エピローグ『消えない想い』①


「彩ー? なにしてんの遅れるよー?」


 坂道の途中、わたしよりも高い位置から友達の千穂ちほちゃんが振り返る。


「ごめんね。なんだかぼんやりしちゃってた」


 わたしの悪い癖だ。桜を見ていると時間の経過がわからなくなっちゃう。


 今年の桜は、なぜかいつもより鮮やかに色付いて見えて、もう少しだけ眺めていたい衝動に駆られる。


 千穂ちゃんはぐいっと距離を詰めてきた。やたらと真剣な顔だ。


「しっかりしてよ。大丈夫? そんなんでコンパ行けんの? 気合入ってる?」

「え、なにそれ? わたし行くって言ったかな?」

「だってさぁ、彩が来るのを条件に今回のコンパ決まったようなもんだし」

「えっとね? わたしなにも聞いてないと思うんだけど」

「いまから彩が不参加になったら男子たちやる気なくすし」

「そんなこと言われても、わたしのせいじゃないような気が……」

「ところてん先輩からは死んでも連れてきてくれって本気で頼み込まれてるし」

「う、うーん。ていうか、ところてん? 先輩?」

「ほんとのほんとに頼まれてるし。もうわたし涙目だし」

「あ、あはは……」

「とりあえず後で打ち合わせだかんね? お願い! いっかい話聞いてくれたら彩も行く気になると思うから!」

「えぇ……と」

「お願い! ほんとにほんと! わたしの顔を立てると思って! わたしは愛に生きるって決めたの! もう決闘を挑まれるだけの日々とはおさらばしたの! 生まれ変わるの!」


 朝の通学路で思いっきり頭を下げるのは止めてほしい。周囲の視線が痛いから。


「はぁ……」


 小さくこぼした溜息は、千穂ちゃんに聞こえてたかな。恐る恐ると片目だけでわたしの様子を伺う千穂ちゃんがなんだか可愛くて、まあ仕方ないかって思っちゃった。人が多いところは苦手なんだけど。


「……うん、わかった。じゃあ話だけでも」

「やった! 決まりだー! あ、念のためいまの録音しといていい?」

「そんなにわたし信用ないかな……」

「あったりまえじゃん。いままで興味どころか話も聞かなかったくせに。むしろこれで人数がさらに増えて大変になっちゃうかも! ははん、でも望むところってなもんよ! よーしいくぜ! レッツコンパー!」

「言っておくけど、まだ行くなんて決めてないよ? 話を聞くだけだからね」

「……手厳しいっすね」


 千穂ちゃんがこうして積極的に誘ってくれるのは、わたしを元気付けようとしてくれているからだ。それがわかってしまうからこそ断りづらいっていうか憎めないっていうか。


 手に持った荷物が重い。今日はいつもよりお弁当を包んだ袋が大きいからそれも当然だった。苦労しながら坂道を登り切る。


 大学の正門を抜けると、桃色の吹雪が風に舞っていた。講義棟まで続く長い一本道には、両脇に桜の木が等間隔で植えられていて、ずっと奥の方まで花びらを咲かせていた。


 きれいだと思った。


 青い空が、とても蒼い。太陽の光を全身に浴びて思わず笑みがこぼれる。なぜだろう。まるで悪い夢から覚めたばかりのように、頭のなかがすっきりしていた。


 それが事実だと知らされても、まるで実感はないけど。


 一日か、二日か。昏睡から目覚めたとき、わたしのそばには二人の家族がいた。ほとんど自覚はないけれど、わたしは何かの事件に巻き込まれて、ごくわずかな記憶を失っているという。


 でもそんなの関係なかった。病室には毎日のように友達がお見舞いに来てくれたから。大学に入ってから仲良くなったっていう人たちともすぐに打ち解けることができた。失った思い出は、すぐにもっと楽しくて新しい思い出で埋められた。埋められてしまった。なくなってしまった。


 とてもいいことのはずなのに、なんでそれが悲しく思えてしまうのかわからないけど。


「おはよ、彩」


 そこで藤崎響子ちゃんとばったり会った。ショートカットの髪と、うすく日焼けした肌。モデルみたいにすらりとした身体。なんていうか、絵になる女の子だ。たぶんダイエットという言葉とは無縁なんだろうな。


