第22話 リズとリズ

 慌ててマルガレーテの正面玄関を開けるために、階段を駆け降りる私。

 もちろん、ヒルデさんから鍵はもらってきた。今日はマルガレーテは休業日なのだから、本当はありえないのだけれども。

 薄いカーテンを閉じた扉の向こうに見える影は、見上げる高さ。その姿に焦ったせいか、上手く鍵が開かない。

 ガチャガチャと音をたてる向こう側から、声がかかる。


「慌てなくてもいい、リズ」


 ……どこかホッとするのは、ラルフの声が珍しく落ち着いていたからだろうか。

 ゆっくりと鍵のつまみを回して、音をたてて錠が外れた。そっと重い扉を押せば、外からラルフがそれを助けてくれる。

 そして現れたラルフを見れば、いまだ制服をまとったままの姿だった。


「お仕事、こんな時間までだったの?」

「ああ、入れてくれ」


 ラルフをいつもの応接間に通し、ベリエスさんが用意しておいてくれた温かいお茶を取りにいく。階段の途中でそのベリエスさんに出くわしたので、私は盆を受け取ってラルフの元へ。

 戻った部屋には、いつもより深く椅子に身をもたれるラルフの後ろ姿が見えた。


「ラルフ……疲れてる?」

「そうだな、市の警護は人が多いから得意ではない」


 私はカップにお茶をつぎ、ラルフに勧める。疲れた体には、温かいものが効く。


「それだけじゃないよね、レナーテさんの件で遠くの街に行ってたって、レオナルさんが……それに、昨日も来てくれたんだよね? 留守にしててごめんなさい」

「……レオナルは口が軽すぎる」


 なんだか不機嫌そうな顔でお茶を傾けるラルフに、聞いてはいけないことを聞いてしまったのだろうかと、不安になった。だけどラルフの続く言葉は、そうではなかった。


「直接リズに会ったのは偶然のくせに、べらべらと。あいつが勝ち誇る意味がわからん」


 人当たりのいい笑顔を浮かべながら、常にラルフの乱暴な言葉を受け流しているレオナルさんを思い浮かべてしまう。


「俺は店が休みだなんて聞いてなかったし、会ったときに直接リズに説明するつもりだったんだ」


 そう言いながらラルフは、羽織っていた上着を脱いで、私に押し付けてきた。

 そんな仕草がすねた子供のような気もして……ああ、きっとラルフは居なかった私を怒っているのではなく、むしろそれを残念だったと思ってくれているのだと悟った。

 なんて、分かりにくい人。

 だけど……少し嬉しいのもたしかだった。


「袖の飾り釦がほつれた。直している間に話す」

「……うん」


 照れたようなラルフから、私は笑顔で受け取った。


「釦の縁が傷になってるから、予備のものにつけ直すね」


 応接室に用意されている裁縫箱を取り出して、ほつれた糸を外しながら、ラルフの話に耳を傾ける。

 ラルフたちは、レナーテさんに入れ墨をするようそそのかした人物を追い、グラナートを出ることになったみたい。だけど隣町に着くと、とたんにその足取りが掴みきれず、結局捕まえられずに戻ったこと。しかたなくもう一度、グラナートの街で捜索を初めからやり直すことになったということだった。


「……逃がす仲間がいたのかもしれないとも考えている」

「それは、ええと……他にも大勢悪い人たちがいるってこと?」

「そう、組織として」

「どうして、なんだろう……」


 疑問に思っていたことがある。


「まだ年若いレナーテさんを苦しめても、たいしたお金になんてならないでしょう? どんな目的があってそんな危ないことをそそのかすの、それに何の意味があるの?」

「リズ……魔法使いにも悪いことを考える者がいるんだ。力があるだけに、今の混乱した状況を利用して……」

「利用って、国中に溢れている魔素のことだよね?」


 ラルフがしまったという風に、口を閉じる。私もまたそれに気づかないふりして話を変えるのは、問いの行き着く先に、故郷の名が出てくることが分かってしまったから。


「……今日ね、エンデ地区で子供たちに会って、楽しかった」

「ああ、気づいてた。繕いものをしてやってたろう、リズは昔から誰かのために何かしてばかりだ、人が善すぎる」

「え、そんなことないよ? ……それに今日はちゃんとお礼は受け取ってるし」

「本当か?」

「うん……レギオン先生にたしなめられて、だけど」


 ほらみろと言いたげなラルフ。


「それならいいが。それよりあいつと……おなじ宿にいた奴と一緒だったろう、あれはどういうことだ?」

「あいつって、もしかしてルードさんのこと?」

「名前なんか覚えなくていい」


 ルードさんの名前が出たとたん、またしても不機嫌そう。もう少しで舌打ちが出てきそう!


