1-9 『雨、血染め桜』②


 夕貴が辿り着いたとき、まず覚えたのは吐き気だった。狭い空間の中で換気されることなく満たされた血臭は、つんと鼻孔を刺激して生理的嫌悪をもたらした。雨で流されるにはまだ早く、それどころか視界を赤い霧がけぶっている有様だった。


 血の湖のなかに少女の遺体が浮いている。どこにでもありそうな包丁を墓標にして、目を開けて眠る死相。


 ゆさゆさと、その動くはずのない身体が動く。揺さぶられる。


 名も知らない少女の傍らには付添人のように彩が座り込み、そっと触れながら、不帰の亡骸に声を注いでいる。


「咲良ちゃん。咲良ちゃん」


 とっさに状況が飲み込めず、夕貴は棒立ちとなったまま、その奇妙な光景に魅入られていた。


「起きてよ。咲良ちゃん」


 繰り返し、何度も、彩の口から桜が舞い散る。


「ねえ、咲良ちゃん。咲良ちゃんってば」


 まるで昼寝している友人に呼びかけるような声音だった。彩の瞳に、心が痛くなるほどの絶望と諦観が滲んでいなければ、ここが温かい部屋の中だと錯覚もしたかもしれない。


 だが死者の身体にそっと触れている彩が、いくら呼びかけても何の反応も示してもらえない彩が、もうすでにだれよりも理解している。


 この行為は無意味なのだと。


「彩」


 こちらに見向きもしない。近寄って、彩の手を掴んだ。雨に濡れて冷え切った肌が痛ましい。彩は抵抗もせずに気だるげに夕貴を見上げた。


「……あ」


 黒曜石を思わせる澄んだ瞳は、いまは雨だけに濡れていた。雨だけだと、そう思えればよかった。


「ゆうき、くん」


 いま意識が戻ったかのように虚ろな声だった。


「……彩」


 もう一度だけ名を呼ぶと、夕貴は優しく彼女の身体を引っ張り上げた。足腰に力が入っておらず、よろけそうになる身体を支える。彩はされるがままだった。

 

 倒れ込みそうになる彩を支えながら、ひとまず惨状となった場から距離を取る。彩は遺体の向こう側にいたので、さらにその奥の路地に進むように離れた。


 表の通りに出ることは躊躇われた。彩を連れたうえで遺体を跨いでいくのは何とも言えない抵抗があったし、なにより彩を人目のあるところに連れるのは気が引けた。地面に座り込んでいたせいで彩の白いワンピースにはいくらか血がついていたからだ。


 亡骸に背を向けて歩く夕貴と、その腕に抱えられながら肩越しに視線を注ぎ続ける彩。


「咲良ちゃん」


 祈りの言葉のように彩は呟き続ける。


 どうして彩が、いまこの場で死んでいる少女のことを、かつて殺されてしまった少女の名で呼ぶのか。


 これまで後回しにしていた疑問を思い浮かべたとき、だった。


「咲良、ちゃん?」


 彩の語調が決定的に変わった。呆然と宙に揺蕩っていたはずの言葉は、ここにきて明確な指向性をもって紡がれる。


 それは、なんとなくだった、と思う。


 彩に倣って、夕貴は肩越しに振り返ってみたのだ。


「……な」


 二本の腕が、空に向かって伸びていた。


 これまで倒れていたはずの死体の、その腕が、まっすぐに、伸びていた。ついさっきまで確かに包丁を固く握りしめていた手が、動いていた。


 異変は速やかだった。巻き戻しのビデオテープのように、少女の身体がゆっくりと起き上がる。だらりと生気のない前傾姿勢。胸部に溜まっていた血液がぼたぼたと滝のように零れ落ちて、足元の水溜りに赤い色を注ぎ足す。長い髪が垂れ下がって顔は見えない。


「──ぁ、あ、アァ──」


 なにか言おうとしたのか、人のものとは思えないほど青くなった唇がわずかに動く。だが喉に滞留していた血の塊が粘ついた音を立てただけで、声にはならない。いや、そもそも発声できるわけがなかった。


