1-11 『あなたに微笑む』②
夕貴は見誤っていた。ナベリウスという女が、いったいどれほど衆目を集める存在なのかということを。
平日の昼下がり、大学から帰宅した夕貴は、以前に希望されていた通りナベリウスと一緒に街に繰り出していた。そして一分後には、それが致命的な過ちであったと思い知らされた。
べつだん派手な服装をしているわけではない。黒のキャップ、青のハイネックノースリーブ、白のスキニーパンツ。ちなみにキャップは夕貴の所持品だった。家を出る前に、銀髪が目立つからこれでも被ってろ、と無理やり乗せたものである。
だがそんなものは全て無駄だった。
荘厳なる冬を連想させる銀色の髪は、ちんけな帽子ごときで隠せるものではなかった。歩くたびに、振り向くたびに、背中まで伸びた髪が舞って、道行く人が目を瞠って足を止める。続いて、その持ち主が人並み外れた美貌であることを知って見惚れる。
どこぞの海外スターがお忍びで買い物でもしていると思ったのか、ちょっとした人だかりまで出来ているような気がしなくもないほどだ。
だったら俺は、冴えないマネージャーその一にでもなるのか?
自分がいまどういうふうに見られているのか想像してみて、夕貴は辟易とした。
「次はあそこ行ってみましょうよ」
「……あそこ行ったら帰るか?」
「いやよ。まだ行きたいところいっぱいあるし。夕貴とだったらどこでもいいけど」
「どこでもよくないからさりげなくホテルをチラチラ見るのはやめろ」
「そうね。どうせわたしたち、一つ屋根の下で暮らしてるしね。帰ってからのほうが声を気にしなくて済むから……」
「ホテルの隣室に聞こえるぐらいっておまえどんだけやばいんだよ」
「街中でそういうこと聞くのやめてくれない? セクシュアルハラスメントっていうのよ、それ」
「じゃあもう家に帰ってからでいいから街中で変なこと言うな」
「……やる気満々って感じね」
「お前がな!」
喉が渇いたとか言い出した自称悪魔のために夕貴はジュースを買いに行った。駅前広場に出ているワゴン販売車。春の果物をふんだんに使ったそれは季節ぴったりの桜色になるのが売りの一つだと、大学生ぐらいの売り子のお姉さんに教えてもらった。
両手にドリンクを持って戻ると、ナベリウスは広場のベンチに腰かけて空を見上げていた。
「ねえ、夕貴」
彼女は礼の代わりに微笑を浮かべると、もう一度、どこまでも澄み渡る蒼穹を見つめて言った。
「どうして空は青いと思う?」
無駄に哲学的な質問だった。とうとうこいつバグったのかと思ったが、夕貴はストローを吸いながら当たり障りのない返答をすることにした。
「青いからに決まってんだろ。それとも波長がどうのうこうのってややこしい話がしたいのか?」
「夕貴にはそう見えてるのね」
「じゃあおまえはどう見えてるんだよ」
「いまは青い色に見える」
「すげぇ生産性のない話をしている気がするのは俺だけか?」
「でも、違う色に見えるときがある。同じ色に見えても、この空はわたしが初めて見て、最後に見る青色なのかもしれない」
夕貴の怪訝な視線に気付いた彼女は、そこでようやく脈絡のない唐突な話を切り出した自分を顧みたらしく、柄にもなく申し訳なさそうな顔をした。
「昔ね、親友に同じことを訊かれたのよ。だから、夕貴はどう思っているのかなって訊いてみただけ」
「その親友に言っとけよ。詩人志望ならやめとけってな」
「そうね。夕貴から言っといてくれる?」
「会わせる気満々かよ……」
この女の知り合いが、果たしてまともな人間なのかどうか甚だ疑問だった。いや、その知り合いの中に、見ず知らずの女を同居させる夕貴という男もいることを踏まえると、やはりまともな人間である確率は限りなく低いかもしれない。
「それで、おまえ何が欲しいんだよ。日用品が足りてないとか言ってただろ」
「欲しいものはね、もう手に入ってるのよ」
「俺とか言いだしたらマジぶっとはすぞ」
「あーあ、なんてつれないご主人様なんだろうなー」
「声がでけえよ。誤解されたらどうするんだ」
「誤解もなにも、わたしは夕貴の奴隷なんだからしょうがないじゃない。心も身体も、ね」
