第30話 水棲のアバタール

 アメーバーみたいに集まって、およそ人型をつくる水の塊が目の前で形成されていく。

 透明な人型のなかでごうごうと水が渦をまき、所々形を崩しては、再び形作る。その人型の中では、激しく動いているのが見える。それだけを見ても、強い力と意思をもってそこに在ることが分かり、お腹の底に嫌な焦りがわき上がってきた。


「アバタールたちは、魔力の塊。原始的なアバタールほど、自然と魔素が溜まるところに引き寄せられるそうですわ……」


 クリスチーナお嬢さんは青ざめた表情で、積まれた綿花を見つめる。

 ちょうど水のアバタールが立つ位置にある、綿花の山。まだあの山は、選り分けられる前のものだ。


「チャンスがあったら、いったん外に出た方が良さそうね」

「どうやって……目張りしたんですよ」


 そんな会話をしている間にも、水棲のアバタールは綿花の山のなかに、自在に変化する水の触手を伸ばす。


「水でなにもかも洗われてしまうだけでしたら、よろしいのですけれど。大事な綿花をおいしくいただかれるとは、思いもよりませんでしたわ」

「そういえばお嬢さん、逃げる途中の綿花畑でも、いくつかの苗を狙って踏みつけているような動きをしていました」

「……目的は魔力の補充とみていいでしょう。ならば綿花を食べ尽くしてしまうまでは、安全とも言えるわね」


 息を殺すようにして、私たちはアバタールが綿花を漁る姿を見守る。

 けれど、私は気づいてしまう。

 各々に手渡した刺繍は、護符。それは今まさに水のアバタールが食べているらしい、特別な糸で作られていて……

 クリスチーナお嬢さんも同じことに気づいたようだった。青ざめた顔で私たちを振り返った。


「皆さん、護符をこちらに。私がなんとかします」


 震える唇から発せられたのは、コンファーロ家を継ぐ者としての責任感、精一杯の強がりだったのだろう。

 差し出された手は白く、小さく震えていた。


「早く!」


 強い口調で促されて、使用人たちがおずおずと護符を差し出せば、それを奪うクリスチーナさん。


「ほら、リズも!」

「で、でもそれじゃクリスチーナさんに危険が」

「私なら大丈夫ですわ……た、たぶん」


 たぶんって!

 心の中でツッコミを入れながら、足下の空間を見下ろす。

 タプタプと揺れる水は、意志を持っているかのように寄せて塊になったかと思うと、崩れて広がる。そんな動きをくり返しているけれど、それがいつ終わりこちらに襲いかかってくるか分からない。

 あれに呑まれたら、どうなるのだろうか。


「貸してください、クリスチーナさん」


 彼女の持つ護符の布きれを奪い、裁縫鞄に乱暴にしまい込む。

 そして梁の上に足を踏ん張り、鞄ごと思い切り放り投げた。


「なにをなさいますの、リズ!」


 放物線を描きながら四角い鞄が、綿の山の反対側へ落ちていく。

 床にぶつかっては、二転、三転して壁まで転がる鞄。中には母さんの刺繍と糸。丈夫な箱の内側にクッションがあるとはいえ、天井に近い梁から落とされたのだから、すべてが無事だとは思わない。

 それに……

 まるで新たな餌に反応するかのように、水のアバタールの一部がアメーバのように鞄の方向に、一筋伸びた。


「リズ、あの中にはあなたの大事なお母様の形見で……」

「いいんです、少しでも私たちが助かる時間が稼げるなら、母さんは喜んでそうしろって言います」

「でも……」


 ゆっくり壁側に移動していくアバタールを見下ろしながら、先ほど施錠した玄関の方が手薄なのに気づく。


「それより、ここを出ましょう。どうやら人間よりも魔素に惹かれているようですから、あの護符の糸に気を取られている間なら隙ができると思います」

「リズ……ありがとう」


 クリスチーナさんにもそれが最善であることは分かっているようだった。使用人たちを励まし、協力して梁から降りることになった。先導するのは男性で、恐怖に腰を抜かし気味の女性従業員に手を貸して抱き下ろす。その後ろにクリスチーナさんが続き、最後は私になるよう、順番を待つ。


