1-7 『今もずっと変わらぬ願い』②


 萩原夕貴と櫻井彩が、五件目となる少女の自殺体を発見してから二日が経った。


 あれから夕貴は、彩とは顔を合わす機会がなかった。メールや電話をしようにも、きっかけがなくて何一つ送ることができないでいた。


 もどかしい思いを抱きながら漫然と過ごす日々の中で、皮肉なことにナベリウスとの共同生活だけは夕貴が思っていた以上にうまくいっていた。


 出逢いは唐突だったし、悪魔と名乗っていること以外の素性は不明。それでも彼女の人となりは、一つ屋根の下で過ごすうちに少しずつわかっていた。


 夕貴の言うことを聞きはしないが、彼の嫌がることも決してしない。夕貴をからかいはしても、彼を貶したり馬鹿にすることはない。夕貴の話には駄々をこねたり茶々を入れたりしながらも必ず最後まで付き合い、そして笑顔で受け入れる。


 母のように見守り、姉のように優しく、妹のように手がかかり、友達のように気が許せて、恋人のように切なく、そして他人のように何も知らない。


 一言でいえば、一言でいえないけれど、夕貴にとって彼女はそういう存在になりつつあった。


「やっぱり一言でいってやる。おまえは痴女だ」


 夕貴は断言した。


「夕貴の意気地なし。そういうところが男らしくないって言われるのよ」


 ナベリウスも断言した。


「それはあれだな、からかってるんだよな?」

「いいえ、貶したり馬鹿にしたりしてるのよ」

「おーい、俺の心を返せー」

「だって夕貴ってぜんぜん手を出してこないんだもん。目の前にこんなご馳走があるのに我慢できるなんて、それでも一丁前に男のつもり?」

「どんなご馳走だって、テーブルの上じゃなくて道端に置かれてたら誰だって怪しいと思って素通りするだろうが。おまえはそういう類のやばいやつなんだよ。手を出したら破滅する系女子なんだよ」

「とか言っちゃって、今朝もわたしの胸をこれでもかと揉んだくせに」

「ただの寝相だ! 不可抗力だ! 裸で勝手に添い寝してきた挙句、都合のいいときだけ被害者ぶってんじゃねえぞこの自称悪魔が!」


 朝霧に濡れる梢から小鳥の歌が降り始めた時間にもかかわらず、すでに萩原家のリビングは団欒というにはいさかか剣呑な熱が灯っている。


 今朝も今朝とて夕貴が目覚めると、傍らには裸で添い寝するナベリウスがいた。もはや悲鳴を上げることもなく、ただ溜息だけが漏れた。それは彼女の謎な行動を憂いてのものか、何度みても飽きることのない美しい肢体を評してのものか、自分でもよくわからなかった。


 毎朝決まってナベリウスが添い寝しているわけではないが、だからこそ逆にいつ来るともしれない悪魔の気まぐれな訪問が、年頃の健全な青少年の心をくすぐるのもまた事実である。


「おいしい?」

「……まあまあ」

「そう、よかった」


 こんがりと焼けたトーストを齧る。小麦の香りが鼻を抜けて、芳醇なバターの甘みが舌に広がった。艶やかな黄金に濡れるスクランブルエッグ。たっぷりの肉汁を滴らせる厚めのベーコン。そして簡単なサラダ、スープ、コーヒーを並べた朝食の席は、ほかでもないナベリウスが手ずから供したものである。これがまた残念ながら美味い。ぜんぶ夕貴の好きな焼き加減だったり味付けだったりするのだ。


「コーヒーのおかわりいる?」

「……もらうけど」

「ブラックでいいのよね?」

「……いいけど」

「二杯目はミルクを淹れる派だったりしない?」

「……しないけど」


 煌めく銀髪を揺らして彼女は席を立つ。夕貴は残り少なくなったカップに口付けながら、気付かれないようにこっそりと目で追う。腰まで届く長い髪は朝日に透けて、すらりとした背が見えていた。