「こんな言うこと聞かない奴隷がいてたまるか。頼むから黙ってろ」
「声を押し殺してるほうが燃えるタイプ? でもそれわかるかも」
「勝手にわかるな! うーん、でも確かにちょっとわかるけど!」
「声がでかいわよ。誤解されたらどうするの?」
「だからお前がな!」
ついさっきよりも明らかに周囲からの視線が痛いのは気のせいではあるまい。
「そうね。欲しいものはいっぱいあるけど、いまはなくてもいいわ」
「おまえなぁ。わざわざ出かけて……」
大仰に溜息をついて、夕貴はナベリウスを見た。そして、言葉に詰まった。青空だけをいっぱいに閉じ込めた白銀の瞳。小さな唇で、小鳥みたいな慎ましさでストローに口をつける仕草。風に乗って流れてくる、恐らく本人にも自覚のない鼻唄。
欲しいものはいっぱいあるけど、いまはなくてもいい。
そう言った彼女の言葉は、口から出まかせではなく、紛れもない真実なのだと、その満ち足りた佇まいが物語っていた。
ほんとこいつは何なんだろうな、と夕貴は思う。
相変わらず目的は不明。正確には『目的は夕貴』とか言っているがそれは信じていないのでやっぱり不明。どこから来たのかも、これからどこに行く気なのかもさっぱりわからない。
しかし、いつまでも問題を先送りすることもできない。そろそろ彼女とも真剣に向き合って話をするべきなのかもしれない。
「今度の日曜日、みんなで花見するんでしょう?」
思ってもみなかった話題の種に夕貴は眉をひそめた。もしかしてナベリウスも来たかったりするのだろうか。そういえばいつも花を見ている気がするし。
「それが終わって、夕貴が帰ってきたら、話をしましょう」
「急にどうした。とうとう電波塔がぶっ壊れて罪悪感に目覚めてくれたか?」
「ひとつだけ、あなたに足りないものを教えてあげるわ」
夕貴の煽りにも取り合わず、ナベリウスは人差し指を立てた。
「女を見る目よ」
「……よくわかってるじゃねえか」
「自覚あったんだ」
「自覚すんのは俺じゃなくておまえのほうだけどな」
どういう心境の変化があったのかは知らないが、ひとまず悪くない傾向だと夕貴は考えることにした。この女とも近いうちにお別れできるかもしれない。そう思うと、少しは優しくなれるというものだ。慈悲の心である。
「……まあ、どうせここまで来たんだ。なんか一個だけ欲しいもん買ってやる」
「ほんと? やった」
「ただし日用品限定でな」
「じゃあシャンプー。もちろん夕貴が好きなの選んでいいから」
「わかった。適当に安いやつ選んでやる」
「それで興奮できるなら、わたしは別にいいけどね」
「おまえの中で俺はいったいどういう人間になってんだ……」
夕貴は項垂れる。まったく身に覚えはないが、もしかして俺はよほどの変態に見えているのだろうか。ナベリウスからの評価はまあどうでもいいが、実は学校とかでもやばいやつと思われていたらショックで死ぬ自信がある。
「シャンプーのお礼として、このナベリウスちゃんもお返ししてあげましょう」
「お? やっと出てってくれる気になったのか?」
「もし夕貴がピンチになったら、そのときはわたしが助けてあげるわ」
「……はいはい」
「まあずっと助けてあげるんだけどね。それがわたしの役割なんだし。使命なんだし」
「いますぐ助けてほしい……」
「え? 敵どこ?」
「もうぜったい役に立たねえだろ、このボディーガード」
常に理性を崩壊させる危機を夕貴に与えているという意味では、目下のところ一番の敵といっても過言ではない。ぶっちゃけ襲っていないのは正真正銘の奇跡である。危ないことは何回かあった。
「はい、約束。こういうとき、人間はこうするんでしょう?」
ナベリウスは小指を差し出す。常識は知らないくせに指切りは知っているらしい。急に立ち止まってそんなことをする彼女に、やたらと周囲の視線が集まっている。ちょっと上半身を前傾させて微笑むだけで絵になるとか凄い。
この場から逃げ出したい一心で、夕貴はげんなりとしながら指を絡めた。
「……はい、これでいいか?」
「ええ、だいじょうぶ。まあこんなことしなくても約束はすでに交わされているんだけど」
「じゃあ意味ないじゃねえか」
