三章 エンデの風見鶏広場

第17話 最悪ですっ?

 たくさんのハンカチに刺繍を刺し終え、指がすっかり痛くなった頃。私はエマに連れられて、グラナートの南西に位置するエンデ地区というところに来ていた。


「うわあ、凄い眺め!」


 感動に声が上がってしまうのは、仕方がないと思う。だって、私が立つ小高い丘からは、丘陵に段々と連なって美しい、たくさんの茶色の屋根たちが眼前に広がる。

 城砦のような壁に囲まれたグラナートの街は、こうして高い位置から眺めると、綺麗な円径ではないのがよく分かる。ここのエンデと呼ばれる地区は、まるで小さな半島のように突き出た、グラナートの西の端っこだ。

 その半島にある小さめの家々を囲うように、煉瓦積みの防壁があり、それを越えると、地平線まで広がる森と草原が見えた。街を避けるようにして流れていた川と、グラナートの中央を流れる川が、水門の外で合流し、平原をゆったりと蛇行して空との境目にとけて見えなくなるまで、遮るものは何もない。

 雄大、という表現がぴったりの景色だった。

 自分がこのグラナートに入ってきたのは北の門。そことはかなり違う様子に、しばし興奮しながら眺めていたのだけれど、待ちくたびれたエマから苦笑まじりに忠告をもらう。


「そのまま飛び込まないでちょうだいね、リズ。この風見鶏の広場から街までは、ざっと五階分くらいの高さがあるのよ?」

「え? あ、うわっ」


 足元を見れば、柵があるとはいえ、そこは断崖絶壁。

 急に視線を近くに戻したせいか、ふわりとした浮遊感に襲われ、ついつい尻餅をついてしまった。


「ほらごらんなさい」

「あ、ありがとうエマ」


 手を貸してくれたエマにお礼を言い、照れ隠しにスカートを払った。そして笑うエマから自分の篭を受け取り、賑わう広場へと二人で戻る。

 今日は、ここ風見鶏の広場で明日から行われる、バザーの準備を手伝いに来た。本来ならば街の中央に位置する「マルガレーテ」の関わる地区ではないのだけれど、懇意にしている縫製協会会長さんからの依頼により、今回はお店をあげてお手伝いすることになったのだそう。

 といっても出来ることといえば、商品を出品することぐらいなのだけれど。

 作った商品を入れた篭をエマとともに抱え、芝の植わった広場にたくさん並ぶ仮設テントの一角へ。大勢の女性が机を用意し、そこに商品を並べるための準備に勤しんでいた。

 そのうちの一人、初老の女性にエマが声をかける。


「やあ、よく来てくれたね、エマ!」

「こんにちはメンガー女史、商品をお届けに来ました。ついでにお手伝いもしてくるようにって、ヒルデガルトさんから言われてます。あ、こちらうちの新人のリズです」

「ああ、ヒルデから聞いてるよ、マルガレーテ期待の新人さんだね? 私はツィツィーリア・メンガー、縫製協会の売り場を任されてるけど、本来は協会の会長秘書をしてるの」

「よろしくお願いします、リーゼロッテ・エフェウスといいます。リズと呼んでください」


 期待の新人だなんてヒルデさんってば、盛りすぎはやめて。

 私が顔を赤らめて自己紹介すると、彼女は大きく一つ頷き、人懐こい笑顔を浮かべてくれた。


「私の事は好きに呼んでくれていいよ。みんなはメンガー女史って呼ぶんだけどね、リズ?」

「はい、ありがとうございます、メンガー女史」

「こっちこそ助かるよ、二人とも。今回はあんなことがあった後だろう? ありがたいことに、あちこちから商品がたっぷり集まってね、準備が追いつかないんだ。悪いけど頭数にさせてもらうからね」

「もちろん、頑張ります」


 そう言ってエマと二人、作業に加わることに。

 大きな日除けテントの下にいた女性たちは、ざっと十人くらい。女史を除けば、私とエマと大して変わらない年齢の人たちばかりだった。簡単に挨拶を交わせば、私ほどではないけれど、みんな縫製店の経験の浅い針子ばかりだった。通常業務ではない市の手伝いなのだから、よく考えてみれば当然かもしれない。

 メンガー女史が言っていた通り、目の前には積みあげられた商品の山。私が作ったハンカチと同じような小物に始まり、子供服や鞄、どれも刺繍や飾りが施されていて、手が込んでいるものばかり。それらに値段をつけて、種類に仕分ける作業を始めた。


