1-11 『あなたに微笑む』①


「彩が、大学に来てない?」

「そうなのよ。あんた何か知らない?」


 キャンパスの中央に位置するカフェは、壁全面がガラス張りとなった瀟洒なデザインや、観葉植物の生い茂る落ち着いたテラスも相まって、多くの学生たちから憩いの場として親しまれている。


 夕貴は、幼馴染の響子と連れ添って午前の予定を終えたあと、彼女に連れられてテラスの一席に腰を据えていた。


「ちなみになんで俺に聞くんだ?」

「そりゃ夕貴とデート行った翌日あたりから来なくなったんだから、どう考えてもあんたと何かあったって思うのが普通でしょうが」

「……まあ、やっぱそうなるよな」


 彩と最後に別れてから四日が経過していた。あれから何もない穏やかな日々が続いている。張りつめていた意識が微睡みそうになるほどに。


 絶え間なくニュースをチェックしているが、大雨の夜に出くわした悪魔のごとき少女の遺体が発見されたという報せは、ついぞ流れることはなかった。


 おかしなことはそればかりではない。昨日、大学の帰りに寄り道して現場付近を訪れてみたところ、車に撥ねられた少女が衝突して大きく曲がっていたはずのガードレールは、何事もなかったかのように元通りになっていた。突貫工事で新しいものに替えられたのかと最初は思ったが、よく見ると経年劣化による傷や錆もそのままに復元されていた。


 凍結したビルも、さすがに足を踏み入れる気は起こらなかったが、スーツを着たサラリーマンがちらほらと出入りしていたところから察するに、やはり異常はないのだろう。


 あの夜は、まるで夕貴と彩だけが体験した悪い夢だったかのようにその痕跡を消していた。


 さらに関連があるかどうかは不明だが、新たな少女の自殺が報じられることもなくなっていた。それは本来なら喜ぶべきことだと思うが、もたらされた仮初の平穏を上回るだけの不気味な要素が累積しすぎていて、夕貴にはかえって嵐の前の静けさに等しく感じてしまう。


 夕貴の暗い面持ちを見て、響子は溜息をついてから、揶揄するような語調を優しいものに切り替えた。


「まあ夕貴のことだから変な心配はしてないけどね。でも、だからこそ心配なのよ。適当に誤魔化されるより、誠実に対応されたほうがダメージがでかいってこともあるから」

「考えすぎだって。ただ遊んで、別れただけだ」

「……あのさ。もしかしてあたし、余計なことしたかな」


 ショートカットの髪と、少しばかり日に焼けた健康的な肌は、普段なら快活な印象を覚えるが、だからこそ表情を沈ませると陰鬱な色が強調される。


「ぶっちゃけた話、夕貴と彩がラブコメしてるの見るのは楽しかったわけよ」

「ぶっちゃけすぎだバカ」

「でもそれ以上に、もしほんとにあんたたちが遠からずって感じなら、あたしなりに応援してあげたいなとも思ってて、彩にもいろいろアドバイスを送っては顔を赤くして怒られたりもしてたわけなんだけど」

「……はぁ」

「でも、でもさ。よかれと思ってたけど、あんたたちのタイミングを無視して強引になっちゃって、それが原因とかで疎遠になったんだったら……」

「バカ。んわけないだろ。おまえの失態なんて一パーセントもねえよ。だからそんな顔すんな」


 落ち度があったのは夕貴なのだ。響子が見当はずれの罪の意識を感じる必要はない。


 もう一度、彩と話がしたい。もっと彩のことを知りたい。今度こそ彩とちゃんと向き合いたい。


 何ができるかわからない。何もできないかもしれない。


 それでも彩のそばにいたいと、そう思う。


 しかし、そのたびに泣き崩れる彩の顔がまぶたの裏にちらついて、夕貴は自分から連絡することもできずにいた。何度もメールを打っては消して、電話をかけようと思っては第一声も思いつかずに止める日々だった。


