1-12 『咲良』①


 二人きりで桜並木を歩く。


「……なんだか、久しぶりだね。夕貴くん」

「ああ。元気だったか? その、彩は大学に来てなかったって聞いたけど」

「ちょっと体調崩してて。もう平気なんだけど、季節の変わり目はよく風邪引いちゃうから」

「大丈夫なのか?」

「うん。何もなかった。ほんとうに、何もなかったから」


 その言葉を素直に喜べない程度には、夕貴と彩の関係は複雑だった。ともに一夜を過ごした日、彩を受け入れなかったという意味では、確かに二人の間には何もなかったから。


「夕貴くんも、元気だった?」

「まあな。健康だけが取り柄みたいなもんだし。俺が風邪を引いたとか言い出したら、そのときは学校サボってるって言ってるみたいなもんだ」

「あ、聞いちゃったからね? もし夕貴くんが風邪引いてるって言っても、わたしだけはもう騙されないからね?」

「言わなかったらよかったな」


 二人して小さく笑う。なんだかようやくいつもの調子が戻ってきた感じがして、夕貴は嬉しかった。


「夕貴くんは、最近なんか変わったこととかなかった?」

「え? 別にないと思うけど」

「例えばだけど、新しい友達ができたりとか」


 とくにない。いつも通りである。念のため、この一週間近くを振り返って間違いがないことを確かめてから夕貴は頷いた。なぜか彩は納得がいっていないらしく、さらに問いを重ねる。


「ほんとに?」


 そのとき、夕貴の脳裏によぎったのは彩とは違う女性の笑顔だった。銀色の髪と瞳を持つ、一切の素性を知らない自称悪魔の電波塔。もう何日も一つ屋根の下で暮らして、数日前にはともに街に出かけた仮初の同居人。


 ナベリウスと出逢い、そして現在に至るまでの経緯を、はじめは彩にも説明しようと思った。隠し事はしたくなかったからだ。彩のことを知りたいと願う夕貴が、自分のことで嘘をつくのは間違っているだろう。


 とはいえ、このタイミングで打ち明けるのはさすがに躊躇われた。ここで夕貴がいきなり「ある日、悪魔と名乗る女がやってきて、気付いたら一緒に住むことになった」とか言っても絶対に信じてもらえないと思ったからだ。頭がおかしいやつと思われて終わる可能性すらある。


 これが例えば幼馴染の二人のように釈明が必要な場面なら白状したが、そもそもナベリウスの存在も知らない彩に、こんな思春期の男子の妄想みたいな話を何の脈絡もなく語る気は起こらなかった。


 そうやって、以前の自分なら賢しげな理屈を並べて誤魔化していただろう。


 しかし夕貴は、どんなささいなことでも彩に嘘をつきたくなかった。


 無力な自分では彩をまた泣かせてしまうかもしれない。溢れる涙を止められないかもしれない。それでも泣き止むまで一緒に寄り添ってあげることはできるし、流した涙はその分だけ俺が拭おう。


 向き合うと、そう決めたのだ。


 知ってもらいたいし、それ以上に知りたいのだ。


「そうだな。友達……とはぜんぜん違うけど、聞いたらびっくりするぐらい愉快なやつと知り合いになったのは確かだ」

「どういうこと?」

「実はな。ある朝、起きたらベッドにまったく知らない女が裸で添い寝しててな。しかもそいつ悪魔とか名乗ってて、俺のことをご主人様とか言い出して、自分のことを奴隷とか言うんだ。どう思う?」

「へ、へえ。そうなんだ。なんていうか……その、よかったね?」

「やっぱそうなるよなー! 知ってた!」


 ドン引きの姿勢を見せる彩に、夕貴は固めたばかりの決意をさっそく後悔し始めていた。夕貴はなにも悪いことはしていないはずなのに、この世界は彼にぜんぜん優しくないらしい。


「それで……その人は、夕貴くんにとって、どういう人なの?」

「えぇ、続けるのか? きついのに……」


 まさか彩が引っ張るとは予想外の展開だった。しょんぼりと肩を落とす夕貴は気付いていなかったが、彩の面持ちは真剣そのものになっていた。


「大切な人、なのかな」

「そんなわけないだろ。むしろ一秒でも早く消えてほしいやつだ。とっとと雪と氷しかない田舎に帰れってんだよな、あいつ。じゃないと俺の人生が狂っちまう。だいたい、あいつは人の気持ちってものを理解できてないんだ。俺がいつもどれだけ苦労しているかわかってない。この前もさ……」


