1-8 『初デート』①


 とある少年の思い出を語ろう。


 彼の最初の願いは単純なものだった。母親には幸せになって欲しい、絶対にそうしてみせると、まだ幼い自分に決意した。


 人並み以上に母を大切に想うのはそれなりの理由がある。彼は父親を知らなかった。


 二人きりの家族。助けてくれる人もいない。女手一つで子供を育てるのは、幼いながらに相当な苦労なのだと少年は理解していた。どんなときでも呆れるぐらい笑っている暢気な人だったけれど、それは母としての強さと優しさに起因するもので、決して生活が楽というわけではないことも彼は知っていた。


 そんな母を、少年は一度だけ泣かせてしまったことがある。


 両手を引かれて歩いていく友達たち。夕焼けに並ぶ三つの影を遠くから眺める。別に羨ましくなんてなかったし、母が手を繋いでくれるならそれでよかった。でもあるとき、ふいに疑問に思ってしまったのだ。


 どうして自分には父親がいないのか。


 そう問いかけて、少年は後悔した。困ったような、悲しそうな、申し訳なさそうな顔で、ただ一言。


 ごめんね。


 違うのだ。責めているわけでも謝ってほしいわけでもない。ほんとうにただ、ちょっと気になったから訊いてみただけ。だからそんな顔をしないでほしかった。させてはいけなかった。


 その夜、少年を寝かしつけてから――いや、正確には寝かしつけたと思ってから、一人でこっそりと涙する面影を、よく憶えている。


 少年は悔やんだ。幸せにすると誓ったはずの母親を、そんなふうに泣かせてしまった自分を恥じた。もっと強くなりたいと、早く大人になりたいと思った。


 ――おれ、ぜったいに母さんのこと守ってあげるんだ。


 いつだったか、夕暮れの帰り道で手を引かれながら、少年は宣言した。まだ舌足らずの誓いは幼く、けれど無垢であるがゆえに心のかたちは絶対で。


 母は目を丸くして驚いたあと、ゆっくりと手を離した。また何か余計なことを言って悲しませてしまったのかと思い、不安と後悔に苛まれて少年は歩みを止めた。でも口にした言葉に嘘はなかったから、てのひらが寂しくなったあとも、その眼差しだけは揺らぐことなくまっすぐだった。


 拳をぎゅっと握りしめる少年の前にしゃがみこみ、しっかりと目線を合わせて、母親は小さく笑みを落とした。


 ――守る、か。守る。うん。楽しみにしてる。


 ぐりぐりと、いつもとは違って少し乱暴に頭を撫でられた。白い手は震えていて、少年を見つめる二つの瞳はなぜか濡れていて、だから力加減がうまくできないのだと知った。なんだろう。どうして笑っているのに辛そうなんだろう。母は目尻を拭いながら微笑む。そうか、きっとあんまりにも世間知らずな子供の言い分に笑いが堪えきれなくなったのだ。


 少年はむっとして、言葉を続けた。


 ――うそじゃないぞ。おれ、ぜったいに母さんのこと守るんだ。


 母は、哀しみにそっと寄り添う竜胆の花のように、少年の小さな身体を抱きしめた。


 ――わかってるよ。ママのこと、守ってくれるんだよね。


 ――ママじゃない。母さんだ。もうおれも子供じゃないんだからな。


 ――そっかぁ。それはそれで母さん、ちょっと寂しいなぁ。


 ママって呼ばれるのは子供の頃からの夢だったんだけどね、と呟いた。


 ――でもそうだね。もう立派な男の子だもんね。だから。


 沈んでいく夕陽を眺めながら、母は遠い過去を懐かしむような憂い横顔で、少年に新たな決意を付け足した。


 ――もし困ってる女の子がいたら、ちゃんと優しくしてあげてね。


 いちいち言われるまでもなかった。そんなの当たり前である。もうすでに一度、少年は自分の力では止められない涙の重さを知っているのだから。


 ――わたしもね、ずっと昔、困ってるときに優しくしてもらったんだよ。


 子供の頃に蓋をした大切な宝箱を開くような、ちょっといたずらっぽい笑み。


 ――やさしくって、だれに?


