第31話 黒いアレ

「チッ、どうしてリントヴルムにいたアレが、ここにいるんだ」


 ため息まじりの舌打ちを、こんなにも嬉しく思う日がくるなんて思わなかった。


「立てるか、リズ?」

「……うん」


 苛立ちとともに呼ばれる名前、乱暴に引き寄せられる腕。彼の鋭い眼は鋭く私の頭上を通り越し、こちらに向く気配すらない。


「どうして、ラルフがここに……」


 ラルフは私を立たせたものの、足をもつれさせる私に苛立ったようだった。男性としては細身のその腕で簡単に私を抱え上げ、立ち上がる炎のそばから退いた。

 今の彼は、どこもかしこも幼いラルフとはかけ離れている。だけどそれが間違いなく今の彼で、しかも好ましいとさえ感じる自分がいる。

 こんな状況下で、私はそんなことをぼんやりと考えていた。


「イリーナの使い魔が俺の元まで来て知らせてくれた。間に合ってよかった」

「使い魔?」

「あれだ、見えるか?」


 ラルフの視線を追って振り返れば、彼の放った黄金の炎の向こうを、軽やかに走る鹿のような残像が見えた。

 驚いて瞬きすると、すぐに消えてしまう陽炎のような姿。

 目をこらすと角のない鹿が再び見えて、それが綿花小屋の前にいるイリーナさんの周囲を一回り。そして完全に消え去ってしまった。


「……初めて見たか?」

「うん、精霊とは違うの?」

「根は同じだが、厳密には違う」


 よく分からない説明に首を傾る私を意に介さず、ラルフは私を突き放した。そしてほとんど蒸発してしまった残りの水たまりをのぞきこむ。

 危なくはないのだろうかとハラハラしながら見守っていると……


「しぶといな」


 ほんの手のひらほどの水溜まりのなかで、小さな黒い魚影が跳ねた。

 次の瞬間、ラルフが持ち上げた右手拳が金の炎を帯びた。


「……だ、ダメ!」


 咄嗟に飛び出してしまっていた。

 黄金に燃え盛る炎をまとった彼の腕に、しがみつく。


「っ、リズ?」

「やめて、ハーディーは誰も傷つけてないわ」


 魔法を消し去り、険しい表情で私を振り向くラルフに訴えた。


「彼も生き残りだわ、リントヴルムの! これ以上、あの村を覚えている存在を失いたくないの」

「……リズ?」

「コンファーロさんの工場での損害なら、私が弁償するわ。一生かかったってちゃんと働いて返すから、だからお願いハーディーを助けて」


 私の懇願に驚いたような表情のラルフ。

 だけど彼は私を再び突き放した。

 押されて指から離れた彼の袖の先、そこに炎が点るのを見て私は悲鳴をあげた。


「危ないから離れていろ、リズ。後でちゃんと説明する……レオナル、任せた」

「……はいはい」


 突き飛ばされた私を受け止めてくれたのは、いつの間に来ていたのか、ラルフのパートナーであるレオナルさんだった。

 普段物腰が柔らかいとはいえ魔法騎士、わめき暴れてもびくともしない。レオナルさんに抱えられたまま、ちいさな水溜まりが炎によって蒸発していくのを、ただ見ているしかなかった。


「ひどい、ラルフの馬鹿ぁ!」


 背中を向けて蒸気に包まれるラルフから、舌打ちが聞こえる。

 私は悔し紛れに繰り返す。


「人でなし、唐変木、変態、ハゲ……」

「誰がハゲだ!」


 近所の奥さんの、夫婦喧嘩のときの殺し文句を引用してみたところ、後ろ向きのまま返事が返ってきた。


「だったら止めてよ、お願いだから」


 半べそをかきながらそう懇願すれば、私を押さえ込んでいたレオナルさんが声をかけてきた。


「……あのさあ、リズ、誤解してると思うけど」

「へ?」


 振り向けば、笑いを噛み殺したようなレオナルさん。


「くくっ……ハゲ……いやいや、核は残すから死なないよ、目的はあのアバタールを操っている奴だから」

「……操る?」

「そう、二つの匂いがするからね。すごく似てるから俺には分かりづらいけど、ラルフェルトは片方をよく知ってるみたいだし大丈夫だろう。今はまとわりついている方を、強引に引き剥がしてる」


 二つの匂い……魔力の?

