1-8 『初デート』②

 それはデートという特別な響きを忘れさせる、ありふれた一日だった。


 少しオシャレな店でランチに舌鼓を打った後、公開したばかりの流行りの映画を鑑賞。その評判に違わぬ出来に二人してテンションが上がり、カフェで感想や意見を交えながら小休止。


 ふらりと立ち寄ったショッピングモールでは、これといって店に入り散財するわけでもなく、ただショーウィンドウに並ぶ服やアクセサリーを眺めて、お互いに見合うファッションについて議論してはああではないこうではないと盛り上がった。


 こんな日が、こんな時間が、ずっと続けばいい。二人はまだ大学生だ。日本のどこにでもいる普通の大学生なのだ。たまの休みに遊びに出かけて、どうでもいいことで一喜一憂して、そんな平凡な日常を繰り返す。それは振り返ったときにかけがえのない思い出として胸を温かくする。


 通り魔殺人事件や、少女の連続自殺――そういう人間の死に関わってしまうことのほうが異常で、いまの二人こそ本来あるべき姿だろう。


 彩は楽しそうに笑っている。その笑顔に嘘はない。彩だってこんな日がずっと続けばいいと思っている。きっとそのはずなのだ。


 何度も、何度も、夕貴はそう思おうとした。


 一通り施設を見て回り、やがて午後六時を過ぎた頃、彩は一つだけ、ささやかな願いを口にした。


「夕貴くん。もしよかったら観覧車に乗ってみない?」


 ショッピングモールの最上階には、この街を代表するランドマークとして赤い大きな観覧車が設置されている。ひとたび搭乗すれば、高見から階下の景色は一望することができる。デートスポットとしては定番の一つだった。一日の締めくくりとして、夕焼けに染まる街並みを眺めるのはこれ以上ない結末だろう。


 搭乗口には少し強い風が吹いていた。係員に案内された夕貴は先にゴンドラに乗り込むと、遅れて続いた彩に手を伸ばした。彩は髪を手で押さえながら、少し照れくさそうに夕貴の手を取った。


 夕貴と彩は差し向かいの席に腰を下ろした。動き始めると意外と静かに、二人を乗せた鉄製の箱舟はゆっくりと上昇していく。


 窓の向こうには朱に染まった景観が広がっていた。たおやかな夕暮れは、太陽がゆっくりと沈んでいくと一面に広げていた燈色に青や紫のグラデーションを覗かせて、その表情をよりいっそう深くさせている。街の至るところに咲いた桜が、移ろう四季の彩りを感じさせた。


