1-12 『咲良』③

 夕暮れ時になると、あれほど賑わっていた芝生の広場からも少しずつ人が減り始める。斜陽に追われて後片付けをするのは夕貴たちのグループも例外ではなかった。それぞれ分担して撤収作業を進めていく。


 夕貴が買い出しから戻ってきたあと、特に進展はなかった。後半になるにつれて響子は幹事の雑務にかかりきりになり話はできなかった。彩とは二人きりになる時間を作れないどころか、まるで夕貴を避けるように一度も目が合うことさえなかった。


 彩の様子がおかしいことにはすぐに気付いた。だれかと話していても、その目はここではない遠くを見据えているようで、よく言えばぼんやりと、悪く言えばもう花見に興味を失っているとすら感じられた。そんな彩のことが気になって、でもいまは話をすることもできなくて、夕貴はもどかしさに駆られながら現在に至る。


 その苛々をぶつける主な相手は、何の気兼ねもしなくていい悪友である。


「おい託哉。ふざけんなよおまえ。いつまで寝てんだ」


 みんなが手分けして後片付けをしているのに、託哉だけ芝生の上に寝っ転がったまま微動だにしない。仰向けに寝転んだ託哉の顔には、日除け代わりの陳腐な三文雑誌が乗せられたままだ。一時間前どころか、三時間ぐらい前に見た光景と比べてもなにも変わっていない。


 割れ物を集めて回っていた夕貴の手は、大きな袋によって塞がれていたので、つま先で託哉の身体を小突いた。その衝撃で雑誌がずり落ちて、差し込んだ赤い陽射しに託哉のまぶたが震えた。寝ぐせのついた頭をかきながら身体を起こす。


「もう朝か。日の出なんて久しぶりに見たぜ」

「どこからどう見ても沈んでいくところだろうが。もはや何しに来たんだ、おまえは」

「肉食って女見て寝てた」

「貴族の遊びじゃねえか。寝言はいいからおまえも手伝えよ。そのへんのゴミ集めてきてくれ。缶とか割れ物な」

「そういうだろうと思ってもう集めといた」

「ほんとか? 悪いな……って、おいこら」


 夕貴に向かって放り投げられたのは、託哉が安眠道具にしていた例の雑誌である。ぱらぱらとページを晒しながら中空を舞うそれを夕貴は仕方なくキャッチする。


「ちょうどよかった。オレにはもう必要ねえからやるよ」

「この分別された袋が見えてるか? ここに紙が入ってるように見えるか?」

「気になるなら、ちゃんとしたところに捨てといてくれ」

「おまえが気にしろ。つーか捨てろ。おい、託哉!」

「じゃあせいぜい頑張ってな」


 あくびをしながらさっさと逃げていく託哉を呼び止めるより、もう自分の手で始末したほうが早いと判断した夕貴は、溜息一つで友人のずぼらを許すと、脇に雑誌を抱えたまま残りのゴミの収集に取り掛かった。


 あらかた作業を終えたところで、彩の姿が見えないことに遅まきながら気付いた。よく彩と話していた女子の一人に、それとなく訊いてみる。


「彩だったら、今日は用事があるからって先に抜けていったよ?」

「用事? なんの?」

「そこまでは聞いてないけど。なに、もしかして萩原くんも彩のこと気になってるの?」


 女子にとって色恋沙汰はそれだけで楽しいらしく、きらきらと瞳が輝いている。捨てる機会に恵まれなくて、ずっと手に持ったままだった雑誌を夕貴は強く握りしめた。 


「彩がどこに行ったか知らないか?」

「さあ。でもついさっきのことだったから、まだそのへんにいるんじゃない? もしよかったら連絡してあげようか?」

「いや、自分でするからいいよ。ありがとう」

「えっ!? 彩の連絡先知ってるの? うそでしょ? ていうか彩って呼んだ? ね? ね?」


 別に隠しているわけではないので、夕貴と彩が友人としてそれなりに親しいことは響子など一部の人間は知っている。それを知らないということは、この少女は彩とあまり私的な交流がないのかもしれない。


 だったら、もっと事情に詳しそうな子にも訊いてみようか。そう思って周囲に視線を走らせた夕貴は、まず何とも言えない違和感を覚えると、さらに数舜ほど遅れてから、ようやくある事実に思い至った。


 買い出しの途中、夕貴と彩に声をかけてきた、あの切れ長の目をした少女。とても印象に残る、力強くも優しい眼差しをしていた。一度見たらすぐには忘れないだろう。しかし夕貴は、あの子のことを覚えていなかった。いや、そもそも、こうして見渡していても、それらしい姿を衆人の中に見つけることはできない。


 頭の中で、不気味なほど醒めた自分の声がした。


 ――あんな子、ほんとうにいたのか? 


 花見の始まりから終わりに至るまで、彩の友人を名乗った少女を、夕貴は一度も見ていない。


「でも残念だなぁ。わたし、萩原くんのこといいなって思ってたんだよね。まあ彩が相手なら……あれ? 萩原くん?」


 すでに走り出していた夕貴に彼女の声はまったく聞こえていなかった。


 彩に電話をかけてみるが、電源を切っているらしく繋がらない。広場を抜けて、整備された歩道を進む。大勢の人が帰っていく途中だった。人混みをかきわけて、その中に彩を探しつつ、当てもなく周辺を駆けまわった。だが彩はどこにもいない。花見客で溢れかえる自然公園の中で、そう都合よく見つけられるはずもなかった。