「ルードさんに失礼よラルフ。お世話になったお礼に、妹さんへのお土産を一緒に選んであげてたの」

「本当にそれだけか? 他に約束とかはしてないだろうな?」

「あ……ええと、うん。してない……」

「なんだよその、はっきりしない返事は?」

「してない、してないってば!」


 今のところは。そんな言葉を続けそうになったけれど、必死に飲み込んだ。

 でもどうやら機嫌は治ったみたい。こんなに表情が変わるラルフも珍しいような……いちいち口出ししてくる様子は、まるで父さんみたい。なんて思って少しだけ頬をふくらませていると。


「おまえの世話を、頼まれてるから……手紙で」

「手紙って……父さんから? なんて書いてあったの? やっぱり私のことをラルフに頼んであったのね」


 前はそんなことないって言ってたのに。

 そう言って問い詰めれば、ラルフは渋々だけど教えてくれた。


「天涯孤独になるリズを心配していた。リントヴルムの名が邪魔をして、助けが必要になるかもしれないと」


 それを聞いて、浮かれていた私の心が一気に冷えた。


「私ね、ラルフ。嘘をついて仕事を探そうと思ったの」

「……リズ?」


 手元に視線を落とせば、あっという間に終わるはずの釦直しが、いつまでも止まったままだった。あと三針も通せばいいだけのはずなのに。


「ずっと仕事を断られ続けて……どうしてかな、私が頼りなく見えるからかなって悩んで……でももう帰るところもないし、頑張らなきゃって。でもね、十件目でようやく気づいたの。ラルフと最初に会ったあの日よ、リントヴルムの名前は出さない方がいいって、最後に行ったお店のご主人に言われて……それでようやく気づいた」


 お父さんは、いまわの際で分かっていたのだ。そうなることを。


「今さらだけど今日、エンデ地区で起きたことを知ったわ。私には、魔素が溢れていることすらわからなかったから、そんなことになってたなんて想像もしてなくて……リントヴルムで起きたことが、子供たちの住む家を襲った鼠たちの原因で、そのせいでラルフが……町を」


 誰かがやらなくちゃならないとはいえ、護っているはずの町を焼く。そんな仕事をラルフにさせたのも、リントヴルムで起きたあの日の噴火のせい。


「リズ、それは違う。あれは自然の定めた成り行きでしかない。噴火自体はどうにもできない。誰のせいでもないんだ」

「分かってるわ、でも……すごく悲しいことだったけれど、みんなが巻き込まれて死んで、でもそれで終わりだと思ってた。まさかこんな遠くまで、影響があったなんて思わなかったの」


 慰めの言葉を探しているのか、黙ったままのラルフの前で、私は再び針を動かす。ただし、動揺したままの気持ちを込めてしまわないよう、少しだけ深呼吸を繰り返してから。

 これ以上、ラルフが怪我をしませんように。リントヴルムから吹き出した魔素が、もう二度と彼を傷つけませんようにと、心を込めた。

 糸を始末して、目の前に座して待つラルフに差し出せば、彼は受け取ったけれど着ようとはしない。

 そして苦しげな表情を浮かべた。


「すまない……リズ」

「やだ、これは私が請け負った仕事じゃないの、なんで謝るのラルフ?」

「違う、そういうことじゃない」


 てっきり繕い物に対しての言葉だと思ったけれど、それは違った。


「リントヴルム村で起きた異変の知らせを受けて、すぐに馬を走らせて向かったんだ。だけど間に合わなかった。それどころか溢れた魔素の波に呑まれ……すまない。助けてやれなかった」

「ラルフ……」


 山に近づく生き者、そのほとんどを死に至らしめたリントヴルムに、ラルフが行くですって?

 ダメよ。考えただけでも恐ろしくなり、そんなことをしてはダメと私は必死に首を振る。


「魔法騎士団などと名乗っておきながら、俺はあの村には近づけなかった……幼い頃、命を救われたのはあの村があり、そしてそこにリズがいてくれたおかげなのに、何一つ受けた恩を返せなかった」


