1-10 『相思相哀』①
それは櫻井彩にとって幸せな思い出であるのと同時に、もっとも後悔している記憶でもあった。
中学生に上がったばかりの頃だ。母親と二人で花見をした。近所の公園を通りかかると開花したばかりの桜が咲いていたので、ちょっと見ていこうという流れになったのだ。たんなる散歩のついでだったかもしれない。
そのときの桜が、とてもきれいに見えたことをよく覚えている。理由はわからない。珍しい品種ではなかったし、特別に美しく蕾をつけていたわけでもない。足を止めているのは彩たちだけで、ほかの通行人は見向きもしない。
でも確かに心を揺さぶられた。
なんとなく気になってとなりを見上げてみると、母も目を細めてじっと感じ入るように桜に想いを馳せていた。それが嬉しかった。親子二人の秘密みたいだったから。ちゃんとわたしはお母さんの娘なんだって、そう胸を張って言えそうな気がしたから。
ずっとこんな幸せが続けばいいと思った。永遠がほしくて、時間が止まってくれればいいと願った。でも風は冷たくて、いつまでも桜を見ていることはできなかった。
帰りましょうか、と提案して歩き出す母親の手。
なぜかそれを、彩は一度だけ引いたのだ。
――ねえ、お母さん。
握りしめた手に力を込める。なあに、と目線だけで問いかけられる。その穏やかな表情を壊したくなかった。また困らせてしまうんじゃないかって怖かった。ここで甘えてしまったら、お母さんに嫌われてしまいそうな気がした。それだけは絶対に嫌だった。
ううん、といつもの大人しく行儀のいい『彩』の笑みを浮かべてみせる。なにか言いたげに曇った母の顔は、きっと彩のわがままを察して怒ったのだろう。
そんなことはちゃんとわかっているから、だから。
――そうだね、帰ろっか。
もうちょっとだけ、こうしていたいな。
そんな小さなわがままを言うことも、けっきょく彩にはできなかった。
あの日以来、母と二人で桜を見ることはなくなった。新しい家族ができて、四人になったからだ。
だからきっと、あれが最後の機会だったのだ。
いまでも彩は考える。ずっと後悔している。
もしあのとき、いつもよりほんの少しだけ勇気を振り絞っていたら、思っていることをちゃんと口にできる自分でいられたのなら。
もっと違った未来もあったかもしれないのに。
夕貴が想像していたよりも部屋は簡素だった。相場なんて知らないが、見るからに場末の安いホテルといった感じだったから贅沢は言えない。申し訳程度に揃えられた調度品の中でも、部屋の中央に位置する大きなベッドだけは丹念にメイキングされて清潔な白いシーツがかけられていた。
部屋に到着した後、夕貴は、彩にすぐシャワーを浴びるよう勧めた。ほんとうなら熱い湯も張って身体を芯から温めさせてあげたいところだが、雨と冷気に晒された肌は凍えきっており、悠長に待つ時間ももったいなかった。彩は自分が先に浴びることを良しとせず、頑なに夕貴に譲ろうとしていたが、そこは有無を言わさず脱衣所に押し込んだ。
夕貴は着ていた服をすべて脱ぎ、タオルで身体を拭いたあとバスローブに着替えて毛布を羽織る。暖房を全開にしてから、電気ポッドで温かいコーヒーを淹れる準備を整える。
浴室からはシャワーの音が絶え間なく聞こえてくる。本来なら興奮と緊張をしてしかるべき状況だろうが、夕貴の思考はかじかんだ指先以上に冷たくなっていた。
彩に嫌な思いをさせないようにベッドの枕元に用意されていた避妊具をゴミ箱に捨てると、テレビを点けて、少しでも情報が得られないかとチャンネルを回してみる。
まだ大して時間が経っていないからだろう。どのテレビ局のニュースを見ても、それらしき報道はされていなかった。あの女性の遺体がどうなったのかは不明だが、路地裏から表通りまで血の痕跡は多少なりとも残っているはずだし、曲がったガードレールや、凍結していたビルの内部など、目撃者が皆無だったとも思えない。ワイドショーが盛り上がる日もそう遠くないはずだ。
こうして静かな部屋の中で、暖房の風に当たりながらテレビを眺めていると、ついさっきまでの悪夢が何かの間違いだったのではないかと思えてくる。ほんとうにあんな化け物みたいな女はいたのか。人が車に撥ねられたのか。ビルが凍ったのか。
そして、あの最後の白い極光はなんだったのか。
一瞬のうちに何かを見た気もするが、改めて振り返ってみると思い出せることはない。パニックのせいで頭がおかしくなっていたという可能性のほうが高いかもしれなかった。
「それか、俺の秘められた力だったりしてな。ははは……」
気分を変えるつもりで口に出してみると、死ぬほど寒かったので毛布をもう一枚羽織った。がたがたと震える身体は無視する。