「おはよう、ふじさ……」

「響子ちゃん」

「あっ……その、響子ちゃん」

「うん」


 満足そうに微笑んでくれる。慣れていないわけじゃないけど、とっさに出てこないときがあるんだ。


 響子ちゃんは大して気にした様子もなく、というか、わたしのとなりにいる千穂ちゃんが変な顔をしていたからそっちに注意してくれたみたい。


「で、さっきから千穂はなにしてんの?」

「はっはー! よくぞ聞いてくれたってやつよ! 新たなる我が同志、藤崎響子! あぁ、流れがきてるぜ……」

「はぁ?」


 ふふふ、とちょっとバカみたいに笑う千穂ちゃんを、響子ちゃんはバカを見るような目で見ていた。


 うーん、千穂ちゃん可愛いんだけどなぁ。


「というわけで響子。今度ね、コンパがあるのよ」

「ふーん、そゆこと」

「じー」

「なに? 行っていいならあたしも行こうか?」

「さっすが! わたしなんてさぁ、もう一週間前からプチダイエットしててさぁ」


 言ってから、千穂ちゃんは響子ちゃんの身体をまじまじと観察したかと思うと、遠い目になった。


「……まぁ、響子には関係ないかぁ」

「響子ちゃん、スタイルいいもんね」

「いや彩が言っても嫌味にしか聞こえないからやめて?」

「そんなことないよ。わたしもダイエットとか考えてるから」

「ダイエットねぇ……」


 こう見えてもわたしも女の子だ。やっぱり響子ちゃんみたいに線の細い身体には憧れる。


「はは、なるほど。あれね。持つ者は、持たざる者の悲しみを知らずってやつね……」


 千穂ちゃんは沈んだ目で、わたしの胸をじっと見つめた。つられて響子ちゃんも視線を向けて、何かを諦めたように溜息をついた。なんだか恥ずかしくなって、わたしは自然な所作で胸を隠した。


 ただ千穂ちゃんも、幼いころから何かやっていたのか、信じられないぐらい引き締まった身体をしているんだけど、本人的にはあまり好きじゃないようだった。理由を聞いてみたら、筋肉がどうのこうので女の子らしさとはなんたらかんたらで脂肪のバランスはあーだこーだと言われ始めた記憶だけはある。


 暗くなった空気を変えようと、響子ちゃんが明るい声で言う。


「ダイエットなんて考えなくてもいいんじゃない? ほら、あたしたちは食べて寝て育ってなんぼの年頃でしょ」

「はいはーい、それができるのは響子だけー」


 千穂ちゃんが愚痴る。わたしもこくこくと頷いた。そんなことないよ、と響子ちゃんがおどけて、みんなが笑った。


「ていうか、彩もダイエットとか言うなら、なにこのでっかい包みは?」


 千穂ちゃんが肘でちょんちょんと突いてくる。お弁当を入れた袋は見事にパンパンになるまで膨らんでいた。でもそんなの当たり前だった。お弁当は二つ必要なんだから。卵焼きはあんまり甘くないやつ。ごはんは大盛り、いや、特盛じゃないといけなくて。


「あれ、わたし……」


 なにしてるんだろう。お弁当は一つでじゅうぶんなのに。まさか間違えてお父さんの分を持ってきてしまったのだろうか。でも確かにそれは今朝、渡したはずだったのに。


「……ねえ、彩」


 そんなわたしを黙って見つめていた響子ちゃんが、もしよかったら、と提案してくれた。


「実はあたしの知り合いで、ここ最近ずっと意地でもお昼抜いてるやつがいてさ。それ余っちゃうんだったら、そいつにあげてくれないかな」

「あぁ、うん。どうせおうちに持って帰っちゃうだけだし、食べてくれるなら嬉しいけど」

「そっか。ありがと」

「響子ー? あんたが食べたいだけじゃないのー?」

「うっさい。そんなに欲張りじゃないわっ!」


 茶化されて、また笑いが起きる。知らない人にあげるなら、響子ちゃんに食べてもらって感想とか聞きたいって思ったけど、それは我慢。わたしだって女の子の胃袋事情はちゃんとわかってるつもりだ。