「──あ、アぁ、あ、あ──」


 だって包丁は、まだ胸に深く突き刺さったままで。


 どこからどう見ても、それはすでに死んでいるのだから。


「──あああぁアアぁアアあぁあ──!」


 おぞましい金切り声を上げて女は駆け出す。こちらに接近してくる。速い。目を疑うほどの敏捷性。十メートル近くあった距離を数秒で走破。死後硬直にこわばっていたはずの指が鉤爪を模して振るわれる。


 夕貴が自分の正気を疑っていた数秒が致命的な隙となった。逃げられない。それでも反射的に彼は彩を突き飛ばした。手加減する余裕はなく彩は路地の壁に当たって痛そうに身をよじる。その分だけ遅れる夕貴の行動。とっさに手を上げて防御を試みる。


 受け止める。だが意外なほどに力がなかった。平均的な少女の腕力を下回るだろう。幼少期から空手を習っていた夕貴なら問題なく捌ける。


 ニチャリ、と気色の悪い音を間近で聞いた。女の口が大きく開かれ、白い歯が剥き出しになる。よだれを引いた口腔が、夕貴の首のあたりを目掛けて奔った。食べるように。


 思考する間もない。夕貴は脚を上げて、無防備だった女の腹を蹴り飛ばした。柔らかい人体を蹴った嫌な感触が伝わってくる。吹き飛ばされる間際、女の伸ばされた両手が未練を残すように宙を掻いて、その指先が夕貴の頬に触れて赤い軌跡を残す。


 動く死体は、数メートルほど後ろに転がった。倒れたまま身じろぎもしない。


「ゆ、夕貴、くん……」


 背後から届いた彩の声は、夕貴を非難するようにも、注意を呼び掛けるようにも聞こえた。


 しかし、夕貴の耳に届くのは自分の荒い呼吸音だけだった。夕貴はいま、己の行為が正しかったのか、果たして何が起きているのか、考えるだけで精一杯だった。そうやって最悪の未来から目を背けようとしていた。


 立つな。立つな。立つな。立つな。立つな。


 頼むから、お願いだから。


 もう立たないでくれ。


「──アァ、あ、あ──」


 願い虚しく、雨のなかに死者の呻きが漏れる。女はまたゆっくりと起き上がる。不自然な挙動。やはりそれは巻き戻しのテープを見ているようで。


 ふいに闇が揺らめいた。女の身体から、黒い霧のようなものが漂い始める。淀んで濁る夜よりも昏い陽炎。あらゆる怨嗟を、あまねく害意を凝縮して煮詰めたような禍々しい漆黒が、邪悪なオーラとなって全身を包んでいく。長い髪や服がふわりと巻き上がる。


「なん、だよ……これ」


 出来の悪い悪夢としか言いようのない光景だった。でも死の臭いを嗅ぎつける本能が、紛れもない現実なのだと告げていた。


 この女はもう人間じゃない。人知を超えた何かに成り果てている。悪魔という言葉さえ生温い。


 化物が駆け出す。今度はさらに速い。足元の血溜まりが弾けた。飢えた肉食獣を連想させる身のこなし。でたらめに振るわれる腕。素人の動き。だが異常なまでに鋭かった。


 なにかを、だれかを喰おうと大きく開かれる咢に、喉元に犬歯を突き立てられる自分の未来をイメージした。


 迫りくる死。


 意識した瞬間、身体に流れる血が呼応した。


 眼が、瞳が、熱い。


 こんな状況なのに夕貴は、眼に灼熱のごとき熱を覚えて、たまらず手で覆った。気のせいだ。雨に濡れた肌は、むしろ冷え切っている。ならばそれは現実を認められない弱い自分が覚えた単なる眩暈だったのか。


 だが指の隙間から覗く視界は、なぜか不自然なほど時の流れが遅く見えた。ありとあらゆるものがスローモーションに映る。女の動きどころか、降りそそぐ雨の一滴でさえ知覚できた。さらに、ただでさえ薄暗く、黒い陽炎によって奪われていた視野が、隅々まで見通せるほど鮮明になった。