「……きれいだね」


 窓の外を見ながら彩は呟く。


「いまが一番、桜がきれいに見える時期なのかな。このままずっと咲いていたらいいのに」


 なんだか、もったいないね。そう彩は続けた。


「今度、またみんなで桜を見に行くんだろ? 確かもう来週か。花見にバーベキューって響子のやつが張り切ってるからな」

「そうだったね。楽しみ。大学に入ってから、なんだかずっと夢を見てるみたい」

「それ、響子に言ってやれよ。いまの倍は面白いこと考えるから。それに俺たちはまだ大学に入ったばかりなんだ。これからもみんなで集まる機会はいくらでもあるだろ」

「……うん、そうだね」

「あと、まあ」


 どこか寂しそうに同意する彩に、夕貴は一言だけ付け足した。彩のことをまっすぐに見つめながら。


「俺でよかったら、いつでも付き合うから」


 彩は息を飲んで、わずかに目を大きくした。そして何も言わずに、ふたたび窓のそとに視線を向ける。無言のまま二人して黄昏の景色を望む。


「……やっぱり、きれい」


 独り言を漏らす彩の姿が、いまにも夕焼けに溶けて消えてしまいそうで。


 心地よかったはずの静寂が、急に恐ろしく感じて。


 だから夕貴は語を継ぐ。頭のなかで言葉を探す。楽しい時間を続ける。続けようとする。続いてほしいと願う。


「今日は、さ。楽しかったよな。イタリアンうまかったし。作法あってるかどうかちょっと不安だったけど」

「うん」

「映画も面白かった。倉橋渚の演技すごかった。さすが日本を代表する清楚派の若手女優って感じで」

「うん」

「いろんな服を見て、アクセサリーとかもいっぱいあって、あとは……そうだ、カフェも入ったか。コーヒーがうまくて、それで」

「……うん、楽しかったよ。ほんとうに」

「それで、それで……」

「ありがとう、夕貴くん。わたしはね、それでもやっぱり」

「それで、彩の好きな異性のタイプってどんなの?」

「うん……うん? え?」

「あ」


 しまった。勢いを間違えてわけのわからないことを聞いた気がする。決然とした顔でなにか決定的なことを口にしようとした彩でさえ、ぽかん、とした表情で固まっている。


「あ、いや、その、なんていうか」


 言い訳をしてみるも、言い訳にならない。どんどん夕貴の顔に赤みが帯びる。彩はしばらく呆然といっていい空白の眼差しを夕貴に注いでいたが、やがて小さく噴き出した。


「……ぷっ、あはは」


 口元に手を当てて笑う。


「そういうところ、ほんとに夕貴くんらしいね」


 どういうところか気になったが、それを聞く勇気などあるはずもなかった。


「不器用で、一生懸命で、とてもまっすぐで……」


 唇の微かな動きだけで彩が言う。しかし残念ながら、この小さな密室では彩の声は全て筒抜けだった。夕貴は穴があったら入りたい衝動に駆られて、一人で悶々としていた。


「……せっかく今日を、最後の思い出にしようと思ってたのにな」


 だから、そんな彩の未練がましい独り言を聞き逃した。夕貴が自分の世界から帰ってきたときにはもういつも通りの彩がそこにいた。


「もしかして、気になったりしてくれるの? わたしのこと」


 今日だけで何度か見た、いたずらげな顔である。いまさら照れても恥の上塗りでしかないので、夕貴は男らしくはっきりと頷いた。


 空気をぶちこわす意味不明すぎる話題転換を決めてしまったが、年頃の男女の間では面白い話のネタの一つであるのは間違いない。こうなったらとことん風呂敷を広げよう。


「ああ。気になる。彩がどんなやつが好きなのか」

「へ?」

「教えてくれよ」

「ふ、ふーん? 知りたいんだ?」


 夕貴はもう一度頷いた。そのなんら臆面のない反応が予想とは違っていたのか、彩はたじろぐ様子を見せたが、すぐに無理やり取り澄ました顔で指を折り始めた。


「え、えっとね、頼りがいがあって、強くて、優しくて、格好よくて、いざってときにはわたしを助けてくれて、あとなにより可愛くて……」

「理想高くないか? そんなやつこの世にいるのかよ」

「わりといるんだ、ってことをね。つい最近、知っちゃったかも」

「マジか……」


 一人の男として夕貴はショックを受けた。いろいろと思うところはあったが、残念ながら最後の『可愛い』という項目だけが致命的に外れているのだ。こればかりは挽回できるものではない。


「はいっ、今度はわたしの番っ」


 彩は真剣な面持ちで手を上げる。


「夕貴くんって、どういう女の子がタイプなの?」

「俺? そうだな……」

「例えば、例えばだよ? 響子ちゃんとか、どう?」

「はあ? 響子? ないない、絶対ない。実は地球が隕石だったとかいう可能性のほうがまだある」

「どうして? だって響子ちゃん美人だし、スタイルいいし、明るくて気さくで、男の子なら放っておかないでしょう?」

「そういうのとは違うんだよあいつは」


 男が放っておかないのは、むしろ彩のほうだ。彩の容姿と性格は間違いなく男好きするだろう。


「じゃあ、夕貴くんの好きなタイプって?」

 

 まだ食い下がる。当然といえば当然だった。彩はそれなりに詳細に答えてくれたのだ。このままだと不公平だろう。


「なんだろうな。たとえば、家庭的な子とかかな? 料理ができて、優しくて、落ち着いてて」


 彩は目を閉じて、夕貴の言葉を静かに反芻していた。その後、しばらくして納得したのか、表情は心なしか晴れているように見えた。


「他には? もしあるんだったら教えてくれると嬉しいな」

「他って言われてもなぁ……」


 さらに考えたところで夕貴は、先日の響子との会話を思い出した。あえて何がとは言わないが、彩はアルファベットで上から五番目の大きさらしい。それも六番目に近いほどのレベルだという。そのことを知ってからあらためて確認すると、確かに服の上から見ても明らかにわかるぐらい膨らんでいる。


 でもここだけの話、彩は胸よりも尻のほうが目立つ気がする。いわゆる安産型というのか、腰回りから臀部にかけての丸みを帯びたラインはこの上なく女性らしい体つきをしていて、今日なんてふとした瞬間に何度もドキッとさせられてしまった。


