エピローグ『消えない想い』②



「あ、母さん? 俺だけど。ちょっと聞いてくれよ。なんか気付いたら家に悪魔がいるんだよ。しかもそいつ居候することになってさ。挙句の果てに、なんかもうひとり女の子を……は? オッケー? マジで言ってる? え? 男の本望? ふざけてる場合かよ。まず俺の頭を疑ったほうが……って」


 電話が切れている。もう一度かけてみたが繋がらなかった。夕貴の差し向かいに座っているナベリウスが、ほらね、と言わんばかりに頷いている。


 萩原家のリビングは今日も平和だった。いい天気である。コーヒーも美味しい。なぜか夕貴のとなりに櫻井彩が座っていて、所在なさげにチラチラとあたりを見渡しているという事実を除けば、何も変わり映えしない日常だった。


「あー、とりあえず病院いってくる。たぶんしばらく入院することになるからあとはよろしくな」

「なに現実逃避してるのよ。そこは男らしく堂々と構えてなさいって」

「おまえが堂々と構えすぎてるんだよ。これがいったいどういう事態なのかわかってるのか? ほら、彩もなんとか言ってくれよ」

「あ、あの、えっと、わたしは、その、だから、ですね……」


 だめだ。人見知りしている。役に立たない。夕貴はもう彩に頼ることを止めた。


「おまえが言ってることは無茶苦茶だ。もう一度よく考えてみろ」

「あのね、こう見えてもわたしは真面目に言ってるのよ」


 ナベリウスの声がにわかに冷たくなる。その銀色の眼差しは、彩に注がれている。


「あの状態から持ち直しただけでも本来はありえないのに、この子はさらに記憶まで取り戻した。こんな事例をわたしは見たことがない。少なくともバアルの力では……いえ、バアルの力だからこそ無理だったはずなのに」


 そこでいったん区切り、ナベリウスはコーヒーカップに口を付ける。依然として鋭い目を彩に向けながら。


「夕貴が特別なのか、その子が特別なのか、あるいは他の原因があるかはわからない。一つだけ言えるのは、これからどうなっていくのか予想もつかないってこと。はっきり言って、わたしはその子の存在そのものに危機感すら覚えてる」


 彩の身体がびくっと震える。かつて浴びせられた殺意を思い出したのだ。でも悪魔憑きではなくなった以上、もう危害を加える必要はない。夕貴は彩を庇うように身を乗り出した。


「待てよ。もう彩は大丈夫なんだろ。余計なことをする必要はない。これからは普通に暮らしていけるはずだ」

「もちろん。ただし、それには二つだけ条件をつけたい。一つは夕貴がそばにいること。もう一つはわたしが監視すること」

「つまり?」

「この家に一緒に住むっていうこと」

「バカかおまえ! そんなことできるわけないだろうが!」

「どうして?」

「女の子を居候させるって、どういうことかわかってんのか!?」

「わかってるからこそ、わたしを泊めてくれてるんじゃないの?」

「いや、おまえは特別だろ! おまえと彩は違う!」

「えっ」


 彩が捨てられた子猫のような顔をする。大丈夫だ、と夕貴は頷く。おまえの日常は俺が守る。こんな悪魔の好きなようにはさせない。


「特別? わたしだけ? 具体的には?」

「だから俺とおまえの関係はもう普通じゃないだろうが! 何日泊めたと思ってやがる! これからおまえのことをどうするか、俺はゆっくりと考えていきたいんだよ!」

「……え」


 彩が固まる。かわいそうに、と夕貴は思った。早くこの悪魔から解放してあげないと。


 そんなやりとりを繰り返すうちに彩はすっかりと肩を落として、もうずっと俯いているだけだった。


 ナベリウスは大きく溜息をついて、怜悧な眼差しで語る。


「もう一度だけ言いましょう。これは遊びでも冗談でもない。それほどまでにその子の存在は警戒に値する」

「そんなことは……」

「だったらこう言い換えましょうか。その子に普通の人生を歩ませてあげたいのなら、わたしが大丈夫だと確信が持てるまでは、なるべく目の届く位置にいてもらったほうがいい。でなければまた人知れず不幸が起きる可能性がある」


 あくまでも理路整然と語るナベリウスに何も言い返せず、夕貴は席を立った。


「……顔洗ってくる。ちょっと考えさせてくれ。そんなすぐには決められない」


 夕貴がリビングから立ち去ったあと、ナベリウスは、うなだれる少女に声をかけた。


「大丈夫よ。夕貴はたぶん、気付いていないから」


 彩は顔を上げて、困ったように微笑んだ。


「……やっぱり気付いてるんですね」

「いつから?」

「記憶を思い出したあたりから、です」


 やはりか、とナベリウスはかぶりを振った。申し訳なさそうな顔で彩は続ける。


「ずっと感じるんです。あなたから肌がびりびりする空気みたいなもの。とても冷たい感覚。あとあなたほどじゃないですけど、夕貴くんからもちょっとだけ、なにか似たようなものを……えっと、ごめんなさい、うまくは言えないですけど」