 なら一つはハーディーだ。ラルフは彼の池に落ちたから、間違えるはずない。


「本来なら火であるラルフェルトには分が悪いけど、イリーナのおかげで力を削いであるから心配ないよ、上手くやってくれる」

「……本当?」


 すると立ちこめていた蒸気が突然失われ、さらに小さくなった水から、今度は真っ黒な霞がふわりと立ち上がる。

 もやっとした実態のないそれは、まるでイリーナさんの使い魔を見失ったときのような頼りなさ。

 その黒い霞が風に乗ったかのように、筋となって私の方へ流れてきた。


「レオナル!」


 振り向いたラルフが、焦ったような形相をしていた。

 足元から風が舞い上がり、私とレオナルさんの周囲を守るように吹き荒れる。

 だけど黒い霞は、そんなの関係ないとばかりに私の目の前にたどり着き、黒い塊となった。


「リズ!」


 駆け寄るラルフと私を支えていたレオナルさんが、同時に地面に押し付けられた。

 一人立ち尽くす私は、自分の意思とは正反対に、手を差し出す。

 その手の平の上で、その黒い塊が、ある形を作りあげた。

 黒い、艶のある楕円形。

 長い触覚が左右に動き、六本の足を持ち、カサカサと手のひらを歩く。


「…………な、なん、で」


 ここにゴキブリが……

 言葉を失っていると、その黒い二枚の背を開き、茶色い羽を広げ、今にも飛び立とうとしたところで、私の神経は限界値を越えた。


「きゃあああああああ!」


 渾身の叫びで酸欠を招いたせいか、手にあるもののせいか……私の意識はそこで切れた。

 ああ……この世界では存在しないと思っていた。

 できれば、一生出会いたくなかったのに。




♢♢♢


「リズ、しっかりしろ、リズ?」


 ただ呼ばれて、目を開けた。

 ここがどこで、いったい自分が何をしていたのか、よく思い出せない。

 まばたきをしながら、どうして視界いっぱいにラルフの顔があるのだろう。


「……気がついたか?」

「ラルフ?」

「ああ、そうだ」


 ほっとしたように頷き、ラルフが視界から消えた。

 それを追うようにして起き上がれば、ようやく自分がベッドに寝かされていたことに気づく。


「……ここは?」

「まだ急に動かない方がいい、ここはコンファーロの製糸工場にある休憩室だ」


 それで見覚えのない部屋なのか。

 もしかして、ラルフはずっとそばにいたのだろうか。

 戸惑う私に、ラルフが王子さまのような優雅さで、そばに置かれてあったストールを私の肩にかけてくれた。


「覚えているか? リズは気を失っていたんだ」

「……そういえば、アバタールが」

「ああ、間に合ってよかった。リズ、怪我は……痛いところなどあるか?」

「……いいえ、どこも」


 そうか、そうだった。

 逃げ惑って、無事に綿花小屋から逃げ出して……だから嫌な夢を見たんだ。この世界にいるはずのない、アレに出くわしたなんて。

 と、そこまで考えて気づく。


「夢、じゃない。ラルフ、ハーディーは? それにあの黒い……」

「落ち着け、リズ。ハーディーは死んでない」

「……本当?」


 ラルフは不満そうな顔をする。


「ああ、取水口近くのため池を借りて、そこに入れてもらってある。そんなに俺が信用ならないのか」

「……そ、そんなことないけど」

「けど? 色々言ってくれたよな」

「あ……つい、ごめんなさい」


 口が滑ったのは、素直に謝る。だけど肝心なことを答えてもらっていない。

 言葉にするのも嫌なアレ。

 自らの手の平を見つめ、手に感じたあの感触を、思い出しただけで全身から血の気が下がる。


「おい、また気を失うつもりか」

「……だ、だって!」


 震える私の正面で、ラルフが真剣な面持ちで更に恐ろしいことを言う。


「あれはリズの手の上で、吸い込まれるようにして消えた。あの黒いものは、何か知っているのか?」

「て、てて、手に? 吸い込まれ……」

「落ち着け、大丈夫だから」


 シーツに擦り付けるように手をぬぐう私。

 大丈夫ってなにを根拠に?


「あれは、使い魔だ」

「……え?」

「恐らく、とんでもなく上位精霊の、だ。それがどうしてか、リズに近づこうとリントヴルムのハーディーを利用してここまで来たらしい」

「……どういう、こと?」

「悪いが、説明している俺にもさっぱりだ」


 ええ? なんて無責任な。

 私からの無言の非難も理解しているのだろう、ラルフは眉間にシワを寄せたまま、ひとつ深いため息をついた。


「リズは魔力に鈍いから気づいてないだろうが、あの使い魔はまだここにいる」

「え!」


 私は肩をびくりと震わせ、周囲をキョロキョロと見渡す。天井からサイドチェストの下へも。


「リズが恐れるのは、あれの形状なのか?」

「だって、ゴキブリが大っきらいなんですもの!」

「……ゴキブリ?」

「そう、あの黒光りする背中に大きな触角! どこにでも現れて……って思い出させないでよ!」

「それは、リントヴルムの生き物なのか?」

「違うわよ、前世の世界で最も嫌われる虫で……」


 私はハッとする。

 なんで、使い魔が、別の世界の生き物の形をしているのか?


「使い魔は……魔力をもとに生まれる。だから元々の決められた形をもたない。生み出した精霊の意思、またはそばにいた生物や人の影響を受けて、己の姿を決める」

「そう、なの?」

「ああ、だからそのゴキブリとかいう生き物の形をもつアレは、リズの記憶をもとにあの姿となったんだろう」

「い、いつ? あの手に乗ったときに?」

「いつかは分からないが、リズが思い浮かべた姿を写し取ったのだろう」


 私は首を横に振る。

 黒い霞から姿を変えたとき、私はほんのわずかな間、凝視した。それからアレだと気づいて、心臓がとび出るかと思うほどに驚き、全身で拒絶したのだ。


「どちらにせよ、なぜリズの元に引き寄せられて来たのか、直接聞き出すしかない。覚悟しろ」

「……覚悟って、まさか」

「まだリズの周囲にいるそのゴキブリとかいう姿の使い魔に、問いただす」

「……ラルフが?」

「リズが」


 青ざめる私に、ラルフは容赦ない。


「使い魔はリズに会うために縁のあるハーディ―を使ったのかもしれない。だとしたら、要件を聞くまではこのままずっと、付きまとわれるぞ、いいのか?」

「それは嫌、です」

「あれの色は災いを呼ぶ、やるなら早い方がいい。リズは俺が誘導するのに従っていればいい。覚悟を決めろ」


 究極の選択を迫られた私は、泣く泣くラルフに頷くしかなかった。

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