 それは果たして何だったのか。死を予感した脳が見せた、走馬灯の一種だったのかもしれない。


 ゆいいつ確かなのは、このとき夕貴は、女のことを眼で完全に捉えていた。筋肉の緊張から重心の移動まで見通せる。どこにどう向かって動いているのか、把握できてしまう。


 だから女が標的とするのは夕貴ではなく、その奥で佇んでいる彩だということが判ってしまった。


「ひっ──」


 彩も自分が狙われていることに気付く。短く漏れた悲鳴と、恐怖に歪んだ顔は、その証左にほかならない。


「──ア、アァ──」


 ひどく怯えた彩を見て、死相に固まっていた女の表情に初めて変化が出た。全身が硬直し、明らかに足運びが鈍った。躊躇いがちに伸ばされた手が、さながらだれかに見捨てられたかのように頼りなく宙を掻く。


「──アァッ、アアぁ──」


 いくら勢いがなくなったとはいえ、女の疾走は、大人の男でも容易に阻めるものではない。


 しかし夕貴は長年の経験により染み付いた習性によって、適切に、的確に、最小限をもって女の攻撃を躱すと、そのまま体軸を回して蹴りを放った。ふたたび路面を転がる肉体。今度はすぐに立ち上がらなかった。顔を伏せて、小さな呻き声を上げている。


 どうしてだろう。恐ろしい化物のような存在だったはずなのに。


 いまはこんなにも小さくて、それが泣いているように見えてしまうなんて。


「……しっかりしろ」


 益体のない考えをよぎらせた自分を鼓舞させる。いまは余計なことに気を回している場合ではない。


 逃げるなら、このタイミングしかないのだ。


 夕貴は理解していた。さきほどの吶喊をいなせたのは夕貴の実力ではない。女が彩を狙っていたからだ。


 いわば夕貴は、全力で走っている人間の足を横から引っかけただけに過ぎない。初めに夕貴に喰らいつこうとしたのも、たんに彼が邪魔だったからだろう。


 血だまりの中で倒れて、身じろぎする女の姿をした悪魔。それに彩は何を思ったのか、力ない足取りで歩み寄ろうとする。


「バカ、どうするつもりだ!」


 慌てて引き留める。彩は哀しげに伏せた目で夕貴のことを見据える。だがその意識は、夕貴ではなく女に向いている。


「離して。咲良ちゃんがいる。咲良ちゃんがいるの」

「彩」

「咲良ちゃんが、咲良ちゃんが呼んでる。だからわたしが行かないといけない」

「彩!」

「わたしは、今度こそ、咲良ちゃんに──」

「俺を見ろっ!」


 彩の両肩をしっかりと掴んで向き合うと、夕貴は彼女の目をまっすぐ見た。迷子になった子供のように怯えた瞳。そこに映るのは、過去の後悔でも死んだはずの友人でもない。


「俺が一緒にいる。おまえのそばにいるから」


 多くの言葉はいらなかった。見つめあったのはほんの数秒。夕貴は決して目を逸らさなかった。彩は白く凍えた吐息を長く吐き出したあと、夕貴の眼を見つめたまま、ゆっくりと、だが確かに頷いた。


 そこから夕貴の行動は速かった。彩の手をしっかりと握りしめる。決して離さないように指を絡ませ合う。大人になった夕貴からすれば、彩の手は壊れそうなぐらい細くて小さい。だからもう無事に守り抜くまで離さないと勝手に決める。


 彩はまだ、夕貴のことを呆然と見たままだった。


 彩の手を引いて、夕貴はこの地獄とは真逆に向けて走り出した。薄暗い路地をひたすら駆ける。ゆらりと誰かが起き上がる気配。二人分しかなかった足音に、ありえないはずのもう一人が混じる。ぽたぽた。雨とは違う、赤い液体が点々と続く。


「──アァあぁあアアアアぁぁアぁァ──!」


 雨音を裂いて、身の毛もよだつ咆哮が迸る。振り返る余裕もなかった。転びそうになる彩をその都度に支えて、夕貴は前を向いて、がむしゃらに走り続けた。行く当てもない。どこをどう走っているかもわからない。


