第41話 触発

 真っ黒な視界のなかで、私は『』と会話をしていた。

 言葉をひとつも使わないのに、これを会話と言っていいのか分からないけれども、互いの意図がとても明確で、それでいて朧げなやりとりだった。

 私が『それ』と出会ったのは、生まれるよりも前だったと思う。母さんのお腹に入る前、傷ついて今にも消えてしまいそうな……あれがいわゆる魂という状態なのではないだろうか。

 私はそうして漂いながら、真っ暗な闇に落ちていくのが、不思議ととても心地よかった。

 たぶん、向こうの世界で死んですぐだったのだろう。私の心を占めていたのは、痛みや苦しみや両親に報いられない申し訳なさから、ようやく解放された喜び。親より早く死ぬ、家族を泣かせる私は親不孝だけれど、これでもう、私のために疲れた顔をさせずにすむ。両親が自分の人生を生きられる。私のためだけに生きる姿を見るのは、もう充分だ。それが真っ白な世界で、最後に願ったことだから。

 このまま闇に溶けて、終わりにしたい。

 なのに、私を包む黒い『それ』は、とても優しくて温かかった。

 言葉ではない言葉で、乞われるままに、思い出して聞かせた気がする。

 自分のこと。家族のこと。世界のこと、学んだ知識、それから思うように動かない体の代わりに、夢想に浸った人生を。 

 そうして長い時間をかけて話したあとで、もう失ってしまったはずの眼から、涙がこぼれた。

 厭われるだけだと思っていた人生が、それだけではなかったことを思い出してしまったから。

 白い部屋から眺める世界は、いつだって鮮やかな色を見せてくれたこと。ほんの少しの喜びを共有できる、優しい人たち。狭いながらも私の世界には、笑顔があった。

 生きたい。

 生きていたかった。

 己の足で思うままに歩き、息を切らして走り、勉強して、そして自立して、恋もしたかった。

 願ってはならないとあきらめていた思いは、消えてなんていなくて。ただそこにあるのを見ないふりしていただけだったんだ。

 もう少し、我がままを言っても良かったのかな。

 もう少しだけ、言っておけばよかった。

 荒唐無稽の夢だって、口にしたって罪はなかったはずなのに。それすら気づかないほど、縮こまっていたのかもしれない。

 でも、全部がもう、遅い。

 私の生は終わったのだから。

 ふと、黒い塊の中で、何かが動いたような気がした。同時に心に浮かぶのは、どこまでも高く澄んだ空。無いはずの両手を広げて、飛び立とうとしているかのよう。

 ああ、そうだ。

 私はもう自由なんだ。そう自覚した次の瞬間、私の広げた手はモミジのような小さくまるい手に代わっていた。

 柔らかくて温かいおくるみに包まれて、優しい瞳をした母さんを見つめていた。



♢ ♢ ♢ 


「リズ、目を覚ませリズ!」


 ラルフの声で私の意識は黒い闇から浮上したのだった。

 どうして寝ていたのかは分からないけれど、不思議な夢を見ていたようだ。懐かしくて温かい、穏やかな気持ちをもたらしてくれた。

 けれどもそんな気持ちを吹き飛ばす事態が、目の前に広がっていたのを私はまったく気づいていなかった。

 軽く頭を振って何度か瞬きをしてから周囲を見回し、私は驚きに言葉を失う。

 休日のにぎやかな市場通りは、人が倒れ、物が散乱し、綺麗に並んでいた日傘は骨のみとなっていた。


「……な、なに、これ?」


 ようやく出た呟きとともに、黒い突風が巻き起こる。

 黒い羽毛をまき散らしながら、大きな翼が私を取り囲み、その内側から金の目が光った。


「ヤタ?」

「いいかげんにしないか、リズは無事だ、収まれヤタ」


 ラルフが私を丸く取り囲む何枚もの翼を掴み、引きはがそうとするが、どうやらびくともしない。


「リズ、無事か?」

「ラルフ、私は平気。けれど、これはいったい……」

「説明は後だ、リズ。ヤタに命じるんだ。これ以上、人を傷つける必要はないと」