「……そうだ」


 お弁当を渡したところで、響子ちゃんは一枚のハンカチを取り出した。


「これあげるよ。お弁当のお礼。もしよかったら彩が使って」

「え? ありがとう。でもこれ」


 明らかに男物のハンカチだった。それに気持ちは嬉しいけど、お弁当をあげたぐらいでこれをもらうのは悪いと思う。


「お願い。彩にもらってほしい」

「……うん、わかった」


 響子ちゃんの顔があまりにも切実だったから、わたしは素直に受け取ることにした。柔軟剤のいい匂い。満足そうに微笑む響子ちゃんの顔は、いまにも泣き出しそうに見えた。


「じゃあね。これ、確かにもらってくから」


 わたしの弁当箱を大切に抱えて、響子ちゃんは別棟に向かっていった。もともとわたしたちは同期だけど学部は違う。一部の必修科目を除くと、意図して交流しないかぎりほとんど遭遇することはない。例外は響子ちゃんみたいにいっぱい友達がいる人だけだ。


 講義室に入って席についたところで、わたしは急に立ち上がってしまった。自分でもどうしてこんな気持ちになったのかはわからない。


「彩? どしたの?」

「……ごめん、ちょっと出てくるね」

「えっ? なにゆえ? ま、まさかそんなにもコンパが――!?」


 千穂ちゃんの声を無視して、わたしは歩いた。少しずつ足は早くなって、気付けばほとんど走っている状態だった。


 お弁当。響子ちゃんにあげたはずのお弁当。あれがいまになって、どうしても必要な気がして、わたしは居ても立ってもいられなくなった。自分でも、ほんとうにどうしてかはわからないけど。


 校舎を出たあたりで予鈴が鳴り、思い思いに寛いでいた人たちが足早に目的地に向かい始める。すれ違う女の子が、広場で談笑しているグループが、逆走するわたしを不思議そうに見つめてくるけど、まったく気にならない。


 わたしは早く響子ちゃんに会って、お弁当を返してもらわないといけないんだから。


「あ、そうだ、携帯」


 いまさらになって気付くなんてバカだ。携帯で連絡を取れば、別に講義室を出る必要もなかったのに。わたしは中途半端なところで立ち止まって、かばんから携帯を取り出した。


 キーホルダーがなかった。


 そんなの当たり前。当時のわたしの荷物は、事件に巻き込まれた際にかばんを落としてしまったのか、どこにも見当たらなかった。仕方ないから携帯も買い替えるしかなかった。新品である代わりに何もついていない。登録されていた連絡先も消えてしまった。


 一通、また一通と読み返していたメールも、ない。


「……なんで」


 こんなにも寂しく思えるんだろう。満たされているはずなのに。満たされていないといけないのに。


 病院で目覚めて、知らない天井を見た日から、なんだかとても大切なピースが欠けているような感覚がずっとこびりついて離れない。


 そのとき、ひときわ強い風が吹き抜けた。


 わたしは髪を手で押さえる。ついさっき響子ちゃんと別れた長く続く一本道には、ずっと向こうの正門あたりまで薄桃色に染まっていた。ちょっと遅れてきた人たちが予鈴に急かされて歩みを早めている。立ち止まっているのはわたしだけ。


 そんな中で、その男の子は、一人だけゆっくりと歩いていた。


 両手をポケットに突っ込んで、わたしと同じように桜を見上げている。背筋はしっかりと伸びていて、歩き方はとても凛々しい。きれいな顔立ちだった。少し長めの黒髪も、男性にしては珍しい透き通るような色白の肌も、握り返してくれたてのひらの感触も、眩しい笑顔も、わたしの名を呼ぶ声も、ぜんぶ好きだった、はず、なのに。


「……あ、れ」


 わたしは胸を押さえつけた。動悸が激しい。空気がうまく吸えない。まるで縫い付けられたように足は一歩も動かなかった。ただ彼を見つめるだけで精一杯だった。


 桜が降りそそぐ空の下、男の子が歩いてくる。


 そして、わたしたちは出逢った。


 大きく見開かれた目は何かに驚いているようだった。揺れる瞳で、わたしのことをじっと見つめている。それだけで心情が止まらなかった。やっぱりわたしはおかしくなっているのかもしれない。だって彼を見ているだけで、こんなにも心が満たされるんだから。