「作ったお店ごとに、並べて売るわけじゃないのね」

「そうよ風見鶏の市では、商売というより、ボランティアなの。なるべく欲しい品物を見つけやすいように並べているわ。宣伝は二の次ね」


 そうなんだ……。私たちが持ってきた小物たちも、他の商品に混ぜられ、種類ごとにまぜこぜになってしまった。

 自分の作ったものは自分にしか分からない。そう思ったのに……


「おや、ヒルデの言った通り、あんたなかなかの腕じゃないかリズ。ちゃんと護符になってる」


 大袋に合流させてすっかり行方不明になったはずのハンカチの一枚を取り出し、メンガー女史が持って眺めているのは、確かに私の作った刺繍入りハンカチだった。

 どうして? 目を白黒させていると、隣のエマが笑う。


「女史は、私たちと同業だったのよ、だから分かるの」

「同業?」

「そう、マルガレーテとは別の、特別な縫製店に。他の普通の人たちには分からないわよ」


 何がどう違うのかはわからないけれど、マルガレーテ従業員として認められたようで、悪い気はしない。

 私は嬉しくなって、目の前に山積みされた商品を、一つずつより分けていく。見れば、どれも手が込んでいるものばかり。エマの説明だと、かなり格安で売りに出し、その利益の一部を協会経由で寄付されるというから、もっと簡単な……言うなれば安っぽいものばかりかと思っていた。

 エマとは反対側で作業をしていた、エプロン姿の女性が、毛糸でできた小さな猫のぬいぐるみを気に入ったのか、手にとって眺めている。


「これ、すごく可愛いわ。とっておいてもらってもいいかしら?」

「ああ、あんたんとこの娘はまだ小さかったね。いいよ、全部集めてから値段を決めるから、そのあとでも良ければ買っていきな」


 メンガー女史に、女性が嬉しそうにありがとうと伝えた。するとエマが仕分けの手をせわしなく動かしながら、羨ましいといった風に呟く。


「いいなあ、私にも何かご縁があるといいんだけど……」

「ご縁? ほしいものがあるの?」

「ああ、リズは知らないのか。あのね、風見鶏の市でこれいいなぁ、って惹かれたものを買うと、良いことがあるって言われてるの。だから幸運を求めてお客さんもやってくるわ。私たちの商品も、だから必要とする人の元へ自然と渡るように、こうして他のお店のものと混ぜてしまった方がいいのよ」

「へえ……そうなんだ」


 なんだか不思議。でもそれでようやく、エマの言っていた縁という意味が分かったような気がした。

 日本も、そういう人や物との出会いに、縁を感じる文化だった。死と隣り合わせに生きてきた過去の自分のこともあり、運命という言葉は好きではないけれど、そういう小さな縁を大切にするのは、悪くないと思う。こうしてエマと知り合うことができたのも、小さなきっかけの積み重ねだから。

 そう思うとなんだか隣のエマが、とても愛おしくなり、自然と顔が弛む。


「なあに、変な顔して」

「なんでもない、こうしているのも楽しいなって思って」

「そりゃ仕事じゃないから気楽だけど……年寄りみたいに達観しないでよリズ」


 年寄りって……そりゃまあ、短いとはいえ二つ分の人生を味わっているだけに、否定できないのだけれども。

 それから商品を仕分け終わって、値札を作り並べ終わると、私たちはお役御免となった。明日からの市での売り子は、既に当番が決められていて、地区が遠い私たちに出番はない。

 お手伝いが終わったエマと私は、準備が整ってきた店の下見をしてから帰ることになった。

 ヒルデさんの好意で、明日と明後日はマルガレーテが休み。エマたちと一緒に、どちらかで遊びに来る予定なのだ。風見鶏の広場で開かれる市には、協会で寄付を目的としたバザーもあるけれど、地元の商店の出店も並ぶ。みんな、どちらも楽しみにしているのだそう。

 とにかく早く見に行こうと、なぜか焦る様子のエマに手を引かれ、縫製協会のテントを出ようとしたところで、突然後ろから声をかけられた。


「ちょーっと待ちなさあーーい! 私の前から逃げるだなんて最悪ですっ、エマ・パッツェン!」


 え?

 高らかに、そして高圧的にもかかわらず、どこかハツラツとした声は、若い女性のもの。

 あちゃあ、といった風に顔を手で覆うエマの代わりに振り向けば……。そこに仁王立ちしていたのは、どこからどう見ても、お嬢様といった様子のきれいな女性。

 その人が、不敵な笑みを浮かべて左手を腰に、そして右手を私たち……いえ、エマに向けて指差していた。


「……知り合い?」


 エマを窺うように聞けば、げんなりとした顔のままうなずいている。

 どうやらお嬢さんの声が大きく、よく通るせいか、周囲のテントにいる人々も、何事かと見守っていた。ただ……縫製協会のお姉さん方だけは、苦笑いを浮かべているのはなぜ?


