【幽谷荘】には13の部屋がある③

 歪んだ空間の先には、物理法則を軽々無視した、奇っ怪な空間が広がっていた。足場となる岩の橋は虚空の上に浮かび、頼みの綱とする為のしるべになりそうなものは無い。星も雲も無く、ただそこには延々続く闇、時に肌を撫でる冷たい微風そよかぜ、どこまで続くかも分からぬ一本の道とも呼べぬ岩の橋が伸びているだけだ。その殺風景さたるや、地獄にでも来たかの様な物悲しさである。


「ここは本当に部屋なのか?まるで外にいるみたいに風があるんだが」

「紛うことなく部屋さ。壁として内と外を隔てるのが木や混凝土こんくりーとでは無く妖術だっただけの問題だ」

「そういうものなのか」

「そういうものだ」


 勿論僕は妖怪では無い。妖術とかその辺の扱いにはめっぽう疎いから、そういう使い方もあるのは初めて知ったのである。


「この部屋も原理的には神隠しと何ら変わらない。何か閉じ込めておきたいものの周りに、不可視の結界を貼るって寸法さ」

「こんな広いもの、一体誰が……」

「言うなれば大師、とかいう奴だな。ここは徳の高い僧侶の結界だよ……もう私達が結界を破り侵入した事も、目的も全てバレている。式神でもけしかけて来ると思ってたが────私が狢だという事も含めて、か」


 半分は自分に言い聞かせて反芻する様に、もう半分は僕に注意と説明をする様に、前をキッと見据えながら、次第に脆くなる足場を進む。

 道のりを半分ほど来て、僕はふと口を開いた。


「名前……無いんだったよな」

「ああそうだ。これまで誰かにわざわざ名乗る事も無かったからな」

「命名なんて大層な事は出来ないけれど……僕が名前付けるのってアリ、かな……?」


 確実に的確に正確に、頭を尻尾で叩かれる。そんな事は分かりきっていた。だがどうしても、名無しのままでは呼びにくいし、何より、名前が無い事がどうにもむず痒くて仕方なかった。

 ところが尻尾は僕を叩くことは無く、狢はやけに気恥しそうに、僕の頭を撫でる如く、ふかふかの尻尾を寄り添わせて来たのだった。


「名付けは……普通、愛着が無ければしないのだぞ……うつけ者め」

「そうだな……僕は相当うつけ者だ。そしてそんな僕に何故か気恥しそうにする狢も────繭弓まゆみもまた、僕と変わらず大層なうつけ者だ」

「もしやその、繭弓とやらが私の名前か?何だか落ち着かんな……」


 狢……いや繭弓は照れ臭そうに、しかし喜びで大きく左右に振れる尻尾を制御出来ずに僕から目を逸らした。


「だがな……名前が付けられた以上、私はお前のものになるのだぞ。その意味が分かっていて名付けたのだろうな……穿刀よ」


 ────しまった。僕は意味を完全に理解した訳では無いのだ。それなのに、僕ときたら大変軽率な事をしてしまった。どう責任を取れば良いのだろう。養う……とかなら無理をすれば出来ない事も無いはずだが。


「お前には美緒という彼女がいるから捨ててまでめとれとは言わない。だが、万に一つ、彼女と別れる事でもあったら……その時は、私と添い遂げてくれ」

「……ちょっと待てよ、そういう事なのか名前を付けるっていうのは」

「相手が男でも無関係に、だ」


 なんてこった。これは火々谷さんにバレたらとんでもない事になりかねない。しっかりと意味を理解してから名付けなかった僕が悪いのだが、期せずして二股をかける少年になってしまうとは。しかも相手は男である。火々谷さんは優しいが、流石に浮気にまで寛容ではあるまい。


「……では穿刀、伴侶候補としてこれから末永くよろしく頼むぞ」

「分かった、分かったよ……」


 これからの事を思うと、正直この空間に永遠に留まっていたくなってしまった。

 僕は仕方なく、一気に重たくなった足を引き摺るようにしてとぼとぼ進み始めた。先ほどまで数歩先を歩いていたむ……繭弓は、今では文字通り僕の半歩後ろを歩いてついて来ている。お前は僕の妻か。実際そうなる予定らしいけど。


「……少し待て穿刀、何か奥から来ている」

「まさか……大師?」

「如何にも」


 僕はここに来る前の事を思い出した。その時は、背中が焼け焦げてしまうのでは無いかと思うほどの熱量を持った、憎悪に似た死の気配だったが────今僕が背中に感じているのは、死は死でも……生を憐れみ、慈悲の為に人や人以外をも殺す、思わず身震いする様な冷たいものだった。


「南無三宝、ここに死をおもい、死をひしひしと感じるつがいが一組。嗚呼、何と浅ましく美しい事か……。

 ────さあ、私の宝を盗みに来た賊共、結界の涯へちよ」

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