 千鳥足でふらつきながら、髪の長い女が追いかけてきている。まばたきせず彩だけを見ている。壁にぶつかりながら、足元のゴミに躓きながら、それでも距離は少しずつ縮まっていた。人間とは思えないほどの速度で、胸に突き立った包丁から涙のように血をこぼしながら。


 何十分も彷徨っていた気がするし、たった数秒のことだった気もする。遠く、ヘッドライトの光芒がきざした。


 白い光に導かれて夕貴と彩は表通りまで辿り着いた。相変わらず人気はない。だが、まばらながらも街中では自動車が走っていて、赤いブレーキランプが点在して尾を引いている。それは二人のよく知る日常の風景。淡々と、しかし確実に回る平穏という名の歯車。


 ほっと安堵してしまった彼らを誰が責められるだろう。思わず足を止めてしまった愚行を誰が罵ることができるだろう。


 路地の奥から禍々しい黒いオーラが溢れ出す。立ち止まった二人の背後に肉薄する動くだけの死体。距離にして一メートル。手を伸ばせば届く間合い。失態を悟ったときにはもう遅い。


 夕貴は彩の手を引いて一歩、前に進んだ。走るとか、逃げるとか、考えた上での行動ではなく反射的なものだった。周囲も確認せず、無我夢中で前に進んだのだ。


 そんな二人の背後で、世界が揺れた。そうとしか、二人には感じられなかった。


 鈍い轟音と、地面を滑って削るタイヤ。燻る夜気をヘッドライトが寒々と照らしている。見晴らしの悪い雨のなかを猛スピードで走行していたロングワゴンが、突如として路地から躍り出てきた女を撥ねたのだ。あと一秒遅ければ、間違いなく轢かれていたのは夕貴と彩だった。


 女の身体はおもちゃの人形みたいに弾き飛ばされる。粗いアスファルトに皮膚が削られてさらに血が噴いた。十メートル近く転がった肉体は、間近のガードレールに衝突してようやく止まる。腹を揺るがす轟音がして、路肩と歩道を仕切る白い境界線は、その中ほどから大きくひしゃげていた。


 しかし、女の様相はもっと酷かった。首がおかしな方向に曲がっている。全身の関節が歪んで、至るところから出血している。それは死ではなく、もはや破壊だった。動くことは、もう物理的に無理だろう。


 こうして悪夢は、あっけなく幕を引いた。


 沈黙。変わらない雨音が、痛かった。


 永遠に続くかと思われた無の時間を破ったのは、自動車のエンジン音だった。ワゴンを運転していた人間は、顔を晒すこともなく、荒々しくハンドルを切りながら急発進。それを轢き逃げだと非難するほどの正常な思考を持つ者は、幸か不幸か、この場にはいなかった。


 ふたたび、静寂が訪れた。


「──アァ、あ、あ──」


 はず、だった。


「──あぁ、アアぁ、アアあぁぁァ──」


 女は立ち上がろうとしていた。真横に向いた首で。曲がった関節で。歪んだ手足で。こそぎ取られた肌で。剥き出しになった肉と骨で。血に濡れた執念と瞳で。


 立ち上がりかけては、何度もその場にくずおれる。そのたびに死んでいた体が死んでいく。骨が砕ける音。水よりも重い粘性の液体が滴る音。ようやく立てても自分の血で滑ってまた転ぶ。でも立つ。その最中にも目だけはずっとこちらを見つめたままで、夕貴は金縛りにあったかのように身体を動かすことができなかった。


 どちゃっ、どちゃっ、どちゃっ、と女が倒れる滑稽な音だけが、何度も何度も、雨音の邪魔をする。


 無意味な自傷行為を、いったい何回繰り返したことだろう。女はようやく立つことを諦めた。無意味と悟ったのだ。追いかけるだけなら別に起立する必要はない。ズタボロになった四肢が一斉に伸びて、地面をしっかりと踏みしめる。そして四足歩行のまま、ぺたぺたと移動してアスファルトを這いながら、夕貴と彩を目指し始めた。