 私は驚いて周囲をもういちどよく見る。倒れている人たちの体には、ヤタの羽がいくつも舞い落ちている。


「まさか、ヤタがやったの?」

「襲撃者たちから、リズを守ったんだ。だがリズが気を失ったために、ヤタの暴走が止まらなかった」


 それを聞いて、羽の内側に光る金の目を見つめるが、視線が合った気がしない。

 何が起きたのかまだ全てを把握できてはいないが、これはベリエスさんの件のように、非常に不味い状況であることは分かる。

 どうやら、散乱した状況を眺める人垣ができてしまっている。


「ヤタ、お願いヤタ。私はもう大丈夫だから、元の姿に戻って?」


 聞こえたのかそうでないのか、私を取り囲む羽はますます質量を増す。


「ヤタ!」

「仕方がない、少し我慢しろリズ」


 そう言うとラルフは、ヤタの翼を掴んだ両手に金の炎を燃え上がらせた。


「ヤタ!」


 止めてと叫ぶまでもなく、ヤタは甲高い声を上げて翼を震わせた。

 そして黒い煙のようなものを吐き出しながら、しゅるしゅると音をさせて翼を畳み、小さく収縮していく。翼でできた巣のようなものの中にいた私は、ラルフの手によって引き下ろされ、地に足をつける。

 そうして鴉の姿に戻ったヤタを、私は両手の平に収めた。

 すっかり小さくなってしまったのは、力を使い果たしてしまたったせいだろうか。くったりと身を横たえ、どうやら寝てしまっているよう。

 そんなヤタを心配している私に、ラルフの緊張したような声がかかった。


「リズ、俺の傍から離れるな」


 どういうことだろうかと顔を上げると、いつの間にか私たちに周囲には、紺色の制服を着た者たちがぐるりと取り囲んでいた。同時に負傷して倒れている人たちの救護、破壊された店の片づけが始まる。

 そんな様子を見て、騒動に駆けつけてくれたのだろうとほっと息をつこうとしたのだが、どうやら様子がおかしい。それは駆けつけた騎士団だけではなく、ラルフもだ。表情を強張らせて、私を背に隠すようにして前に立った。


「ラルフ、無事か?」


 並んだ騎士たちの間をすり抜けるように、レオナルさんが現れた。その後ろから、青ざめた様子のアンネも見える。


「来るな、レオナル」


 駆け寄ろうとするレオナルさんに向けて、ラルフが右手を掲げると、私たちの周囲に金の炎が立ち上がった。

 足を止めたレオナルさんに、ラルフはさらにこう告げた。


「リズに近づくな。襲撃してきた者のなかに、騎士団員が混ざっていた。どういうことだ?!」


 その言葉に困惑している間にも、騎士たちにどよめきが起こる。


「ラルフ、それは本当か? ちょっと待て、調べるから冷静に……」

「信用できない」


 ラルフはそう言うと、再び右手を振り上げ、魔法を放とうとした。だが胸に手をあてて呻き声を上げる。


「ラルフ?」


 ぐらつくラルフを支えようと寄り添うと、彼の顔色が青ざめていることに気づく。

 まさか、魔力酔い?


「おい、ラルフ? まさか使い魔の魔素の影響なのか?」


 レオナルさんがラルフを気遣うが、金色の炎に阻まれて私たちに近づくことはできそうにない。


「ラルフ、治療をしてもらおう? このままじゃまた倒れてしまうわ」

「いい、俺はなんともない。それよりリズ、ここを離れるぞ」

「え、どういう……」


 私がラルフを支えていたと思っていたのに、あっという間に彼に抱きかかえられてしまった。


「やめて、体に負担が……下ろしてラルフ!」

「まて、ラルフ。そんな風にリズを囲っても、彼女のためにはならない」

「うるさい! 襲われたんだぞ、リズが!!」


 ラルフは私を腕に抱えたまま、青白い面を上げてレオナルさんを睨んだ。


彼女リズの命を守ると約束したのは、団長だ。団長の決定は団の意思でもあるはずだ。その騎士団の者がリズの命を狙うのなら、俺はもう何も信用などしない。リズは俺が守る。騎士団ではなく、レイブラッド侯爵家が家名をかけて」