 ぶつぶつと愚痴を言って、溜まっていた鬱憤を吐き出す夕貴。ナベリウスと知り合ってからの出来事を、こうして思い出しながら口にしてみても決して楽しくない。それどころかむしゃくしゃした気持ちになる。聞かされている側の彩にとっても、夕貴がどれほどナベリウスに対して恨みを抱いているか、はっきりと理解できたはずだ。

 

「……そっか。そう、なんだ」


 夕貴をしばらく見つめていた彩は、寂しげな微笑をして、もう話を聞きたくないとばかりに顔をそむけた。嘲笑も覚悟していた夕貴にとって、その反応は思っていたものと違った。


 これはあれか? いわゆるエロ本で盛り上がっている男子を冷めきった目で見る女子の図っていうやつか?


 自覚した途端、夕貴の背中を氷のごとく冷たい汗が流れる。何でもかんでも正直に言えば許されるわけではないということを夕貴は勉強させられた。


 徐々に会話は少なくなって、ついに声が途切れる。夕貴がどんな話題を口にしても、彩は悄然と相槌を打つだけで、普段みたいに自然と話に花が咲くことはなかった。


 となりを歩いていたはずの彩は、ふと気付けば、夕貴の半歩ほど後ろにいた。夕貴が歩みを落とせば、その分だけ彩も歩調を緩める。ずれた距離は歩幅のせいだったのか、それとも心だったのか。


 夕貴は静かに呼吸を整えると、あの夜から隔たっていた時間を取り戻そうと、最初の一歩を踏み出した。


「彩と話したいことがあったんだ」

「なにを話すの? わたしは話すことなんかないよ」


 いつもの柔らかな口調とは違う、よそよそしい声。夕貴に見向きもしない。それは拒絶の姿勢にも、傷つくことを恐れる幼子のような態度にも思えた。


 夕貴は二の句を継げなかった。実際、夕貴も何か話したいことがあったのではなく、彩と話すこと自体が目的だったので目ぼしい話題を用意しているわけではない。


 ただもっと櫻井彩という人間に触れてみたいと思う。


 その理由をうまく言語化するのはちょっと難しい。人間の心は複雑で、青空がよく見れば青一色ではないのと同じように、いまの夕貴の気持ちをたった一言で表すことはできない。


 彩にはずっと笑っていてほしいし、もっといろんなところに遊びにいってみたい。もう泣かせたくないし、これ以上は傷つけたくないし傷ついてほしくもない。いろんな感情が混ざり合って、どれも正解のように思えたし、なにひとつとして正しいものはない気もした。


 夕貴は答えが見つからないまま、それでも何か言いたくて、曖昧な心を差し出した。


「俺は彩のことを放っておけない。もっと知りたいと思う。もう彩には傷ついてほしくないんだよ」


 色めいた台詞だったが、そこに男女の艶っぽさは欠片もない。ただ空虚に響くだけだ。


「……そう」


 彩は俯いたまま相槌を打つと、もうしばらく歩いたところで、すぐそばにあった桜の木を見上げた。眇めた眼は、目の前にある景色ではなく、溢れる感情をその瞳のなかに閉じ込めようとしているかのようだ。


「もう一年前になるかな。この街で、通り魔の連続殺人事件があったんだよ」


 粛々とした声で口火が切られる。


「犯人は、まだ捕まってない。この街にいる」


 以前にも聞いた言葉をそっくりそのまま繰り返す彩に、夕貴は違和にも等しい疑念を覚えた。その話をいまさら蒸し返すことに何の意味があるのか。犯人が見つかっていないのなら、いたずらに掘り返しても傷つくだけだというのに。


