第42話 同じ想い
小さいと思っていたお屋敷は、入ってみるとマルガレーテよりもずっと広くて大きかった。
中には既に使用人が数人待機していて、入ってきた私とラルフを見ると、すぐに顔色の悪いラルフの肩を支えて、彼を寝台に横たえてくれた。
ラルフはやはり相当具合が悪かったようで、使用人に何か指示を出すと、素直に横になる。そして傍にいる私の手に触れて言った。
「すまない、リズ。少しだけ休ませてもらう」
「もちろんよ。だけど護符は? 何か助けが必要ならすぐに作るよ?」
「いい、今も魔法を使い続けているから、すぐに魔力酔いは引く」
「魔法を使い続けるって……あの堀の炎のこと?」
あんな大掛かりな魔法を使い続けて、休まるのだろうか。
そんな心配をしているのが分かったのか、ラルフは青白い顔色のまま、私に微笑んで見せた。
「あれくらいなら慣れている。それより、リズも疲れたろう」
「私は平気。このまま傍にいていい? ヤタもまだ起きてくれそうにないし、心配だから」
ヤタもまたラルフのすぐ隣のテーブルに、小さなバスケットを用意してもらい、そこにクッションを置いて寝かせている。ざっと見たところ小さくなってしまった以外には、体に傷を負っているわけでもなさそうなので、そのまま様子を見ることにした。
そうしてしばらくすると、ラルフは寝てしまったようだ。寝息は穏やかなので、私は少しだけ安堵する。
穏やかだった日差しはいつの間にか陰りはじめ、ぽつぽつと窓を叩く雨粒の音が聞こえる。雨季が始まると、こうして日に何度か雨にみまわれることが多くなる。恵みの雨ではあるけれど、今日のような日は、陰る日とともに心も重くなりがちだ。
こうして一人きりになれば、なおさら。
静かに寝息をたてるラルフと、くったりと横たわるヤタを見比べて、私は一人なのをいいことに、少しだけため息をついた。
ここのところ魔素の量が減っていたと聞いたばかりだった。なのに今日、酷い魔力酔いを起こしたラルフ。それと暴走し、黒い魔素を放出して小さく縮んだヤタ。どうしたって、二つのことが無関係だなんて思えない。
ラルフは、ヤタの魔素にあてられたのでは。
そしてヤタが暴走してあんなことをした原因は、私が襲われたからだ。でも塔の私は気づいたら黒い霧に覆われて意識を失い、一切覚えてはいない。でもどうして、私が襲われたのだろうか。
やっぱり、リントヴルムの生き残りだから? 連れ去ろうとしたのか、それとも殺そうとしたのか。
私を邪魔だと思う人がいるってことなのかな。しかもラルフの言う通り、騎士団員があの襲撃者の中に居たのなら、いったい誰にとって私は邪魔者なのだというのだろうか。
そこまで考えて、背筋が凍る。
誰を信用したらいいのか、それこそラルフではないが、私には分からなくなってしまう。
大きな寝台に寄り添いながら、温かいラルフの手をそっと握り返す。
ラルフがいてくれたから、今まで乗り切ってこれた。両親を亡くし、ここグラナートに来る勇気が持てたのは、彼に手紙を届けるという父さんの願いがあったから。それは言い換えると、ラルフの存在が私のなかでも特別なものだったからできたことだ。彼が私との思い出にこだわるように、私もまた彼との思い出が拠り所だったんだ。今更ながら、『特別』という意味を思い知る。
ラルフなら信頼できる。いいえ、ラルフだからこそ、心から信頼している自分を自覚してしまう。
こうして彼の懐にかくまわれていることは、不快ではないし、むしろ安心感さえある。けれどもそれがラルフにとって、いい事には思えない。私が頼ることで、ラルフの立場は悪くならないかしら。現に彼は私を守るために、騎士団とは別行動をとってしまっている。どんな理由があろうとも、それをさせてはいけなかったのではないだろうか。
一層激しくなる雨音とともに、心まで雨に打たれているかのように弱気になる。
いつか遠い昔にしたように、傷ついて眠るラルフの手を握る。けれどもここはお山のすぐそばのあの簡素な木造の家ではなく、美しい調度品に囲まれた貴族のお屋敷。
本当に私は、ここにいてもいいのだろうか。
