百本目の蝋燭

働き、効果、価値を求めながら動き、労力、コストを削ろうとするのが人である。働-動=人。世の中のことはともかく武技においても動きを削った方が効果的に働く物がある。その一つについて話をしたい。


 剣道において使えない構えとされる脇構え、これは動きを削ったほうが良い例の一つと考える。


 剣道的に中段に構えて左手を進めて引き戻せばすぐに分かることがある。左手が正中線から離れるほど剣先は上がり、引き戻せば降りて来る。この基本をなぜか脇構えを考える試みを行う間だけ多くの剣道家は忘れてしまう。相手に竹刀を当てようとする時に左手も大きく使って届かせようとしてしまう。左手が正中線から離れ相手に向かうほど剣道握りの右手との関係上、剣先は相手から遠ざかってしまう。また、向身のまま脇構えをすると腕が体に巻き付いてしまう上に左手も自らの正中線から外れることになるため流派にもよるが基本的には半身で扱いたい。


 脇構えからの動作は上段や八相を経由するとは限らない。これらと脇構えの共通点の一つは、すでに振りかぶった状態である事。その時期的早さ、あるいは物理的速さを、経由、つまり遠回りしては失う事になる。また、刀身を見えにくい状態に出来る利点は長さを隠す事ではない。長さは腰に残る鞘以下である。むしろ動作の初動に関わる手の内を隠せる事にある、これも構えを経由した時点で失われる。他、鎧を活かす利点もあるがそれはこの場では捨て置く


 具体的な動きの削り方に言及する。竹刀操作は中段と金剛の構えを基本とし、それを左右に倒すだけとする。体捌きは股関節の開閉で足を踏み替えるだけとする。股関節から開いた撞木足で半身脇構え、その前足に後ろ足を揃える時に中段になる。今度は反対の足を後ろ足にして最初と逆の半身になり、この時竹刀を正中線上で倒す。単純にこれの繰り返し、慣れてくれば簡単に風切り音が出るまで剣速が上がる。左手の大き過ぎた動きを削り、剣先を働かせる。


 実は動きを削るだけでは不十分でもある。脇構えからの動作を改善し要素技術は向上したとする。その要素の具体的な運用が問題で、脇構えが目指す戦闘ドクトリンへの誤解がある。


 例を出したい。空手の話。近年、フルコンタクトと伝統派の両方が参加できる中間ルールの大会が存在する。そのトーナメントで伝統派が決勝進出、フルコンタクト側の選手は素早い伝統派を捕捉しきれず、ポイント逃げ切りによる準優勝となるかと思われた。その伝統派選手本人の話では、ポイント取り逃げと揶揄されるくらいなら倒すか、せめて規定ポイント到達による一本勝ちを目指すことを決意していたとのことで、リスクを取って攻めたところで反撃を受けてしまったとのこと。これは近年の格闘家youtuberのブームに乗って見つけたある動画の大まかな内容。


 空手の中にも広く深く分岐した世界があり、剣も拳も流派などによってそれぞれドクトリンがある。その優劣は相性もあり一概には言えない。


 剣道と脇構えのドクトリンはどうか。剣道に大きな影響を与えた一刀流系統の流派剣術からそうであって、剣道になりより顕著になったそのドクトリンは例外を除けば基本的に充実し整っている自らの正中線、体勢が、相手のそれとを結ぶ中心線を制圧し、そのまま相手のそれを捕捉すると言う物で、簡単に言えば相手が最も激しく抗戦する正面を制圧突破する神技ということだ。


