第50話 邪魔者
私の願いを叶えるため、クヌートさんにはマルガレーテへ使いを出してもらった。
最初は私が直接行きたいとお願いしたのだけれど、それだけは駄目だと即答された。じゃあ代わりクヌートさんに行ってもらおうとしたが、ラルフが戻るまでは私の側を離れられないと渋っていた。でもどうしても、このお願いがラルフの助けになると頼み込んだら、彼は手紙を届けるという形で承知してくれたのだ。
目的は私のノート。リントヴルムから持ってきた私物のひとつで、あの夢で母に見せたものだ。
手紙を届けて、その返事とともに私物のノートを持ち帰ってもらう。その役目を引き受けてくれたのは、なんとイリーナさんだった。
クヌートさんに館の応接室で引き合わされ、彼女がラルフが張り続けている炎の結界の外で、警護を引き受けてくれていることを初めて知った。彼女は見習いとはいえ騎士団に所属しているはず、どうして? そんな疑問が顔にありありと出てしまっていたのだろう。イリーナさんは相変わらずクールな表情のまま、説明してくれた。
「結界を超えられる人間を、最小限にするために私が派遣されました。あなたに面識がある者でないと、いざという時に味方かどうか判別できないでしょうから」
なんとなく、結界とはいえ玄関からみな入ってくるため、入り口があるかと思っていたのだけれど、そうではなかったらしい。
結界はラルフが認知した人間以外が玄関から同じように入ろうとしても、弾かれるようになっているらしい。つまり、この館を管理する使用人や、仕事を持ってきてくれたヒルデさん、その他ラルフが認めた人間は、今ここにいる応接室までは入って来れる。はさらに結界は二段構えの構造で閉ざされていて、ラルフやクヌートさんや先代様などの身内以外は、ここから先には入れないのだとか。
「あ、でも、エマを部屋に招いたことがあるわ……」
「あの日はリーゼロッテ様が色々と事情をお知りになった翌日でしたから、ラルフェルト様が結界を緩められました」
そういえば、泣きすぎてメイドさんに氷で目を冷やしてもらった日だったことを思い出した。そういう配慮を、ラルフは自ら告げてくれたことはない。彼らしい優しさといえばそうだけど、いつも後から知る。
「侯爵家といえど、すべての人間を確認することはできませんし、出入りを限定することは不可能です。よってこのような状況でもないかぎり、侵入者を防ぐことはできません。不自由でしょうが……」
「いいえクヌートさん、充分よくしていただいてます」
「それで、渡す物とは」
私はしたためた手紙を、イリーナさんに手渡す。
「これを、ヒルデさんに渡してください。そしてその場で返事と、ある物を渡されると思いますので、それを持ち帰ってください」
「ある物?」
訝しむイリーナさんに、クヌートさんが代わりに説明する。
「リーゼロッテ様の私物です。とても大事なもので、それを狙う者があるかもしれませんので、一般人のマルガレーテ従業員に託すのは危険だと判断いたしました」
「ラルフェルト殿はこの件については?」
「まだ議会から戻っておりませんので、私の判断です」
イリーナさんはしばらく考えている様子だった。彼女とて仕事として警護を任されているわけで、予定外の事をしてしまったら叱責されるのは彼女なのだ。けれども、どうしても引き受けてもらいたい。
「お願いします、とても重要なものなんです」
「……わかったわ。しかし往復で最長二時間、警護が薄くなるかと」
「そこは私が責任を負います」
イリーナさんの懸念に、クヌートさんが請け負う。
「魔法騎士には適いませんでしたが、それなりに使えますので」
「……そうか」
暗に自身も魔法使いなのだと告げたクヌートさんに、イリーナさんはあっさりと答えると、私に了承の意を伝えた。
「持ち帰るものが何かくらいは教えておいて」
「はい、ノートです。村から持ってきたのは三冊。大事なものは緑の背表紙の古い一冊ですが、何かあったときのために三冊とも持ち帰ってもらうよう手紙にも書きました。もし何かあれば、他の二冊は犠牲にしてもかまいません」
これまでコツコツと描きためてきたデザイン画や、日記のようなものだけれど、それは無くなっても誰かが傷つくわけではない。むしろそんなものを守るために、イリーナさんが危ない目にあうのは嫌だ。
そんな決心が伝わったのだろうか、イリーナさんはしっかりと頷き私に応えてくれた。
「分かった、死守するべきは緑色のノートだな」