 もはや獣ですらない。


 まばたきも忘れて一連の所業を見ていた夕貴は、まるで蜘蛛のようだと、そんなことをぼんやりと思った。


 そんな夕貴の手を、小さなてのひらが、縋るように震えながら握り返してくる。そっと身を寄せてくるぬくもり。振り返れば、すぐ傍らには夕貴を見上げる眼差しがある。


 そのとき、心によぎった感情が何だったのか、夕貴は自分でもよくわからない。


 彩の身に被害が及ぶことが怖かった。普通の女の子なのだ。いつも控えめに笑って、でも不器用な夕貴を見るときは子供のように屈託なく笑ってくれた。気恥ずかしそうに名を呼んで、見つめあった。落ち着いた清楚な子という印象だったけれど、一緒にいると意外と表情はころころ変わることを知って、そんな一面を好ましく思った。


 血の赤も、絶望の黒も、彩には似合わない。


 名は体を表すという。


 いつかの春、一人の母親が、産まれたばかりの娘を抱き上げた。そのとき目にした、涙がこぼれるように美しい桜の景色。それは時が経っても色褪せることのない始まりの想い。母から娘に贈られた願いのかたちは、だれかが彼女の名を呼ぶたびに蘇る。


 親ならだれだって子の幸せを願うものだ。夕貴はそう信じたい。


 いまでも櫻井の家では、母親が娘の帰りを待っているはずだ。子を見守り、慈しむ母の想いを踏みにじることだけは絶対に許せない。許したくない。


 だから絶対に、最後まで、どんなことがあっても俺が守ってやる。


 諦めない。


「彩!」


 その名を口にする。びくりと震える身体。見上げてくる眼差し。言葉はいらない。凄惨な悪夢を見せつけられる中で力なくほどけかけていた指先が、彩のほうからぎゅっと握りしめてきた。


 その瞬間、女の這うスピードが明らかに増した。ふたたび全身が漆黒の波動によって包み込まれる。寒気がした。気温ではない。第六感が恐怖を覚えている。


 やがて夕貴と彩は、明かりに誘われて近くのビルに逃げ込んだ。ロビーを通り過ぎて廊下を走り、階段を上っていく。だれもいない。恐ろしいまでに空虚。でも白い照明が灯っているだけで幾分か救われた気分になった。二人分の足音が反響して、身体から落ちた水滴がリノリウムに道標を遺していく。


 彩の息が切れたところで、夕貴は階段から外れて廊下に出た。四階か、五階か、そこらだったと思う。


 逃げ切れるとは思えなかった。姿が見えなくなっても、ずっと気配だけが背にまとわりついている。血反吐で詰まった喉から漏れるうめき声が耳から離れない。すでにあの悪魔のごとき女は、このビルに入っていて、着実とこちらに近づいているのが感覚でわかった。


 焦燥して足がもつれる。恐怖で手が震える。生き延びるための最善を考えるだけの頭も回らない。一つだけ確かなことは、彩を守りたいという願いだけ。


 だから夕貴は決断した。


 廊下の最奥にある非常出口。その扉がしっかりと開くことを確認してから、夕貴は傍らの少女になるべく穏やかな口調で語りかけた。


「彩。ここから一人で逃げろ。俺はちょっとだけ遅れていくから」


 言葉にしてから、夕貴の震えは収まった。それどころか内心で笑いを堪えてさえいた。まさかこんな台詞を口にする日が来るなんて思ってもみなかったから。


 でもあれだ。


 やっぱ男なら、人生で一回ぐらいはこういう台詞を言ってみたいよな。


「……なんで? やだ、やだよそんなの。夕貴くん、言ったよ? 俺が一緒にいるって、そう言った! わたしも残る! 自分の目で確かめたいの!」


 彩は子供みたいに駄々を捏ねていた。だれかと離れることは、いまの彼女にとって暗闇を明かりなしで進めと命じられるのと同義なのだろう。


 それでも逃げてもらわねばならない。ひどく血の気の引いた顔。寒さに凍えた身体。


 夕貴の考えは無謀だが正しい。彼一人なら逃げ切ることもできたかもしれない。だが彩の運動神経は平均的な女性のそれだし、恐怖に固まった身体は手を引かなければもう歩くことさえままならない。