 しかし海外、主にドイツ剣術あたりとの交流戦において剣道家は両刃を活かした裏小手や左右切り替えしの高速連続横面で翻弄されることもある。剣道の古い考え方や昔の剣豪の言葉に、面以外を打たれるのは未熟であるからとか、稽古中、目上の師の面以外をあまり積極的に狙わない方が良いとか、師に向かって上段に構えては失礼という物があったと伝え聞く。もし実在したとしてしっかりと技術的、又は稽古の目標との整合性から合理的な考えであったと仮定して逆算してみると剣道的ドクトリンを稽古する上で最も効果的なのが面を狙う事であり面以外は中央制圧から正中線捕捉までの過程の未熟の指摘に相当すると仮説を立てることも出来る。まして上段は中段がすでに正面を制圧している状態を割って逆転することであり、逆転できるという事は上手である、上段は上手である自信を示す。という解釈も出来なくはない。師の未熟を探し過ぎるよりは自らの向上も重視せよという意図を推察出来る。かもしれない。


 脇構えも武器の初期配置が中心線の常時制圧を追求することを放棄している。上段と同じで、中段に対しては逆転を前提とした構えと見るのが自然だろう。そしてここで注目したいことがある。上段下段は、中段と同じく向身で中心線上を主戦場としている。中段は五セイガンを含むがここでは扱わない、一般的な中段と思ってもらいたいい。八相も向身でも扱えるためこれに含めることも出来るとする。しかし特に半身で扱った場合の脇構えは刀剣の動きは自らの体に制限されるため単純に逆転を目指す中心線上の攻防においては他の構えに自由度で劣ることになる。半身とは、正中線だけでなく自らの側面を相手に取らせているということ、剣道の切り替えしの稽古を横にいる相手にするのは難しい、結局体をねじって上半身だけ向身にすることになる。


 ここまでで、脇構えのドクトリンは互角の攻防を目指していないと推定することになる。多くの剣道家の脇構えの実験において出来るだけ中段同士の場合と同じ攻防を再現する様な運用の方向性に抱く違和感は共有できたと思いたい。中段と同じように使うという誤解は解けただろうか?


 ではいよいよ、脇構えは何を狙いどう運用する構えなのかについて私見を述べたい。結論から申し上げると、攻防の非対称戦化を狙い、その上で機略戦的発想を持って運用する構えである、となる。


 機略戦とは機動戦に心理的な要素を追加した物であり元は軍事用語である。この場では身体的速度と心理的速度で優越する事を狙う考え方と理解してもらいたい。ここで注意して欲しいのは、速度が動作の速度に限定した物ではないという事。動いて速いのも結構だが、既にそこに居た、既に居なかった、既に見えていて心身共にあらかじめ用意が出来ている、先に動き先に居ることで相手を縛る。など広い意味でのはやさだと思って欲しい。


 具体的な技の動作は文字で表すと長くなり正確さも欠くので省略する。その代替案として既に動作がある物に独自解釈を付ける形で具体化したい。剣道形四本目、これは八相対脇構え、ここに独自解釈を試みる。なお、その過程で動作も一部を改変する。まず動作の原型は全日本剣道連盟が形演武の動画を出しているのでそれを基にする。打太刀が八相、仕太刀が脇構えで脇構えが勝つ形であるがこの結果は変えない。


 まず双方急接近、間合い(時間的及び空間的に合致する瞬間)を見極める中の一瞬、互角な先の取り合いの中、仕太刀が先手を取ってさらに入る。


 これを受けて八相打太刀は引き出され、脇構え仕太刀の面、又は首に切り込む。この時の踏み込みは仕太刀の相打ちを外すため仕太刀のやや背後側へ踏み込む。仕太刀は冒頭の動作を削る話で書いたように足を踏み替えながら刃を合わせる。仕太刀はその瞬間に打太刀よりも手元も含め低くまとまった構えとなる。


 引き出された打太刀は相対的に高い構えで、切り込んだ直後であるが故に伸びている。この瞬間、続く攻防において低く小さめに整っている仕太刀の体勢が始動で優勢。競り合いから相手の首に刃を押し付けようと互いに動くなら伸びている打太刀が不利。下腿部の攻防も同様、高い打太刀が不利。踏み込み足を狙われた劣勢も回避するため打太刀は後退しつつ元の中段に戻っていく。


