1-10 『相思相哀』③
背中に触れる手の感触で、夕貴は微睡みから引き戻された。
優しく、躊躇いがちに、指先だけでなぞるように。ときおり強く触れては、それが過ちだったと弁えるかのように手を引く。そして、また触れる。その繰り返しだった。
「……起きてる、夕貴くん?」
ささやく声。まだ距離はあった。ただ指先だけで、細く小さく繋がっているだけ。
「起きてる、よね」
「……ああ」
振り向かずに夕貴は言った。彩の吐息が、やけに近く聞こえた。
「わたしも、眠れなくて」
「……そうか」
シーツが擦れて、隔てていた距離が縮まる。冷たかったはずの背には、いつの間にか人のぬくもりが寄り添っていた。二人を遮るものは、バスローブの布地だけ。
「どうした?」
夕貴が問いかけても、彩はしばらく口を開かなかった。背後から、喉を鳴らして、唾液を飲み込む音がした。
「……寒いかも。さっきから寒くて。だから」
「毛布まだあっただろう。出そうか」
返答はなかった。夕貴の背に、彩が頬をつける。服の上からでもわかる、ひときわ女らしく育った身体の艶めかしさ。
「ねえ、夕貴くん」
夕貴の身体にそっと手を回して、少女は掠れた声でいう。
「……セックス、しようか」
その告白に、なぜか夕貴の心はまったくといっていいほど動かされなかった。普通なら胸の高鳴りの一つも覚えていただろう。
だが彩の声は醒めていた。愛も情欲も感じさせないほどに。
「どうして」
「どうしてって……」
乾いた笑い声。
「言わなきゃだめかな。男の子と女の子がいて、こうして一緒に寝てるんだよ。おかしなことじゃないと思うけど」
部屋が暗いせいで何も見えない。だからこそ平時は意識しない声の感触が、指でなぞるようによくわかる。彩の声はいつになく取り澄ましていたが、それ以上に固すぎた。
正直、気持ちはわからないでもなかった。あんな恐ろしい目に遭ったのだ。こうして電気を消して一日を振り返る時間ができると、いままで忘れていたはずの不安が一気に押し寄せるのだろう。どうしようもなく人肌のぬくもりを求めてしまうのは、人が孤独に耐えられない生き物である以上、必然のことなのかもしれない。
でも彩は女の子なのだ。
あとになって後悔してほしくない。
「今日はもう遅いから。早く寝たほうがいいと思う」
それは冷たく、いまの彩を傷つけかねない言葉だったが、夕貴にはそう返事するしかなかった。
「あはは……」
声はひどく軋んでいて、それを笑みと表現するのはいさかか無理があった。
「そんな言い方、ひどくない? 女の子から勇気を出して誘ったんだよ。もうちょっとぐらい優しくしてくれてもいいと思う」
「彩」
「こっちを見ないで!」
様子がおかしい。そう思って身体の向きを反転させようとすると、彩の腕に力が込められて、夕貴の動きを縛り付けた。
強く抱きしめられる。はっきりとわかる乳房の感触。それを霞ませるほど激しく感じるのは、彼女の胸の奥で早鐘を鳴らして脈打つ鼓動。
「なんで? そんなにわたしって魅力ない? 抱く気も起こらないって、そんな価値すらないって、そういうこと?」
「違うんだよ。俺は……」
「自分からこうやって誘ってくる女の子はタイプじゃない? 夕貴くんはどんな女の子が好みなの? 教えてほしいな。教えてくれたらちゃんとその通りにするよ。ちゃんとしてみせるから」
「話を聞けって。俺はな……」
「それとも夕貴くんは、わたしのことなんかどうでもいいって」
「どうでもよくないからこそだ!」
彼女に向き直って夕貴は断言した。あとほんの少しで唇が触れてしまいそうな至近で二人は見つめあう。彩は目尻に溜まった涙を見られたことにはっとして顔を背けた。