 ナベリウスの手料理は見事なものだ。でもひとつだけ、彼女と共にする食事の席に、夕貴は釈然としないものを感じている。


「だからなんだよ」

「なにが?」

「だからなんで俺を見てんだよ。そんなに面白いか?」

「面白くはないなぁ」


 唄うように言って、ナベリウスは白銀の瞳をうっすらと細めた。いつだってこの女は、夕貴が食事をしているとこんな感じなのだ。自分が食べるよりも、夕貴を眺めることを優先しているのだ。


「面白くないんだったら見るなよ」

「じゃあ面白いから見る」

「やめろ。雪と氷しかない田舎に早く帰れ」

「なにそれ。ってああ、そんな設定あったっけ」

「設定言うな。そして言い出したおまえが忘れてどうする。ちょっとそれっぽいから信じようとしてたのに、否定されたらおまえのことがますます分からなくなってくるだろうが」


 ナベリウスに見つめられていると、なぜか敗北感のようなものが湧き上がってくる。なかば無意識のうちに、夕貴はトーストを両手で持って小さく齧っていた。


 それは危険を感じた小動物の怯える姿と本質的には同じで、はたから見れば大層微笑ましく映るのだろう。ナベリウスは飽きもせずに夕貴を見ていた。


 ――少女の連続自殺事件、五人目の――


 ふと、そんなニュースが流れてきた。ナベリウスの興味がそちらに移る。夕貴は見るまでもない。実際の現場を目撃したのだから。


 此度の一件に関しては、おそらく夕貴と彩が第一発見者ということになるのだろう。もしかしたら夕貴が無意味と勝手に判断しているだけで、なにか有益な情報を提供できるかもしれない。しかし、いまさら警察に行く気は起こらなかった。通報するタイミングを逃したこともあるが、本音を言えば、できるかぎり彩を事件から遠ざけたいという気持ちが強かった。


 このまま彩が、遠山咲良を追っていればまた自殺した少女と出くわすかもしれない。なんとなくそんな予感がある。これ以上、危ないことに彩が巻き込まれる前に彼女を止めるべきだ。少なくとも日が暮れたら家に帰るぐらいの危機意識は持たせたい。


 夕貴は一つの妙案を思いついていた。二日間、必死に頭を捻って絞り出した単純にして明快な策である。さっそく響子に相談したいところだった。


 夕貴は無言で朝食を平らげる。ナベリウスは頬杖をついたまま、目だけでテレビと夕貴を交互に見ていた。


「ごちそうさま」


 空いた食器を流しに持っていく。せめて後片付けぐらいは自分でやるものと夕貴は決めているのだ。


「どうかしたの?」

「なにがだよ」

「リスだと思ってたら今度はハムスターみたいになったから。ほら、ほっぺたが」

「なんでもねえよ。それより、おまえ」


 呵責のない現実を見せつけられたばかりの平凡な少年にとって、直接的な言葉を口にすることは躊躇われた。もしくは素直に彼女の身を慮ることに気恥ずかしさを覚えたのか。


「なんていうか、気を付けろよ。近頃はいろいろと物騒なんだ。間違って変な事件に巻き込まれたりしたら、もっと寝覚めが悪くなるからな」


 夕貴はナベリウスに背を向けたまま、蛇口をひねって洗い物を始めた。もくもくと皿の汚れを落とすのは、何も考えないようにするにはちょうどよかった。


「巻き込まれる、ね」


 だから彼女の言葉を聞き逃した。


「もう巻き込まれてるんだけどなぁ」




 


「彩を遊びに誘いたいんだ」

「へー、そりゃいい考えね。で、今日のお昼なんだけどさ」

「彩を遊びに誘おうと思ってるんだよ」

「え? これマジなやつ? ていうかツッコミいい? いつから彩とか名前で呼ぶようになったの? え? そこまで進展してたの? え?」

「俺は彩のことをぜんぜん知らない。だからまずは彩のことが知りたいんだ」


 紛れもない本心だった。それに楽しく遊ぶ時間が増えることで彩のストレスを解消したり、欲を言えば、もう危ないことをする気が起こらないように誘導したいという思惑もあった。そうでなくても一緒にいられれば、もしなにか起きても夕貴が対処できるだろう。子供みたいな理論だが、まだ大人にもなりきれていない無力な夕貴にはこれぐらいしか考えれなかった。


