1-2 『彩』


 いつになっても忘れられない景色がある。


 母と二人、手を繋いで歩いた家路。


 いつもの帰り道。見上げる夕陽。握り返してくれたてのひらの、花のようなぬくもり。


 となりにいる人が笑っていることが嬉しくて、そう思える自分がなんだか誇らしかった。


 ――わるいやつがいたら、おれがやっつける。泣いてる子がいたら守ってあげる。


 その幼い日の決意を覚えている。始まりの自分。まだ何も知らなかった子供が、無垢な心をそのままかたちにした言葉。


 ――だから母さんは、心配しなくていいんだ。


 あれからずいぶんと時間が流れた。背丈は伸びて、声は低くなって、力も知識も身につけた。でもいろいろなことを考えられるようになった分、成長した心は、そのままかたちにできるほど純粋なものではなくなった。ありがとう、と素直に伝えるのも恥ずかしくて、思ってもいないことをつい口走ってしまうときもある。


 ――だからさ、おれは。


 ゆえに時々、ほんとうに時々、忘れてしまうことがある。


 ――どんなことがあっても、最後まで――


 あのときの小さな少年は、どんな言葉を口にしたんだっけ。


 




 その少女と出逢ったのは、心が震えるぐらい桜のきれいな日のことだった。


 すでに陽は傾き、移ろいゆく空の情景に合わせて、街の輪郭は淡い色彩で暖かく彩られている。日没を控えた僅かな合間だけ訪れる幻想的な時間は、しかし多忙な現代人には無縁なものと見えて、駅の改札を潜った人間は空ではなくまず手元の時計に目を落とす。ラッシュアワーもピークに差し掛かり、余裕を持て余している者はそういない。


 そんな忙しない人混みの中で、萩原夕貴は何の目的もなくとぼとぼと一人で歩いていた。


 日中、大学にいる時間は微睡むほど穏やかに過ぎていった。束の間とはいえ、正体不明の悪魔女との出逢いを忘れてしまうほどに。


 あのあと、家人から当面の間の宿泊権を勝ち取ったナベリウスは、それこそ優しい親戚のお姉さんのように玄関まで夕貴たちを見送ると、自分も用事があると言わんばかりの自然さでどこかに出掛けていってしまった。


 いままでの無駄なやり取りは何だったのかと嫌味を言いたくなるほどあっさりと萩原邸を辞したのである。


 暇そうに見えて、実は日中は予定があったりする人なのだろうか。どちらにせよ知り合って間もない女に留守を任せるほど夕貴はお人好しではないので、ナベリウスの行動は素直にありがたかった。


 家に帰ったらあの女が待っているのか。それとも全ては夢だったようにだれもいないのか。


 現実を確かめるのがなんとなく怖くて、夕貴は最初の一歩を踏み出せないまま、こうして当てもなく時間を潰す羽目になっている。


 一人の少女に気付いたのは、そんなときだ。


 新しい駅前パークやショッピングモールがある大通りではなく、古いゲームセンターやレンタルショップが立ち並ぶ昔ながらの区画。テナントが入っているかもわからない寂れたビルの非常階段に腰かけて、まるで誰かを探すようにぼんやりと人の流れを見つめている少女。


 ひらひらと、街路樹から桜が舞い散る。ときおり、その薄桃色の花びらを見上げる少女の眼差しは、迷子になった子供のように心細い。


「……あの子は」


 見覚えがあるどころか、知っていた。なぜならその少女とは、つい数時間前に大学で会って挨拶を交わしたばかりだったのだ。


 幼馴染の藤崎響子が企画している花見という名の親睦会。それに参加する予定のメンバーの一人という触れ込みで紹介されたのは、大学でオリエンテーションが終わってすぐのことである。


 楚々とした容姿と、控えめで慎ましい性格が印象に残っている。


 ――ほらほら、なにぼーっとしてんの。紹介したげるからこっちきて。この子は。


 響子に背中を叩かれて、彼女と向き合ったときのことを思い出す。少しだけ気になることがあった。


 夕貴を一目見た瞬間、何かに驚いて言葉に詰まっていた彼女の表情。


 瞠目は数秒のことで、その後、つつがなく挨拶は済んだが、それからも夕貴は視線を感じる気がしていた。少なくとも夕貴は彼女のことを知らない。もしどこかで会っていたら忘れていないと思うから。


 見つめていると、人混みを挟んで、ふと目が合った。


「あ」


 間抜けな声を上げたのは同時だったと思う。ここで無視するのもおかしな話なので、夕貴は小さく会釈した。つられて相手も頭を下げる。視線を交わしたまま、いたずらに時間だけが過ぎる。


 なんとなく気まずさを覚えた夕貴は、もう一度だけ軽く頭を下げて足早に立ち去った。知り合ったばかりの女の子にいきなり親しげにしていいものかと迷って微妙な対応になってしまった。


 歩きながら夕貴は後悔していた。なに思春期のガキみたいな反応してんだ俺は。ほんとうは仲良くなりたいくせに恥ずかしいから興味がないフリをする中学生か。


 それに気になっていた。もう日は暮れているのに、どうして寂れた非常階段に一人でいるのか。どうしてあんなに悲しそうに桜を見つめていたのか。


 冬は過ぎて、やっと春が訪れたのに。


「……まあ、どうせ時間は余ってるしな」


 少し考えてから、夕貴はきびすを返した。まだ少女がいたら声をかけてみよう。そう決めた。


 でも決意は少しだけ遅かったらしい。彼女はすでに別の男と二人でいた。


 なるほど、だれかと待ち合わせしていたのか、と夕貴は思った。


 ただそれにしては二人の間に流れる空気は剣呑だったし、男の立ち位置は連れ添うというより進路を塞ぐようなものだった。


 痺れを切らして立ち去ろうとする少女の手を、男が慌てて掴んだ。振り向いた男の顔は、眼鏡をかけた理知的で優しそうな風貌だった。かえって判断に迷う。


 彼氏が遅刻してきた? 友達と喧嘩しているだけ?