 もう陽は落ちるところだった。途方に暮れた夕貴は、近くにあったベンチに腰掛けて、手汗で少しよれてしまった雑誌を脇に置いた。こんなどうでもいいものを後生大事に抱えているくせに、ほんとうに大切なものをすぐに見失った自分の愚かしさに反吐が出る。


 うなだれる夕貴の目の前を、一組の母子が通り過ぎていく。まだ小さな男の子と、うら若い母親。握られる手は一つだけだったが、とても楽しそうに笑っていた。自分の記憶にある黄昏の思い出と重なるほど微笑ましい光景だった。こんなときじゃなかったら、もっと感傷的な気分にもなれただろう。


 手を引かれる男の子と目が合った。にんまりと破顔する。よほど機嫌がよかったのか、あるいは何か通じ合うものがあったのか、少年はポケットから小さな包みを取り出すと、とっておきの宝物のように手を差し出した。


「おにいちゃん。これあげる」


 それは飴玉だった。どこにでも売っている市販品。宝物でもなんでもないただのお菓子。だから夕貴は、大切に握りしめた。


 幼い子供の行動である。母親は困ったように頭を下げる。


「すみません。この子、お菓子が大好きで、ふだんは人にあげたりしないはずなんですけど」

「……いえ、大丈夫です。ちょうど甘いものが欲しかったところですから。だから、もらってもいいですか?」


 母親はもう一度だけ頭を下げると、もちろん、と言うように微笑した。口内に甘酸っぱいレモン味が広がった。


「ばいばい、おにいちゃん」


 屈託のない笑みを夕貴に向けながら、少年は手を引かれて歩いていく。夕貴も笑顔で応えた。そんな様子を、母親は嬉しそうに見守っていた。優しい子に育ってくれている、と誇らしそうだった。ささいな出来事かもしれないが、子供の成長を感じるには、それは母親にとって充分だったらしい。


 もしかしたら夕貴の何気ない行動の一つ一つも、あんなふうに親を喜ばせていたのだろうか。


 いまの俯いている夕貴を見たら、彼の母はどんな顔をするのだろうか。


 あの日、幼い自分に誓ったはずなのに。


 ――わるいやつがいたら、おれがやっつける。泣いてる子がいたら守ってあげる。


 まだ何も知らなかった小さな頃は、世界がそんな簡単なものだと信じていられた。


 ぱらぱらとページのめくれる音がして、夕貴はなかば存在を忘れかかっていた雑誌に目を向けた。偶然か、それとも必然だったのか、開いたページには一年前の通り魔連続殺人事件の記事が大きく掲載されている。


 五人目の犠牲者、遠山咲良。


 何度見ても変わることのないその事実を見るたび、夕貴は、かけがえのない親友を失ってしまった彩に同情してしまう。


「――ぁ」


 ほとんど惰性で記事に目を通していた夕貴は、それを見た瞬間、完全に息が止まった。脈さえも感じられなくなるほどの空白だった。


 四人目の犠牲者。


「……櫻井、深冬(みふゆ)?」


 彩と、同じ名字?


 ぐらぐらと地面が傾いでいるような、いま自分がいる場所を疑うような、なにか根本的な見落としの予感が夕貴の頭蓋を殴りつけた。


 いや、落ち着け。そんなはずはない。偶然に決まっている。夕貴は雑誌を手に取って、食い入るように見つめる。


 櫻井深冬。年齢は三十七歳。若い。若すぎるといってもいい。これで少しは彩の■■だという可能性が減った。そう自分に言い聞かせる。あるいは親戚かもしれない。彩は一人っ子でずっとお母さんと二人暮らしだったのに? そうか、再婚した養父の妹とか、そんな間柄の人物かもしれない。待て、なぜ俺はこの人を彩の親類だと勝手に決めつけている? ただの同姓でしかないという可能性のほうがずっと大きいはずなのに。


 だって彩は何度もお母さんのもとに帰ると言っていた。お母さんが生きる理由のぜんぶだって、そう言っていたのだ。


 ――犯人は、まだ捕まってない。この街にいる。


 彩の声を思い出す。


 ――だって犯人は、もう死んでるんだから。


 彩の言葉を思い出す。


 ――そのままの意味だよ。だって一年前の通り魔連続殺人は――


 矛盾だらけだ。きっと夕貴はまだ真実の一割も知らない。そんな状態で思考することに何の意味もない。でも理屈にならない感情の辻褄だけが夕貴のなかでひたすらに噛み合っていく。


 彩は必死になって遠山咲良を探し続けていた。でも見つけてどうするつもりなのか、ついぞ彩の口から聞いたことはなかった。


 当時の彩はどんな気持ちだったのだろうか。それを想像してみるのは難しいことではなかった。もし響子や託哉が被害に遭っていたとしたら、夕貴は毎日、復讐のことだけ考えて生きていただろう。


 ――犯人を自分の手で殺してやりたいと、そう思っていただろう。


 いつかの夜に聞いた強烈な耳鳴りが鼓膜を震わせたのは、そのときだった。


 音響機器の反響にも似たハウリング。


 しかし、いまの夕貴には、なぜかそれが少女の声にならない叫びにしか聞こえなかった。事実、絶叫だったのかもしれない。


 ふらつきながら立ち上がり、感覚だけを頼りに音のするほうに向かう。すでにあたりは不気味なまでに人気がない。あの忌まわしい耳鳴りがするたびに世界が変質している気がする。世界に一人だけ取り残されたような寂寥感。


 夕貴は走る。前に進むのではなく、背後から追いかけてくる得体の知れない何かから逃げるようにして。


 足を止めることはなかった。


 たとえもう、手遅れだったとしても。




 次回 1-13『桜の花のように』

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