「俺も男だ。言っとくけどな、俺らぐらいの年頃の男は、暇さえあればずっと女のこと考えてるよ。いまだって死にたくなるぐらいおまえのことで頭がいっぱいになってる。でも、でもな」
好きとか、愛してるとか、そんなものはまだわからない。
ただ思うのだ。
「……嫌なんだよ。彩と、何の覚悟もなしに、そんな関係になるのは。ただの流れでやっちまったらきっと後悔する。朝がきたら、いつもの俺たちにはもう戻れないんじゃないかって、そう思うんだよ」
彼女のことをどう想っているのか、夕貴はまだ自分の感情に名前を付けることはできない。
だが、それでも。
「彩といると、居心地がいいんだ。心が落ち着くんだよ。だから大切にしたいんだ」
ぴしり、と彩の表情に亀裂が走る。それに気付かないまま、夕貴は決定的な一言を口にする。
「なによりこんなの、彩らしくない。いろいろあって辛いのはわかるけど、いつもの彩なら……」
「はは」
それは、嘲笑だった。
彩には似つかわしくない、人を嘲るような嗤いだった。
「彩らしくない? いつもの彩なら? それ、どういう意味?」
「だから、それは……」
「あれかな。夕貴くんの知ってるわたしなら、こういうことはしないって?」
夕貴は何も言わなかった。沈黙という肯定だった。それしか返せない自分がいたたまれなくて、彩から目を逸らす。
その瞬間だった。
「――っ!?」
唇に感触。いや、そんな生易しいものではなかった。勢いよくあたったせいで前歯に軽い痛みが走る。漏れた吐息は甘く、熱っぽく、それ以上に切なかった。
突然のことに夕貴が瞠目している間にも、彩は彼の唇を必死に奪っている。目を閉じているのは、夕貴がどんな顔をしているか見たくなかったからか。それとも、まったく慣れていない彩が知っている唯一の作法がそれだったのか。
夕貴の歯で薄く裂かれた彩の唇からわずかに出血があった。
初めてのキスは、血の味がした。
「――やめ、ろ! 彩!」
頭を後ろに引いて強引に唇を離す。唾液が糸を引いて、ほのかに赤みがかった銀色のアーチを引いた。
「やめろって! こんなの、おまえらしくないって言ってんだろうが!」
口で言っても、手で触れても、彼女は止まらない。仕方なく夕貴は、彩に馬乗りになって、彼女の両手首をそれぞれ掴んで、ベッドに押さえつけた。
二人分の荒い吐息だけが聞こえる。身体が熱く、気付けばひたいに汗をかいていた。暗闇に慣れてしまった目が、彩の唇から垂れる血の赤と、瞳からこぼれる涙の透明を見つけてしまう。
バスローブはほとんどはだけてしまっていた。闇のなかでもくっきりと浮かび上がる色白の肌。豊かな胸まで半ば以上まで晒されていて、呼吸するたびに大きく上下している。涼やかな鎖骨のラインと、そこに小さくぽつんと主張するほくろが艶めかしい。細くくびれた腰には、だが男好きのする肉がしっかりとついている。
お互いに手を縛り付け合っているせいで、衣服を直すこともできない。
こんなときなのに、こんなときだからか、夕貴は彩の身体を強く意識してしまう。人は生命の危機に瀕すると生存本能により種を残そうとするという。心身ともに摩耗した地獄の一夜を経たあとに、こうして美しい女の裸体を目の当たりにして、まったく昂らずにいられるほど夕貴は悟りを開いていない。
このまま何も考えず、ただ欲望のまま、目の前にある女の肉体に溺れたい――そんな安易な思考が芽生えて、夕貴は苦々しい気持ちで飲み下した。
「嘘つき」
夕貴の顔を見上げて、男の情欲を見透かしたように彩は吐き捨てた。
「嫌なんだよって言ったくせに。大切にしたいんだよって言ったくせに」