 なにより彩をこれ以上、あの悪魔に近づけてはいけないという確信があった。


 そしてもうひとつ、これは何よりくだらなくて、ある意味では何より大事な動機。


 男として、女の子に格好悪いところを見せたくない。


「じゃあ、そうだな。弁当とかどうだ?」

「え?」


 夕貴の一言が慮外だったのか、彩はぽかんと口を開けた。


「今度、俺に弁当作ってくれ。もちろん手作りで。ご飯は大盛りで、卵焼きはあんまり甘くないやつな」


 女の子の手作り弁当。普通に考えて夢の出来事である。そんな希望が未来にあるのなら、どんな苦難にだって挫けないのが男という単純な生き物だった。


「……バカだなぁ。夕貴くん、ほんとバカ。なに言ってるのよ、こんなときに」

「こんなときだからだろ。約束だぞ」


 彩は小さく笑った。目に涙を溜めていたが、それはきっと雨のせいだと、夕貴は自分に言い聞かせた。


 しかし、夕貴は大きく見誤っていた。自分たちに忍び寄るのは条理から外れた化物だということを。


「──あ、あ、ア──」


 ぞっと、全身の肌という肌が粟立つ。


 振り返ったときには遅かった。気配どころか足音すら置き去りにする醜悪なまでの速度で、遠くから女が這ってくる。もはや人体と称するにはあまりにも不出来な崩れた身体。目に見える皮膚はほぼ削ぎ落されて赤黒い肉が覗き、骨という骨も原型を留めていない。


 コマ送りの映像のように、少しずつ、けれど確かで歪な間隔で、女が距離を詰める。まばたきを一つすれば、もうそこには最期の力で地を蹴った女が、すぐ目の前まで迫っていた。


 とっさの判断だった。夕貴は彩を押しのけて、自らの背に回した。どんなことがあっても彩だけは守ろうと心に決めた。


 夕貴の瞳は決して揺らぐことなく、絶望に屈すまいと女を捉えて離さなかった。時間が急速に引き延ばされていく。永遠にも思える一瞬の中で、吐息だけが冷たく濡れて、命の在り処を教えている。


 そのとき、誰も想像していなかった異変が生じた。


 ビルの廊下全体に圧倒的な冷気が広がり、目に見える全てが瞬時にして凍り付いた。白く、ただ白く、血も骨も泥も、あまねく色が塗りつぶされる。突如として顕現した絶対零度は、物理法則を歪めるほどの有無を言わせぬ強大さで、ありとあらゆるものを凍てつかせていく。


 それは、悪魔とて例外ではなかった。


 刹那のうちに、女は天井を貫くほどの大きな氷塊に閉じ込められていた。慈悲もない極寒の牢獄。断罪には重すぎる氷煉の檻。呼吸も、身動きも、まばたきさえ許されない。命を奪うなんて生易しいものではない。存在そのものが喪われていく。


 だが、女の魂が消えるまでには数秒の猶予があった。垂れ下がった髪の合間から覗く女の目は、じっと彩を見ていた。そこから何かを訴えかけるような意思を感じたが、氷に閉ざされた女には唇を開くことも叶わない。


「あ、あ……」


 声を漏らしたのは彩だった。手が伸ばされる。彩の指先が氷の彫像に触れる寸前で、女の目から完全に光が消えた。それでも視線は、彩に固定されたままだった。


 女の貌をしばらく観察したあと、彩は掠れた吐息を吐きながら、ゆっくりと大きくかぶりを振った。


「……違う」


 ぺたん、と彩が座り込む。


「なんで、どうして……」


 茫洋とした瞳は、女のほうを向いていながらも、もう何も映していない。


 そんな彩に言葉をかけようとして、息を吸って──刺すような冷気に肺が痛んで夕貴は声を失った。口どころか顔の筋肉すら満足に動かない。そこで夕貴は、雨に濡れていた彩の髪にわずかな霜が下りているのを見た。