 あのとき、美しい夜桜に彩られた公園で、夕貴は彩に何もしてあげられなかった。自分の無力を思い知らされるのが怖くて、彩を振り向かせるだけの勇気がなかった。ただそばにいることしかできなかった。


 あんな顔をした女の子を、初めて見たから。


 困っている子でも泣いている子でもなくて、彩のことを助けたいと思った。


 夕貴の真剣すぎる面持ちに、響子はこっちが恥ずかしくなったと言わんばかりに赤面して「ほ、ほー?」とフクロウのような奇声を上げる。


「手伝ってくれ。響子」

「……それはいいけど、あんた急にどうしたの? 熱でも出た?」

「ふざけてる場合か。遊びじゃないんだ」

「遊びじゃなかったっけ?」

「揚げ足を取るな。感じろ。分かれ」

「んな無茶な。まあいいけど。じゃあさ、今日の放課後にでもまたみんなで遊びにいく?」

「できれば二人で遊びに行きたいんだ」

「ほ、ほー?」


 もしかしたら響子や託哉には聞かせられない話になるかもしれない。むろんのこと色恋沙汰ではなく、彩が見たという一年前に死んだはずの少女のことだ。


「二人でって、あんたそれ、自分がなに言ってるかわかってんの?」


 響子が胡乱げにそう質す。どうしてそんな反応をされるのか。ただ友達を遊びに誘うだけなのに。


「……はぁ、べつにいいけど。彩もまあ、ああ見えて色々と複雑なことあったから、できるだけ遊びに誘って気分転換させたげるってのはあたしも賛成だし。悲しいこと、ぜんぶ忘れちゃうぐらいにね」


 がしがしと頭をかいて響子は溜息をついた。口ぶりからすると、響子は彩の過去をある程度知っているらしい。


 思い返せば、いつかの食堂で託哉が雑誌を出したとき、響子はいつになく過剰に反応していた。あれも彩のことを気遣っていたのかもしれない。親友の死にまつわる事件が、未解決として面白おかしく記事にされていたら、だれだって嫌な気分になるだろうから。


 そうして夕貴は、響子の協力を取り付けた。これまで自分から女子を誘ったことがない夕貴は、自分一人だとどうすればいいのかわからなかったのである。響子がアドバイスをくれるだけでも拝むほどありがたい。


 だがその後の顛末は、意外なほどあっさりとしていた。響子は何もしていない。ただ促されるままに電話をさせられただけである。というか携帯を取られて、彩の連絡先がすでに入っていることに驚かれながらも、勝手に通話ボタンを押されたのだ。


 いきなりのことで話題もなにも用意していなかった夕貴は「いいから、ゴー!」と小声で拳を突き出す響子を冷めた目で見ながら、腹をくくって言ったのだ。


「もしよかったら今度の日曜日にでも、二人で遊びにいかないか?」


 脈絡のなさすぎる提案に、電話越しの彩から息を呑む気配が伝わってきた。響子が「どきどき……」と耳をそばだてていたが、それを咎める余裕なんて夕貴にはかけらもなかった。これまで失念していた断られる可能性というものが、このとき急激に夕貴のなかで浮上していたのだ。


 以前、彩は高校のときに知り合いだった男子の誘いを断り続けていると言っていた。響子から話を聞くかぎりでも、清楚な容姿を裏切らない身持ちの固い女子だという印象だ。


 夕貴がいままで彩と二人きりになったのは、その場の流れや、響子との関連性があったからだ。それなりに親しくなったと思っているのは夕貴だけで、彩の認識としてはあくまで響子の友人その一ぐらいで彼のことを見ているかもしれない。