 ラルフの表情は苦悩に歪み、膝の上で握る拳が、白く血の気を失っていた。

 私は、今までラルフのどこを見ていたのだろうかと、殴られたような気持ちだった。私は彼を、その華麗な容姿と乱暴な言葉使いだけで見ていたのだ。

 遠い記憶の中にある、清らかで傷つきやすい繊細な少年ラルフは、いまも確かに彼のなかに居る。


「それこそ、ラルフが責任を感じることなんてないよ。それに私は無力で、ラルフのためになにも出来なかった……むしろ傷つけて」

「いいや、リズがあのときの俺を救ったんだ。今もずっと!」


 ラルフはシャツの襟元から見え隠れする、メダリオンを握りしめていた。

 彼にとってリントヴルムという村の、そしてへの想いを、目の前に突きつけられた気がした。

 だけど私は……は、彼の中のリズと同じなのだろうか。

 私の動揺が伝わったのか、ラルフがじっと見返してくる。

 それに耐えられなかった私は、彼から逃れるように立ち上がり、すっかり冷めたお茶を自分にも注ぐ。


「ありがとう、ラルフ。そんな風に思ってくれて……でも今日はもう遅いよ、帰って休んだ方がいいと思……」


 後ろからふわりと包まれた温もりに、息が止まった。

 触れそうで触れない腕に囲われ、額の生え際だけに柔らかく、温かい温もりを感じたとたん、火が点ったかのように頬に血が集まる。


「リズ……」


 かすれたように小さな声で名前を呼ばれて、背筋が震える。

 なのに頭を占めるのは、どうしてルードさんの名前を覚えてほしくないのとか、彼ともう約束を交わしていないことに安堵してくれたのはなぜとか、そんなことばかり……

 ドキドキと高鳴る心臓の拍動を、心地よく感じながら聴くのは生まれて初めてかもしれない。そんなことを思ったとき、都合がいい私に釘を刺すかのように甦るのは、真っ白い部屋とベッドの記憶だった。


「あのときのようにリズに守られるのではなく、次は必ず俺がリズを守れるようになる。そう誓った……」

「ラルフ……」


 生きるために懸命だった少年ラルフが、小さなリズに誓った想い。それを今の私が受け取っていいはずがない。

 そっと包む腕のぬくもりに身を任せてしまいたい衝動に、負けてはいけないと私は唇を噛む。

 以前夢で見た少年時代のラルフとの記憶が、白いベッドと手慰みの刺繍糸に塗り重ねられてしまったことを、ラルフは知らない。なのに、あの頃のリズはもういないかもしれないことを……私は言い出す勇気もないのだ。

 振りほどけない。

 弱くて、自信がなくて、ずるいリズ──


「ごほん、お邪魔してもいいかしら?」


 はっとして顔を上げれば、二階へ続く階段の踊り場から、ヒルデさんが苦笑いを浮かべていた。

 同時にラルフの腕も離れていって……


「無粋だヒルデ」

「そっちこそ、可愛い従業員を困らせないでくださいな、泣かせたらラルフェルト様といえど出禁ですよ」

「泣かせる……?」


 覗き込もうとするラルフから逃れるようにして、私は顔を隠す。だって……


「リズ?」


 肩を捕まれてどうしたって隠せなくなった私を見て、ラルフはひどく傷つくに違いない。私はそれくらい情けない顔を晒していると思うから。


「ほらほら、苛めはダメだよ。これだから若造は」

「っ、ミロスラフ!」


 ラルフからかすめるようにして私を解放させたのは、ミロスラフさんの細い手だった。彼は飄々とラルフを遠ざけ、私に耳打ちする。


「ヒルデのところに行ってなよ」

「でも……」

「いいから、今日はもう遅い」


 私はミロスラフさんの言う通りにラルフから離れ、階段で待っていてくれたヒルデさんの元へ。そうしてからラルフを振り返れば、彼はいつものようにミロスラフさんに舌打ちしていた。


「そう怒らないで、彼女はまだ色んなことに慣れてないんだよ、新しい生活、君との再会もそうさ」

「知ったような口ぶりだな」

「まあ、ゆっくりおやり、人間の十年はあっという間だけど、それでいて君たちにはとてつもなく長い」


 にんまりと笑うミロスラフさんに、ラルフはもう一度舌打ちしてから私の方を見た。


「また明日も来る。約束だ」

「……うん、ごめんねラルフ、私……」

「謝らなくていい」


 それだけを告げると、ラルフは翻して玄関へ向かう。私が釦を繕った上着を着ながら、ミロスラフさんに導かれ去る後ろ姿を、ヒルデさんとともに見送った。

 ごめんなさい、ラルフ。

 どうしたらいいのか分からなかったの。


「疲れたわね、もう休みなさいなリズ」

「ありがとうございました、ヒルデさん。ミロスラフさんにも……」

「いいのよ伝えとくわ、気にしないで」


 ミロスラフさんにもお礼をと思ったのだけれど、ヒルデさんは問い詰めることはせず、私をさっさと部屋へ押し込めてしまった。

 今日はたくさんのことがあった。短い人生を繰り返し、ただ幼少期の時間が長いだけの人生経験は、ちっとも役に立たないと知った。

 ふと、どうしてか気になって窓をのぞく。

 私の部屋は大通りからひとつ小路へ入る角の部屋なので、街灯の並ぶ通りを容易に見渡せる。

 カーテンの隙間から下を見てから、私は反射的に背を向けた。


「ラルフ……どうして?」


 まだマルガレーテの前に佇み、こちらを見上げるラルフがいた。そんな彼の視線と、目があった気がした。

 もう一度ゆっくりカーテンの隙間からのぞくと、ハニーブロンドの後ろ姿が遠ざかっていく。

 私は窓を背にしながら、思い出したように速いリズムを刻む胸に、手を当てる。

 まるで深く奥底に仕舞われてしまったリズが、暴れて泣いているみたい。そう思いながら……。

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