 どこかで、ずっと昔にどこかで見たような気がした。昨日のことか、それとも一年以上前のことなのかも思い出せない。


 ――まっすぐな目。


 過去を辿ろうとすると、頭がずきんと痛む。

 

 ――強くて大きな背中。


 自覚はないけど、やっぱり事件の後遺症は酷かったのか。ううん、酷かったからこそ自覚がないのか。


 ――あなたがいたから、わたしは――


 講義開始を告げるチャイムが鳴った。


「あ、の……」


 これでわたしの遅刻は確定。もうまわりには誰もいない。でも知らない。べつに構わない。わたしはいま、この瞬間のために、この男の子と会うためだけに生まれてきたのかもしれないって、そんなことさえ本気で考えた。


「……あ、あのっ」


 なけなしの勇気を振り絞って声をかける。自分から知らない男性に話しかける日がくるなんて思いもよらなかった。これもナンパに入っちゃうのかな。きっと顔は真っ赤になってると思う。わたしは恥ずかしくなって俯いた。汗でしっとりとした手を握りしめる。


 すぐそばを、足音が通り過ぎていった。


 わたしが後ろを振り向くと、そこには男の子の背中があった。まるで何事もなかったかのように桜が舞う中を歩いている。


 涙さえ出そうな落胆とともに、わたしは納得した。それはそうだ。いきなり他人から声をかけられたら誰だってびっくりする。わたしだって、街を歩いていて男の人に声をかけられたときはいつも同じような対応をしてしまっているんだから。


 一目見たときに思った。これは運命かもしれないって。わたしはこの人と結ばれるって。


 けれど、それはわたしの勘違いに過ぎなかった。


 遠くなる背を見つめながら、わたしは溜息を吐いた。そろそろ行かないと。響子ちゃんにはメールしておこう。千穂ちゃんにはなんて言い訳しよう。


 そんなことを考えていたとき、だった。


「あっ……」


 男の子のポケットから何かがはみ出していた。可愛いらしいキャラクターがデフォルメされている。いま女の子の間ではけっこう流行っていると言えなくもないけど、男性が身に着けるには少し恥ずかしい代物。


 それはキーホルダーだった。


 夕暮れの帰り道でもらった。クレーンゲームが上手だった。家宝にするって勝手に決めた。響子ちゃんに自慢した。ベッドに入ってからも何度も見つめていた。その夜、わたしは幸せな夢を見た。プレゼントをもらったことも嬉しかったけど、なにより。


 彩って、わたしの大好きな名前を呼んでくれたから。


「ゆ、うき……くん?」


 知らない人の名前が、わたしの唇からこぼれ落ちる。


 その名を口にした途端、心がひび割れそうになった。何が起こっているかもわからない当惑と、自分が自分じゃなくなるような恐怖。感情が暴れる。記憶が乱れる。怖い。いやだ。頭が痛くて視界が明滅した。圧倒的な情報の奔流にわたしという自我が飲み込まれそうになる。


「なに、これ……」


 わたしは何かに縋っていたくて手を伸ばす。やめろ、と理性が叫ぶ。わざわざ思い出す必要はない。ここで諦めれば楽になれる。難しいことじゃない。いつものように諦めて、我慢すればいいだけ。わたしの得意な生き方でしょう。これもそのうちの一つに過ぎないはず。


 だから愛想笑いで取り繕えば、きっと何もない日常に戻れる。戻れるはずなのに、その日常には何かが足りない。


 だからわたしは、こんなにも苦しくて。


「い、や……」


 この痛みだけは、ぜったいに諦めたくなかった。


「ゆうき、くん」


 それは魔法の言葉のように、わたしというわたしを揺さぶった。見たこともない記憶が次々と溢れてくる。感じたこともない想いが次々と湧き上がってくる。痛くて、苦しくて、辛い。