「じー」


 彩は鼻白んだ様子で、夕貴の顔を覗き込んでいた。余裕でバレバレだった。


「夕貴くん、変なこと考えてない?」

「……んなわけないだろ」

「間があったけど?」

「んなわけないだろ」

「どっちの否定?」

「どっちも」

「それは欲張りじゃないかなぁ」

「欲のない男よりはいいだろ」

「男の子って、やっぱり大きいのが好きなの?」


 単刀直入に訊いてきた。夕貴はもう素直に認めることにした。開き直っただけともいう。


「そりゃあな。大は小を兼ねるっていうか、小さいよりは大きいほうがいいっていうか……いや違う。はっきり言ってやる。俺は大きいのが好きだ」

「そ、そうなんだ」


 堂々と宣言すると晴れやかな気持ちになった。別に隠すことではない。女性の胸は、いわば孔雀の羽と同じく、異性を引く優位性の一つだ。ゆえにこれは性淘汰に代表されるれっきとした学史的な問題を語っているに過ぎない。


「……そっか、そうなんだ」


 彩は満足そうに何度も小さく頷いていた。どういうわけか琴線に触れたらしい。


「ちなみにな、いまの進化生物学における重要理論の観点から言えば」

「あ、いまそんなちゃんとした話のつもりだったんだ……」


 そして夕貴は普通に間違って口を滑らせることになる。言い訳をさせてもらえば、この話題が始まってから彩の機嫌が元に戻ったので、なるべく話を続けていきたいと思っただけなのだ。


「男は尻が大きい女も好きってことに……って言ったのは俺じゃなくて」


 胸のときはどちらかといえば興味がありそうだったのに、尻を引き合いに出すと彩の顔がみるみるうちに赤くなっていったのを見て、夕貴は即座に地雷を踏んだと悟った。


「彩? 俺じゃないからな?」

「どう考えても夕貴くんじゃない!」


 羞恥と怒気で顔を上気させながら彩は声を張り上げた。


「そんなの好きじゃなくていいの! ていうかいま、ちなむ必要あった!?」

「だよな。じつは俺もそう思ってた。大きけりゃいいってもんじゃないって。ちくしょう、ダーウィンの野郎が……」

「あーもうっ! 気にしてるんだからほっといてよ! あとどうやって文句言うのよそれ!」

「そんなに気にすることか? 少なくとも損はないって、ダーウィンが言ってたけど……」

「あるよ! お尻なんか大きくてもいいこと一つもないんだから! 視線気になるし、デニムはきついこと多いし、たまに安産型とかセクハラみたいなこと言われるし!」

「へ、へえ、そんなデリカシーないこと言うやついるんだー」


 言わないでよかったと夕貴は心の底から安堵した。


「……はぁ、なに言ってるんだろわたし」


 彩の声は次第に小さくなり、後半はほとんど聞こえなかった。


「ごめん、さっきの話は忘れて……」


 頭痛でも堪えているのか、ひたいに手を当てて、彩は自己嫌悪丸出しの声を漏らす。黙っていれば本人だけの密かなコンプレックスだったのだ。それを過剰に反応してしまったことで、むざむざ夕貴にも知られてしまったのを悔いているのだろう。


 彩のスタイルは贔屓目なしにもかなり優れていると思うのだが、あくまで夕貴の主観であり、そこに本人の希望や意志が介在する余地はない。


「あれだな。あおいこってことにしよう」

「おあいこ……」

「彩も俺のこと知っただろ?」

「……そう、だよね。うん、そう。夕貴くん大きいのが好きなんだよね。これぐらいあったら、たぶん……」

「思い出すにしてもまだほかの話があっただろ……」


 下らない話に二人は笑った。忘れようとするように、考えなくてもいいように、現実から目を逸らすように。


 しかし、夢は、長くは続かない。


「……咲良ちゃんは、まだこの街にいる」


 澄んだ湖に水滴を落とすような声が、静かな波紋を生む。


「自分でもおかしいとは思ってるよ。もういなくなっちゃった人を、そのことをほかの誰よりも知ってるはずのわたしが、それを認めようとしないなんて。いまでも咲良ちゃんを探しているなんて」

「……この際だからはっきり言うけど、それは危険だと思う。一年前の通り魔殺人の犯人だってまだ捕まってないんだろ。この前だって、俺たちは」


 自殺した女の子の遺体を見たのに、と夕貴は言葉を飲み込む。差し込む夕焼けの赤が、そのときの鮮烈な血の色を想起させたからだ。


 人の死に触れることは普通じゃない。専門家でもなく、何の知識も力も持たない素人が、それを追いかけること自体が間違っているのだ。このまま夜の探索を続けていれば、彩が何らかの事件に巻き込まれる可能性だってある。