「あったわよ。夕貴に触れられたじゃない。わたしにとってご褒美だもの」
「…………」
「あ、照れてる」
「照れてねえよ!」
「このまま小指だけ繋いで歩いたりとかしちゃう?」
「しちゃわねえよ!」
どこに行っても注目を浴びながら、夕貴はナベリウスと日が暮れるまで街をそぞろ歩いた。赤い斜陽に照らされる銀髪は、日本の風景において燃える雪のごとく幻想的な取り合わせだった。とっくの昔に観念していた夕貴は、突き刺さる奇異の視線を無視しながら、長く伸びる影を追う。
「どうした?」
ふいにナベリウスが立ち止まる。そして、雑多に行き交う人混みを見つめていた。
「いえ、なんでもないわ」
何事もなかったかのようにナベリウスは歩き出す。彼女が背を向けた方向を見ても、そこにはただ、いつもと変わらない人の流れがあるだけだった。
夕貴は一歩を踏み出す。この道がどこに続いているのかはまだわからない。それでも足を止めることはしたくなかった。
花見の日に、彩とは話をするつもりだ。話をすると決めているだけで、具体的にどんな話題を持ち出せばいいのか見当もついていない。
でも彩と向き合うと、そう決めた。
また泣いている顔を見るかもしれないと思うと怖くなる。でもそれ以上に、もう泣かせたくないと強く思うのだ。
夕貴は決意を新たにして、夕陽に溶けていくナベリウスのあとを追った。
それを見かけたのは偶然だった。
多くの人で混雑する街は、しかし何もかもが色褪せて映る。いつも鮮やかに色付いていたはずの桜でさえ、掠れた風景画の中の一枚のように色彩を失っている。一年前からずっとそうだった。
でもいま彩の視線の先には一人の少年がいて、彼だけは暖かな色を帯びている。そこから柔らかな色彩が溢れて、灰色だった世界が少しずつ過日の意味を取り戻していく。
少年のすぐそばに咲いている街路樹の桜は、心が震えるぐらい美しかった。
とくん、と心臓が跳ねる。
不思議だった。どうして彼の姿を見ただけでこんなに胸が疼くのだろう。ああ、そうか。きっと目も当てられない別れ方をしてしまったから意識しているのだ。たんに顔を合わせるのが恥ずかしいのだ。
でもだめだ、と彩は思う。
もう彼と話すことなんてない。話してはいけない。これ以上、彼と一緒にいたら、今度こそ耐えられなくなる。
ほんとうの自分を知ってほしくてたまらない。わたしはみんなが思ってるような行儀のいい女の子じゃない。もっとわがままで、甘えたがりで、どうしようもないぐらい自分勝手な人間だ。誕生日プレゼントをねだってみたり、クリスマスには家族みんなでお食事したり、そんなことを願ってしまうような悪い子なんだ。
彼なら受け入れてくれるかもしれないと思う。でも彼にだけは知られたくないという気持ちのほうが強い。あとちょっとでも踏み込まれてしまったら、きっと彩は我慢できなくなって、これまで必死に一人で抱えてきたものを曝け出してしまうだろう。
あの少年には、暖かな日溜まりがよく似合う。血に濡れた過去なんて必要ない。遠くから見ているだけでも満足だ。それだけで彩の心は、ほんの少しだけ救われた気持ちになる。
だから彩は、未練を断ち切るように踵を返して、次の瞬間、それを見て凍り付いた。
「……あ」
少年のとなりに寄り添うのは、長い髪を腰まで伸ばした女性だった。遠目にもわかる美貌。だれもが羨むような女らしく洗練されたシルエット。そしてなにより、他が霞むほどの圧倒的な色彩を湛える銀の髪と双眸。
笑っている。とても楽しそうに。
彩が最後に見た彼の顔は、辛そうで、苦しそうで、見ているこっちがまた泣きたくなるほど痛ましいものだった。思えば、彼の笑顔を目にしたのはいつのことだろう。もうずいぶんと笑っている顔を見ていない気がする。
もう覚えていないけれど、彩に向けられていた微笑みは、あんなふうに満ち足りたものだっただろうか。
やっぱり彩と一緒にいないほうが、彼は幸せなのかもしれない。少なくとも、もう余計な傷を負うことはなくなるだろう。
――だったらわたしは、なぜ花見に行くと約束したのか。
「桜が見たかったから」
――心の底では、こんな自分を甘えさせてくれる人を求めているのではないか?