それより気になるのは彩のことだ。
「……咲良、か」
夕貴は遠山咲良の顔を知らない。ネットで調べれば写真ぐらいは出てくるかもしれないが、それは傷ついた彩の過去をいたずらに暴くのとなんら変わらないように思えて気が進まなかった。友人だからこそ知ってほしくないこともあるだろう。
だから当時の事件についての情報は、それこそ彩の親友が被害に遭ったことぐらいしか夕貴は掴んでいない。
どうして彩はあの女のことを咲良と呼んでいたのか。さすがに何かの間違いだったと信じたい。一年前に死んだ少女が、どういうわけか生き返っただけでなく、ふたたび死体となって彩の前に現れるなんて冗談にしてもたちが悪すぎる。
人の気配を感じて、夕貴はテレビを当たり障りのない娯楽番組に切り替えた。
「夕貴くん。シャワー空いたよ」
ぱたぱたと駆け足で、浴室からバスローブに身を包んだ彩が出てきた。髪の毛もまだ乾いていない。ドライヤーの音すらしなかったことを考えると、夕貴に譲るために急いで出たのだろう。実際、水音が聞こえ始めてからここまで十分もかかっていない。
「ごめんなさい。先にお湯もらっちゃって。夕貴くんも早く……」
「それよりまず熱い飲み物淹れるよ。まあインスントコーヒーぐらいしかないけどな。砂糖とかミルクは?」
「あ、いいよ。わたしがやるから、夕貴くんは先にシャワーを」
「これ淹れてから入るよ。どっちいる? 両方?」
彩はまだ何か言いたそうだったが、ここでむやみに遠慮しても夕貴が譲らないであろうことを察して、申し訳なさそうに頭を下げた。
「ええと、じゃあ砂糖とミルクを一つずつ……」
「ああ。ちょっと待っててくれ」
手早く用意すると、所在なさげに立ちすくむ彩にソファを勧めて、安っぽいガラス製のテーブルにカップを置いた。彩は両手でカップを持つと、しばらくてのひらを温めるように琥珀色の水面を見つめていたが、やがてゆっくりと口をつけた。
「……おいしい。とても、あったかい」
安堵のため息とともに万感の想いを込めて彩は言った。夕貴も立ったままブラックのコーヒーを飲んではまったく同じ感想を抱いていた。特別こだわりがあるわけではないが、いま口にしているそれはどんな高級豆よりも美味しく感じられた。
夕貴はさりげなく彩の様子を窺っていたが、彼女は手元のコーヒーを見つめたまま、ちびちびと舐めるように飲んでいるだけ。その佇まいからは精神状態までは読み取れない。
「じゃあ俺もシャワー浴びてくるから」
彩よりも早くコーヒーを飲み干すと、夕貴は浴室に向かった。その途中、カップに口をつけたまま上目遣いでこちらを見ている彩と目が合った。どうした、と首を傾げてみせると、彼女はなにも言わずに視線を逸らした。
一人で部屋に取り残されるのが心細いのかもしれない。なるべく早くシャワーを浴びて戻ろう。そう決めると、夕貴は冷え切った身体を温めるための作業に入った。
一人きりになった室内でぼんやりとカップの水面を眺めながら、彩は何度も繰り返し、小一時間ほど前の出来事に思いを馳せていた。
やっと咲良と巡り会うことができた。
降りしきる雨の中に倒れている遺体を見つけたとき、彩はそう思った。死相により変わり果てていたけれど、それは間違いなく咲良の顔だった。
確かに驚きはしたが、心の奥底にいるもう一人の醒めた自分はちゃんと納得もしていた。すでに一度は失われた縁なのだ。だからもし、ありえないはずの逢瀬が叶うとすれば、それはまともなものではないことも覚悟していた。
襲われそうになったことも理解できる。きっと咲良は彩のことを恨んでいるし、それを拒絶する気はなかった。何が起きても受け入れるつもりだった。
咲良から、そして自分から、二度も逃げるような真似はしたくなかったから。
それでも彩が夕貴の手を取って逃げることを選択したのは、彼に責任を負わせたくなかったからだ。もし目の前で彩が死んでしまったら、夕貴は自分の無力を嘆いて後悔するだろう。人には言えない何かを独りで抱え込むことの絶望は、ほかでもない彩が一番よく知っている。それを夕貴には味わってほしくなかった。
死ぬのはもちろん怖いし、痛いのも嫌だけれど、もしそうなるなら、せめて彼のいないところがよかった。
彩が愕然としたのは、ビルのなかで氷漬けとなった女の貌をよく見たときだ。そこに閉じ込められていたのは遠山咲良ではなく、まったく知らない少女だった。似ているとか、見間違えたとか、そんな次元の話ではない。面影すらない別人だった。
ならばどうして彩は、あの少女を遠山咲良だと錯覚していたのか。
もしかしたらわたしは、いままでありもしないものを追いかけていただけなのかな?