じめじめとした考えを巡らせ、どうにも抜け出せそうになくなった頃、小さなバスケットの中のヤタが身じろぎをした。
「ヤタ?」
『……リズ』
ちょこんと黒い頭を起き上がらせて、金色の眼で私を見るヤタ。すぐに起き上がり、翼をいくつかばたつかせてから飛び立ち、私の肩に降り立つ。
「ずっと寝ていたから心配していたの、大丈夫?」
『リズこそ怪我はないか?』
「私は怪我ひとつしてないわ。ヤタとラルフが守ってくれたから」
『そうか、それは良かった。リズになにかあれば主さまに申し開きできないところだ』
主さまという言葉に、私は夢のなかで包まれた黒い闇を思い出した。
「私……主さまに会ったこと思い出したかもしれない」
『触発されたか?』
黒い頭をかわいらしく傾げ、ヤタは私を覗きこむ。
「たぶんあれは、生まれるより前の記憶。だから今回の羽化はまた別かもしれないけれど」
『主さまは大きくて、偉大だったろう』
「偉大かは分からないけれど、大きくて、優しかったよ」
ヤタは胸を反らして、主さまを自慢しているようだ。少し違う私の感想を聞いても、それでも満足そうに金色の目を輝かせている。
そしてヤタは、傍でぐっすりと寝入るラルフを見て、その枕元に降りて彼をじっと観察する。起こさないでねと小声で頼むと、ヤタは柔らかいシーツの上をちょこちょこと歩いて戻ってきた。
『リズは主さまと共感できたが、こやつは負荷がかかったようだ、まこと情けない』
「それはつまり、どういうこと?」
『リズに預けた羽を目印に、我は魔素となってかけつけた。その折にわずかばかり漏れた魔素に触れたことによりリズは主さまを思い出し、一方こやつは魔素をわざと吸収して負荷を負った。この身に変化するときに強引に混ぜ込ませたことで、多少は慣れがあったからこの程度で済んだのだろう』
「吸収、してしまうと普通はどうなるの?」
『強すぎる黒の魔素は、人間には毒だから』
「じゃあ、分かっててラルフは……」
周囲の人を守るために、ヤタの黒い魔素を体に吸収したの?
驚いてラルフを見る。
やっぱりラルフは、無理をしたんだ。魔素を取り込むだなんて、そんな危ないことを……でも、ラルフがそうしなかったら、町の人がリントヴルムでのように倒れていたかもしれない。
『リズ、リズ、どうした? どうして目から水を流す? 痛いのか?』
「違うの、ヤタ。悲しいの」
『悲しい? こやつがリズを悲しませたのか?』
そうじゃない、そういうわけじゃないの。そう否定するけれど、ヤタを納得させられるような言葉が出てこない。
ラルフは何も悪くない、悪いのはそうさせる私。
『なら、我と行くか?』
「行く……って、どこに?」
『主さまの元に。そうすればすべて解決する』
ヤタは真剣な眼差しで私を見上げる。
『リズは守られ、不埒者に襲われることはなくなり、そして主さまもこの中途半端な状況を脱する。そうなればもう主さまを誰も害することなどできなくなり、溢れた魔素は新たな循環をはじめる』
「リントヴルムの村に満ちた魔素も?」
『元通りとまではいかないが、人が住めぬ状態ではなくなる』
私が戻れば、村のみんなを埋葬してあげられるし、もうラルフが傷つかなくなる……
「ヤタ……私」
『ギャーーッ』
白いシーツの端から手が伸びて、ヤタを押しつぶした。
「ラルフ!」
「人が寝ている隙にリズを唆すな、何なら今すぐまた、小さくしてやろうか!」
『やめろ、羽をもぐな!』
顔だけをこちらに向けて、ラルフがヤタを掴み、寝台に押し付けている。
その表情は明らかに怒っているが、さきほどよりも顔色はいいみたい。けれどもまた魔素を取り入れてしまったら元も子もない。私は慌てて二人を引き離す。
「大丈夫だから、私はなにも返事をしてないし、これ以上ラルフは無理をしないで!」
「大丈夫? これのどこが」
ラルフがヤタを解放し寝台から起き上がると、その腕を私の方に伸ばした。
ラルフの怒っているかのような表情に身を固くすると、彼の手はそっと壊れ物でも触れるかのような仕草で、私の頬を拭った。
ほんの少し残った涙の跡を、目ざとく見つけられてる。ラルフはそのまま私を引き寄せて、腕の中に収めてしまった。