 でも日溜まりのように暖かかった。


「……あ」


 諦めたくないという気持ちとは裏腹に、どうしようもなく心身が痛くて、わたしはもう立っていることもできそうになかった。いますぐ座り込んで楽になりたい。そんな弱い自分が顔を出す。


 そうだ、そのほうがいい。わたしみたいな女が声をかけても迷惑になっちゃう。こんな自分でもあんまり好きじゃない自分。大好きなお母さんと大切な親友の咲良ちゃんが悪い殺人犯に殺されたあとも、ただ毎日、泣いてばかりで何もしなかった自分。


 ――どうせ無理よ。今度も、きっと届かないわ。


 いつだったか、だれかにそんな言葉をかけられたことがある。


 伸ばした手は、何も掴むことなく頼りなく宙を揺れたあと、ゆっくりと垂れ下がる。わたしは呆然と立ち尽くしたまま、遠くなっていく背中を見ていた。そうすることしかできなかった。追いかけて、名前を呼んで、正面から彼と向き合う勇気がなかった。


 でもいいでしょう。それがわたしの生き方だったんだから。多くを望むと罰が当たる。まただれかを傷つけてしまう。お母さんを不幸にさせるような悪い子はいらない。


 お父さんとお兄ちゃんを困らせないためにも、あの二人に見捨てられないためにも、わたしはいままで通りの『櫻井彩』を演じ続けていかなければいけないのだから。


 これからもずっと、一人で。




 ハウリング 壱の章【消えない想い】 了





















 声がした。


『――大丈夫』


 だれかの声。


『今度は、きっと――』











「彩ー? なにしてんの遅れるわよー?」


 咲良ちゃんの声がする。わたしは笑顔で走り出す。まだ届かない。


「ごめんね。なんだかぼんやりしちゃってたみたい」

「いつものことじゃない。しっかりしなさいよ。今日から大学生なんだから」


 呆れながらもまんざらではなさそうな顔。その背中を目指す。でもなかなか追いつけない。


「咲良ちゃん、ありがとう」

「は? なによ急に。そんなこと言ってる暇があるなら今度の……」

「お兄ちゃんとどこデート行くか一緒に考えてほしいって?」

「べっ、べつに一人でも考えられるけど! ただレンくんがどうしても楽しいデートにしたいっていうから、わたしは仕方なく……ってなによその顔!」

「ううん、別になんでもないよ。咲良ちゃんはお兄ちゃんのことがほんとに大好きなんだなぁ、なんてぜんぜん考えてないよ」

「思いっきり考えてるじゃない!」


 頬を赤くして怒る咲良ちゃん。いつもの日常。今日から踏み出す新たな未来。わたしたちは一緒に歩く。けれど距離は遠い。


「だいたい、彩も人のこと言えるわけ? 今度、お母さんの誕生日に何をプレゼントしようかって、そんなことでアホみたいにわたしに相談してくるくせに」

「え、アホかな……」

「自覚なし。重症ね。この前とか深夜二時ぐらいまで電話で相談という名のマザコンかまされたわたしの気持ちがわかる? 娘からもらったものなら何でも嬉しいに決まってるんだからもう適当に選べばいいって答えを百回は言ってあげてるのに」

「適当なんてできるわけないよ。お母さんにはちゃんと喜んでほしいんだから」

「はいはい、それも百回聞いたわ」

「人のこと言えるかな? 咲良ちゃんだって、いつもお兄ちゃんのことで深夜二時ぐらいまで電話で相談という名の惚気話してくるくせに」

「そ、それはだから、なんていうか……じゃなくて! だってレンくんが!」

「…………」

「な、なによ? やるってのっ?」

「べつにやらないよ……」


 何でもない口喧嘩。咲良ちゃんはお兄ちゃんのことを真剣に考えていて、わたしもお母さんのことを大切に想っていて、だからこそちょっとしたことでお互いにヒートアップしてしまう。