 気が抜けたとか、体力が尽きたとか、そんな次元の話ではなかった。


 寒すぎる。


 ただそれだけで、それが全てだった。


 生体機能に支障をきたすほどの冷気が渦巻いている。雨に濡れた上でこの環境では、一分も持たないうちに死域を踏むだろう。


 決して救われたわけではない。むしろ氷に閉ざされたのは二人も同様。非常出口に通じる扉までもが分厚く凍り付いている。ビルの一階の出口がどうなっているのかはわからないが、下に向かうどころか、階段のところまで歩いていくだけの力もすでにない。


 いたずらに体温だけを奪われていく状況。悪魔のような女をあっさりと殺し尽くした超自然現象。


 この氷は、いったい何なんだ?


 それに思いを馳せるだけの思考も、少しずつ、白く、冷たく、塗りつぶされて。


「……そっ、か」


 彩は目を閉じて、小さく呟いた。すでに意識も朦朧としているのだろう。いまの言葉にどんな意味があったのかは知らない。彩の手から力が抜けて、固く握りしめていたはずの指先が解けていった。


「ごめんな」


 そう言って、夕貴は彩から身を引いた。己の無力を嘆いて謝罪したわけではない。勝手に離さないと決めていた手を、自分から離してしまったことを申し訳なく思っているだけ。


 かじかんだ身体を無理やり動かして、夕貴は非常出口まで歩み寄ると、その凍結した金属製のドアを全力で蹴りつけた。びくともしない。破片も落ちない。当たり前だった。氷山を素手で崩そうとするに等しい無意味だった。


 ずきずきと足が痛む。それをありがたいと思った。これでもうちょっとだけ意識が保てる。


 今度は体重を乗せて、全身全霊を込めて蹴りをぶち込む。空手の型とか関係なく、力任せの一撃だった。憎いぐらい美しく澄んだ音がして、わずかに氷の破片が欠け落ちた。もう一度だけそれを繰り返す。


 彩が目を開けて、音がするほうに振り返った。


「……あ」


 夕貴の背中を見て、彩の瞳がゆっくりと大きく見開かれた。まるで懐かしいものでも見るように。


「悪い。ちょっとうるさいと思うけど、もう少しだけ我慢してくれ。すぐ終わるから」


 夕貴は気安い声で答えて、なおも蹴りを繰り返す。だが道は開けない。もう何度目かもわからない徒労を終えてから、夕貴は一呼吸おいて、今度は力任せに荒々しく扉を殴りつけた。ただの暴力。ただの八つ当たり。皮膚が裂けて血が滴り落ちた。どうでもいい。苛ついていた。


 聳え立つ氷の扉に手をついて、崩れそうになる身体を支える。こつん、と頭をぶつけた。


 触れたてのひらが、ひたいが、張り裂けそうなほどに冷たい。このまま身を引けば、皮膚がそのまま剥がれてしまうかもしれない。


 でもそんなことはどうでもよかった。


「この、バカが」


 たった一人の女の子さえ満足に守ってあげられない。何もできない自分の弱さに、夕貴の胸は悔しさで締め付けられた。


「なんで」


 なんでだよ。なにしてんだよ俺は。彩が見てる。かわいそうだ。助けてやりたい。守ってやりたい。大丈夫だって言ってやりたい。ずっと笑っていてほしい。そうしなければならない。どんなに無理でも諦めることだけはしたくない。


 ああ、そうだ。何も難しいことじゃないだろうが。


 彩を助けてあげたい。


 せめてとなりにいる人ぐらいには笑っていてほしい。


 そう思える自分でありたいと、子供の頃からずっと願ってきたから。


 そのとき、どくん、と確かな鼓動が響いた。


 心臓の音。滾る血流。細胞という細胞が熱く燃えるようだ。白く凍った視界に重なるようにして黄昏の景色が入り乱れる。見たこともない少女が祈りを捧げる姿。組み合わせた手の人差し指に輝くのは、精緻な紋様が刻まれた銀の指輪。


