1-12 『咲良』②

「はい、これ彩のぶん。ミルクティーでよかったでしょ?」


 少女は自販機から取り出した缶を、ベンチに腰かけていた彩に向けて投げた。ぞんざいな扱いだったが、缶は見事なまでにゆるやかな放物線を描いて、大した衝撃もなく彩の腕のなかに優しく収まる。


「……コーヒーがよかったな」

「あれ、変わったんだ。彩って紅茶派じゃなかったっけ?」


 身も心も凍えた夜、夕貴に淹れてもらったインスタントコーヒーがとても美味しく感じられたからだろう。


 彩のとなりに腰を下ろした少女は、足を組んで自分用に買ったミルクティーを飲み始める。用があると言って呼び出されたのに会話はなく、みんなの元にも戻らずに二人きりの小さな花見をしている。


「懐かしいな。昔もこうしてよく彩と二人で桜を見てたっけ」


 そういえば、と彩はどうでもいいことみたいに思い出す。


 四月、偶然にも同じ日に産まれて、偶然にも同じ花から名前をつけられた二人の少女がいた。


「不思議なものね。あのときから何も変わってないように見える。同じ花が咲くはずなんてないのに」


 それから一分ほど、二人は何も言わずに桜を眺めていた。彩は空けていない缶を両手で包んで持っていて、少女はちびちびと唇と喉を潤している。


「それで、何の用なのかな――咲良ちゃん」


 口を衝いた声は、自分のものとは思えないほど冷ややかで、そのことに彩は驚きもしなかった。


 咲良と呼ばれた少女は、変わらず桜を見ながら、手元の缶を傾ける。


「驚かないのね」

「そんな気はしてたから。それで、わたしに何の用があるの?」

「用があるのは彩のほうじゃない? わたしのこと、ずっと探してくれてたんでしょう?」

「知ってるんだね。探してたこと」

「知らないわよ。ただそんな気がしただけ。――ああ、そういうことか。じゃあつまりあれは悪い夢じゃなかったんだ」


 意味のわからないことを呟いて、咲良は溜息とともに長い髪をかき上げた。


 その顔も、その声も、その仕草も、なにからなにまで彩の知っている遠山咲良のものだった。体温や息遣いまで確かに現実のものとして感じられる。


 広場で遊んでいた小さな子供たちのもとから、こちらにサッカーボールが転がってきた。咲良はそれを座ったまま脚で受け止めて、膝の反動だけで器用に蹴り返した。遠くのほうから「お姉ちゃん、ありがとー」とはしゃぐ声が聞こえて、咲良はちょっと得意気な顔で手を振り返している。


 昔からそうだった。


 遠山咲良は、勉強も運動もできて、男子に人気があり女子からは慕われて、どんなときも人の輪の中心にいた。それなのに驕ることも気取ることもなく、むしろいつも何かと戦っているように真剣で、だれよりもまっすぐに生きていた。


 いまの咲良は、紛れもなくあの日の咲良だ。よくも、わるくも。


 あれから一年経った。心は止まっていても、身体だけは僅かに成長した彩とは違って、咲良は時の流れの中に忘れ去られたように容姿が変わっていない。


「やっぱり咲良ちゃんはいたんだね。生きてたんだ」

「生きてる、ね。どうかな。そう言えるかどうか微妙なとこだけど」


 自虐の笑みが浮かぶ。


「ただ、自分のお墓を見るっていうのはなかなか興味深い体験だったな。遠目だったけど、おにぃとおねぇのことも見れたしね。あんな顔してくれるんだって、ちょっとびっくりしたけど」


 そこで咲良は苦笑して、これまでになく切なそうに表情を緩めた。


「なにより、もう一度だけ逢えたから」


 それがだれのことを指しているのか、彩にはわかった。咲良がこんな顔で思い浮かべる相手はこの世で一人しかいない。ほかでもない彩の義兄であり、咲良の幼馴染でもあった青年だ。


 かつてと同じように何の気負いもなく喋る咲良とは違って、彩はまるで語る言葉を持たなかった。言いたいことも聞きたいことも山ほどある。そのために今日まで咲良の姿を探し求めてきた。でもいまは溢れる感情を抑えるのに必死だった。


 友情、罪悪感、疑問、憎悪、後悔、親愛、自己嫌悪、贖罪。


 あらゆる想いが複雑に入り混じって、心の中で暴風のごとく荒れている。身も張り裂けそうな葛藤の奔流に、彩は胸に手を当てて、早く短い呼吸を繰り返して自分を落ち着けようとする。


 そうしなければまた間違えてしまいそうだった。


「萩原夕貴、だっけ?」


 咲良の口から紡がれたその名に、彩は息を止めて振り向く。これまで表面上は冷静を保っていた彩の大げさな反応に、なぜか咲良は表情を綻ばせた。


「好きなの? 彼のこと」

「……咲良ちゃんには関係ないでしょ」

「へーえ。あの彩がね。だれからの誘いにもまったく乗らなかった高校の頃からは想像もつかないな」

「だれも好きだなんて言ってない。勝手に勘違いしないでよ」

「じゃあ嫌いなの? あとでわたしから言っておいてあげようか? それなら……」

「夕貴くんに近づかないでっ!」


 それは嫉妬心などという可愛いものではなかった。


「夕貴くんに何かあったら、わたしは咲良ちゃんを許さない! ぜったいに、ぜったいに、許さないから!」


 自分の親しい人に遠山咲良が関わるということを彩は恐れている。


 声を荒げてしまった自分を顧みて、彩はいたたまれずに俯いた。そんな彩を見ていた咲良は、しかし何がおかしいのか噴き出した。笑みと呼ぶにはあまりにも儚げな、どこか哀しく映る所作だったけれど。