彩は揶揄する。口では立派なことを言っていたくせに、少し触れ合い、女の肢体を見ただけで、反応せずにはいられない夕貴のことを。
「いいんだよ。何の覚悟もなくても。そんな関係になっても。わたしは後悔なんてしないし、夕貴くんにもさせない。朝がきたら、いつものわたしたちに戻れるよう努力する。ただの流れでこういうことをしても何もおかしくないよ。もう大学生なんだから。子供じゃないんだから」
「じゃあ、なんで」
「え?」
「そんなに震えてんだよ、おまえ」
拘束した手首も、夕貴の下にある身体も、気丈を装って紡ぐ声も、それどころか彼を見上げる瞳でさえ、隠しようもなく震えている。
指摘されて初めて気付いたのか、彩は息を呑んだ。でもその眼差しは鋭く決したまま、夕貴のことを見据えている。
なぜなら彩が恐れているのは、身体を差し出すことではなかったから。
そして、それに夕貴は気付かない。
「こんなことしたくないんだろ」
「違う」
「違わない」
「違うって言ってる」
「違わねえよ。わかるんだ」
「……わかるって? どういう意味?」
「だから俺は、彩がほんとうはこんなことしたくないって、わかってるつもりで」
「なにがわかるって言うのよ!」
激しく荒げた声とともに、これまで封じられていたはずの感情が迸った。
「なにも知らないくせに! わたしのことなにも知らないくせに! なんでそんなこと言えるの!」
ふたたび暴れる彩の身体を押さえつける。男と女の腕力の差は歴然としていて、彩は黒髪を振り乱して、涙を撒き散らすことしかできなかった。ばたつく足がバスローブを翻らせて、夕貴の背にぺちぺちと布のビンタを見舞わせる。もはや視界に収めることも憚られるほど上半身ははだけて、夕貴はもう彩の顔しか見ることは許されなくなった。
泣いている顔しか、見れなくなった。
たしか、俺は。
となりにいる人には笑っていてほしいって、せめてそんな顔だけはさせたくないって、そう願っていたはずなのに。
「夕貴くんが知ってるわたしってなに? どんなふうに見えてる? 大人しくて、礼儀正しい? えっちなことには奥手で、自分からいやらしいこともしない? いまどき珍しい清楚な女の子で、それに見合った慎ましい性格をしてるって?」
夕貴が抱いていた彩の印象がそっくりそのまま読み上げられる。心を見透かされた気がして、夕貴は口を開くこともできなかった。
「そんなわたしの何がいいの? いつも愛想笑いして、だれにだって分け隔てなく接して、教科書に書いてあるような薄っぺらい女のどこに価値があるの? わたしでさえ大嫌いな、こんなからっぽで作り物のわたしの、なにがわかるって言うの? そんなの、わかったところで意味なんてないよ」
彩が声を発するたびに、その心が少しずつ剥き出しになっていくかのようで、変わっていく彼女の姿に戸惑うばかりで夕貴は返せる言葉を見つけられなかった。
「一緒にいてくれるって、そう言ったよね」
雨のなかで、夕貴が口にした言葉だった。
「ねえ、教えてよ。なんでわたしと一緒にいてくれるの? 居心地がいいから? 心が落ち着くから?」
さきほど夕貴が読み上げた台詞を、彩は淡々とした声でなぞり上げる。彩の口から聞いても、その答えが間違っているとは思わなかった。思いたくなかった。
「どうしたらこれからもそばにいてくれるの? わたしを見捨てないでいてくれるの?」
「見捨てるわけないだろ」
「信用できない」
「放っておけないんだよ。おまえが困ってるなら力になってあげたいんだ」
「信用できない」
「嘘じゃない。守ってあげたいと思ってる。俺はできるかぎり彩のそばにいるから、それで」
「――信用できないって言ってるの!」
