火々谷 美緒は燃え尽きない⑥
苦しい。
目覚めて最初に思った事がそれだった。いつ以来だろう……息苦しさで目覚めるのは。
大きく息を吸いたいのに、何故か煙たくてむせてしまう。これは夢なのでは無いか────その仮説は、肺や気管支に感じた痛みですぐに消え去る事になった。
ちょっと待て。何故家の中が煙たい?
急に頭が冴え、状況が怖くなってうっすらと目を開ける。
辺り一面に、白煙が漂っていた。ドラマくらいでしか直接見た事の無い状況に僕は、全身の緊張が抑えられない。
何故こんな事に────僕は体勢を屈めて、兎に角部屋から脱出しようと飛び出した。
「あら穿刀、そんなに慌ててどうしたの?」
この状況を見ても焦る事の無いおおらかが過ぎる母さんである。さては原因は母さんだな、と踏んだ僕は問い詰めた。
「仕事が辛かったなら言ってくれれば!」
「何の事……?」
「この煙だよ!!何で放火なんか────」
「燻煙剤だけど?」
「……え?」
クンヱンザイ?脳内での理解が追い付かず、僕は素っ頓狂な声で聞き返した。
「ゴキブリが出たから、家中に撒こうと思って。焚きすぎちゃったのよ〜」
ゴキブリ……焚く……クンヱンザイ。頭の中で絡まった糸がようやく解ける。
「そういう事か……火事かと思って焦った」
「心配させちゃってごめんねぇ」
「今度焚く時は気を付けてよ?めっちゃ怖かったんだから」
「はーい」
如何にも『ぽわぽわ〜』という擬音が合いそうな緊張感の無い笑顔。我が母ながら癒し系だと思う。だがこのネジが足りない雰囲気の人が、今世界で最も必要とされている知識人なのだから……本当、人は見かけによらない。
「ところで今日は土曜日な訳だけれど、錐ちゃん友達と遊びに行ってるのよぉ」
「うん」
「錬次朗さんは今日夜勤だから昼までぐっすり寝溜めだし……」
「そうだね」
「穿刀が行ってくれる、って選択肢は無いのかしら……なんて」
「…………何処に?」
いまいち僕の母は言葉の扱いが上手くない。本人は『
何故かは分からないが、いつからか、母は仕事以外の事では言葉の扱いが鈍くなってしまったのだ。論文はとてもキッチリしていて衰えるどころかより鋭さ・無慈悲なまでの正確さを増しているのだが、その反動か、日常生活に於ける僕の母・
「────お母さん。僕も用事があるんだ。部活で使う参考書、古本屋行って買って来るの。母さんの用事は?」
「スーパーよ」
「何を買ってくれば良い?」
「青ネギと牛乳、ふりかけとケチャップ」
「分かった。立て替えとくから後でその分お金頂戴ね」
特に誰かと会う訳でもなく、それほど楽しくも無い祝日だが、用事が出来ると外に出る口実が出来る。おつかいなんかは、僕の様なインドア派にはとても良い口実だ。人の為に出かけるという口実で、我が物顔で町を闊歩出来るのだから、これ以上の好都合は無いと言うものである。
さて僕はスーパーで購入するものがよほどの事でも無い限り売り切れる心配が無いものと見るや否や、早々に古本屋へ足を向けた。僕が幼少からお世話になっている馴染みの古本屋・【書架 赤柱堂】である。妖怪関連の古い書籍が数多く保存・販売されているここは、僕にとって憩いの場であり、同時に『将来ここで働きたい』という憧れの店でもある。
ドアを潜るとそこはもう異界。古書の匂いとゆったりとした時間が漂う、本屋好きは勿論、狭い所が好きな人間にもハマる整然かつ良い具合に煩雑しているのがこの【赤柱堂】である。どこからともなく聞こえるピアノによるクラシック音楽、日差しを受けて鈍く輝く欄間窓にはめ込まれたステンドグラス、あちこちに見受けられる装丁の綻んだ古本────その全てが僕の心を落ち着け、同時に形容し難い高揚感を与えてくれるのだった。
「……?」
いつもなら声を掛けてくるはずの店主────かなり年配の、白髪をきっちり撫で付け、髭を蓄えたお爺さん────が、今日は珍しく
僕は仕方なく、本棚を撫でる様に見、それから気になった題名の本を幾つかパラパラと読んでいった。基本本屋では禁忌とされる行為ではあるのだが、この【赤柱堂】では店主の計らいで許されている。
曰く、『本当に読みたい本と出会う時というのは、不思議と本に誘われて、読者は花に惹かれる昆虫やハチドリの様に、お気に入りの一冊と出会うのです。そこに邪魔立てをする障壁は無く、本屋の店主ですら、その逢瀬の瞬間を邪魔してはならない。
……本屋の仕事は出会いのお手伝いをする事一つのみですから────たとえば物語で探訪に耽る読者さんにお声掛けして、一度文字の海から這い上がってしまうと、一お手伝いでしかない私達が探訪の快感を奪ってしまう事になりかねない。それではいけません。
ですから少なくとも【赤柱堂】では、無論常識の範疇で、他のお客様の迷惑になる事以外はどう過ごして頂いても構いません』。
即ち、この古本屋では立ち読みは勿論の事、他の客がいない時なら寝っ転がる事だって良しとされる(そもそもそんなスペース自体無いほど本がギッシリなのだが)。僕はそんな事を漠然と考えながら一冊、また一冊と読み終えていってしまう。
大分時間が経った。やはり店主は来ず、店の中には僕とバイト?の二人のみである。店の端にいたバイト?は、店の奥と手前を行ったり来たり、本を担いで裏へ持って行っては、裏から今度は別の本を持って来て本棚へ入れ替えるのを繰り返しやっている。精勤と言えば精勤なのだが、……やはり若干気になってしまう。頭部に垂れ耳がある事から妖である事は間違い無さそうだが、やけに体格が大きいし、何より全体的にボディラインがはっきり出ていて────正直目のやり場に困る。
今にも悲鳴をあげそうなピチピチのデニムジーンズに汗ばんで少し肌に引っ付いた白無地のシャツという服装。辛うじてこの書店の店員と分かるのはその上から制服であるエプロンを着用しているからだが、はちきれんばかりの胸で、エプロンに施された【赤柱堂】の文字が横に伸びまくっている。一体何処の誰だかは知らないが────良い薬が服用量を誤ると毒になり得る様に、健全な男子にとっちゃ彼女の容貌は眼福を越えて目に毒でしかない。
僕は何とも落ち着かなくなってしまって、『
「すいません、お会計お願いします」
「は、はい只今!」
ハキハキとしている、澄んだ声の持ち主だな────僕は脳内で、クロツグミに思いを馳せる。複雑で綺麗な鳴き声を器用にやってのける、小鳥界の隠れたのど自慢……。この声を出したバイト?がどんな人なのか、急に気になってしまった。
少々の期待を胸にカウンター前で待っていると、視界に突如横伸びした【赤柱堂】の文字が。余計な言葉は不要だ。何はともあれ、兎に角デカい。
「……え?」
急にバイト?の声が小さくなる。僕は突然見知った人物の声に聞こえて来て、顔が見えるはずの四十五度上を仰ぐ。
「……御剣君?」
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