 それは気が遠くなるぐらい昔の光景で、悠久の時の果てに忘れられた約束だった。


 どこかから耳鳴りが聞こえてくる。痛みはなかった。不安にも思わない。夕貴は意外なほど静かな心境で、その懐かしいハウリングに身を委ねた。


 視界が暗転する。情報という情報が奔流してくる。映像が切り替わって、萩原夕貴という人間の奥底にある原初の景色を垣間見せる。











 悪魔と天空の精霊。


 善悪双方の使役。


 神霊を勧請する祈りの唄。


 黄昏の世界を貴ぶ、いと小さき少女。


 そこは黎明を迎えたばかりの古き神殿。


 台座に安置されているのは四大の法典。


 向かい合う、二つの人影。


 白の法衣を身にまとった美しい少女は、知恵と万象を司る。


 黒の法衣を身にまとう蒙昧なる詩人は、予言の成就に嗤う。


 二人の唇が同時に言葉を刻む。


 一人は祈りながら、一人は嘲りながら。


 それは人が願うにはあまりにも大それた祈りだったから。


『──だから』











 次の瞬間、白い極光が世界を満たした。白亜に染まり切った視界の中で、夕貴は、たったいま触れている扉の氷に、一筋の亀裂が入ったのを見た。それは少しずつ大きくなり、ひび割れ、やがて粉々に砕け散った。


 雪解けした扉を起点として、空間を覆っていた異常なまでの冷気が少しずつ消えていき、歪んでいた物理法則はあるがままの姿を取り戻す。


 始まりと終わりを意味する絶対零度の理は、それを上回る権能によって否定された。


「は?」


 知らず、間抜けな声が口からこぼれる。それは死すら危惧させる極寒の世界が、あまりにも呆気なく消失したことに対する疑問ではなかった。


 たったいま、俺は、なにかとても大事なものを見たような。


「……いや」


 考えている場合ではない。いつまた氷に閉ざされるか知れないのだ。夕貴はドアノブに手をかけて、ゆっくりと開いた。外ではまだ大雨が降っている。ざあざあと変わりなく降り続ける雨のなかに、いつもと同じ日常を見た気がして、一抹の安堵を覚えた。


 夕貴は彩の手を引いて外に出ると、古く錆びついた非常階段を下りていく。何が起きているかもわからぬまま、夕貴はただ彩の手だけは決して離さず、ふたたび駆けだした。


 とりあえず暖を取らなければならない。このままでは風邪どころか、冗談抜きで命を落としかねない。夕貴も彩も、あの無慈悲な氷によってずいぶんと体温を奪われた。打ち付ける雨さえ温かく、ぬるいシャワーのように感じるほどに。


 濡れ鼠になりながら、とぼとぼと通りを歩く。どこに向かえばいいかわからなかった。目に見える範囲には手頃な店なんてないし、あったとしてもこんなずぶぬれになった二人を快く受け入れてくれるとは思えなかった。夕貴の家も、彩の家も、ここからでは遠い。


 夕貴の頭上にネオンが瞬いた。一件の寂れたラブホテル。一瞬だけ思慮したが、夕貴はすぐに歩き出した。


 しかし、彩の手が、夕貴を引き留める。


「……寒い」

「わかってる。だから早くどこかに」

「寒いよ」


 彩は立ち止まって繰り返す。確かに身を隠すには最適だし、体調や身だしなみも満足に整えられるだろう。それはこの上ない隠れ家だった。二人が年頃の若い男女である、という要素を除けば。


「……夕貴くん」


 彩は、目を合わせようとはしなかった。


「はやく、入ろ? わたし、寒いよ……」


 考えている時間も惜しいのは確かだ。何の役にも立たない上品なモラルは捨てるべきだろう。いまは彩の体調と、二人の身の安全を確保することが最優先なのだから。


 何かに縋りつくように服のすそを掴む彼女の手が、少しだけ気になった。





 次回 1-10『相思相哀』



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