 夕貴が、彩の行動を咎めようとしていることを察したのだろう。彼女は小さくかぶりを振った。


 夕貴は目を細めて、卑怯なことを言った。


「……遠山咲良さんだって、彩が危ない目に遭うのはきっと望んでいない」

「どうかな」


 すぐに彩は答えた。ふっと哀しげな微笑を湛えて。


「それは咲良ちゃんにしかわからないよ。だから訊いてみたいって、そう思うの」


 夕貴の言葉は優しく否定される。これからも彩は届くはずのない手を伸ばして、いるはずもない相手を捜すのか。


 夕貴はどうすればいいのだろう。毎晩、彩に付き添って、彼女が納得するまで一緒に遠山咲良を追いかければいいのだろうか。いや、それは現実的ではない。家のこともあるし、勝手に住み着いたナベリウスを放っておくわけにもいかない。


 これといって殺人犯に追われているわけでもないのだ。差し迫った脅威があるならともかく、ただ漠然とした懸念だけで四六時中も一緒にいることはできない。


 しかし、夕貴は現実的な思考とは異なるベクトルで、彩から目を離してはいけないとなかば本能の囁きによって確信していた。


 あのハウリング――鼓膜を鋭く突き刺すような耳鳴りが、いまでも耳朶に残っている。


 路地裏で死んでいた少女。自殺であって自殺でなく、他殺であって他殺でなく、人殺しであって人殺しではないような、どこか違和感を覚える哀れな最期。


 もしかしたら、まただれかが死ぬかもしれない。そんな不吉な予感を胸に、夕貴は眼下に遠く広がる街の景色を睨んだ。


 会話が途切れて、静かな沈黙。観覧車は一周するのに約十五分。二人を乗せたゴンドラが中天に差し掛かり、目に見える景色がもっとも壮観となったあたりで、彩が言った。


「桜、ね。お母さんがいちばん好きな花なの。わたしが産まれたとき、ちょうど満開の桜が咲いてたって」


 彩は遠い日を透かし見るように目を眇めていた。その視線の先には、街を彩る桜。


「桜の花のように、彩(いろ)鮮やかな幸福を――わたしの名前には、そんな意味が込められてるんだって、お母さんが言ってた」

「いい名前だな。その通りじゃないか」

「そう、かな。わたし、そうなのかな」

「名は体を表す。俺の母さんが好きな言葉だ。彩のお母さんがどれだけ強い願いを込めていたか、俺は知らない。でも一つだけ彩のお母さんよりも知ってることがある」


 幸福とは、笑顔だ。


 笑顔とは、心のかたちだ。


「今日一日、彩はすごく楽しそうに笑ってた。だからそれが答えでいいんじゃないか?」


 なにキザな台詞を吐いてるんだって、自虐する自分がいた。それが本心で、これだけは彩に嘘ではないと伝えたいって、胸を張る自分がいた。


 夕貴の言葉の意味を吟味して、彩は少しのあいだ瞳を閉じていたが、やがて桜を思わせる彩鮮やかな笑みを浮かべた。


「ありがとう。夕貴くんって、けっこうロマンチストなんだね」

「あ、やっぱりそんな感じだったのか……」

「顔赤くなってるよ?」

「バカ、夕陽のせいだ。じつはびっくりするぐらい真っ白だ。ほら、よく見ろよ」

「はい、よく見ました。やっぱり赤いよ? ちなみに可愛いと思うよ」

「ぜんぜん見てねえだろ! ていうかいま、ちなむ必要あったか!?」

「パクらないでよ。ただの進化生物学における重要理論の観点なのに」

「どっちがだよ! まじめな話はいましてねえよ!」

「はいはい、わかったよ。安心して、ちゃんとダーウィンに言っておくから」

「そんな凄い人のせいにするやつ初めて見た!」

「わたしは二人目だけどね」


 それから少しして二人は表情を緩めた。


「夕貴くん、か」


 唇と舌でしっかりと確かめるように、その名を声に出す。


「夕貴くんの名前には、どんな意味があるの?」

「そういえば、ちゃんと聞いたことないな。ただ俺が生まれる前から、男でも女でも、夕貴って付けることは決めてたみたいだけど」


 彩と同じく、夕貴という名も、彼の母親が命名したものだった。いまさらながら素朴な疑問が湧き上がる。自分の名前には、いったいどんな願いが込められているのだろうかと。


 やがてゴンドラが終着点に辿り着いたとき、夕焼けは終わりを迎えて、空の向こうに夜の気配がした。





 次回 1-9『雨、血染め桜』

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