 このまま相中段になった場合、後退している勢いを跳ね返す手間がある打太刀は不利。追ってくるであろう仕太刀は前進の勢いを活かすので踏み込み距離や攻撃範囲で有利。仕太刀の潜行を伴う接近や相中段での優勢の可能性を同時に阻止するため打太刀はなんとしても中心線を制圧したい。その心理を、追って攻め込む仕太刀は逆手に取る。


 仕太刀の攻めに間合いの猶予を奪われた打太刀は中心線を制圧する一瞬で突く。裏をかかれた打太刀の突きの先に仕太刀は既に居らず、空を切る。その外れた突きの伸びきる瞬間と仕太刀の返す刀が面を割るのが同時となる。


 この場合、脇構えと急接近の組み合わせは相手の攻撃タイミングを縛りながら触刃の後の主導権の獲得に力を発揮している。剣道の試合を観戦すれば明らかであるが互角の対称戦の場合は双方とも機を見るため攻防が始まる瞬間が直前まで特定できない、しかし最初から有利不利がある様な非対称な状況になれば話は変わる。


 また例を出したい。剣道家が苗刀術を相手にした場合、無造作に間合いを詰められ滅多打ちにされるがつまり突進された場合、機を見ている場合ではなくなる。剣道は稽古の競技化であるのに対して苗刀術は実際に斬り合う技術である。つまり、稽古として高い効果を得るため乱打戦を避ける、運任せを避ける。前提としての相打ちを避け、双方正しく攻めた結果としての相面を重視する。という無駄打ちが減る様な暗黙の同意が苗刀術家に恐らく無いのである。試合数を重ねて剣道家側が適応してくると初太刀で苗刀側の初動を捉えた後に乱打戦に突入するようになる。苗刀側はフェイントをかけながら接近し近接したその場で乱打を開始する傾向があり、つまり攻防開始がほぼ最速のタイミングで固定されているので逆に言えば剣道家側が最後の一歩の間合いを詰めることで攻防がいつ開始されるか制御できてしまう場合が見受けられフェイントもその場で実際の攻撃に変化する。これである程度の予測が効くようになる。この様に、何かの条件が非対称戦的状態をもたらすと、攻防は激変する。


 実は筆者自身も剣道部時代に格上の相手にこの非対称戦化という発想を用いて一本を取れたことがある。中心線の攻防で実力差がハッキリした段階でそれを放棄し、構えを解いて左右に移動し側面を取る、それを追ってこちらに向き直る相手に面打ち。追う立場と追われる立場に分かれた結果として逃げる筆者を捕捉するための動作が出るがそれは中心線を巡る攻防ではなかった。追いつき捕捉できた一瞬で攻撃しなければ当たらず、その一瞬で面を打つしかない。そのタイミングの限定された面の出鼻こそが再度側面を取るべき瞬間であり、筆者に向き直る次の一歩にも側面を取る動きを合わせる。そこで追跡が決定的に遅れたところに筆者は飛び込んだ。


 一刀流系統の中心線の制圧は強力かつ高度で神技と言って良い。しかし多くの流派の存在が中心線だけではない深みを感じさせる。これがまた、たまらなく面白く、筆者は感じるのである。



「……。」


 周囲の沈黙の中で、百本目の蝋燭が吹き消された。


「なっがいなぁ……」

「足がしびれた」

「どこも怪談的な要素が無いじゃないか、どういうことだ?」



 最後に消された蝋燭をそのまま虚ろに見つめる学生の一人が言った。


「……俺は剣術にそこまで興味が無いのに、延々聞かされて苦しかったよ」

「……え?」

「……あーそういう、一方的に?」

「……こっわ、こっわーなにそれー」

「どういう状況だよ!誰だそいつ」

「苦しすぎて逆に記憶しちまったのか!傑作だな!」

「お前の苦しみが理解できたわ」


 百本目が消えた時に怪異が現れるとされているが、虚ろな目をしたその学生が周囲の笑いから浮く様がそのままゾンビの様だという事で落ちがついた頃。


「……筆者?」


 ある勘の良い学生の呟きは周囲の笑い声や雑談にかき消された。

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