「許さない、か。もう許してもらってないと思ってたけど」

「……それ、は」

「ねえ、そんなに彼のことが気になるの? レンくんよりも?」


 ふたたび咲良は繰り返す。彩の義兄であり、咲良の幼馴染でもあった青年を引き合いに出して。


「……そんなの、咲良ちゃんには関係ないよ」

「ま、そうよね。もう関係ないか」


 どこか寂しそうに同意する咲良。


 違う。関係なくなんかない。あれからお兄ちゃんはずっと、下手をすればわたしよりもずっと、咲良ちゃんのことを探してる。せめてそのことだけでも伝えてあげたい。そうすれば咲良も報われるだろう。


 なのに口は動いてくれない。咲良を慮るための言葉が出てこない。彩の心は、依然として複雑な様相を呈しており、今という時間に意識を裂く余裕はなかった。こうして咲良と相まみえてから、彩は一年前のあの日という終わってしまった過去について想いを馳せていたから。


 どうして咲良は、あんなことをしたのか。


 なんでよりにもよって、わたしの――


 それが聞きたかったのに、問いかけた瞬間に今度こそ全てが終わってしまう気がして、彩はなかなか切り出せなかった。そんな自分の弱さが、昔から何も変わらない櫻井彩の生き方が、たまらなく大嫌いだった。大事にしていたものを壊されたのに何も言い返せず泣き寝入りする子供とまったく変わらない。


 俯き、唇を噛んで自己嫌悪する彩のことを、咲良は目を細めて見ていた。そこに労わるような優しさがあることに、自分の制御に必死だった彩は気付かない。


「まだちょっと時間はあるか」


 咲良は晴れ渡る青空を仰いだあと、周囲に目を向けた。


「こんなとこじゃだめね。人目もある。なにより家族連れが多くて子供も大勢いる。日が暮れたあとに、そうね、噴水広場まで来て。そこで話をしましょ」


 咲良は勢いをつけて立ちあがると、空になった缶を近くのゴミ箱に向かって投げた。かこん、と小気味よい音がして、彩のもとから足音が遠ざかっていく。まだ返事もしていない。まっすぐ顔も見れていない。


 彩は立ち上がって、また離れていこうとする背を呼び止めた。


「待って、咲良ちゃん!」


 咲良は肩越しに振り返った。目が合う。彩は深呼吸して自分を落ち着かせてから言った。


「……逃げないよね?」

「逃げないわよ」

「わたしも逃げないよ」

「そ」

「なんで」


 彩の黒い双眸が、いままでになく冷徹な光を帯びる。抑えていた一つの感情の制御に失敗する。


「なんで、咲良ちゃんはわたしの前に現れたの?」

「…………」

「なんで咲良ちゃんだったの? なんで咲良ちゃんだけなの? 咲良ちゃんがいるなら、咲良ちゃんより、わたしは……」


 続く言葉は、咲良にとってあまりにも残酷なもので、さすがの彩も口にするのは憚られた。それを言ってしまったらもう取り返しがつかない。この場で全ての決着をつけなければいけなくなる。まだ気持ちの整理が一切できていないのに曖昧なままで過去を清算してしまったら、きっと彩は生涯に渡って後悔することになる。


 まさしくこの一年間がそうだったように。


 咲良が改まって逢瀬の約束をしてくれたのは、あるいはそんな彩の心情を知った上だったのかもしれない。


 彩がしっかりと心を決める時間をくれたのだ。


「……なんで、か」


 こうして咲良が、彩の前に現れた理由。


「そうね、それはたぶん」


 少しだけ考えてから、咲良は続けた。


「こうでもしないと、わたしは言いたいことも満足に言えなかったから、かな?」


 片目をつむって、いたずらげに言うその仕草。


 それから咲良は、幻のように消えるでもなく、自分の足で確かに歩いて人混みのなかに消えていった。突然現れたときと同じく、あっけなく去っていった。とたんに風の音や、子供のはしゃぎ廻る声が聞こえてきて、自分がどれほど余裕をなくしていたのか彩は知った。


 一人きりになった彩は、力なくベンチに座り込んだ。喉がからからに乾いていた。咲良にもらったミルクティーを開けて、汗をかいた缶に口をつける。とろりとした液体が口腔に広がり、茶葉の芳香が鼻を抜けていく。


「わたし、どうしたらいいのかな」


 いつかの夜に飲んだインスタントコーヒーは、いまにして思えば苦みが強くて、砂糖とミルクで誤魔化さなければ彩には飲めない代物だったが、これは年頃の少女にぴったりの味わいだった。美味しいと、素直にそう思った。


「……やっぱりわかんないよ。お母さん」


 だがその味は、長きに渡る懊悩に心をすり減らした少女にとって、いさかか甘すぎた。

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