って、かつこの事は他人には秘密にしてある。仮に黎夢がこの秘密を明かしたとして、件という種族のルールが覆る。すると世界に悪影響を及ぼしかねないのだ。予言の力を使用すると言う事は、起こりうる未来を支配出来るという事でもある。その通りに事を起こす事も、未然に防ぐ事も出来る。下手をすれば起こりうる事を防ぐ事で世界に大いなる混乱を招く事だって、事が事なら出来るという訳だ。件の予言が『一回きり』と表向きに言われているのは、きっと他の妖や人間との力の均衡を保つ為なのである……黎夢はそう考えて、なるべく予言の力を人の目に付く様には使わない様にしていた。


 していたのだが。

 数日前から、どうも筆のノリが悪くて仕方ない。読者をしても内容に集中出来ない。頭の中には、黎夢の事を件と知って好奇心を抱いたある同級生の姿や顔が浮かんでは消え、消えてはまた浮かんで来るのだ。モヤモヤとした初めての感情に戸惑いながらも、黎夢は趣味を諦め、祖父の代わりに【赤柱堂】の店番に立とうとした────。


「おや黎夢、今日大丈夫なのかい?」


 ……何かがおかしい。否何もかもおかしい。

 腰を痛めているはずの祖父が何故元気に店番をして、本の整理やら品出しを自らテキパキとやっているのか。何故黎夢に「今日大丈夫か?」と限定的な表現をしたのか。そして何故、開店前の時間なのに見るからに業者では無い、れっきとしたお客さんが店内にいるのか────。


 黎夢は結論を出した。


「これは夢、だなぁ……多分」




「ごめんお祖父ちゃん、私やっぱり……」

「いや良いんだよ。ゆっくりお休み」


 黎夢は三方を天井まで届く本棚に覆われた自室に戻り、入れっぱなしになっていた延長コードを引き抜いて纏めながら考えた。


 これが夢ならば何故見ているのか────ここまで明瞭な夢を見るのも初めてだが────思考が手元でたった今結ばれたコードの如く絡まっていく。然して纏まる訳でもなく、私の意識は無色透明なまま、時の流れにされるがままに弄ばれるのである。


「……どうすれば目が醒めるんだろう……。私が一体何をしたって言うの……?」


 私は時間が許す限り、この明晰夢の原因が何なのかと、何故か思い出せない昨晩の就寝前後の記憶とを明らかにする為に思考の密林へと、足を踏み入れるのだった。

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