1-10 『相思相哀』②


 夕貴たちが選んだ部屋には、幸いにして浴室乾燥機が設置されていた。ずぶぬれになった服も夜明けには乾いているだろう。


 二杯目のコーヒーを淹れて、ふたり並んでソファに腰かけると、口を衝いて出るのは他愛もない話ばかりだった。もっとほかに話すことはあるはずなのに、やっと訪れた穏やかな時間をあえて壊したくなくて、ふたりは沈黙を厭うように声を交わし続けた。


「わたしね。夕貴くんのこと、昔から知ってたの」


 会話が途切れたころを見計らって、ふいに彩が告白した。


「高校の友達が、空手をやってる男の子と付き合っててね。あるとき、全国の大会でこれが最後だから一緒に応援に行こうって誘われたの。何人かで新幹線に乗って、たぶんほとんど旅行気分で」


 罰が悪そうに俯いているのは、いままで黙っていたからだろう。でも嬉しそうに瞳を輝かせている理由が夕貴にはわからない。彼女にとってはよほど楽しい思い出らしい。


「それであれか、俺のこともついでに見かけたと」

「ついでっていうか、あのとき夕貴くんのこと知らない人はいなかったと思うけど」

「優勝したからな」

「あっ、わたしが言おうと思ってたのに」

「俺よりも、同じく旅行気分っていうか完全に旅行で来てた響子と託哉のほうが騒ぎすぎて目立ってただろ」


 当時のことはあまり思い出したくない。いい意味でも、悪い意味でも。


「夕貴くんは、どうして空手を始めたの?」

「……どうして、か」


 初めからそれが聞きたかったのだろう。彩の面持ちは、いやに真剣だった。萩原夕貴という少年の内面を知ろうとするかのように。


 夕貴は少し考えて、彩になら素直に言ってもいいかな、と思った。


「俺の家、父さんがいないんだ。ずっと母さんと二人暮らしだった。だから強くなりたかった。そうすれば心配をかけなくて済むって、何かあったら俺が守ってあげられるって、そう思ってた」


 母という言葉が出た瞬間、彩の肩がわずかに震えた。


「ガキの頃から泣いて喚いてわがまま言って、とにかく迷惑と苦労ばっかりかけてきた。それでもこんな俺を、たった一人でここまで育ててくれたんだよ。小さなことでよく喧嘩するし、たまにむかついたり、心にもないこと言って後悔したりもするけど、やっぱり最後には俺でよかったって、そう思わせたいんだよ」


 それは子供なら誰だって経験する背伸びかもしれない。ずっと後ろで見ていた背中を、今度は守っていきたいから。自分なりに立派になった背中を、これからは安心して後ろで見ていてほしいから。


「ようするに、始まりは子供なりの考えだったんだ。強くなればぜんぶ守れるって。単純だろ?」

「そんなことないよ。すごく立派だと思う。その気持ち、わたしもよくわかるから。わたしは、強くはなれなかったけど」


 彩は両膝を抱えて、その上に顎を乗せた。


「わたしもね、お父さんがいなかったの。小さいころに離婚して。だからずっと、お母さんと二人暮らしだった」


 意外だった。なんとなく彩は、優しい両親と暖かな家庭に包まれて育ったという印象があったから。


 それから彩の話を聞いた。子供の頃は病弱だったこと。母親と二人きりの生活は辛くもあったがそれ以上に幸せだったこと。彩が中学生のときに母が再婚して、新しいお義父さんとお義兄ちゃんができたこと。みんないい人たちばかりだったこと。


 だから諦めることなく、我慢もせずに、いつだって好きな自分でいられたこと。


「わたしの名字は『櫻井』に変わった。すごい偶然だなぁって思ったよ。桜はお母さんが一番好きな花で、わたしの名の由来でもあったから。お母さん、なんだかよくわからないけど『縁起がいいね』とか言って笑ってた。あのときのお母さん、とっても嬉しそうで、子供みたいにはしゃいでた」

「彩は、お母さんのこと大好きなんだな」


 いつになく表情を柔らかく綻ばせる彩に、夕貴はそんな感想を抱いた。


 彩は瞠目して夕貴のほうを向いたが、やがて頬をうっすらと上気させた嬉しげな顔に、さらなる笑みを重ねた。


「……うん、大好き。大好きだよ」


 ここにはいない母の顔を思い浮かべるように、彩は目を閉じる。


「お母さんの笑ってる顔が好き。お母さんには幸せになってほしい。お母さんはわたしの生きる理由の、ぜんぶだから」


 今時、こんなにも素直に親のことを好きだと言える子供がいるだろうか。夕貴も母のことを大切に想っているつもりだが、さすがに人前では照れてしまってうまく言葉にはできない。