 ――さあて、だれかなぁ。ヒントは、いまのあなたによく似た、だれかさん。


 くすくすと少女のごとき微笑み。それを美しいと感じた。笑顔でいてくれる母を。だれかに救われて嬉しかったと話す横顔を。だから守りたい。守ってあげたいって。


 ――よくわかんないけど、だいじょうぶだよ。


 この気持ちに嘘はつきたくなかった。だから少年は、ありのままの自分でいることを望む。


 ――わるいやつがいたら、おれがやっつける。泣いてる子がいたら守ってあげる。


 ようするに、これはそういうことだと思ったから。


 ――だから母さんは、心配しなくていいんだ。

 

 母は静かに息を呑んだ。透き通るような虹彩を細めて、じっと少年のかんばせを観察する。だれの面影を見出したのだろう。見つめる瞳は積年の愛おしさで溢れていた。


 ――うん。だいじょうぶ。心配なんてしてないよ。


 まだ何も知らない少年に向けて、母は語る。


 ――もっと時間が経って、大人になって、いろんなことを知って。


 そっと心に染み入る、暖かな声だった。


 ――ほんとうに悪いと思ったものがあれば、ちゃんとあなたの眼で見てあげてね。大切なものを、その眼で守ってあげるために。


 母の話は色々と難しくて、世界が優しさだけに満ちていると思っていた頃の少年は、全てを理解したわけではなかったけれど。


 ――とうぜんだろ。おれは母さんの血を引いた、むすこってやつなんだから。


 ずっと笑っていたいから。ずっと笑っていてほしいから。そう答えるのが正しいのだと思った。


 まだうら若い母親はゆっくりと噛みしめるように目を閉じて聞いていた。そんなにちゃんと受け止められるとは思っていなくて少年は恥ずかしくなった。でも何も間違ったことは口にしていないと、小さな胸を張った。


 ――だからさ、おれは。


 誓いの言葉は、母親を想って口にしたもの。でも少年は、自分に向けて紡いだ。


 美しいと感じたから。笑顔でいてくれる母を。だれかに救われて嬉しかったと話す横顔を。


 そして。


 こんな胸いっぱいの気持ちを未来の母子に届けてくれた、自分によく似ているというだれかの生き方を。


 ――どんなことがあっても、最後まで――


 いつの日か、どこかで困っている誰かがいて、自分が救いの手を差し伸べて。


 いつの日か、そのときの思い出を、こんなふうに優しく語ってくれるなら。


 それはきっと、とても誇らしいことだろうと思ったのだ。


 これが少年の原点。大切な決意。色褪せることのない始まりの自分。夕焼けを見るたびに思い出す。


 寄り添うぬくもりは温かく。少年の背丈はまだ低く。同じ景色を見るには何もかも足りず。目線を並べるためにはジャンプしても届きそうになく。


 せめて影の長さだけでも並べたくて。大人と子供の歩幅は遠くて、すぐに二つの陰影はあべこべに戻る。少年は頬を膨らませて足早になり、それを見つめる瞳は百合のように真っ白。


 どんなに歩く速度が違っても、夕陽に溶けていく親子はとてもよく似た笑顔。


 握りしめた母の手は小さく、子供の彼とあまり変わらない。だからもう家に帰るまで離さないと勝手に決める。


 それは向こうも同じだったのか。指先に力を込めると、まったく同じタイミングで、てのひらが深く重なり合う。


 そんな懐かしい日々があった。






 日曜日の午前十一時頃、夕貴は、彩との待ち合わせ場所である駅前広場に到着した。


 雲一つない青空と、燦々と降りそそぐ陽光。街路樹の桜は今が盛りとばかりに薄桃色を咲かせて、吹き抜ける風に春の風情を匂わせている。まさに若い男女が逢瀬を重ねるには申し分ない、見事なまでのデート日和だった。


 広場の中央には大きなモニュメントが聳え立っている。どんな人混みでも苦もなく辿り着けることから、市民の間では絶好の待ち合わせスポットとして親しまれている。


 一つ問題があるとすれば、明らかに恋人を待っていると思しき若者で溢れかえっていることだが、夕貴は意識しないことにした。


 まだ彩は来ていなかった。時計を見ると、約束の時間より五分早い。いつもより遅く感じる時の流れにもどかしさを覚えながら待っていると、予定から三分ほど過ぎたころに待ち人は現れた。


「夕貴くんっ!」


 彩の声がして、夕貴は振り向いた。


「ごめん、遅れちゃって!」

「ああ、ぜんぜん大丈夫。俺もいま……」


 彩を見た瞬間、夕貴は用意していたはずの言葉を忘れた。


 まず目を惹かれたのは、上品な布地で編まれた純白のワンピース。その上に、薄手のグレーのカーディガンを羽織っている。飾り気のないシンプルな装いは、彩の黒髪とよく似合っていた。


 細い革製のベルトで腰がゆるく締められており、その分だけ豊かな胸元が隆起していた。普段はゆったりとした服装に隠れているだけで、もともと女性としての魅力には恵まれた肢体をしているのだろう。膝丈のスカートからは白く細い脚が覗いていて、柔らかそうなふくらはぎが眩しかった。


「ごめんなさい。ちょっと準備に時間かかっちゃって……」

「……いや、俺もいま来たとこだし。ていうかほとんど時間ちょうどだったから謝る必要なんて」


 呆然と応えながら、夕貴は内心で驚いていた。ここ最近、彩と顔を合わせる機会は多かった。もともと端正な容姿をしているのは知っていたが、その性格や佇まいから、強く人目を惹く派手さではなかった。