「ちょっと、聞いているの? エマ・パッツェン!」

「いちいちフルネームで呼ばなくても聞いてますって、コンファーロのお嬢さん」


 エマのその返事には、ため息も含まれている。というか、そんな返事をするエマが珍しい。なので、二人がどういう関係なのか、さっぱり読めないでいると。


「彼女は、縫製協会の会長をされている、この国一番の紡績工場を持つ、ガレリオ・コンファーロさんのお孫さんよ」

「そ、そうなの……」


 エマが私にそう教えてくれたのだけれど、さすがにご本人の目の前であからさまのような……

 するとやはり、お嬢さんもムッとした表情。


「中途半端な紹介は失礼よ、エマ。私にはクリスチーナという立派な名があるって、いつも言ってるでしょう」

「はいはい、そうですね失礼しました、クリスチーナお嬢さん」


 すると一応は満足したのか、そのクリスチーナさんは胸を張って「分かればいいのよ」とお許しをくださった。

 でも……口角が持ち上がり、それを隠そうとしつつも、頬が上気しているように見えるのは、気のせいかしら。

 協会長というガリレオ・コンファーロさんという方は、私も知っているくらいの有名人。社長をしているガリレオ氏が、縫製協会長までしているのは初耳だったけれど、国一番の紡績企業といえば、コンファーロ家。何を作るにしても、コンファーロの布や、刺繍糸にまでどこかしらに含まれているので、いつもお世話になっていると言ってもいい。

 となればなるほど。確かにすごいお嬢様には違いない。

 白い肌が美しく映える小麦色のワンピースは、白いフリルがついたエプロンドレス風。編み上げブーツは爪先が細くスマートで、仕立ての良さを感じさせる。服と揃えた色合いの帽子には、フエルトでできたアイビーの飾りがあり、その帽子の下からは、鮮やかな翡翠色の髪を綺麗に編み上げたおさげが揺れていた。勝ち気そうな表情を強調するのは、少し釣りぎみだけれど、大きく愛らしい目。健康そうなさくらんぼ色の唇は、あと数年もしたら艶やかさを増すのだろう。

 同年代くらいだと思うけれど、彼女の容姿、格好、そしてその自信に満ちた表情。全てにおいて、自分とはまったく別の次元の生き物のようにすら感じる。

 

「で、私に何の用ですか、クリスチーナお嬢さん?」

「あなたに聞きたいことがあって来たの、最近、どこを探してもラルフェルト様がいらっしゃらないの、あなた彼がどこにいらっしゃるか、ご存知じゃない?」

「……どうしてそんなことを私に聞くんですか、知りませんよ」

「だ、だってあなたの店に、最近は毎日のように出入りしていたって、私知っているのよ」

「そりゃ、お客様ですから。ですが勝手にいらして勝手に帰られますので、所在までマルガレーテでは関知してません」


 どうして彼女がラルフを探しているのだろう。そんな疑問はあるけれど、私もラルフが店にやって来なくなってから、彼がどこにいるかなんて知らない。それはエマだって同じだろう。

 クリスチーナお嬢さんは、素っ気ない返事をするエマに、それでも食い下がる様子。

 

「そ、それはそうでしょうけれど……次にいつ顔を出されるか、聞いてるんでしょう?」

「……お客様の情報は勝手に話すわけにはいきません。申し訳ありませんが、騎士団へお問い合わせください。それでは」


 行くよ、そうエマに促されてお嬢様に背を向ける。

 いいのかな……。なんて思って振り向いてしまったことを、この後すごく後悔することに。


「ちょっと、話が終わってないわよ、エマ・パッツェン! それに、その子は誰?!」


 その子?

 誰のことかとキョロキョロと見回してみて、そこでお嬢さんと目が合う。

 白魚のような指が差し示す先は、どうやら私……って、え? 私?


「まさか、新しい従業員を入れたっていうのは、本当だったのね!」

「……ああ、もう面倒くさい」


 そう呟き、再び顔を覆うエマ。


「あれほどヒルデに頼んでも、私を雇い入れなかったくせに、どういうこと? 人手が足りてるからって、そう言ってたのよ?」


 ええと……どういうこと、かな。嫌な予感がするんだけど……。

 もう彼女から逃げられなくなったと諦めたのか、エマは苦笑まじりにこう続けた。


「こちらは、今月からマルガレーテの従業員になった、リーゼロッテです……以後お見知りおきを、お嬢さん」


 驚きの表情で固まり、わなわなと震えるお嬢さんに、どう挨拶すべきなのか分からず。とにかくペコリと頭を下げたところで、今日一番の発声をいただくことに。


「な、なんですって。私がどれほど懇願しても仕事をさせてくださらなかったのに……こんなの最悪ですっ!!」


 後で教わったのだけれど、「最悪ですっこれ」が彼女クリスチーナお嬢さんの口癖なんだって。

 うん……確かに面倒くさいかも。

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