第28話 特別な糸

 グラナートの北部には、煉瓦造りの建物が立ち並んでいた。

 それらは町をぐるりと囲む城壁の向こうに流れる、川の水を汲み上げるポンプ場なのだという。コンファーロさんの大規模な製糸工場も、その一帯のなかにあるそうだ。

 住宅がまばらな区画には多くの木が植えられていて、南部にある貧困街……たとえばエンデのような地区とは全く様子が違っていた。


「一帯の林には、ジエロのための木が植えられているわ。それらはよく大地や大気から、魔力の元となる魔素を集めて浄化を促してくれるから、浄水場にも必要。綺麗な水が豊富に手に入るここに、製糸工場があるのは理にかなっていいるの」


 馬車の中から眺めていた私に、クリスチーナお嬢さんが説明してくれる。

 村でも用水路や井戸のそばに必ず植えられる木があった。村ではそういう物に頼らなくても自然の自浄作用で充分、困ることはなかったけれど。


「ここの土地を儂らコンファーロの先祖に、最初に貸し出してくれたのが、貴族であるレイブラッド家の五代前の当主だったのよ」


 長く階級制を続けてきた国なので、貴族以外の平民が財を成すことはいまだ稀。そのなかでも、私が小さな頃から名前を耳にすることがあったのは、製糸で成功したコンファーロ社。彼らの製品は、辺境の村リントヴルムにも僅かだけど届いていたし、裁縫で小遣い稼ぎをしていた母の道具箱に、必ず入っていたのを覚えている。


「地方から集めた綿だけでなく、小さいけれど奥に畑もあるのよ」

「……あ、あそこに通っていくのって、騎士団の馬車?」


 馬車の窓から見えた煉瓦の建物。そこに二台の馬車が入っていくのが、ふと目に入った。住宅が少ないこの近辺では、もう馬車とすれ違うことはなくなっていた。そこに黒塗りの特別頑丈そうな馬車が見えたのだ。

 はっきりと確信はなかったけれど、昨夜乗せられた馬車にとてもよく似たものだった。


「ああ、あれは警護の交代だと思うわ。ここの水路は大きいから、そこを伝ってまれにアバタールが入り込むことがあるの。魔法騎士団でしか対処できないとはいえ、大変でしょうね」


 そんなことも請け負っていたのかと、彼らの仕事の多様さに驚いてしまう。


「とはいえ、見張りだから下積みの騎士団員が、主に来ているそうよ。ラルフェルト様たち高位の魔法使いは、問題が発生してから連絡を受けて駆けつけてくるのだと思うわ」

「……そうなんですね」

「ええ、それでも居てくれているのとそうでないのとでは、雲泥の差なのです」


 ポンプ場が立ち並ぶ一帯を通り抜けたすぐのところで、馬車は小道に入る。

 鉄の格子を越えて馬車が停まったのは、並木の奥にある煉瓦の建物の前。正面の玄関は誰もいないけれど、別の入り口付近には、五台もの荷馬車が並んで待機している。馬車に大きな荷物を運ぶ、従業員たちの姿が見えた。


「グラナート周辺すべてに、ここから出荷されることになっている」

「こんな朝早くからなんて、大変ですね」

「まあそれは噴火以来のこと……従業員の安全のためにだ。城壁の外へも配達があるから、その荷から出発させている。日中であれば対処ができることも、暗い時間ではそうもいかない」


 コンファーロさんの言うことは、もっともだった。夜はどうしてもアバタールたちを活性化させる原因である、魔素の密度が上がるのだそう。人間が起きて活動しているだけで大気中の魔素は吸収されるし、人が使った魔力で密集した魔素は撹拌されてしまうのだとか。人や動物の動きが少なくなる夜は、魔素が淀んで集まり、小さな低級アバタールを生み出す元となる。

『だから、日が暮れてから一人で外に出てはダメよ、リズ』

 それはマルガレーテでまず教わったことだった。

 大気や大地、食べ物などの中に漂うものが魔素、それらを体内に取り込んで使うために精錬されたものを魔力、その魔力を編み上げ現実に起きる現象を魔法と呼ぶのだそう。だからラルフたちは魔法使いと呼ばれるのだ。

 正直なところ魔素と魔力の違いすら、魔素のない村で育った私にはちんぷんかんぷんだった。けれどそんなことは言っていられない。

 コンファーロさんが言った通り、学ばなければならない。

 私がもっと上手に護符を作れるようになれば、もう二度とラルフが倒れるのを見なくても済むかもしれないから。


「どうしたの、リズ? 早くいらっしゃって」

「あ、はい」


 クリスチーナさんに促されて入った先で見たのは、大きな作業場。天井は高く、蒸気がそこかしこから上がっていて、一歩中へ入るとじっとりと肌を圧迫してくる湿度に驚く。


「ここはジエロの繭から糸を取り出すところよ。見たことはあって?」

「いいえ、綿花はとてもよく育ってくれたんですが、リントヴルムではジエロが居つかなくて」

「それは仕方がないんじゃよ、あの土地には魔素がない。ジエロは魔素を取り入れて繭糸の養分としているのだから」

「……そう、だったんですか」


 元々ジエロから取れた糸で織られた布は、高価で辺鄙な村ではとても買えるようなものではなかった。だから村で手に入るのは、せいぜい刺繍用の糸。しかも高価なので特別なものに取っておく人が多かった。だからジエロがいなくても、私たちはなんら気にはならなかったのだ。