言葉だけでは信じられないと少女は言う。だから行動で示してほしいと。
「なんの対価もなしに、こんなわたしのそばにいてくれるはずない! 嫌いだもん! 大嫌いだもん! わたしが大嫌いなんだもん! 仲良くしてくれるのも好きだって言ってくれるのもぜんぶ嘘! ほんとにわたしのこと知ってたらそんなふうに優しくしてくれるわけない! どうやったら嫌われないかって考えて、一生懸命に考えて、こうしたらせめて、いまだけはそばにいてくれるんじゃないかって、そう思って……!」
夕貴にとって櫻井彩は『いまどき珍しい清楚な女の子で、それに見合った慎ましい性格』をしていて――だからこそ、こうして感情を迸らせる一面があるなんて、まったく知らなかった。
それが彩のずっとひた隠しにしてきたほんとうの姿で、夕貴の知る『櫻井彩』のほうが側面に過ぎないことを彼は知る由もない。
「……だから、信用させてよ。嫌でもいいからわたしのこと抱いてよ。そうしてくれたら安心できるんだよ。そうじゃないと、もう安心できないんだよ」
憐れを催すほどの哀願。それほどまでに彩の言葉は、年頃の少女が口にしていいものではなかった。いや、口にさせるべきではなかった。
しかし、事ここに至っても、夕貴は彼女を抱く気にはなれない。彩のことを大切に想う気持ちがあるからこそ、その場しのぎの慰めは躊躇われた。
そんな夕貴の意思が伝わったのだろう。彩の瞳に、薄雲のようにじわじわと諦めの色が広がっていった。
夕貴は彩のことを考えているから嘘を言えなくて。
彩は夕貴のことを考えているからほんとうのことを言えなくて。
「わたしだって……」
だから二人の心は交わることなく、すれ違い続ける。
「わたしのこと、見てほしいよ」
黒曜石を思わせる瞳から、滂沱と涙が溢れる。強張っていた身体からも力が抜けていった。夕貴が離れると、彩は背を向けて小さく身を丸めた。
「……でも、できない。できないんだよ。夕貴くんに、だけは」
嗚咽混じりの幼子のように拙い声で、彩は静かに泣き続けた。
「……彩」
手繰り寄せた毛布をそっと彩の身体にかける。いつまでも彩は泣き止むことなく、夕貴には色のわからない涙でシーツを濡らし続けた。
夕貴は途方に暮れつつも、彩を放っておくことはできなくて、ためらいがちに頭を撫でた。すると、これまで止まることのなかった彩の嗚咽が少し収まった。こちらに背を向けたまま、もっと、とせがむように頭を寄せてくる。
思っていたよりずっと反応がよかったので、今度は美しい黒髪に手を差し入れて、ゆっくりと梳いてみた。
「ん……」
小さく、気持ちのよさそうな吐息が漏れる。そのまま続けていると、いつしか寝息が聞こえてきた。
お母さんと仲がいいと言っていた彩のことだから、きっと幼いころからよく甘えていたのだろうし、そのぶん頭も撫でてもらっていたはずだ。昔のことを思い出して泣き止んでくれたのかもしれない。
隠し切れない涙の痕を頬につけた表情は、なぜか初めてわがままを聞いてもらった子供のように満足そうだった。
本来なら離れて眠るべきだと思うが、いまの彩を独りにするとどこかに消えてしまいそうな気がした。だから夕貴は、あまり身体が触れないように注意しながら、後ろから優しく腕を回して彩を抱きしめた。
目をつむって、夕貴は情報を整理する。
かつて遠山咲良は命を落とした。殺人犯はまだ捕まっていない。彩が見たと思われる咲良は別人で、代わりに化物のような女が存在した。謎の凍結現象に、視界いっぱいを満たした白い極光。それが夕貴の知る全てだ。逆に言えば、彼はそれしか知らない。
もしかして何か見落としが――俺の知らない真実がまだどこかにあるのか?