 予期していたこととはいえ、ナベリウスは驚いた。


 大悪魔の彼女でさえ、いまの夕貴は一般人と変わらないように見えるし、なにより《悪魔》の力の源とも言えるDマイクロウェーブはほとんど感じ取れない。


 それを彩は感知できるというのだ。


「なるほどね。殺人衝動は消えたのに、常人には持ちえない能力を後天的に発現してしまっている。確かに、こんなケースは見たことがない」


 事件の直後、櫻井彩は間違いなく普通の人間に戻っていた。それなのに記憶が蘇るのと同時にまたその身に魔性の能力が宿った。ただしそれは害意のあるものではなく、もちろん殺人衝動の類も見受けられない。


 だからこそ未知なる何かだ。


 ナベリウスは思案する。果たして何が起こっているのか。夕貴が産まれたこと、つまり《悪魔》と人間の間に新しい命が芽生えたことが本来ならありえないのだ。さらに異常が重なったとしても、もはや驚きはしないが、やはり腑に落ちない。


 この世に都合のいい奇跡などない。それをナベリウスはだれよりも弁えている。だから今回の結末にもそうなった理由が必ず存在する。


 可能性はいくつか思い浮かぶが、どれもただの人間である櫻井彩にはありえないことだ。


 こんな事態はバアルではありえなかった、と思う。


 あの男の能力を全て把握しているかと問われれば、ナベリウスでさえ首を傾げざるを得ないが。


 人間の血を引いている夕貴だからこそ可能だった何かがあるのだろうか。


「わたしは、どうなっちゃうんでしょうか……」


 不安そうにぎゅっと手を握りしめる彩に、ソロモンの大悪魔は柔らかい声音で語りかける。


「いまのところ原因はわからない。でもね、これだけは言える。夕貴の力があれば、あの子がそばにいれば、あなたはもう衝動に呑まれることはない。いまのままでも日常生活に支障はないでしょうし、時が経てば、また普通の女の子にも戻れると思う。それほどまでに夕貴が持つ力は絶対だから。いまのあなたは、まあ、さしずめ夕貴の眷属みたいなものとでも思っておけばいいわ」

「これも、もしかしたら罰なんでしょうか。わたしは……人を、夕貴くんを、傷つけてしまったから。だれも救うことなんて、できなかったから」


 オドに心身を乗っ取られている間の出来事は、彩が記憶を取り戻したあともやはり朧で、つぎはぎだった。だが自らの手で夕貴の首を絞めてしまった感触と、苦しみに喘ぐ彼の顔だけは忘れようとしても忘れられない。


「あなたのせいじゃない。責められるとすれば、むしろわたしたち《悪魔》のほうでしょうね」


 そもそもで言えば、自然界でも彼女たちだけが持つ、俗に《デビルメント・マイクロウェーブ》と呼ばれる特殊な波動さえなければ、オドという間違った存在は生まれなかったのだから。


 人の身に堕ちて、人の世界を見て、人と同じように生きていく中で、ソロモンの大悪魔は、人と同じ感情を獲得してしまった。それが間違いの始まりだったのだろうか。


 悠久に流れる時の中で人という生き物を見てきたグシオンは。


 この世の全ての戦火が集まる最前線の欧州にて煉獄の炎を纏うバルバトスは。


 絶対的な審判の権利を持つが故に天空の頂に座すマルバスは。


 あるいは、かつて泣きながら彼女たちを封印した小さな少女が、涙を流すほどの愛を抱いていなければ、こんなことにはならなかったのだろうか。


「あなたたちに取り憑いたものを生み出したのは、わたしたち《悪魔》と、そして人間の悪意なのだから。それを一身に受けてしまい、その手を汚してしまったあなたたちは、ある意味では最初の犠牲者といっても過言じゃないでしょう」

「で、でも、あのとき、わたしは……わ、わたしは、す、すごく」


 彩の声がわなないて、黒い瞳の端に涙が浮かぶ。でも彩は、それを決して流そうとはしなかった。言葉を切って耐え忍ぶ。ここで泣いて被害者ぶろうとする自分だけは絶対に許せなかった。許しを求めているわけではないのだ。