『……いいの?』


 しかし、彩から返ってきたのは微妙に予想を外れた答えだった。悪いわけもなく、夕貴は若干上ずった声で返答し、とんとん拍子で約束を取り付けてしまったのである。電話を切ると、響子が「ほらね」と言わんばかりに肩を竦めていた。


 いっぺんマジでシメようかと思ったが、行方が知れなくなった夜のことを踏まえると、どうしても響子には甘く接してしまう。


 あれから響子のことは意識して見ているが、留意するのがバカらしくなるほど普段と変わらない。


 保険のため、それとなく託哉には、しばらく響子を気にかけるよう頼んである。響子の取り扱いをよく知っている託哉に任せることができるなら、夕貴のなかの安心感も格段に増す。


「あ、そういえば彩ってさ」

「なんだよ?」

「アルファベットで上から五番目なんだって。しかも六番目に近いぐらいの五番目。あの子、けっこう着やせするから」

「お、おまえ! ふつう友達のそういう情報言うか!?」

「ふつう言わないわよ。言うわけないじゃない。でもまあもう夕貴ならいいかと思って」

「もうってなんだ、もうって!」

「やる気が出るかと思って」

「でねえよ!」

「あんた大きいの好きじゃん」

「好きだけど!」


 ひとまず響子を黙らせて、夕貴は当日のことに思いを馳せる。


 女子を遊びに誘う、と。


 その真の意味に夕貴が遅ればせながら気付いたのは、夜になってからである。






 夕食を作るのはいつの間にかナベリウスの役目になっていた。別段、そうと決めているわけではない。ただ夕貴が学校に行って帰ってくるとすでに準備が整っているのである。だから自然と、洗い物は夕貴がすることにしていた。もう何度か繰り返されている、いつもの光景だった。


「ねえ。今度、ちょっと付き合ってくれない?」


 しかしながら、その夜、夕貴の背中にはいつもとは趣が異なる一言が投げかけられた。水仕事をぴたりと止めて、夕貴はリビングを振り返る。ナベリウスはソファに膝を抱えて座ったまま、何事もなかったかのようにテレビを見ている。


「……なんだって?」

「だから、ちょっと付き合ってくれないかなって。あ、別に愛の告白ってわけじゃないから安心しないで」

「わかってる。変な言い回しをするな。その言い方だと俺はどうすればいいんだ」

「もう夕貴とわたしは永劫なる主従の絆で結ばれちゃってるから。愛なんて超越しちゃってるから……」

「結ばれも超越もしちゃってねえから。なんもないなら先にとっととシャワー浴びてこいよ」

「う、うん。わかった。お風呂入る……」

「そういう意味じゃない! 話が一個も前に進んでないの気付いてるか!?」

「日用品がちょっと足りてなくてね。だから買い物付き合ってくれないかなーって」

「さらりと戻すな! テンションの切り替えが追い付かねえだろ!」


 ナベリウスは落ち着いた様子でバラエティ番組を眺めている。人の営みを優しく見守るその横顔は、それこそ人間よりも人間らしい穏やかさがあった。


「だから買い物よ。夕貴と行きたいなって。もしかして嫌?」

「……まあ、べつに嫌じゃないけど。時間あるときなら付き合ってやるよ」

「よかった。じゃあ今度の日曜日はどう?」

「ああ、わかっ……てない。ちょっと待てよ」


 その日は、櫻井彩と二人で遊びに行く約束をしている。夕貴から誘ったのだ。ほかの予定とバッティングするわけにはいかない。


「悪い。その日はだめだ」

「ふーん。もしかして女の子とデート?」

「そんなわけないだろ。ただ二人で遊びに行くだけだ」

「あ、ほんとだったんだ。ていうか、人間はそれをデートっていうんじゃないの?」

「……たしかに」


 指摘されて一気に認識が変わった。なんだか普通に遊ぶ約束を取り付けてしまったが、これはナベリウスの言う通り、誰がどう見てもデートと呼ばれるものではないか。響子があれだけ夕貴の正気を確かめていた理由がやっとわかった。