「きれいな桜を、もう一度だけ見たかったから。それだけだから」
――またおまえが救いを求めるせいで、大切な人が傷つくかもしれないのに?
違う、と否定する言葉は出なかった。いつしか彩は、埃と排ガスで汚れたビルの壁に寄り掛かるようにして足を止めていた。こうしていなければ倒れてしまいそうだった。
よろよろと歩く。家に帰る気は起こらず、いつかの非常階段に腰かけた。携帯を取り出して、少年にもらったキーホルダーを見る。ぴん、と指ではじいてみると、可愛らしくデフォルメされたヒーローは慌てたように空を飛び始めた。ほんのりと頬が緩む。
電話が鳴ったのは、そのときだ。
つい確認もせずに出てしまったのは、きっとだれかの声を聞きたかったから。街の喧騒ではなく、ほかでもない自分に語りかけてくれる声を聞きたかったから。
「……もしもし?」
相手は何も言わなかった。怪訝に思って確かめてみると、発信先は公衆電話からだった。さすがに不信感が募る。いまどき公衆電話を使うなんて、よほどの緊急事態か、後ろめたいことがあるかのどちらかだろう。つまり第一声がない時点で、あまり歓迎できる類の電話ではない。
「あの、どなたですか?」
それでも通話を切らなかったのは、ある種の予感があったからかもしれない。スピーカーからは微かに相手の息遣いが聞こえている。そこに何かを言おうとして躊躇っているような気配を感じて、彩のなかにあった予感が漠然としたものから確信に変わりつつあった。
それを確かめるのはなんら難しいことではなかった。
ただ、花の名を紡ぐだけだ。
「咲良ちゃん?」
『――っ』
「咲良ちゃん、なの? ねえ、そうでしょう?」
息を飲む気配のあと、電話は切れた。一瞬のことで判然としないが、確かにそれは女性の吐息だったと思う。
彩の連絡先を知っている人間はそう多くない。交友関係は広く浅くが基本だから、日常的にメールや電話をする女子もほとんどいない。
わざわざ公衆電話からかけてきたのに何も話すことなく、彩の声を聞いた瞬間にたまらず電話を切るような相手。
一人だけ心当たりがあった。一人だけしか心当たりがなかった。
どくん、どくん、と痛いぐらい心臓が脈打つ。さきほど街中で少年を見かけたとき以上の動悸が彩を襲っていた。
いる。
間違いなく、咲良はいるのだ。
希望でも可能性でもなく、ただの事実として彩は了解した。
電話ボックスから出たところで、少女は首を傾げた。
「あれ?」
わたし、なにしてたんだろ。
うまく思い出せない。今日は――そうだ、高校が終わったあと友達と遊びに出かけて、ついさっき駅前で別れたところまでは覚えている。でもそこから何の間違いでこんな寂れた電話ボックスに避難していたのかがわからない。
疲れてるのかな。今年は受験も控えているから予備校に通うことになってて憂鬱だし、そのおかげでママは成績にうるさいし、パパは相変わらず放任主義だし。
ま、いっか。考えるだけ時間の無駄。おなかも減ったし、早く家に帰ってごはんを食べよう。
楽天的に考えて歩き出した少女は、ふいに背後から大きな声で呼び止められた。
「待って! 待ってくれ!」
念のためあたりを見渡してみたが、待ってくれと言われそうな人は自分しかいなかったので、少女は振り返った。眼鏡をかけた理知的な風貌の男性が少し遠くからこちらに駆け寄ってくる。二十歳過ぎだろうか。線は細いが、顔立ちは整っていて、正直ちょっとタイプだ。
わわっ、ナンパ? ナンパ?