 櫻井彩が、萩原夕貴を傷つけてしまったのは揺らぐことのない事実であるのだから。


「それ、でも……わたしは」


 顔を上げて前を向いた少女の瞳には、何人にも侵せない強い決意が映し出されていた。


 目は口ほどに物を言うと――その言葉を遺した者は、かつてこんな美しい瞳と向き合ったことがあるに違いない。


 彩は選んだのだ。夕貴のいない平凡な日常よりも、夕貴のいる血に濡れた過去を。


 きっと全てを忘れていたほうが幸せになれただろう。いつの日か、どこかで巡り合った人と結婚して、子を産み、その成長を見守りながら穏やかに老いていく。そんな優しい日々があったかもしれない。


 だが彩は思い出した。思い出すことを、自らの意志で願った。


 母親を喪った原因。悪魔に侵されて殺人に手を染めるしかなかった親友。憎悪と友情の狭間で、しかしどちらも選べず、贖いを求める親友に手を差し伸べることもできなかった弱い自分。奇跡的にもう一度だけ出逢えたのに、ちゃんと想いを告げられず、また目の前で果てていった桜の名を持つ少女。


 彩は、夕貴を死の寸前まで追いやった自らの両手を見つめた。そして迷いを振り切るように拳を握りしめた。


「まただれかを傷つけるかもしれない。また大切な人を喪ってしまうかもしれない。でも諦めて、我慢して、そうやって何もできない自分はもう嫌なんです」


 悩む季節は終わった。どんな苦難が待ち受けようとも、いつか罪科を問われたとしても、彩には譲れないものができた。


 すぐには難しいだろう。いままでの生き方を変えることはできない。しかし、それでいいのかもしれない。ある意味、みんなの求める『櫻井彩』もまた彼女の一部なのだ。


 どっちが本物でどっちが偽物とか考えるからややこしくなると、そんな子供みたいで、しかし素敵な理屈をだれかに教えてもらったことがあったから。


 否定するばかりではなく、認めて受け入れてあげよう。お母さんのために頑張ってきたもう一人のわたしを。


 ただほんのちょっとだけ、自分に素直になるだけでいい。


「夕貴くんには、ほんとうのわたしをもっと見てほしいから」


 少女はありのままの自分でいることを選ぶという。それが幸福な日常とはかけ離れた非日常だと知りながら。


 ナベリウスは黙って聞いていた。静かな眼差しで、全てを受け入れた。


「説法をするつもりはないけどね。あなたに罪はないし、罰も必要ないとわたしは思ってるから。ただ、もしあなたがそれを欲するなら、この世界で生きてみるといい。だれよりも長く、だれよりも笑い、そしてだれよりも幸せに。生きるのではなく、生きていくということ。それはとても難しいものよ」


 一思いに死ぬよりもね、と銀色の悪魔は付け足した。


「そして決して忘れないで。その確かな決意は、あなたが人であるということの何よりの証なのだから」


 目元を拭って彩は頷いた。その雨上がりに咲いた花のような微笑みに、ナベリウスは懐かしい面影を見た。


「……彩、だったかな。あなた、似てるわ」

「え? なんですか?」

「ううん、なんでもない」


 そうこうしているうちに夕貴が戻ってきた。


「よーし、わかったぞ。いいかナベリウス。確かに彩には事情があるかもしれないけどな。でもここは俺の家なんだ。俺が決めたことが絶対なんだ……って、おまえなに彩を泣かせてるんだよ!」

「わたしと夕貴の熱い夜の話をしてたらつい、ね」

「ついじゃねえよ! しかもそんなのなかっただろうが! 勝手に捏造すんな!」

「……そういえば夕貴くん、裸で添い寝されたとか言ってた」


 彩がそっぽを向く。そういえば、と夕貴は舌打ちした。ナベリウスと出逢ってからの出来事をアホみたいに正直に話したバカがいた。


「待て。言っとくが俺は被害者なんだぞ? 目が覚めたときにいきなりこんな女がとなりにいるのを想像してみろ。どう考えてもやばいどころの話じゃなくて普通に恐怖体験だろ」


 ナベリウスが頬杖をつきながら言う。


「そうなんだ。そのわりにはおっぱい揉まれたけど。いっぱい」

「……やっぱり大きいのがいいんだ」


 いたずらっぽく笑う悪魔と、自分の胸とナベリウスのそれを見比べて哀しい面持ちになる少女。そんな彩の顔を見るのが忍びなくて、夕貴はつい自分でも意味不明なことを口走っていた。