「そのときの犯人を捜してるのかって、夕貴くんはそう聞いたよね。覚えてる?」

「ああ、覚えてるよ。それが?」

「答えはノーだよ。捜すまでもない。だって犯人は……」


 彩が次の声を発するまでに十秒近くを要した。考えるというより、迷うような間だった。


 けっきょく、彩は答えた。


「だって犯人は、もう死んでるんだから」


 矛盾を孕みつつある彩の話の意味がまったく飲み込めず、夕貴は怪訝も露わに彼女を見た。だが彩の表情は涼しいままだ。いっそ冷たいまでに。


「夕貴くんは優しいから、心配してくれてるんだよね。わたしがまた危ないことに巻き込まれないかって。大丈夫だよ。あの事件は、もう初めから解決してるんだから」

「いや、待てよ。いったい何の話をしてるんだ?」

「だからね」


 天気の話でもする気安さで、彩は言う。


 吹っ切れた――いや、何かを諦めたような顔で。


「そのままの意味だよ。だって一年前の通り魔連続殺人は――」

「あ、いたいた。どこ行ってたのよ、彩」


 彩が決定的な一言を告げようとした瞬間、ひょこっと別の少女の声が割り込んだ。


「やっと見つけた。もうずっと探してたんだから」


 親しげにそう言って現れたのは、切れ長の目が印象的な少女である。見たところ夕貴たちと同年代ぐらいだろう。声をかけられてよほどびっくりしたのか、彩は唖然とした様子で固まっていたが、すぐに呼吸を戻して、表情を無理やり取り澄ましてみせる。


「萩原くんも。もしかして彩とふたりで抜け出そうとしてたの?」


 少女はそう冷やかした。どうやら花見に参加していた女子の一人らしい。これまた艶っぽい話ではないが、夕貴はずっと彩のことだけ考えながら肉を焼いていたので、交流を深めるという当初の目的をまったく果たせていなかったりする。


「そういうわけじゃない。ただ響子に買い出しを頼まれたんだ」


 話の腰を折られたせいか、非難がましい言い方になってしまった。だが少女はまるで気にするふうもなく、むしろ興味深そうに夕貴のことを観察している。彼女の目は、一見すると内に秘めた気の強さを印象付けるが、その奥には同じだけの優しい光も秘められていて、じっと見られても悪い気はしなかった。


「……ねえ、わたしに用があったんでしょう?」


 彩が低く抑えた声で言う。少女は、そうそう、と頷いた。


「ちょっとどうしても彩の手が借りたかったのよね。だめ、萩原くん?」

「わたしは大丈夫。夕貴くん、悪いけどあとは頼めるかな?」


 夕貴に先んじて、彩が答えていた。その語調は、すでに確認や要望といった域を超えて、もう彩のなかで決定事項となっているような有無を言わせない力強さがあった。ここまで憚りのない物言いは、彩にしてはずいぶんと珍しい。


「ああ、俺はいいけど」


 ジュースを買い足すぐらい一人で何とでもなる。もともと話をする口実のつもりで彩を誘っただけで、力仕事まで期待していたわけではない。


「ありがと。ごめんね、萩原くん。そういうわけで、彩はもらっていくわ」


 夕貴が了承すると、二人の少女はきびすを返して、もと来た道を引き返していった。その最中、彩の視線は、もう一人の少女の背をずっと捉えて離さなかった。


 違和感。


 あの少女に用件を告げられたとき、彩は率先して誘いに乗った。実態はどうであれ、これは幹事である響子から任された買い出しという役目である。託されたはずの信任を夕貴一人に丸投げして、自分は途中で放り出すような真似は、彩の性格上まず考えられない。


 とは言ったものの、話の内容が内容だったこともあり、夕貴といったん距離を置きたいと考えても不思議ではなかった。いまは夕貴といるより、友達と気楽に雑談していたほうが彩の心も安らぐかもしれない。


 あのとき、彩は何を言いかけていたのか。


 気になるが、彩がいないのでは確かめようがない。あとでもう一度、彩と話をする必要があると思った。


 一人きりになると、棚上げしていたもうひとつの疑問が、無意識のうちに口を衝いた。


「遠山咲良、か」


 響子は遠山咲良のことを知らなかった。それがずっと引っかかっている。買い出しが終わったら響子と情報を擦り合わせたほうがいいだろう。幹事で大忙しのあいつにそんな時間があればの話だが。


 考えることだけは山ほどあるのに、なに一つ理解できないでいる。まるで出口のない迷路を延々と歩いているような気分だ。


 昼下がり、まだ陽が暮れるまで時間はあった。


 花見は続くのだ。桜が舞い散るかぎり。


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