内心ではドキドキしながら表面上は平静を取り繕っていると、息を切らしていた男性は、少女のことを熱っぽい目でじっと見つめてくる。
「え、えっと……」
自慢ではないが身持ちは固いほうだ。恋に憧れはあるけど、惚れっぽい方ではなくて、むしろなかなか好きな人ができないのが小さな悩みでもある。
それなのに、どうしてだろう。この人を見ていると、胸がきゅんとする。息ができなくなりそう。心が苦しくてたまらない。
「……その、ごめん。きみが僕の知ってる人と、とても似ているように見えたから」
男性は申し訳なさそうに目を伏せた。これもまた巧妙なナンパの手口のひとつかと思ったが、違う、彼がそんなことをする人でないことを少女はよく知っている。
ふっ、と儚げな笑みを浮かべて、少女はかぶりを振った。
「いいえ。大丈夫ですよ。間違いはだれにだってありますから」
「ほんと、ごめん。そう言ってもらえると、すごく助かる」
男性は頬をかいた。子供のころからまったく変わっていない仕草に思わず噴き出しそうになる。
「だれを探していたんですか? とても必死そうに見えましたけど」
「……ちょっと遠くにいっちゃった人がいてね。聞いたら笑うと思うけど」
彼は教えてくれた。もう一年以上も前にこの街を離れた少女がいて、それを彼の妹が偶然にも見かけたらしく、その日からいてもたってもいられず時間を見つけては探し回っているのだと。
涙がこぼれそうになった。
「大切な人、だったんですか? お兄さんにとって」
男性は迷うことなく頷いた。
「そうだね。きっと大切な人だった。気付くのが遅れてしまったけど」
「妹さんとどっちが好きなんですか?」
「え? どういう意味の質問?」
「その判断はお兄さんに任せます。聞かせてください」
「そんなこと言われても、妹とは比べられないっていうか、また種類が違うっていうか」
「……ちっ、うっさいな。空気読みなさいよ。こういうときはだいたい決まってんでしょうが」
「ん?」
「ああいえ、なんでもありません」
ただの世間話のようなものだった。劇的な出逢いでもない。きっと数日後にはお互いの記憶にも残っていないだろう。
それでよかった。
風が吹いて、二人の間を薄桃色の花びらがそよいだ。なんとなく彼が見上げた先には、ひっそりと上品に蕾をつける桜がある。
「それは山桜ですね」
少女は語る。ちょっと得意気に。
「葉っぱと同時に花が咲くことでも有名です。三月下旬ぐらいから見られるようになりますし、日本では一般的な桜のひとつでもありますね。それこそ和歌なんかでもよく詠まれていたりするぐらいに」
「へえ、よく知ってるね」
「それはもう。わたしの名前の由来にもなった花ですから」
片目をつむって、いたずらげに言うその仕草。
感心に頬を緩めていた青年の目が、そのとき、だれかの面影を見出したかのように見開かれた。
「やっぱりきみは……」
「はい? なんでしょう?」
「……いや、なんでもない。気のせいだったみたいだ。忘れてほしい」
どうかしてるな、僕も――そう小さく言葉を足した青年は、複雑そうな面持ちでもう一度だけ桜を見上げた。
「あと、山桜の特徴は、そうですね。寿命が短いことぐらいかな?」
少女は寂しげに微笑んだ。
「ちなみに花言葉は――」
大きなトラックが公道を走り抜けていく。少女の声は、その轟音にかき消された。
「あ、ごめん。聞こえなかったんだけど」
「じゃあ仕方ないですね。二度言うのもあれなんで、あとはググってください」
「ググるって……まあいいけど」
二人して笑う。
そして、別れの時はすぐに訪れた。
「嬉しかったと思いますよ。そうやってお兄さんが探してくれてたこと。その女の子、きっと喜んでます」
「……ありがとう。きみにそう言ってもらえると、なんだかそんな気がしてくるよ」
じゃあ、と手を上げて彼は去っていく。
「ありがとう、か。こっちの台詞なのにね」
その背中に向けて、少女は小さな声で呟いた。
「……ばいばい」
ひときわ強い風が吹いて、少女の髪を巻き上げる。ぼんやりしていると顔に桜の花びらがぺちぺちと当たった。
「わぷっ! な、なに!? って、あれ? わたしの王子様は? 運命の出会いは?」
我に返った少女は、水に濡れた子犬のように身震いして頭に乗った桜を落とした。ぜんぶ夢だったのだろうか。自覚していないだけで実はびっくりするぐらい恋に飢えてたりするのだろうか。
「……あ」
頬に冷たい感触。いつの間にか、涙が伝っていた。
「ん、変なの」
もういいや。溜息をついて少女は帰路についた。
これまでの人生で、なぜか桜がもっとも美しく見えた日のことだった。
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