「リズ、先に行ってちょうだい」

「いいえ、私が最後で。木登りが得意ですから、逃げ遅れる可能性は私の方が少ないもの」

「でも」

「クリスチーナお嬢さん、早くこちらに!」


 女性を下ろした男性従業員が、クリスチーナさんを呼ぶ。

 仕方なくクリスチーナさんは言われた通り、梁に腰を下ろし、慎重に机に積んだ椅子の上に足を乗せる。

 私がしんがりを希望したのには、木登りが得意な他に、もう一つ理由があった。

 私は、魔力が全く扱えない。

 恐らく、最悪取り込まれてしまったとしても、美味しくないから放り出されるかもしれないんじゃないかと、そんなことを考えてのことだ。

 なにせ魔法では、火すらまともに起こせないレベルなのだ、水棲のアバタールが引き寄せられるような魔素そのものが、誰よりも少ない可能性が高い。

 前世を思い出した今、なおさら魔法に対する親和性が失われているような気すらしている。


「リズ、あなたも早く続いてちょうだい」


 すっかり床に降りたクリスチーナお嬢さんが、私を手招きする。

 未だ綿花に未練を残しているのか、アバタールの身体……というか水そのものにしか見えないのだけれど、本体の半分はまだ動かない。

 その水の塊を見張りながら、私は梁を降り始めた。

 ゆっくり、ゆっくりと水たまりが移動していく、アバタール。

 あれに意志はあるのだろうか。

 物体となって動くとはいえ、ミロスラフさんやベリエスさんとは、同じ存在だなんて思えない。


「ああ、リズの大事な鞄が……」


 ついに大きな本体が、私の投げつけた鞄に覆いかぶさった。

 クリスチーナさんはコンファーロを継ぐその力のため、きっと護符を惜しんでくれているのだろう。彼らにとっては、手塩にかけて世に出した特別な糸たち。

 だけどそれを捨てなければ、私たちの退路は確保できたかどうか……


「いいんです、効果を失っても形が残ればそれで」


 元々護符というより、デザインの形見としか思っていなかった。

 残された綿花のようにびしょ濡れにはなるかもしれないけれど、物理的に食べられてなくなるわけではなさそうだ。


「ここには二重の仕掛けがしてありますの、外から施錠しても結界が張れます。救援が来るまでの時間稼ぎにはなるでしょう。急ぎましょう」

「はい」


 私を待っていてくれたクリスチーナさんの背を追いながら、玄関に向かって走り出す。

 先に降りた従業員の二人が、既に鍵を開け、扉を開け放っていた。

 あと数歩。

 もう少しで外に出られると思ったその時だった。

 私の足が、前へ進むのを拒む。

 勢いあまって転倒して、その音で振り返ったクリスチーナさんが、驚愕していた。


「リズ!!」


 取られた足にまとわりつくのは、冷たい水だった。


「こっちへ、手を伸ばして!」

「駄目、クリスチーナさんは逃げて」


 彼女の差し出した手を払うと、扉を押さえて待っていた男性従業員が、青ざめながらもクリスチーナさんを引っ張り出す。


「や、やめなさい、リズを助けないと!」

「無理です、お嬢さんまで掴まってしまいます!」

「でもそれじゃ……きゃあ、リズ、リズ!」


 二人が揉み合う姿が、声が、遠くなる。

 まるで池にでも落ちたかのように、水に包まれてしまっていた。

 ゴポゴポと渦巻く水音が耳をふさぎ、溺れる恐怖からもがきながら立ち上がろうとするのだけれど、うまくいかない。

 ほんの目の前にある水面に手を伸ばすのに、届かない。そんなもどかしさの中で、どうしてか思い出すのは、村から御山に入ってすぐの池。

 主のハーディが悠々と泳ぐその魚影。

 彼もまた、御山の噴火で死んでしまったのだろうか。

 あのとき……ラルフが池に落ちたとき、ハーディは彼を襲うことはなかった。ただあの魔素の乏しい山で、池から出ることなく、何十年もそこにいたアバタール。

 そう、今なら分かる。彼もまた、わずかな魔素から生まれた、水棲のアバタールだったんだ。

 そんな一瞬の郷愁が、息苦しさでかき消される。

 ほんの少し残っていた空気が、肺から漏れた。

 助けて。

 そう心で叫んだ瞬間だった。

 