 だけど知ってみれば、そんな虫の世界にとってさえも、リントヴルムという土地は特殊なのか。魔素のある土地とそうでないリントヴルムでは、あらゆることが違うのだと、今更ながら思い知らされる。


 まだ朝早い時間なせいか、工場の中の従業員は、仕事に入るための準備をしているようだった。

 蒸気を入れ、糸を撚るための機械の滑車に油をさしている。

 昔懐かしい足こぎミシンのようなベルトで歯車を動かし、くるくると回る針に糸を通し、それらが五本ほど集まってさらに撚るために回転する。そんな仕組みのようだった。


「きみに学んで欲しいのは、ここではない。来なさい」


 機械を見入る私に、コンファーロさんがそう言う。彼のあとをついて行くと、そこは糸として製品になったものを置いておく、保管庫だった。

 いくつかの棚にある引き出しを開け、コンファーロさんが数種類の糸の束を目の前に並べる。


「特別な糸がこの中にあるのだが……リーゼロッテ、どれか違いは分かるかな?」


 コンファーロさんの言葉を受けて、並べられた色とりどりの糸を眺める。どれもジエロの糸で、とても艶があって美しいものばかり。刺繍用だろう、鮮やかな色彩はどれも使い勝手が良さそうだった。色は白と、黄色、深い緑に、ラルフたちの制服と同じような濃紺もある。それから……漆黒の糸。

 ジエロの黒はとても染めにくいと聞いたことがある。

 だから思わず手に取ってみたくなってしまったのが、本音のところだったのに。


「そう、それが特別な糸だ、やはり分かるのか」

「え……?」

「……リーゼロッテ?」


 私の狼狽を、コンファーロさんは察したようだった。


「あの、特別ってどういうことですか?」

「自覚をしているわけではなかったのか……しかし躊躇せずにそれを取ったように見えたようだが」

「あの、とても美しい黒で……すごく気になって。つい手が動いてしまっただけです。誤解させたなら、申し訳なかったです」


 私の弁明を聞き終えると、コンファーロさんが再び引き出しを開けて回る。

 そして今度はもっとたくさんの、染められた糸を出してきた。同じように刺繍用のものばかりではなく、布の切れはしから、飾り紐に組まれたものなども混ざっていた。


「あ、あの……これは?」

「同じように、選んでもらえるかな。美しいとか、使ってみたいと思ったものでかまわない」

「はあ……」


 私は言われた通りに、糸や布の束を眺める。

 どういうことだろう……

 コンファーロさんだけでなく、クリスチーナお嬢さんにまでじっと見つめられる前で、私は緊張しながら言われた通りにする。

 考えたって分からないものは、仕方ない。母さんが生きていたらきっと勧めるだろうなと思える、金色に近い色で染められた糸、それと変哲もないのだけれど気になって仕方がない鴬色の布切れを取り上げた。


「……どうしてそれらを?」

「あの、この刺繍糸は生前の母が、最後に縫っていた刺繍に欲しがっていた色だったから……こちらの布は、自分でもよく分かりません。古いしなんだか気になっちゃって」

「他には?」


 クリスチーナお嬢さんが身を乗り出して聞き返してきた。


「例えば、これ見てると光るとか、暖かくなるとか……そうよ、寒気など感じたりしていませんの?」

「いいえ!」

「まったく?」

「ええと……はい、全然」


 綺麗な翡翠色の編み上げおさげを揺らしながら、私を問い詰めるクリスチーナさんに、私はもう一度首を横に振ってみせたのだった。

 するとコンファーロさんが大きな声で笑いだした。


「クリスチーナ、こういうことに正解はない。そう責めるように聞いては失礼だ」

「でもお祖父様、すべてが偶然で片付けるには、あの護符の効果は説明できませんわ」

「リーゼロッテ、きみの選んだものはすべて、特別な糸で作られている、特別な用途に使われるものだ」


 特別な用途?

 私は改めて自分の選んだものとそれ以外を見比べてみる。違いはまったく分からないけれど、ここに来た理由を思い出してみれば、答えだけは分かる。


「マルガレーテで作るものが、その用途ですか?」

「その通り。護符を作るための糸だ」

「……違いが、分かりません。でも、コンファーロさんたちにははっきりと分けられるんですか?」

「ああ、分かる。この糸を見分ける能力が、そもそも我が家とレイブラッド家を結びつける、きっかけとなったのだから」


 コンファーロさん一族の能力なら、私に分からないのは当然だ。でもそれじゃ……どうして私は当てられたのかしら。


「だがこれは、我々一族に限った能力ではないよ、リーゼロッテ。マルガレーテの従業員たちは、みな見分けている。それぞれが感じる方法は違うけれど、はっきりとな」

「私は、糸がやたらと光って見えますのよ、リズ。艶があって、きらきらと光を反射するガラスのように美しいの」

「儂は、触れれば熱を感じる」


 ひたすら驚いている私を、コンファーロさんはまた違う部屋へと導く。

 そこは工場の棟を一旦出て、中庭を抜けた先の小さなとんがり屋根が連なる棟の集まりだった。そこはジエロを飼育している場所だそうで、今まさに工場へ運ばれる前の繭を積んだ篭が用意されていた。