「違う! 彩もじゅうぶん大きい! 魅力的だと思う! じつは俺、気付かれないように見まくってるし! ナベリウスがおかしいだけだ! ってなんだこの言い訳は!?」


 夕貴はいつものように間違える。


「ふーん。見まくってたんだ。あんなこと言われてるけど?」

「あ、大丈夫です。気付いてましたから」

「たぶん本人はバレてないと思ってるんでしょうね。わたしも一緒に家にいるとき、いつも視線感じるし」

「おーい、死にたくなるから俺のいないところで話してくれー」


 夕貴は考えることをやめる。現実から目を逸らす。窓の外を見て、空は青いなあ、と当たり前のことを思った。


 結局のところ、諸々の事情により櫻井彩が居候するかどうかという話は少しだけ事情を変えた。より現実的な方向で固まったと言い換えてもいい。


「おまえ、実は正気を失ってるのか?」

「失礼ね。どこを間違ったらそんな風に見えるのよ」

「じゃあどこを間違ったらそんな考えになるんだ? 自分がなに言ってるかわかってんのか?」


 当たり前でしょう、とナベリウスは臆面もなく頷く。


「週末はなるべくこの家に泊まるようにすること。まあ週末じゃなくてもいいけど、とにかく週に二日ぐらいはわたしの目で様子を見させてほしい。これが最低限の条件。わかった?」

「わかってない。わかってたまるか。そんなのほとんど……」


 半同棲みたいなもんじゃないか、と夕貴は思った。倫理の問題である。もっと言えば男の問題である。彩みたいな子がそばにいて我慢が続けられる男がいたら、それはもう仙人の領域だろう。すでにナベリウスのせいで限界突破しているというのに。


「まだ部屋は余ってるしね。客間って言ってもほとんど何もないからっぽの部屋だけど、それでも大丈夫でしょう? ねえ、彩?」

「えっ? えっ、あっ、いえ……」


 唐突に話を振られた彩は、ナベリウスと夕貴を交互に見ながら言葉に詰まっていた。


「おまえが決めるな! それに彩の都合を考えろよ! そんなの嫌がるに決まってるだろうが!」

「じゃあ夕貴はこの子がどうなってもいいの? 責任持てるの?」

「だ、だから、それとこれとは……」

「大丈夫。わたしとあなたが一緒にいてあげれば絶対に問題ないから。そっちのほうが面白そう……じゃなくて、安心だから」

「漏れたな? いま本心だだ漏れだったな、おまえ?」

「まあ見られながらするのもスリルがあって気持ちいいと思うしね。あっ……」

「見られなくてもまだしたことねえだろうが!」

「まだ?」

「あっ……」


 険悪に見えて、その実は仲睦まじく口論する悪魔と少年を見ていた彩が、一つの決意を胸に懐いて拳を握りしめた。


「……です」


 ここにきて何らかの主張を思わせる固い声音に、萩原家の二人は振り向いた。注目されると、彩の顔がどんどん赤くなっていく。


 彩は目を瞑って、震える声で答えた。


「だ、大丈夫です」


 夕貴は笑って、ナベリウスは頷いた。


「ほらみろ。別に大丈夫だって言ってるぞ。やっぱり嫌がってるじゃねえか。自由奔放に振る舞うのもいい加減にしとけよ、ナベリウス」

「あなたこそどこまで現実逃避し続けるのよ」


 やれやれ、とナベリウスは大げさに肩をすくめた。夕貴は一縷の望みを抱いて、彩を見つめた。


 彩はもう一度だけ言った。


「大丈夫です。わたしの家、そのへんはうるさくないから。ううん、もしうるさくても何とかする。それにわたしの家より、ここからのほうが大学もずっと近いし。だから、こんなわたしでよかったら……」


 愛の告白さながらの面持ちだった。


「なるべく夕貴くんのそばに、いさせてほしい、です……」


 いじらしく健気な姿は、普通の男ならそれだけで恋に落ちるだろう。


「……念のため聞いておきたいんだが」


 なんとなく聞いてはいけない空気のような気もしていたが、夕貴は問いかけた。


「これって、家に泊まるかどうかの話、だよな……?」


 恥ずかしさのあまり彩の頬は紅潮して、黒い瞳は潤んでいた。彼女は首を縦か横か、いまいち判然としない動きで振った。


 ほとんど思考停止していた夕貴の頭は、これまでの状況を鑑みて、まとめるなら彩の今後を思うなら宿泊を認めたほうがよくて、ひとまず櫻井家としては娘が頻繁に遊びに出掛けるのも問題なくて、とりあえず彩も嫌がってはなさそうだから、仕方なく悪魔の提案を飲むしかないかという結論にのみ達した。


「……わかった。じゃあ」

「俺のそばにいろ、っていうのはけっこう寒いからやめてよね」

「バカ! だれがそんなこと言うか!」


 また言い争いを始める二人を横目に、彩はだれにも聞こえない小さな声で呟く。


「……言ったくせに」


 どことなく拗ねたような、いじけたような顔で。


「俺がそばにいるからって。もう忘れちゃったんだ。なんでこんな人を、わたし……」


 ぼやきながらも、気付かれないように夕貴を見つめる瞳は、これまでにない淡い輝きに彩られていた。



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