 急に当日の服のコーディネートが気になり始める。適当に映画とかショッピングモールを回る感じでいいのだろうか。食事はどういうところで済ませたらいいのか。いや、逆にデートと固く考えないほうがいいかもしれない。たぶん彩も男友達とちょっと遊ぶぐらいの認識だろうし。


 洗い物を済ませる。口を噤んで考え込み始めた夕貴を、ナベリウスはじっと見つめていたが、やがてため息をついた。


「まあいいけど。わたしは家で大人しくしてるから。借りてきた猫みたいに」

「そうしてくれ。埋め合わせはまたするから」

「またじゃなくて、いましてよ」


 ソファから膝を下ろすと、ナベリウスは嫌味なぐらい長い足をぴったりと揃えた。何を血迷ったか、その柔らかそうな太ももを自分でぽんぽんと叩いている。


「なんだ? 新手のマッサージか? もうちょっと強く叩いたほうがいいと思うぞ」

「なに血迷ったこと言ってるのよ。ほら、耳掃除してあげるから、こっちきて」

「血迷ってるのはおまえだ。どこから出てきたその言葉は」

「べつに。ただしてあげたいなって。だめ?」


 ほんの少し、悲しそうに首を傾げる所作を見て、夕貴は理解してしまった。ナベリウスはふざけているわけでもなく、ただ本心で夕貴にそうしてあげたいのだと。なぜか耳掃除を。


「だめ、ってわけじゃないけど……」


 もともと彩と約束していたとはいえ、ナベリウスの誘いを断った直後ということもあり、あまり強く否定できなかった。だが彼女の申し出は、何の衒いもなく了承するには、年頃の男子としては思うところがありすぎた。


「じゃあいいじゃない。もしかして照れてるの? やっぱり夕貴も男の子なんだ」

「はいはい、その手には乗らないから。残念だったな」

「はーあ、男らしくないなぁ。男らしくない」

「……なんだと?」

「意識しすぎなんじゃない? ただの耳掃除なのよ? 男らしい男だったら、それこそ牛丼を食べるような気軽さで女の太ももに頭を倒すわよ」

「……なるほど、一理ある」

「夕貴ほどの男が、この程度のことに躊躇うなんてことあると思う? いいえ、わたしは思わない。だって夕貴は、わたしが知るなかでもトップクラスに男らしいから」

「ほう……」


 なかなかやるなこいつ。正直、かなり見直したぞ。


 牛丼を食べるような気軽さで女の太ももに頭を倒すやつはどうかと思うが、いちいち照れているのも女々しい気がするのは確かだ。


「ね? ほら。夕貴は男らしいでしょう? これぐらい余裕でいけるはずよね?」

「ふん、まあな」


 男らしい。じつにいい響きである。生きていて言われたのは五回目ぐらいだ。そのたびに響子の夏休みの宿題を手伝ったり、託哉の無茶に付き合わされた記憶もあるが、あれもまた神が男という生き物に与えた試練だったのだろう。

 

「じゃあはい、こっち」


 ナベリウスは目尻を下げると、テーブルに置いてあった綿棒を取り、再度促すように自分の太ももを叩いた。なんだかてのひらで転がされている気もしてきたが、ここでじゃあやっぱりと引き下がろうものなら、それこそ男として情けない。


 夕貴は覚悟を決めてソファに腰を下ろした。五秒経ち、十秒経ち、二十秒が経過しても、彼女は優しげな瞳のまま、夕貴の行動を待っている。


 小さく深呼吸してから、夕貴はゆっくりと身体を倒した。ナベリウスではなく、テレビが見えるほうを向きながら。


 まず夕貴は驚いた。男の自分とはまったく違う、女の身体の柔らかさ。肉付きのいい太ももはたっぷりとした質感を湛えながらも、ほどよく筋肉がついて引き締まっている。これがもし枕なら、世界中の男は目覚めることができずに幸せに溺れて死ぬだろう。