 恥ずかしげもなく、むしろそう思える自分を誇るように胸を張って気持ちを吐露する彩の姿。


 それが夕貴には、とても眩しく見えた。


「でも大丈夫か? それなら今頃、お母さん心配してるんじゃ」

「……大丈夫だよ。今日は友達の家に泊まるって連絡しておいたから」

「そうか。ならいいけど」

「まあこんなところに男の子と泊まってるなんて、ふつう言えないよね」

「ぶっ」


 危うく夕貴はコーヒーを噴き出しそうになった。非常事態だったから仕方ないじゃないか、とむせながら夕貴が目で訴えかけると、それがおかしかったのか彩は笑った。


 何でもない話で盛り上がる。こんなときに、こんなときだからこそ、いつもの日常の空気に少しでも触れていたくて。


 嫌なことを、忘れていたくて。


「もしよかったら、聞いてもいいかな」


 ひとしきり笑ったあと、彩はためらいがちに切り出した。夕貴が首肯して先を促すと、彼女は逡巡する素振りを見せたあと、ついさっきとは真逆の問いを投げかけた。


「なんで夕貴くんは、空手をやめちゃったの?」


 予想していた中では、いちばん答えにくい質問だった。空手の話になったときから聞かれるかもしれないとは思っていたが、いざ踏み込まれると、苦い気持ちになるのは避けられない。


 答えられないわけではなかった。ただ、どう答えたらいいのか自分でもよくわからないのだ。


 それでもあえて言うなら。


「……気味が、悪かったんだ」

「え?」


 彩が首を傾げる。しかし、それ以上の言葉を夕貴は返せない。彼が空手をきっぱりとやめたのは、ほんとうにそんな理由だったのだ。


 昔から運動神経はよかったと思う。どんな遊びでも、夕貴はほかの子供より明らかに優れていた。夕貴と肩を並べることができたのは玖凪託哉だけで、あとは負けず嫌いで怖いもの知らずな響子が無理やりついてくるといった感じだった。


 しかし夕貴が秀でていたのは身体能力だけではなかった。それのみなら、むしろ恵まれていると親に感謝して終わっていただろう。


 物心ついたころから、予知めいた直感のようなものがあった。


 人の動きがなんとなくわかる。ぜんぶ見えてしまう。自分がこうしたら相手はこう動くといった予想は、そのほとんどが的中した。まるで初めから答えが書かれている問題用紙のごとく、線の上をなぞるだけで満点に近い結果がもたらされた。


 それを才能だと浮かれたこともあった。だが幼い子供によく見るちょっとした優越感は、成長するにつれて違和感に変わっていった。空手という競技にもその感覚が適用されたのだ。中学生になっても高校生になっても妙な感覚は拭えず、それどころか次第に研ぎ澄まされていくような気さえした。


 だからといって、もちろん練習にも試合にも手を抜いたことはなかった。だから当然のように夕貴は負けることなく、当然のように日本一になって、名状しがたい気味の悪さを覚えて空手をやめた。


 そもそもの始まりは、唯一の家族である母親をせめて自分の手で守りたいと思ったからだ。欲したのは最低限の戦うための力で、空手に特別な執着があったわけではない。


 そんな夕貴の母親は、授業参観の類には断ってもかならず来るのに、空手の試合だけは一度も見に来てくれたことはなかった。理由を聞いてみたら「傷ついているのを見るのが嫌だから」と言われた記憶がある。まあ花が枯れただけで泣くこともある人なので、いくらスポーツとはいえ子供たちが拳を交えるのを観戦するのは気が引けたのだろう。


「夕貴くん?」


 こんな話をしたら、間違いなく自惚れや勘違いだと言われるだろう。実際、夕貴もそう思う。空手から遠ざかり、習慣的にだれかと競うようなスポーツをしなくなってからは違和感に囚われることもなくなった。


 この歳になるまで子供なりの痛い万能感を引きずっていたのか、実は十年に一人とかの普通にすごい本物の才能だったのか、判断に迷うところだ。


 だから夕貴が戦っていたのは、きっと他人ではなく――


「夕貴くん? あの、どうかしたの?」


 そっと肩に触れる手の感触で、夕貴は我に返った。

 