疑問が鎌首をもたげる。それが彩を苦しめているのなら力になってやりたい。心の底からそう思った。
それは女の子を泣かせたくないという優しさなのか。
自分が泣いている女の子を見たくないという臆病さなのか。
どれだけ考えても、夕貴にはわからなかった。
夕貴が目覚めたとき、すでにベッドはもぬけの殻だった。彩の荷物も消えている。ソファの上には、彩が着ていたバスローブと、浴室に干してあった夕貴の衣服がそれぞれきれいに畳まれていた。
テーブルにはメモが置かれていた。
『ごめんなさい。お母さんが心配していると思うので先に帰ります。夕貴くんも気を付けて。――昨夜のことは忘れて下さい』
女の子らしくない、見惚れるほど達筆な文字だった。もしかして習字か書道の教室にでも通っていたのだろうか。そんなことも知らない自分にいまさら気付く。
まだ出逢ってから日は浅いが、色んな話をして、たくさん笑い合って、確かに積み上げた時間があったはずだった。少なくとも夕貴はそう信じていた。
では昨夜、なぜ彩の気持ちをわかってあげられなかった?
おまえは彩のなにを知っている?
「名前。優しい性格。気遣いができて、お母さんのことが大好きで……」
もっと知っているはずだと声に出して読み上げてみる。でも続く言葉はなかった。夕貴の知っている櫻井彩の情報は、たった五秒で終わってしまった。
こんなものは大学のクラスメイトなら誰だって知っている情報だ。いわば櫻井彩の上辺に過ぎない。
おまえはほんとうに彩のことを見ようとしていたのか。ちゃんと彩と向き合っていたのか。いいや、自分に問いかけるまでもない。おまえは失敗したんだ。
いままで彩がどんな人生を送ってきたのか、これから彩が何をするつもりなのか、夕貴はなにひとつわかっていないし、想像もつかない。
彩の涙を、あれほど泣いていた女の子を、夕貴はだれより近くにいながらも止められなかったのだから。
きれいに整頓された部屋を見渡す。備え付けられていた細かな備品まで所定の位置に戻されている。服を手に取ってよく見れば皺まで伸ばしてくれている。そのあとにテーブルにメモまでしたためた。
目覚めてから、ここまでして部屋を出るのに三十分以上はかかるだろう。
「……バカ野郎」
その最中、ずっとのんきに眠りこけていた男の顔面を殴ってやりたい気分だった。それと同じぐらい、彩にも文句を言ってやりたかった。
メモに添えられているのは、一万円札。それも二枚。
「二万も、するわけねえだろうが……」
こんな場末のホテル、宿泊にしたって一万円もかからない。相場もわからないくせに、ぜんぜん慣れてなかったくせに、あんなことをするほど彩は何かに思いつめていたのだろう。その何かにまったく心当たりがない自分が情けなかった。
多めに用意された金が、なんだか彼女なりの迷惑料のようにも思えてやるせなかった。
いったいどんな気持ちで彩は部屋を去ったのだろう。あれだけ涙を流したあとに、一人で目覚めて、一人で金を用意して、一人でラブホテルから出ていく女の子の心情なんて、もはや夕貴には推し量ることもできなかった。
彩を追いかけたほうがいい、と嘯く自分の声が聞こえる。
悪魔のごとき女に襲われて、全てを凍り付かせる絶対零度を見て、なにもかもよくわからないまま朝を迎えた。昨夜に起きた出来事が夕貴の理解を超えている以上、まだ街には危険が潜んでいると判断するべきだ。一夜明けたからひとまず安全だろう、と楽観視をするほど夕貴は腑抜けていない。
しかし、冷静な答えを導き出す頭脳とは裏腹に、夕貴の足はまったく動いてくれなかった。問題があるのは身体ではなく、心のほうだ。
夕貴は彩のことを守れなかった。泣かせてしまった。
もし顔を合わせても、また彩のことを傷つけるだけのような気がした。もうこれ以上、彩には傷ついてほしくない。
だからいまは会わないほうが――
「違う、だろうが」
本気で自分にむかついて、夕貴は苛立ち交じりの声を吐き捨てた。