 どちらかといえば野に咲く花のような可憐さで、見る人を楽しませるが、だれもが足を止めて見入る類のものではない、はずだった。


 しかし、いま夕貴の目の前に立つ彩は、思わず目を奪われてしまうほどに綺麗だった。化粧に時間をかけたのか、髪をよく梳かしたのか、とにかく理由はわからないが、いつもより美しく感じられた。


 夕貴だけではなく、あたりにいる男も物珍しそうに彩を見つめている。向かい合っているだけで軽く緊張して、夕貴は呼吸さえ滞らせるありさまだった。


「ほんとに? それならよかった。もし夕貴くんに待ってもらってたらって……あの、どうかした?」


 不思議そうに、ちょっと心配そうに彩は首を傾げる。艶やかなセミロングの黒髪がふわりと舞う。香水の類はまったく身に着けていないらしく、シャンプーの甘い匂いと、柔軟剤のいい香りがした。


 まっすぐに見つめてくる瞳から目を逸らして、夕貴は平静を装いながら口を開いた。


「どうもしてないって。マジでいま来たばかりだから。ちょうどよかった」

「あ、そうなんだ。じゃあ、うん、ちょうどよかった、ね」


 言葉を交わして、照れくさそうに俯く。それからしばらく互いの出方を伺う妙な間ができたが、こういうとき、リードするのは男の役目だと夕貴は弁えているつもりだった。


 夜桜の美しい公園で、彩と話したのはもう何日前のことだっただろうか。楽しい記憶ではないので思い出したくはない。もしかしたら今日は、あのときの余韻を引きずってぎこちない空気になるかもしれないと覚悟していた。


 けれど、春の陽気に当てられたのか、夕貴も彩も今日という日を楽しみにしていたのか。


 二人とも表情は明るかった。


 あるいは今この時だけは、全てを忘れようとしているのかもしれない。


「じゃあ行くか。人多いから、気をつけてな」


 ぎこちなく促す。初々しくて、慣れていなくて、だからこそほんとうの気持ちだった。


「うん。いこう、夕貴くん」


 ふたりは揃って歩き出す。


「まずはどこかでお昼食べようか。彩、なにか食べたいものとかある? ちなみに俺はけっこう腹減ってるかも」

「わたしも朝から何も食べてないからおなか減ってるよ。だから、夕貴くんの好きなお店に入ってもいいけど……逆にこういうの困っちゃうかな?」

「そうだなぁ。実は俺、ランチの店とかは何も決めてないんだよな。彩と一緒に選びたいって思ってたから」


 本心だった。初めて遊ぶことになった今日一日は、彩と共に予定を決めていきたかった。小難しく考えて、堅苦しく構えるよりは、いつもの自然体で過ごしたかったのである。ベッドの中で徹夜するぐらい考えた挙句に導き出したプランがそれだった。


 予定を未定にするという、極めし者だけが持ちそうな奥義を、一周回って夕貴は習得していた。


 彩は優しく微笑む。


「そういうの、すごく夕貴くんらしいね」

「わ、悪かったな。計画性のない男で」

「そんなことないよ。わたしもそうやって一緒に考えたほうが楽しいから。それに逆じゃない?」

「逆?」

「だから、ね」


 彩は歩きながら空を見上げた。軽やかに踏み出す脚。よく見ると右の足首にはアンクレットをつけていて、それがやけに色っぽい。


「今日のことちゃんと考えてくれてたから、なにも考えてくれてないんでしょう?」

「どういう意味だよ」

「そうだねぇ。こういう話も楽しいねって意味、かな?」


 いつになく茶目っ気たっぷりな口調ではぐらかされる。こんな彩は初めて見たかもしれない。よほど上機嫌になっているらしい。


「あ、それとも考えてくれてたのは、わたしのことだったとか」

「はいはい、そうだな。ずっと考えてたよ。よかったな」

「あっ、ひどい! そんな適当に言わなくてもー!」

「適当なこと言い出したのは彩のほうだろ」

「そんなことないと思うけどなぁ……」


 毛先を弄りながらぼやく彩も、ぶっきらぼうに返事する夕貴も、口元に浮かんだ笑みは隠せていない。どことなく遊びのある話題が心地よかった。


「そういえば、このまえ友達から美味しいイタリアンのお店があるって教えてもらったよ。駅前からちょっと外れたとこなんだけど、お昼のランチコースがオススメなんだって」

「いいな。行ってみようぜ。あんまりそういう店いったことないから楽しみだな」

「ふふ、こういうときじゃないと、行かないよね」


 夕貴と過ごす一日を、彩も特別なものだと思ってくれているのだろうか。


 友達にしては近く、恋人にしては遠い、まだ名前のない曖昧な距離を保ったまま、夕貴と彩は同じ歩幅で歩いていった。


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