 言い過ぎたと思ったのか、咲良ちゃんはちらちらと視線を送ってくる。こういうところが可愛くて反則だと思う。黙っていればクールな美人って感じなのに。


 でも咲良ちゃんは持ち前の負けず嫌いな性格が災いしているのか、いつも自分から素直に謝ることができない。なにやら不安そうな顔でわたしのほうを見て、態度で示してくる。


「ごめんね、咲良ちゃん。さっきはちょっと言い過ぎたかも」


 だからわたしが適当なタイミングで謝ってみせれば、咲良ちゃんは仲直りできることにとても嬉しそうな顔をしたあと、慌てて仏頂面を作って取り繕う。バレバレなんだけどな。


「……ま、まあ、わたしも言い過ぎたとこあるしね。彩がそんなふうに謝る必要もないと思うわ」

「よかった。じゃあ仲直りしてくれる?」


 咲良ちゃんはやはり表情をぱあっと輝かせたあと、こほん、と咳ばらいをして無理やり厳かな空気を引き戻そうとする。


「しょうがないな。じゃあほら、喧嘩両成敗ってことで」

「うん、ありがとう」


 わたしが微笑むと、咲良ちゃんはそれを受け入れてから、急に頭を抱えた。


「……ってなにやってんのよわたし。こんなところにまで意味不明なプライド持ち込んで。しっかりしろ遠山咲良。いましかないんだから。このバカバカバカ……」


 よくわからない感じで自己嫌悪を始める。わたしはそれに気付かないふりをする。気付きたくないから前だけを見て歩き続ける。いまのうちにちょっとでも咲良ちゃんに追いつかないといけないから。


「咲良ちゃん、ありがとう」


 わたしは繰り返す。咲良ちゃんは振り向く。その表情が霞んで見えない。


「咲良ちゃんがいたから、わたし頑張れた。こんなわたしをいつも引っ張っていってくれるから。たまに甘えさせてくれたり、ちゃんと怒ってくれたり、あとお兄ちゃんとの惚気話を延々と聞かされたり」

「だから最後のいらなくない? まあいいけど。あのね、彩」

「大学生活には不安もあるけど、咲良ちゃんとだったら絶対に楽しいと思う。いつまでも笑ってられる気がする。いままでがそうだったように」

「彩」

「ほんと楽しみだね。やっぱりコンパとかあるのかな。咲良ちゃんはどのサークルに入るとか決めてる? わたしはまだ何も知らなくて」

「彩」

「咲良ちゃんだけが頼りなんだから。これからもずっと一緒にいてね。わたしのそばにいて、わたしを支えてね」


 咲良ちゃんは何も言わずに優しい笑顔を浮かべたまま、ずっと遠くのほうからわたしを見ている。いつの間にこんなに距離ができたのだろう。


「ねえ、彩」


 またわたしの名を呼んだその声が。


「――それはもう、わたしの役目じゃないでしょう?」


 この夢の終わりが近いことを優しく教えてくれる。


「あーあ、やだなぁ。こんなかたちでしか想いを伝えられなかったなんて。でもまあ、うん、これはこれでよかったかな。神様もたまには粋なことしてくれるって感じで」


 咲良ちゃんは儚げに笑う。わたしも、咲良ちゃんも、一歩も動いていないはずなのに距離だけが伸びていく。


 大切なものを見失いたくなくてわたしは走る。視界が滲んで何も見えなくなっていく。


「言いたいことも伝えたいことも数えきれないぐらいあるけど、一晩かけても語りつくせないだろうから、仕方なくこれだけにしておくわ。言葉でごちゃごちゃ言うよりも、びしっと行動で示したほうがずっとわたしらしいと思うしね」


 声が出ない。わたしは手を伸ばす。咲良ちゃんの姿が消えていく。微笑みだけが光に溶ける。


「だからほら、諦めないで。頑張りなさいよ、彩」


 何も届かない。どうしても届かない。


 なのに。


「心配しないで。最後に一度だけ、わたしが手伝ってあげるから」


 いつかの大雨の夜、何もできない自分と、何もしてもらえなかっただれかがいた。


 手を差し伸べることもできなかった。


 いつだって届くことはなかった。


 それをずっと後悔していた。


「いまの彩なら大丈夫。今度は、きっと――」


 わたしはまだ何も言えていない。しかし、もう何も言う必要はないのだと、咲良ちゃんは切れ長の目を柔らかく細めて、見覚えのある笑顔を浮かべた。


 わたしは手を伸ばす。遠すぎて咲良ちゃんには届きそうにない。


 諦めたほうがいいのかな、と思ってしまった。


 伸ばした手は、何も掴むことなく頼りなく宙を揺れたあと、ゆっくりと垂れ下がる。わたしは呆然と立ち尽くしたまま、遠くなっていく咲良ちゃんを見ていた。そうすることしかできなかった。追いかけて、名前を呼んで、正面から大切な親友と向き合う勇気がなかった。