 繭は、前世で見た蚕のものとそっくり。ただ山ほど入った繭のなかに、ほんのりと色がついたものがちらほらあった。

 ジエロについては無知な私は、単純に種類があるのかしらと思っていたのだけれど、そうではなかった。


「ジエロは、魔素を吸って養分になると説明したでしょう? このほんのり色がついた繭は、よりたくさんの魔素を吸って成長した繭よ。これらが護符に強力な力を与えてくれるわ。仕組みは……はっきりとは分かってないのだけれど、魔法使いたちは口を揃えて言うの。この糸を使った護符……マルガレーテの護符は他のものと違うって」

「……そうだったんですね。使っていて少しも気づかないなんて、私、どれほど鈍いのかしら」


 まったくもって、自信を失う事実だった。


「違うわリズ、結局は間違うことなく選んでいたじゃないの。だからラルフェルト様の大事なハンカチ、あれもリズが使いたいと選んだ糸でしょう? あれがいい証拠よ」

「あれは、村で作ったものですから、特別な糸なんて使ってるはずがないですよ」

「リーゼロッテ、儂らは一般の糸のなかに、わざと特別な糸を混ぜて流通させておるのだよ、昔から」

「……混ぜて? 特別な糸を?」

「用途に分けてではなく、混ぜて分からないようにして同じ値段で売っている」

「ど、どうしてそんな」


 マルガレーテの製品が価値を持つように、その素材になる糸や織物が、他のものと同じ場所、同じ値段で売られてる。つまり、誰にでも手に入る?

 にわかには信じられない事実だった。


「それこそがここの地代として、五代前の当主たちが決めた約束だからだ。儂ら一族は有利な土地で紡績工場を営業する権利を得る代わりに、一般市民のなかの魔法紡ぎを、利益を投じて助ける。針子のなかには、マルガレーテ従業員と同じような護符を、編める者が少なからず存在する。それらの針子ならば、必ずこの特別な糸を選べるはずだ。ならばなんとしてでも届けねばならない、市民が買えるだけの値段で。……彼らを助けるということは、国中の魔法使いを守るのと同義。代々強い魔法使いを輩出してきたレイブラッド家ならではの、痛快なアイデアじゃろう?」


 小さなラルフの回復を祈って刺したすみれの刺繍は、小さかった私が縫える、数少ない図案だった。だから何かを考えて選んだわけではない。

 でも……

 薄くなった記憶を辿れば、ずっとそばについていてくれた母の存在を思い出す。

『すみれの色を引き立てる色はそうね……これなんかどうかしらリズ?』

『わあ、綺麗な色。きっと若い葉っぱにはいいと思うわ、母さん』

 まさか、母さんも?

 私は慌てて、持参した道具を鞄から取り出した。大きな包みをほどき、そのなかに入れておいた刺繍のひとつを手にする。

 それは長い間、私が見本にしていた、母さんが刺した薔薇の花の刺繍。どれひとつ同じ色の花びらがないのに、見事に一輪の花としてまとめられている。小さな刺繍だけれど、しっかりと母の世界を表している私のお気に入り。目立たないところにも、絶対に手を抜かない母の仕事は、私の憧れだった。

 その布切れをコンファーロさんに差し出す。


「母が、リントヴルムで作ってくれたものです。母は私の知るかぎり、村を出ることはありませんでした。いつも村で針や糸を買っていたはず。裁縫で家計を助けてくれていて、でも母も裁縫が大好きで……」

「……手に取ってみてもいいかね?」


 私は母さんの刺繍を、コンファーロさんに手渡した。

 それを受け取ったコンファーロさんは、眉尻を下げながら私に告げる。


「間違いなく、これはすべて特別な糸。魔法紡ぎだからできる仕事だ……きっときみは、お母さんからその素質を受け継いだのだろう」


 母さんが、魔法紡ぎ。

 幼い頃、母の道具箱を覗くのが大好きだった。少なくなった糸も、大切に巻き直して取ってあったから、いつ見ても鮮やかな色彩に溢れていた。どんな宝石箱よりも輝いていて、わくわくしたのを思い出す。


「リズ?」


 ──嬉しい。

 父さん母さんと、確かに私が繋がっていたという証が、こんなところにもあった。

 マルガレーテで働けるかぎり、私は魔法紡ぎであった母さんの娘であり続けられる。リーゼロッテであってもいい理由を、またひとつ取り戻せたような気がする。

 ありがとう、母さん。

 母の刺繍を、溢れそうになる涙をこらえながら抱き締める。

 そんな私を、クリスチーナお嬢さんは不思議そうに眺めていたのだった。

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