「怖い思いをさせたのなら、すまなかった」
「ち、違うよ、ラルフは悪くない。私のせいであなたが傷ついてばかりで……謝らなくちゃいけないのは私の方よ」
「リズが謝る必要はまったくない」
「だって! 私が襲われたのを守ろうとしてくれただけじゃなくて、町の人たちを守るためにまた危険を犯したんでしょう? だからまた魔力酔いでこんな……」
私はちゃんと謝りたくてラルフの腕の中から逃げようと力をこめるものの、彼の腕はびくともしない。
「リズを守るのは当然だ」
私は彼の腕の中で懸命に首を横に振る。当たり前だなんて言わないで。
「その気持ちは嬉しいけど、私は嫌。ラルフがもうこれ以上傷つくのなんて見たくないよ。あの日だって、私のせいでどんなにラルフが辛い思いをしたのか……」
「リズ?」
十年前の出会いから変わらない。いつだって傷つくのはラルフばかり。そう思うといよいよ情けなくなって、涙が止まらなくなってしまった。
「ラルフまで母さんと父さんみたいになったら、私……ラルフが無事ですむなら、何だってするよ?」
「リズ、やめろそれ以上は」
ラルフの腕が緩み、私は顔を上げて訴える。
「だって私がすべて原因なんでしょう? あの日、父さんたちと死ななかったのはつらかったけど、助かったこの命でラルフを楽にできるなら生贄にだってなる。今すぐリントヴルムに……」
帰るから──
告げるはずだったその言葉は、私の唇から出るまえに、ラルフによって吸われていってしまった。
強く押し付けられた唇は、とても熱くて。逃げようとする私を追ってきて、離さない。
触れあった唇よりも、胸が痛いほど締め付けられて思わず瞼を伏せると、より一層
深く交わる。
そうして息も絶え絶えになったところで、ようやく解放された。
「リズの気持ちが追い付くのを待つつもりだったが、俺の傍を離れると言うのなら、もう遠慮はしない」
熱い息がかかる位置で、そう告げられた。熱いのは吐息だけじゃない。真剣な眼差しも、握られた手首も、そしていつのまにか組みしかれた私の頬も、身体もすべてが熱に冒されている。
なのに再び涙を拭う手は、相変わらず腫れ物に触るかのようで、今日何度も繋いで町を回った楽しい時間を思い出す。
私は自分の気持ちに降参するしかなかった。
再び近づいてくる唇を見つめながら、溢れた気持ちを口にする。
「好き」
止まった唇が離れ、驚いたような顔のラルフにもう一度言う。今度はしっかりと。
「ラルフが好きなの。だから私のために、ラルフになにかあったら自分が許せないよ。分かってよ」
「分からずやなのはリズの方だろ」
渾身の告白に、まさかのため息混じりの返しをもらう。酷くない?
ムッとした私に、ラルフは続けた。
「同じだってなんで分からないんだよ、リズ。俺も、おまえを守れなかったら、自分を許せない」
「ラルフは、義務感で言ってくれてるんだと思ってた」
「リズが、昔の記憶のせいで自己肯定感が低いことは分かってたが……いくらなんでも義務感で命懸けられるほど、俺は聖人君子じゃない」
「でも……昔は天使さまみたいだったし」
その印象がいつまでも頭にあると言うと、ラルフの頬がひきつる。と同時に、再び距離が縮まった気がする。
「証明してやる。俺は天使とやらではないことを」
再び降りてきた唇に、私は焦る。これ以上はもう心臓がもたない。
「や、やめて、分かったからラルフ……」
すると私たちの頭上に黒い影が広がる。
そしてラルフの金の髪に鋭い爪で舞い降りると、ヤタの嘴が襲いかかる。
『おいこら、さっきから何をしている。リズが嫌がることはやめろ!』
『この馬鹿鳥が、いつか蒸し焼きにしてやる』
いつものように喧嘩をはじめた二人を眺めながら、私は慌てて寝台から抜け出して、身だしなみを整える。
でも速くなった鼓動はいつまでたっても落ち着かず、冷静になろうとしては熱い唇の感触を思い出し再び真っ赤になりと、それはもう挙動不審だったと思う。
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