いや、思っていた以上の言葉に、私は慌てて首を横に振りながら言い直す。
「違います、優先順位はまずイリーナさんです。ノートは無くなっても現状は変わりませんが、イリーナさんは別です。どうか無事に戻ってください」
するとイリーナさんは少しだけ驚いたような顔をして私を見返し、そして彼女らしく涼しげに笑う。
「了解した」
その姿がすっかり騎士らしいというか、格好良くってつい見とれてしまうほどだ。そうしてイリーナさんは託した手紙を携え、マルガレーテに向かった。
その姿に励まされた私は、部屋に戻り仕事道具を広げる。
『リズ、どうした』
やる気を復活させた私の様子に、ヤタが羽を広げて作業机の端に飛び降りてきた。
「うん、くよくよ悩んでいても時間は止まってくれないから、私は私に出来ることをしようと思うの。何より、信頼して任されたんだもの」
そうしてヒルデさんが持ってきてくれた仕事をやることにする。
私が手にしている紺色の制服は、その持ち主のもとで、たくさんの人たちを救うだろう。今、こうして閉じこもっているしかない力のない私のために動いてくれているイリーナさんと同じように。だから一針でも、二針でも、こんな時だからこそ縫い進めるべきなのだ。
私はコンファーロ製の糸を取り、心を込めて針を刺した。
そうして集中してしまえば、時間はあっという間に過ぎていった。
キリがいいところで顔を上げると、窓の外は薄暗くなってきている。そろそろイリーナさんが戻って来ても良い頃だろう。明かりを入れなければと道具を片付けていると、クヌートさんがやって来た。
だがクヌートさんの表情はとても緊張したものだった。
「リーゼロッテ様、お支度をお願いいたします。今すぐこの屋敷を出ることになりました」
クヌートさんの意外な言葉に、理解がまず追いつかなかった。
私は、ラルフたちのためにも、ここに隠っているのがいいと聞かされ、念を押されたのは今日のことだ。
「詳しくは後で説明いたしますが、ここが安全ではなくなったとラルフェルト様から連絡がありました。このような事も想定して、準備はしておりましたが……」
「ラルフは……先代様も一緒でしたよね、二人は無事なのですか?」
「はい、議院から王宮へ向かわれました。とにかく、持てるものは最低限で、できましたら動きやすい格好に」
「はい……あ、ヤタは?」
「もちろん、ご一緒に。なるべく隠して連れて行きたいのですが」
私は頷いてヤタに手を伸ばす。
「ヤタ、少し小さくなれる? ここに来た時みたいに」
『ポケットはもう嫌だ』
「我が儘言わないで、あなたまで連れ去られたら大変よ。ポケットじゃなくて鞄にするから、ほら、小さくなってみて」
するとヤタは渋々ながら、身体を小さく縮める。すると掌にちょうど乗る、雀ほどのサイズまで小さくなってくれた。
「クヌートさん、これくらいなら大丈夫ですよね?」
「はい、助かります。ではリーゼロッテ様も支度を急いでください、用意ができ次第、私とともに使用人通路を通って外に出ます。馬車は屋敷の外、少し行った先の倉庫に用意しました」
私は頷き、急いで簡素な自前の服に着替えることに。すぐにメイドさんたちが現れ、スカーフやケープを私に差し出してくれる。どれもみんな、自分の私物なのだという。それらをありがたく借り、必ず返すとお礼を言うと、どうか必ずご無事でと手を握られた。
そして最後に肩から斜めにかけられる小さな鞄をかけ、そこにヤタを忍ばせ、私は簡素な使用人服に着替えたクヌートさんとともに裏口から屋敷を出た。
私がラルフの炎の結界を抜けると、まるで何かに反応したかのように炎が高く強くなった。クヌートさんによると、炎に触れた者をラルフは感知できるのだという。
「しばらくはリーゼロッテ様がまだここに居る証として、結界は維持されます。さあ、急ぎましょう、時間稼ぎができているうちに」
私は促されるまま、クヌートさんの後について歩いた。
侯爵家の広い敷地にはいくつも離れや庭園があるため、人目につきにくい経路がいくつかあるらしい。そこを通ってたどり着いたのは、使用人が使う通用門。三重になった門をそれぞれクヌートさんが開けさせて出た先は、人の気配があまりない通りだった。
そこをしばらく歩き、路地に入った先に馬車が待機しているという。だが路地を曲がったところで、クヌートさんが足を止めた。
「どうかしましたか?」
「しっ……どうやら、馬車が使えなさそうです」