「えっ? ああ、悪い。ちょっといろいろあった」

「いろいろって?」

「あれだよ、意味深なこと言ったあとに黙り込むとなんかかっこいいみたいな」

「…………」

「……って、ついこのまえ映画で見てさ! そのへん、彩はどう思う!?」

「そ、そうだね。かっこいいと思うよ?」

「だ、だよなー! わかるー!」


 やらかす前の平穏な空気を取り戻そうと、夕貴はわざとらしくコーヒーを飲んだ。舌の上にはインスタントとは思えない深みのある苦さが残る。


 脳裏によぎる思い出。


 ときおり、試合に負けた相手が夕貴のことを見る目は、まるで人ではないものをそこに映しているかのようで。


 それが夕貴にとって安易に触れてほしくない一線であることを察したのだろう。彩は追及することなく、彼にならってカップに口をつけて話題を断ち切った。


 むやむに気を遣ったり、同情したり、余計な理解を示すこともない。それは夕貴の気持ちにそっと寄り添う優しい沈黙だった。


 こういう細かな心遣いを目の当たりにすると、ほんとうに気立てのいい女の子だとあらためて思う。


「あっ、でもね、だから」


 そこで何かを思い出したのか、彩が小さく笑う。その声は、お気に入りの御伽噺を語る子供みたいに温かかった。


「大学で一目見たときはほんとにびっくりしちゃった。こんなこと現実にあるんだなぁって。しかも響子ちゃんの幼馴染で、こうしてお話できるまで仲良くなれるなんて思ってもみなかったから」


 夢見るように語るその顔は、シャワーを浴びたせいで化粧の色がまったく乗っておらず、いつもより少しだけあどけない。それでいて、きれいな二重瞼の瞳や、自然に伸びた長い睫毛を見ていると、やっぱり美人はそれだけで得なんだな、とも思う。


「あんなに強くて、一生懸命だった人。夕貴くんはずっと前を向いてた。だれよりも頑張ってた。あのときの夕貴くん、すごく印象に残ってるよ」


 静かに吐息を漏らして、彩は続ける。


「わたしとは違う世界の人みたいだって思ってた。それぐらい遠い人だった。だからいま、こうしてわたしのとなりにいてくれることが信じられないの。こんなわたしの、となりなんかに」


 自嘲気味に唇を歪めてそう締めくくる。だが信じられないのは夕貴のほうだ。


「それを言うなら、たぶん俺のほうがびっくりしてるけどな。彩って自分のことぜんぜんわかってないだろ」

「なにが? どういうこと?」

「そのへんはまあ想像に任せるけど」

「……それ、ずるくない? 気になるよ」

「ずるくない。気にしとけ」


 はっきりとは言わない。というか言えない。平凡な大学生の男子にとって、彩みたいな女の子とデートできるのは役得なのだ。それこそ賞状やトロフィーなんて霞むレベルである。年頃の男子にしてみれば、世界の危機がどうのこうのよりも、女子と触れ合える機会のほうが遥かに重要で、切実な問題なのだから。


 彩はまだ何か言いたげだったが、けっきょく二の句を継ぐことなく、カップに残っていたコーヒーを飲み干した。


 時計を見ると、ちょうど日付が変わったところだった。もう夜も遅く、それでなくても体力と気力をいつも以上に消耗している。そろそろ眠ったほうがいいだろう。


 その前に夕貴は、ひとつだけ聞いておかなければならないことがあった。


 彩、と呼びかけると、彼女はまるで予期していたかのように、いままでになく静かな面持ちで夕貴に向き直った。


「なんで、あの女の子のことを咲良ちゃんって言ったんだ? あれはほんとうに遠山咲良だったのか?」


 夕貴が固い声で紡ぎ出した名にも彩は動揺を見せることなく、ゆっくりと言葉を選ぶような間を取ってから、粛々と答えた。


「……なんでかな。自分でもわからない。でも初めて見たとき、咲良ちゃんだと思ったの。ううん、わたしの目には、ずっと咲良ちゃんに見えてた。それなのに最後の最後によく見たら、咲良ちゃんとはぜんぜん違う人だった」

「どういうことだ? だって彩は、あんなにはっきりと」

「もういいんだよ」


 彩はかぶりを振って、夕貴の言葉を遮った。これまで穏やかだった彼女の声に、やおら踏み込まれるのを拒むような響きが混じる。


「……たぶんね、ぜんぶ間違いだったの。だから、もういいんだよ」


 その場しのぎの嘘ではない。はっきりとした諦観の念が感じられる。


 そんな言い方をされると、もう夕貴にできることはなかった。いるはずのない遠山咲良を見かけてしまったせいで、彩はいてもたってもいられず夜の街を探し回っていたのだ。それを止めて、これからは大人しく家に帰ってくれるなら夕貴の心配もなくなる。