 そのとき。


 わたしの目の前に、ふたひらの桜の花びらが舞い散った。






『――大丈夫。今度は、きっと届くから』






 懐かしい声がして、わたしははっと我に返る。


 指先には柔らかい感触。いつの間にか、もう見送るばかりだった少年の背に、わたしの手が届いていた。


 ついさっきまで迷っていた自分の腕とは思えないほど、力強くはっきりと伸ばされた手が、わたしのよく知るどこかの女の子みたいな強引さで男の子の服を掴んでいる。


 不器用で、一生懸命で、とてもまっすぐで。


 いきなり服を引っ張られて、無視を決め込んでいた彼も驚いたように歩みを止めていた。怒ってしまったのか、振り返ってもくれない。わたしも自分でなんでこんなことしてしまったのかわからなくて何も言えなかった。


「なんか用?」


 冷たい声だった。一秒でも早くこの場から立ち去りたいって言ってる。とても居心地が悪そうだった。


「あ、の……」


 わたしは勇気を振り絞って、ずっと気になっていたことを訊いていた。


「ゆう、き、くん……ですか」

「は?」

「あ……だ、だから、なまえ……」

「なんて?」


 小さすぎて聞き取れなかったのだろう。彼は苛立ちをあらわにする。わたしはわたしで困惑でいっぱいになっていた。どうして知らない男の子を呼び止めただけでなく、頭に浮かんでる名前を彼に当てはめているのか。


 いたずらに時間だけが流れる。彼はすぐに意を決したようだった。


「悪い。急いでる」


 短く切り捨てて、もう用はないとばかりに彼はふたたび歩き出す。嫌だ。こんな終わり方はぜったいに嫌だった。わたしは何かきっかけが欲しくて、どうしても気になっていたキーホルダーのことに触れた。