バカが。なに賢しいこと抜かしてやがる。怯えてるだけだろ。なにもできない無力な自分を思い知らされるのが怖いだけだろうが。
おまえは、自分が傷つくのを恐れているだけなんだ。
俺は間違っていたのか。綺麗事なんて言わずに、ただ彩を抱けばよかったのか。そうすれば少なくとも一緒に朝を迎えることができただろう。彩を一人でこんなところから帰さずに済んだはずだ。いつもみたいに照れて笑って、ばいばいって言いながら別れることもできたかもしれない。
でもそうしていれば、きっと彩にあんな一面があるなんてことも知らなかった。一時の慰めだけで彩は満たされて、もう夕貴には笑顔しか見せてくれなかったかもしれない。
彩にはまだ、涙を流すだけの理由がなにかあるのだ。
彩の悲しむ顔なんて見たくなかった。だから夕貴は想いの通わない触れ合いを拒否したのだ。いまはよくても、今日という日の安易な選択が、いずれ彼女を傷つけると思ったから。
夕貴の選択は、確かに青臭いものだったが、決して間違いではなかったと思う。間違っていたのは、こうして女の子を泣かせてからしか気付けない自分自身だ。
ここにいたのが夕貴ではないほうが、彩は傷つかずに済んだのだろうか。
それが意味のない夢想だとしても、夕貴は考えずにはいられなかった。
瑠璃色の黎明が空を染める時分に、夕貴は見慣れた生家の門前に立った。
萩原という表札が掲げられた邸宅は、彼の生涯の中でもっとも長い時間を過ごしたものであるにもかかわらず、まるで初めて訪れるような新鮮さがある。
鉛のごとき身体を引きずって歩く。玄関のドアノブに触れる。夕貴にしては珍しく俯きがちに家のなかに足を踏み入れる。
ゆえに気付かなかった。その銀色の気配に。
「あ、おかえりー」
呆気にとられた。あまりにも当然のようにいたから。待ってくれていたから。何の連絡もなしに朝帰りしたはずなのに、それを咎める様子もなく、いつもの優しげな微笑みを浮かべていたから。
「……おまえ、もしかしてずっと起きてたのか?」
「そんなわけないでしょ。さっきまで寝てたわよ」
わざとらしくあくびをするナベリウスの目は、ほんのわずかに赤くなっていた。深雪の肌は、目の下の隈という、たった一つの足音でさえ穢れてしまうほど無垢だった。
ナベリウスは夕貴の上着を自然な流れで受け取る。それが汚れていることを指摘もしなかった。
「なに? もしかして見惚れちゃってる? いくらナベリウスちゃんでも……」
身体から力が抜けていく。夕貴は間違えてナベリウスに寄り掛かった。それは間違いだった。だから、後で正せば済む問題だった。だから、いまだけは、こうしていてもよかった。
ナベリウスは何も言わなかった。彼女が驚いたのも一瞬だけ。すぐにその眼差しには慈愛が宿り、夕貴を優しく抱きしめて、頭を労わるように撫でる。
「お疲れさま」
「何がだよ。別に疲れてなんかねえよ。早く離せよ。何してんだよ」
「じゃあ早く離れたらいいのに」
「足が動かねえんだよ。だから、仕方ねえんだよ」
「そうね。それは仕方ない」
理由はわからない。でも触れ合える人の温もりに、どうしようもなく涙が出そうになった。
「大丈夫。夕貴の好きなだけ、こうしていていいからね」
「なに言ってんだ。すぐ離れる」
「ちゃんと知ってるから。夕貴がいつも頑張ってること。優しいこと。人には内緒にして全部一人で抱えちゃうこと。それでも最後まで諦めないこと。ずっと昔から、わたしは知ってるから」
「…………」
「辛いこともあったかもしれない。何も言わなくてもいい。いまは、ただ、こうしているだけでいいから」
いつの間にか力が抜けて、夕貴は膝をついていた。ナベリウスも同じく膝をつき、夕貴の頭を胸のなかに抱きしめていた。眠たくもないのに、自然とまぶたが閉じる。
夕貴は何も考えず、心の底から浮き上がってきた言葉を、そのまま口にした。
「……ただいま、ナベリウス」
次回 1-11『あなたに微笑む』
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