ぜんぶ、嘘で、幻で、勘違いで。
自分に都合のいい夢を見ていただけなのかな?
そんな不安が芽生えて、彩の身体は寒さとは異なる次元で震えた。
一年前のあの日、大切な人を喪ってから、目の前を通り過ぎる何もかもが色褪せて見えた。もう人生には理由も目的もなかった。とくに死ぬ意味がなかったから、それを生きる意味にして漫然と過ごすだけの毎日だった。
だから大学に入る数日前、咲良を街中で見かけたとき、彩の世界にふたたび色が戻った。
もう一度だけ咲良に逢いたい、そしてやり直したい。
それだけを願い、今日までずっと必死に走り続けて、ようやく手が届いたと思った。でもふたを開けてみれば、追い付いたと思った背中は、まったく別のだれかだった。
やっぱり咲良は、もうこの世界にいないのかもしれない。
そう意識したとたん、彩は自分という存在が、がらんと空洞になるのを感じた。崩壊する寸前だった彩の心は『遠山咲良を探す』という強迫観念によってかろうじて支えられていたことを思い知る。
死んでしまったはずの咲良に逢うことだけが、いまの彩にとって唯一の生き甲斐だったのだ。
それがなくなれば後にはもう何も残らない。
からっぽで、虚ろだ。
そういう中身のない人間だと、彩は自分のことを冷静に分析している。
子供のころから両親の笑っている顔が好きだった。でも病弱だった彩には迷惑をかけることしかできなくて、せめて自分のわがままのせいで困らせたくないと幼い心に蓋をした。諦めて、我慢して、だれもが望む理想の『櫻井彩』であろうとした。
いつだって人の顔色を窺って、自分のためではなく他人のために笑ってきた。
だから彩は『自分』というものを誇れない。仲良くなってくれる友達も、好きだと言ってくれる男性も、きっと彩が作ってきた『大人しくて邪魔にならない櫻井彩』という人格を評価しているだけで、ほんとうの彩を知ったら幻滅する。そうに決まっている。
せめてもう少しだけでも、嫌われることを恐れない自分でいられたら、今頃はどんな未来があっただろう。
そんな後悔をしても、もう遅い。
”一年前のあの日”
それはまるで呪いのように、彩から小さな一歩を踏み出すための勇気を奪っていった。
自分を知ってほしい、なんて言えるわけがない。いまとなっては知られてはいけないのだ。
いまの彩を知るということは、”一年前のあの日”を受け入れるということだから。
夕貴に甘えてしまえば、ほんとうの自分を曝け出すことになる。
それはすなわち、彩がここまで一人で我慢して抱えてきた全ての真実を夕貴にも背負わせてしまうということにほかならない。
それだけはどうしてもできない。自分が楽になるために、彼を苦しめることだけは、ぜったいに。
だから夕貴には、こんなからっぽの自分でしか接することができない。作り物の自分でしか逢えない。
今夜のように一緒にいてくれる彼も、彩が上辺だけの人間だと知ると、そのうち距離を置いてしまうかもしれない。
いずれ訪れるその日を思うと、彩は胸が張り裂けそうな気持ちでいっぱいになった。
「……いやだな」
こぼれた声は無意識のものだった。口にして初めて、夕貴に嫌われたくないと思っている自分の心を知る。理由はわからない。わかるはずもなかった。
その感情の意味と名前を知ることさえ、少女は諦めて生きてきたのだから。
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