 自分から動かないと始まらないとわかっているのに、また彩を泣かせてしまうかもしれないことが怖くて、最初の一歩を踏み出せずにいる。


 だったらいいけど、と響子は気を取り直して、本題に入る。


「みなさんお待ちかねの花見が、とうとう今週末に迫ってるわけじゃない?」

「あ、そういやそんなイベントあったな」

「忘れるなアホ。バーベキューにレクリエーションもあって、子供から大人まで楽しめる夢の一時なのよ? まあ来るのは大学の同期だけなんだけど」

「で、俺はなにを手伝えばいいんだよ」

「言っとくけど、彩も来るのよ? ついさっきわざわざ再確認までしたんだから。さりげなく夕貴の名前を出してみたけど、それでもちゃんと来るって言ってたわ」


 ぽちぽちと携帯をいじってメールを開く。内容まで見せてもらえなかったが、どうやら彩からの返信がそこにあるらしい。


「べ、べつに夕貴のためじゃないからねっ! 彩が来なかったら男子の参加人数が減っちゃうかもしれないし、幹事であるあたしの威厳を保つためなんだから! ほんとよ!」

「そうか、彩が……」

「あ、あのー? 夕貴くん? この流れでスルーされるとあたし死にたくなるんですけど? もしもーし? 夕貴ちゃーん? そのへんの女の子よりも可愛い顔してることに定評のある乙女の夕貴ちゃーん?」


 彩が来る。それを聞いて、夕貴は知らずのうちに拳を握りしめた。


 響子はうっすらと頬を赤くしたまま、こほん、と咳払いをして空気を無理やり引き締めた。


「なにがあったか聞かないけどさ。すっきりさせなさいよ。ちょうどいい機会になるでしょ?」

「うるせえ。おまえも余計なことばっか気にしてないで、とっとと男の一人でも作れよ」


 軽口を叩いて笑いあう。響子のおせっかいと、それを上回る気遣いに、夕貴は心がすっと軽くなるのを感じた。


「そういえば夕貴ってさ。彩のことどう思ってんの? 好きだったりとかしちゃうわけ?」


 その問いに答えることができたのなら、あの夜、彩は涙を流さずに済んだのだろうか。


 もうすぐそこまで迫った約束の花見までに、夕貴は答えを見つけることができるのだろうか。


「さあな。もしそうだとしても、それを最初に言う相手はおまえじゃねえよ」

「言うじゃん。なんかあったらいつでも相談しろよ、男の子」


 満面に笑みを浮かべた響子が拳を差し出した。夕貴は苦笑しながら拳を合わせて、面倒見の良すぎる幼馴染からの応援を受け取った。






 久しぶりに訪れた墓は、生前の故人が深く親しまれていたことを示すかのように、雨上がりのあとも人の手によって美しく保たれていた。天気はよかったが、青空には少しだけ雲がかかっていて、その中途半端な空模様がいまの自分の心を映しているように思えた。


 櫻井彩は持参した花束を捧げて、墓石の前にしゃがみこむと手を合わせた。死者を悼むのではなく、許しを請うように。


「……なんだか、わからなくなってきちゃった」


 ここに彼女はいないとわかっていても、彩は言葉を紡がずにはいられなかった。


「咲良ちゃんは、もういない。わかってるよ。わかってるつもりだった。でも」


 夕貴と過ごした四日前の夜からずっとニュースを追っているが、あのときの少女の死体が見つかったという報せはまだない。いままで街で咲良の幻影を見かけた日は、決まって少女が自殺していたというのに、あの夜だけは法則が崩れているのだ。


 だから。


 あの日の出来事はぜんぶ何かの間違いで、まだ咲良はこの街のどこかにいて、彩のことを待っているのではないか。


 そんな希望が日を追うごとに増して、少しずつ自分の都合のいいように思考を改竄していく。


 それが限りなく妄想に近い可能性だとわかっていても、いまの彩は縋らずにいられなかった。また全てを喪ったと思い込んでだれかの前で無様を晒すぐらいなら、きっと一パーセントもない可能性でからっぽの自分を膨らませて、外面を取り繕っていたほうがいい。


 あの夜、どうしようもなくなって、でもそんな彩を少年は受け入れることはなかった。彼は優しすぎるのだ。それが時に残酷であることも知らないぐらい。


「咲良ちゃんも、こんな気持ちだったのかな」


 だれかから拒絶されるということが、こんなにも心を傷つけるなんて知らなかった。これまで特別な執着を持たずに生きてきた彩には初めての経験だった。


 いまの彩でさえ、これほど苦しいのだ。


 幼い頃からずっと一途に想っていた人に拒まれた咲良は、いったいどんな気持ちだったのだろう。ほかに好きな人がいる、と告げられたときの心境など、もはや推し量ることもできない。だから彩は、こんな自分でも力になれるならと思って咲良を慰めようとした。


 ほんとうに大切な親友だったから泣いてほしくなかった。それだけだった。


 それが無知という名の傲慢であることも知らずに。


 あのとき、この世界で彩だけは、咲良に寄り添ってはいけなかったのに。


 咲良は静かに涙を流しながら、愛憎が激しく入り乱れた目で彩のことを睨みつけた。


 ――なんで? どうしてよりにもよって、彩なの?