 何が起こっているのか分からず、二人を見比べていると、いつの間に呼び寄せたのか私たちの背後に馬車が到着した。

 あの家紋をつけていない、ラルフの用意した馬車だ。

 

「ねえラルフ、いったいどういうこと? マルガレーテに帰るの?」

 

 ラルフは私の質問には答えず、魔法を使って道を開けさせると、炎に囲まれた道を歩いて馬車に向かう。

 その横顔は、とても厳しい。怒り、困惑、疑念、そして痛み、苦しさまでもが滲んでいるようだった。

 私はどうしたらいいのか分からないまま、彼の肩越しに残されたレオナルさんたちを見守るしかなかった。

 炎に阻まれながらも、レオナルさんはなおラルフに「そんなことをしてはだめだ」と叫ぶ。

 心配そうな顔で私を見つめるアンネに、視線で「大丈夫だから」と訴えるものの、それが伝わったかどうかは分からぬまま、私を乗せた馬車の扉はバタリと閉じたのだった。

 馬車はラルフが指示をせずとも、すぐに動き出したようだった。

 私の横に座ったラルフは、すぐに背中を丸めて咳き込む。私は慌てて手に包んでいたヤタを、スカートのポケットに入れることにした。


「ヤタ、少しだけごめんね。後で必ず手当してあげるから」


 そうしてから、苦しそうにするラルフの背をさすった。また血を吐くほどでなければいいのだけれど、彼の状態は私には判断できない。


「無理しないで、横になったほうが楽ならそうしていいよ?」

「いい、大丈夫だから」

「大丈夫なんて思える顔色じゃないわ」

「まだだ。まだやることがある」


 なんて強情なんだろう。


「リズを守らなければ」


 今、彼を助ける護符すら手元にはない。苦しさを堪えながら、うわ言のようにそう繰り返すラルフを、私はただ抱きしめるしか方法はなかった。

 今日はあんなに楽しかったのに。どうしてこんなことになったのだろうか。

 破壊された市場と倒れていた人々を思い出し、背筋が冷える。

 もしあれが、私を守るためにヤタがしたことならば、すべて私の責任だ。いくら襲われたからって、町を破壊するのはやりすぎだよ。

 どうやって償えばいいのかすら分からない。

 そう考えを巡らせているうちに、馬車が停まったようだ。いったいここはどこかと窓の外を覗くと、見たことがない景色だった。再び馬車が動き出し、庭園のよううな中を進む。見事な並木の向こうに、ちらりと見えた大きなお屋敷。もしかしてここは……

 小さな堀に囲まれた建物の前で、再び馬車が停まると、今度は扉が開かれた。

 ふらつくラルフに手を貸しながら降りると、待ち構えていた衛兵が私の顔を見て驚いたような顔をした。

 私はそれを見てすぐに、彼が以前会った人物なのを思い出した。


「あのときの、手紙を受け取ってくださった門番さん!」


 彼はニコリとして私に小さく頭を下げた。私は恐縮しつつ手紙のお礼を言うも、彼は返事をすることなく、私とラルフに道を開けた。

 彼が背にしていたのは、堀を越える橋。その先に続く道を行くと、小さなお屋敷が見える。


「結界を張る。しばらく誰も近づけさせるな」

 

 ラルフの言葉を受け、衛兵たちがわらわらと動きだす。そして門番だった彼が笛のようなものを取り出し、吹き鳴らした。

 堀を渡るラルフを支えながら、よく通る美しい音色を聴く。遠くで同じ音色がこだましていき、その笛がある種の連絡手段なのだと悟る。

 そして私たちが橋を渡りきった瞬間、お堀の水が金色の炎を吹き上げた。

 ぐるりと高くそびえる炎が、太陽の光を浴びて金にゆらぐ。その色はまさにラルフの色。

 そうして堀に囲まれた一帯は、彼によって封じられたのだった。

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