口元に手を当てて私の言葉を制し、クヌートさんが小さく呟いた。と同時に、私の手を取って来た道を戻る。
早足に彼の焦りを感じ、私はバクバクと跳ねる心臓を抑えながらついていく。
引き返す時にちらりと目の端に入ったのは、目的地と思われる建物の前にできた人だかり。教会関係者というより、街の人のようにも見えた。
しばらく歩き、周囲を警戒しながらもクヌートさんがほっと息をついたのは、路地の多い地区を抜けて大通りに出た時だった。
「侯爵家の関係者であると市民に知られると、今はまずいようです。
「市民……? 教会ではなくてですか?」
歩きながら、クヌートさんが唇を噛みしめる。
「教会が議会のみならず国王陛下にまで、正式に訴えてきたようです。我々より先に」
「訴える?」
「元凶を匿っていると」
元凶……匿う
ザアッと全身から血の気が引く音がした。
「手に入らなければ、消す。本格的にそういう手段に転換したのです」
「わ、私を」
震える手を、クヌートさんが離さないように強く握り込んだ。
「レイブラッド侯爵家も共犯であると、断罪をしてきたそうです。本当に、なんという厚顔さでしょう」
これまで穏やかな表情しか見たことがなかったクヌートさんの顔に、苦悩が見てとれる。
「すみません、私のために……」
「違います、誤解をなさらないように。私が怒りを感じるのは、教会に対してです。あろうことか、議会で断罪するよりも前に、その主張を教会で信者に通達して市民を煽っているそうです」
「市民……じゃあ、さっきの人だかりは」
「はい、教会の主張を信じる市民です。あそこだけでなく、正門にも集まってきていて、リーゼロッテ様を出せと」
「そんなことに、なっていたなんて」
「教会は我々が手を出せない罪のない市民を、盾にしているんです。どれほど恥知らずな者たちでしょう」
きっぱりとそう言い切ると、クヌートさんは再び大通りから路地に入る。
「この先の魔道具の工房、メナスという店に向かいます、そこでイリーナ様と落ち合うよう連絡を入れてあります。暗くなる前に着きたいのでもう少し、頑張ってください」
「はい」
走るほどではないけれど、かなり早歩きで急いだ。
息が切れそうだったけれど、必死でそれを隠しながら歩いていたが、日が沈みつつある路地は暗い。古びた路地のほんの少しの段差に足を取られ、よろけてしまった時だった。
転ぶのを覚悟したところで、ふわりと風に包まれるようにして体勢が戻る。
何が起こったのかと呆然とした私に、背後から聞き慣れた声がかかる。
「大丈夫?」
穏やかで、落ち着いたその声が、好きだった。いつもラルフをたしなめて、彼を思いやり、そして優しい言葉を紡ぐ人だった。
私は落胆とともに振り返る間も、その声が別人であることを祈らずにはおれなかった。
「レオナルさん……」
最後に彼を見たのは、ラルフとともにアンネと並んでデートする姿を追った時。あれから変わらない、寂しげな笑顔をたたえたレオナルさんが、立っていた。
そんな彼と私の間を、クヌートさんが遮る。
「私が食い止めます、リーゼロッテ様は先に向かってください」
「でも、クヌートさん」
否定を言わせないかのように、クヌートさんとの間に風が巻き起こり、私は数歩後ずさりするしかなかった。
「風使い同士、同じ属性なら力の差が勝負を決める。やる前から適わないのは分かっていると思うけど?」
レオナルさんはそう言うけれど、クヌートさんは引くことなく、ジャケットの胸元から短い棒を取り出す。それを一振りすると杖のように伸びた。
「経験と知恵と幸運が、その差を覆すことは多々あるものです」
「大人しくリズをこっちに渡してくれないかな……もう彼女は我々にとって邪魔者でしかないんだ。それは君たちにとっても同じだろう?」
レオナルさんから、聞きたくなかった言葉が出る。
しかし感傷に浸っている暇はなかった。レオナルさんの周囲の空気が、紫を帯びた日没の光を浴びて陽炎のごとく歪む。
「早く、リーゼロッテ様!」
私は反射的に背を向けて走り出す。
本当は、クヌートさんを置いて行きたくはない。けれども、ここに残ったって私は何の助けにもならない。
レオナルさんに掴まってしまったら、ラルフをきっと危険にさらしてしまう。
待っていてクヌートさん、必ず、助けを呼ぶから。だから走るんだ、リズ。
私は震えそうになる全身に力をこめ、がむしゃらに走った。
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