 ああ、そうか。


 ――あんたなんか、いなければよかったのに。


 わたしは、また失敗したんだ。


 そして咲良は、ほかの四人の犠牲者とともに命を落とすことになる。通り魔連続殺人事件の最後の死者として。


 犯人は捕まることなく、まだこの街にいる。


 忘れたくても忘れられない後悔の念が、埋火のように彩の胸を焦がす。どれほど考えても、どこでなにを間違えたのかわからなくて、それがまたよりいっそう忸怩たる思いに拍車をかける。


 人はきっと、生きているだけでだれかを傷つけるのだろう。傷つけずにはいられないのだ。


 かつての咲良がそうだったように、かつての彩がそうだったように。


 それなのにどうして人は寄り添おうとするのか。なぜ一人では生きていけないのか。傷つくだけなら、初めから友達も恋人も家族もいらないはずなのに。


 なんで神様は、人を孤独では生きていけないように作ったんだろう?


 もし彩がちゃんと孤独に耐えられる人間だったら、あの夜、一人の少年を傷つけずに済んだかもしれないのに。


「……もう、嫌われちゃったかな」


 彩は小さく苦笑すると、目の前にある墓碑に向かって語りかけた。


「わたし、さ。ちょっと気になる男の子ができたんだ。ずっと心配してくれてたもんね。高校生にもなって彼氏の一人もできないわたしのこと。だから報告しておきたかったんだ」


 そして、宣言しておきたかった。本人の前で。


「咲良ちゃんは、かならずわたしが見つける。だから……」


 少し強い風が吹いて、続く言葉をさらっていく。髪を耳にかけながら立ち上がると、彩はもう一度だけ墓の下で眠っている故人に向かって微笑みかけてから、その場をあとにした。


 のどかな霊園を歩いていると、途中で一組の男女とすれ違った。下を向いていた彩は相手の顔を見ていなかった。だから気付いたのは、相手が先だった。


「彩ちゃん?」


 あまりにも懐かしい声に、彩は心臓を鷲掴みにされたような心地で面を上げた。振り向くと、そこには遠山咲良とよく似た女性が立っていた。記憶にある容姿よりずいぶんと大人びていて、一瞬だれだかわからなかった。もう大学は卒業しているはずだから、当然といえば当然かもしれない。


 その二人は、それぞれの手に一つずつ花束を抱えていた。


「やっぱりそう。久しぶりね。元気だった?」

「……はい。お久しぶりです。瑞穂さんも元気そうで、よかった」


 咲良の実の姉である遠山瑞穂だった。昔はよく世話になったものだ。一人っ子だった彩は、瑞穂によく懐いていて、彼女もまたそんな彩をもうひとりの妹のように可愛がってくれた。


 瑞穂のとなりにいるのは、その兄である遠山家の長男だ。面識はあるが、あまり会話したことはない。瑞穂が「先に行っておいて」と告げて、自分の手に持っていた花束を渡すと、彼は彩に向かって目礼して一年ぶりの挨拶を済ませてから、遠山家の墓に向かっていった。


 二人きりになって生じた沈黙は、それが長くなればなるほど、疎遠となっていた年月の隔たりを感じさせる。


「……彩ちゃんも、お参りに来てくれたの?」

「はい」


 嘘をつく。お参りではない。


「もう大学生になったんだっけ。ちょっと背も伸びたかしら。彩ちゃん、またきれいになったねえ」


 瑞穂の眼差しは、彩を見つめながらも、別のことに思いを馳せているかのようだ。成長した妹の友人を見て、もし咲良が生きていたら、という想像が膨らんだのだろう。


 心が引き裂かれるようだった。瑞穂が悪いわけではない。ただ咲良の面影を色濃く感じさせる彼女と向き合っていると、自分だけ時の流れを享受していることに罪悪感を覚えてしまう。あの日からずっと抱えていた後悔がまた一段と重くなって心に圧し掛かる。そして、どうしても抑えきれないほどの憎悪が湧いてくる。


「ありがとう。彩ちゃんが来てくれて、きっと咲良も喜んでいるわ。あの子は、いつも彩ちゃんの話ばかりしてたから。わたしが嫉妬するぐらいにね」


 片目をつむって、いたずらげに言うその仕草は、妹である咲良にそっくりだった。もうしばらく立ち話に興じてから二人は別れた。


 その後、遠山家の兄姉は、まだ花が添えられていなかった妹の墓を見舞った。




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