 ただ見ているだけでも思い出が蘇る。


 こんなにも溢れる想いが止まらない。


「でも、それ。そのキーホルダー」

「友達からもらったものだ。きみには関係ない」

「わたしも好きなの。昔、とっても大切にしてた。家宝にするって決めてた。ううん、間違いなく宝物だった」

「こんなの、どこにでもある安っぽい景品だろ」

「違うよ! そんなことないよ! 特別だった! 大事にしてた! だってあれは!」


 それは。


「わたしの大切な人からもらったプレゼントなんだからっ!」


 男の子が立ち止まる。その肩が小さく震えているように見えるのは気のせいだろうか。


 わたしも震えていた。でもそれを隠して、いかにも大人の女って感じの余裕を頑張って漂わせながら、すぐそばにあった桜の木を見上げる。


「……きれい、だね」


 わたしは涙をこらえていた。


「こんなにも桜がきれいに見えるのは、はじめてかもしれない。うん、今日はほんとうに、とっても桜がきれい」


 なんて、嘘。もうちょっぴり泣いていた。男の子は溜息を吐いてから口を開いた。


「……大げさだな。そう変わるもんでもないだろ。毎年、この時期になると見ることになるんだから」


 違うよ。そんなの違うんだよ。わたしだってほんとうはずっと気付いてたんだよ。


「花はね、いつだれと見るかで変わるの。だから、わたしにとっては今年の桜がいちばん特別」


 いつかお母さんと二人で見上げた花に心が震えたときのように。


 春が巡って誕生日を迎えるたび、咲良ちゃんと小さな花見をして笑ったときのように。


「こんな桜をね、わたしはこれからもずっと見ていたい。明日も、一週間後も、一年後も」


 あなたと見上げる桜は、こんなにもきれいだったから。


「そして、今日も――夕貴くんと一緒に」


 ゆっくりと彼は振り向いた。痛ましいほどに涙をこらえた瞳で。わたしの大好きだった彼のままで。そして言うんだ。言ってくれるんだ。


「彩」


 大好きな、わたしの名前を。


「なんで、おまえ、そんなはずは……」


 戸惑いを隠せない夕貴くんの顔を見て、わたしは笑った。なんだか視界が滲んでほとんど前が見えないけど、笑うしかなかった。


「嘘だ。憶えてるわけない。そんなこと、あるはずがない」

「忘れるわけないでしょう? だって、ね」


 そっと歩み寄り、彼のポケットからはみ出している宝物に触れた。


「ねえ、知ってる? これってね、『ヤーマン』っていってね。『諦めないぞぉ!』が口癖なの。いま女の子のあいだでけっこう流行ってるんだよ」

「それは……」

「だから残念。夕貴くんには似合わないかな」


 首を傾げて微笑んでみせる。全力の猫かぶり。泣いてるせいで変な顔になってないといいけど。こんな恥ずかしいところ男の子に見られたくないし。


 そこまで考えてから、どうせ夕貴くんにしか見せる気ないからまあいっかって、思っちゃった。


「返してもらうね。わたしの大切な、わたしの思い出」


 キーホルダーを握りしめる。両手で包み込んで、もう手放さないと心に決める。その瞬間に、今度こそ全ての記憶が戻った。


 痛みも、哀しみも、後悔も、喜びも。


 苦しくて、でも愛おしくて、わたしは諦めたくないから、小さなヒーローに想いを込める。


 この世に都合のいい奇跡なんてない。だからこれは必然だと思う。


 全てが元通りになって、わたしがわたしじゃなくなったあとも、あなたはあなたでいてくれて。


 たった一つ、この小さな思い出だけは見捨てずに。


 あなたはやっぱり最後まで諦めなかったから。


 またわたしたちは出逢うことができた。


「なんで」


 夕貴くんは悲しそうに声を絞り出した。


「なんで、だよ。忘れてろよ。思い出すなよ。また辛くなるだけだろうが」

「泣かないでよ。夕貴くんにまで泣かれちゃうと、わたしもっと泣いちゃうよ」

「ふざけんな。泣いてなんかねえよ。泣き虫のおまえと一緒にすんな」


 夕貴くんの泣き顔はとても可愛くて、きれいで、悲しかった。


 それはわたしのせい。それはわたしのため。


 わたしは生きてるだけでこんなにもあなたかを傷つける。


 あなたは生きてるだけでこんなにもわたしかを救う。


 ねえ、夕貴くん。


 そうやって人間わたしたちは、今日まで生きてきたのかな。


「あんな過去、おまえにはいらないんだよ。いらなかったんだよ。もう傷ついてほしくないって、おまえには救われてほしいって、俺はそう思って……」

「それならわたしはせめて、あなたと一緒に傷つきたい。あなたと一緒に救われたい」

「……彩」

「なんてね。プロポーズじゃないから勘違いしちゃやだよ?」


 ちゃんと笑えてるか自信がなかったけど、それでも笑ってみせた。目元を和らげると溜まっていた涙が一気にこぼれおちた。


「忘れてたほうがいい。おまえは、そっちのほうがよかったんだ」

「ううん。違うよ。もう忘れたりなんかしない」


 わたしに手を差し伸べてくれたあなたの笑顔を、そのぬくもりを、いまならはっきりと思い出せる。


 どんなときも、どんなときだって、ずっとあなたがそばにいてくれようとしたから、わたしはわたしでいられた。


「忘れるはずなんて、なかったんだよ」


 わたしは空を見上げた。夕貴くんも空を見上げた。そこには風に舞って、彩鮮やかな幸福のかたちが広がっていた。


 ああ、白い陽射しに溶けて、だれかの笑顔が――


 わたしは溢れる涙のままに夕貴くんの胸に飛び込んだ。彼も観念したのか、わたしを恐る恐る抱きしめる。遠慮がちでちゃんと抱きしめてくれなかったのは寂しいけど、そこは我慢。


 まずは、この大切なぬくもりともう一度出逢えた奇跡を、神様に感謝しなくちゃいけないから。



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