 冷たくまとわりついていた水が、ほんのりと温かくなったと思えば、潮が引くかのように私から離れていった。


「ごほっ、げほっ……」

「大丈夫、リズ?」


 水を飲んだわけではなかったけれど、解放された安堵からむせた私の背を、撫でる手。

 見上げた先にいたのは、なんとイリーナさんだった。


「良かった、間に合って。少し離れて待っていて、すぐに片付ける」


 イリーナさんは握りしめた右手を、水の塊に差し出した。

 目を伏せ何かを小さくつぶやいたかと思えば、その拳から光が漏れる。そっと広げる指の間から、真っ赤に輝く宝石がこぼれ落ちた。

 きらきらと煌めきながら赤い石が水に触れると、凄まじい音を立てて蒸気が立ちあがった。


「こっちへ、リズ」


 クリスチーナさんが戻ってきて、私を綿花小屋から引きずり出してくれた。

 びしょ濡れの私をハンカチで拭いてくれながら、クリスチーナさんが泣きそうな顔だ。


「リズに何かあったら、どうしようかと……良かった、本当に良かった」

「……ありがとう、ございます」

「怪我は?」


 つられて半べそをかきそうになる私に、駆け寄ってきたのは騎士団の制服を着た女性だった。


「大丈夫です、私よりイリーナさんが」

「心配はいりません、彼女は訓練生とはいえ優秀ですから」


 綿花小屋の窓、煙突、半開きになった玄関からたちこめる真っ白い蒸気。

 イリーナさんの魔法属性は、確か『地』。彼女を守護する雌鹿は、赤い瞳を持ち、それは大地の奥底に眠るマグマの力を象徴するのだと、学んだ。

 だからイリーナさんの魔法は、その熱量をもって水を気化させているのだった。

 綿花小屋の周囲には、魔法騎士団だけではなく、救難信号を聞きつけた工場内の警備員たちまで、大勢がかけつけてくれていた。

 これでもう大丈夫。

 私とクリスチーナさんが、肩を抱き合って安堵しあう。


「さあ、ここは彼らに任せて、私たちは一旦本工場のお祖父様の元へ」

「……はい」

「あとで必ず、リズの鞄は回収させるわ、だから今は諦めて」


 私が後ろ髪を引かれるように綿花小屋を振り返ったのは、いまだ小屋から出てこないイリーナさんが気になったからだった。

 そう思って眺めていたところに、蒸気の向こうから人影が出てきたのに気づき、ホッとする。

 本当に、これで終わったんだ。そう思ったのに……


「核が見当たらないですって?!」


 歩き始めた足を止めるには、充分なほどの声だった。

 ざわめく背後の様子に、クリスチーナさんもいぶかしげに振り返る。

 しかしクリスチーナさんの見る先はもっと手前。次第に彼女の表情が強ばり、血の気が失せていくのを見て、私も目線を上げた。

 白く漂っていた蒸気が、霧散することなく集まっている。

 そんなばかなと声も出せずに見守っていれば、蒸気はさらに大きくなった。


「クリスチーナさん、に、逃げましょう」


 カクカクと頷くクリスチーナさんの上着を引っ張り、もつれる足を何とか動かして、私たちは後ずさる。

 なのになぜか蒸気が追ってくるではないか。

 私たちは叫びながら、走り出す。

 どうして、こっちに来るの!

 そんな問いに答えてくれるはずもなく、蒸気は私たちの周囲を取り囲んでしまった。

 パニックのなか、聞こえるのは、甲高い声で唱えられる呪文。

 魔法で蒸気を払おうと、大風が吹く。イリーナさんとともに駆けつけてくれた女性騎士が、両手をかざしながら必死な形相だった。

 だけど蒸気から水へと次第に姿を変えていくのを目の当たりにしてしまうと、私たちの恐怖は更に高まる。

 ごうごうと渦巻く風に巻かれながらも、新たな水の塊を形成していくアバタール。

 その中央に、丸い頭に長い二本の髭、くねる長い尾。見覚えのある黒い影が見えた。


「……ハーディ?」


 自然とその名が口をついて出ていた。

 なにを言っているのだろう、自分でもそう思う。


「リズ!」


 クリスチーナさんの声にハッと我に返ったときには、再び水の中に取り込まれた後だった。

 心構えすらする暇なく、透明な水の檻に閉じ込められ、すぐに苦しくて耐えられなくなる。

 水が渦巻いてよく見えないけれど、クリスチーナさんは地面に尻餅をつき、私を見上げている。どうやら彼女は巻き込まれなかったみたい、それだけは良かった。

 でも、苦しい。

 こんな畑の中で、水死だなんて恥ずかしすぎて嫌だな。

 いよいよ遠くなりかけの意識は、まともなことを考えられなくなっていた。

 ああ、またしても成人すらできずに死ぬなんて。

 こんなに早く死ぬなら、いっそのことあの日、リントヴルムでみんなと一緒に……行けたらよかった。

 瞼を閉じ、覚悟を決めたとき。


『それは困る』


 え?

 耳もとで聞こえた声に、再び目を開けば。

 黒く小さなもやが現れたかと思うと、無数にうごめいて溢れだした。風に煽られる水よりも速く、黒いものが竜巻のように私を取り囲み、水の塊を弾き飛ばした。

 水から解放され、私はしゃがみこむ。水揚げされた魚のように口をあけて、新鮮な空気を取り込むので必死だった。


「リズ、そこを動くな!」


 鋭い声に反応する間もなく、私のすぐ両脇を轟音を響かせながら黄金の炎が走った。

 同時に、背後から回された腕に抱きすくめられていた。

 その腕が与えてくれる安心感のなかで、炎が何もかも巻き込み天まで立ち上がるのを、私は呆然と見つめるのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る