 彩が諦めてくれるのなら、それは長い目で見ればいい兆候なのだろう。


 ただ、彩の表情は諦めるというより、むしろ――


 そろそろ寝ようか、と提案すると、彩は無言のまま頷いた。明かりを消してソファに移動したところで、服を引っ張られた。


「いや、さすがに一緒には寝るのはだめだろ。俺はこっちでも寝れるからいいよ」

「そんな。夕貴くんに悪いよ。わたしは気にしないから」

「……俺が気にするんだよ」

「え?」

「なんでもない」


 それでも夕貴が渋っていると、彩がソファを使うと言い出したので、数分にも及ぶ口論の末、けっきょく二人ともベッドで眠ることになった。


 部屋が真っ暗になったからか、シーツの擦れる音がやけに目立つ。夕貴はなるべく端っこのほうに寝転んで、彩に背を向けて目を閉じた。眠気はすぐにやってきた。


 しかし、無責任な睡魔は最後まで誘うことはせず、夕貴は現と幻のあいだで意識を彷徨わせる羽目になった。


 雨と、血と、氷と――人の死に顔が、どうしても瞼の裏に焼き付いて消えなかった。






 手を伸ばして、それが届く前に引っ込める。もう何度繰り返したか知れないその行為。


 櫻井彩は、目の前にある背中を眺めていた。もうずっと、そうしていた。


 男性として特別に大きくはない。バスローブの上からでも、確かに鍛えられていることはわかる。肩幅も狭くはない。しかし裏を返せばそれだけなのだ。もともとの骨格が細いほうだからだろう。華奢な印象こそ受けないものの、それは引き締まった筋肉がついているからで、とりわけ大きいわけではない。


 それなのに、こんなにも大きく見えるのは、なぜなのだろう。触れたくて、どうしようもなく心情が溢れて、涙が出そうになる。


 大雨の最中、遠山咲良と錯覚した女に襲われた瞬間、夕貴は何の迷いもなしに彩を庇った。どこまでも力強い瞳で。この途方もなく大きな背中で。


 彩の手を引いて走る夕貴の背には見覚えがあった。ずっと昔、まだ彩が幼いころ、同じものを見ていた気がする。


 大きくて、温かくて、眩しくて、ずっと見ていたくなる後ろ姿。恐怖も戸惑いも忘れるほどに、それは彩にとって懐かしいものだった。


 あれはそう、たしか、仕事に出かける母を見送るときだ。


 ――お母さんは、どうしていつも笑ってるの?


 両親が離婚して、母と二人で生きていくことが決まってすぐの話である。どんなことがあっても優しく笑いかけてくれる母に、彩は素朴な疑問を口にしたのだ。


 母は目をぱちくりとまたたきさせると、ふっと表情を緩めて、とても優しい手つきで彩の頭に手を乗せた。


 ――それはね、彩が――


 なぜだろう。うまく思い出せない。


 ――それはね、たぶん、彩がもっと大人になって――


 あのときお母さんは、なんて言ったんだっけ。


 どうして萩原夕貴と、在りし日の母の背中が重なったのか、彩にはわからなかった。二人ともまるで似ていない。性別も違う。夕貴のほうが逞しく、母は痩せていた。それなのに夕貴の後ろ姿から、彩はかつての母のそれを思い出したのだ。


「……夕貴くん」


 自分でも聞こえないぐらいの小さな声で呼びかける。もちろん返答はなかった。もう一度だけ手を伸ばして、指先が触れそうになったところで、彩は自分を戒めるように拳を軽く握った。


 いまこの世界でだれよりも近いはずなのに、こんなにも遠く思える。


 いつかこの背中も、彩から離れていくのだろうか。


 遠山咲良だけでなく――大切な人だけでなく、萩原夕貴もまた彩を置いて行ってしまうのだろうか。


 ちゃんと諦めないといけないのはわかっている。我慢もするつもりだった。


 でもあんな孤独は、一人きりの世界は、もう耐えられそうにない。


 だからせめて今夜だけ。お願いだから。


 そう思って、唇の動きだけで、最初で最後のわがままを言ってみる。


「わたしを、見て」


 その声は、自分にも聞こえなかった。


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