 不幸中の幸いは、ナベリウスがズボンを履いていたことだ。直接、肌が触れ合っていたら、悪魔に耐性のある夕貴でも頭をやられていたに違いない。すでにちょっとやばい。


「始めるから、痛かったら言ってね。手を上げてもいいわよ」

「俺は子供か。やるなら早くしろ。でも痛くはするな」

「はいはい」


 ナベリウスは苦笑して、まず夕貴の耳を軽く揉みこんでマッサージすると、綿棒で優しく触れ始めた。長い銀色の髪が垂れ下がって、毛先が顔に当たるのがくすぐったい。


 ナベリウスの手際は慣れたものだった。痛くもなく、痒くもなく、ただ心地よかった。テレビから漏れる誰かの笑い声が、少し遠く聞こえた。自然に瞼が閉じる。優しく降りそそぐ視線を感じた。


「はい終わり。じゃあ次、反対向いて」

「ん? ああ」


 ぼんやりとした意識の中で返事をして、そのまま向きを変えようとする。だが真上を向いたあたりで自分が置かれている状況が、改めて常軌を逸したものであることに気付かされる。


 ナベリウスの顔はほとんど隠れていた。シャツの内側から大きく主張する二つのふくらみが視界を遮っていたからである。真下から見上げるそれは、間違いなく夕貴が人生で初めて見る光景だった。


「どうしたの?」


 山の向こうから少しだけ目が合って、ナベリウスは微笑む。夕貴は熱くなった頬を見られないように急いで身体を反転させた。


 吐息がかかる距離に彼女の身体があって、位置調整を間違ってしまったのか、こめかみのあたりに柔らかい物体がちょっと乗っている気がする。銀色の髪がカーテンのように覆って、やっぱりいい匂いがして、緊張と気恥ずかしさから薄っすらと汗をかいた。


「夕貴って、肌がきれいよね」

「そ、そうか? 母さんも肌が白いから、遺伝かもな」

「それに髪もさらさらだし」

「おまえに言われても嫌味にしか聞こえないけどな。どこの国に生まれたらそんな色になるんだよ」


 心臓の鼓動が速い。この拷問にも似た時間が早く終わってくれるように願った。それと同じぐらい、ずっとこうしていたいと心のどこかで祈る自分がいた。ナベリウスが小さく鼻歌を唄っていた。聞き覚えのあるメロディだったが思い出せなかった。


 ゴールデン帯のバラエティ番組が終わり、いつの間にかニュースに切り替わっていた。淡々と読み上げるキャスターの声。その内容に不穏なものが混じり始めると、夕貴の意識は現実に引き戻された。


「……なあ。どうして女の子は、自殺したんだと思う?」


 なんとなく夕貴は問いかけた。ナベリウスの動きが一瞬、止まる。それから彼女は力なく笑った。この穏やかな時間に水を差されたことを惜しむように。


「さあ。なにか伝えたいことでもあったんじゃない?」

「伝えたいこと?」


 捜査は続いているが、依然として遺書の類は見つかっていないという。ナベリウスの言葉は矛盾しているように思えた。


「そもそも、これは解決しない事件なのよ。自殺であって自殺でなく、他殺であって他殺でなく、人殺しであって人殺しじゃない。だから女の子の死は止まらない。これからも続いていく」

「どういう意味だ? それに止まらないって、なんの確証があって」

「なんてね。ちょっと意味深なことを言うミステリアスな女ってものに憧れたから言ってみただけよ」

「…………」

「あ、惚れた顔してる」

「呆れただけだ!」

「ムラムラしてきた?」

「イライラのほうな!」


 相変わらず掴みどころのない女だった。


「まあでも、大丈夫でしょう」


 夕貴の頭を優しく撫でながら、ナベリウスは言った。


「どうせ、もうすぐぜんぶ終わるわよ」


 解決する、ではなく。


 終わる、と。


 その言い回しが、少し引っかかった。





 次回 1-8『初デート』

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