 瞬時に色々な考えがよぎる。いくらでも自分に言い訳する材料はあった。だが手を掴まれた少女は、桜を見上げていたときよりもなお辛そうに、いまにも泣き出しそうな表情をしていた。


 夕貴が迷う理由はすぐに消えた。


 間違っていたら恥をかくのは自分だけ。でも間違っていなかったら傷つくのは彼女なのだ。


「何してるんだ?」


 夕貴が割って入ると、少女は意外そうな顔をして、男は目を丸くして驚いた。


「待たせてごめんな。ほら、行こうぜ」


 いままで漫画で予習してきた王道パターンを駆使して、なるべく穏やかに言って、自然な流れでまずは少女と男の手を離させる。第三者の介入が予想外だったのか、男は言葉に詰まった様子で、夕貴と少女を交互に見ているだけだ。


 どうやら夕貴の判断はそう外れてもいなかったらしく、あれほど歪んでいた少女の顔は、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻していた。


「……う、うん。ありがとう」


 少女は目を伏せたまま頷いた。助け舟を出した夕貴の意図を汲んでくれたのか、ただ眼前にいる男の前から早く立ち去りたかったのか。どちらでもいい。夕貴は少女を庇う位置取りを維持したまま先導して一歩を踏み出し、人の流れの中に入ろうとした。


「……彩」


 男が言った。彼の視線は、まっすぐ少女にだけ注がれている。


「……走って」

「え?」


 耳元で、そんなささやきが聞こえてきた。深く息を吸う気配。今度はあたりに響き渡るほどの大声で彼女は言った。


「走って、萩原くん!」

「えっ!? お、おう!?」


 理解するよりも早く、腕を取られて走り出していた。周囲の視線を浴びながら二人は逃避行のごとく緋色の街を駆け抜ける。足がもつれながら、通行人にぶつかりそうになりながら、夕焼けに逆らって走り続けた。


 だれかが追いかけてくる気配はなかった。


 しばらくして夕貴と少女は、少し離れた人気のない路地裏で膝に手をつき、荒く呼吸を繰り返していた。汗を拭って、お互いの顔を何度か見合わせて、ここには二人しかいないことを確認して、また視線を交わした。


「……はは」

「あはっ」


 噴き出したのは、まったくの同時だった。


「ごめっ、ごめんなさいっ。笑っちゃいけないのはわかってるんだけど、でも」

「いや、どう考えても笑うとこだろ。俺、こんな漫画みたいなことしたのはじめてだよ」

「ごめんなさい。なんか変なことに巻き込んじゃって」

「謝らなくていいから。むしろ俺のセリフだろ」


 夕貴がもっと早くアクションを起こしていれば、彼女が嫌な思いをすることもなかったかもしれない。それは偽善かもしれないが、ついさっきの壊れそうな彼女の顔を思い起こせば、決して考えすぎではないと信じられた。


「ごめんって、そんな。わたしを助けてくれたのに」

「そう思ってくれてるならよかった。余計なことしてるんじゃないかってビクビクしてたから」

「そんなことない。うれしかったよ。ほんとうに」


 少女は微笑む。それは幼い頃、いつもの帰り道で見ただれかの笑顔と重なって。


「だから、ね。ありがとう」


 彼女の笑顔を見て、夕貴の胸は小さく、でも確かな誇らしさで満たされた。ちっぽけな自分の力でも守れたものはあったのだ。彼女が紡いでくれた言葉の温かさに、夕貴はかつて懐いた想いが間違いではなかったのだと、そう教えられた気がした。


「萩原夕貴くん、だよね。あの、わたしのこと、覚えてるかわからないけど、櫻井……」

「彩さん、だろ。知ってるって。じゃなきゃあんなことしないよ」


 ささやかないたずらを仕掛けた児童みたいに顔を合わせて、夕貴と彩はまた笑いあった。






 夕暮れの帰り道をふたり並んで歩く。


「さっきの男の人って、知り合いだったのか?」


 櫻井彩は、今時にしては珍しい清楚な女の子だった。肩よりも少し長いセミロングの黒髪に、色白の肌がよく映える。淑やかな容姿を裏切らない落ち着いた物腰と、愛らしく整った顔立ちも相まって、さながら良家の子女といった風情である。


 その人柄を表すように、一度も染めたことがなさそうな美しい濡羽の髪が特に印象的だった。


 だからこそ、あれほど険悪な関係の相手がいることが意外と言えば意外だった。


 さっきの男は確かに「彩」と口にしていた。それは彼女の名前。無関係の他人だとは思えなかった。


 彩はしばらく黙りこくった後、小さな声で呟いた。


「……知らない人だよ」


 言葉にしてからしっくりきたのか、顔を上げて頷きながら、もういちど繰り返した。


「知らない人。もう二度と会いたくない人」

「……そっか」


 夕貴は深く聞かなかった。だれにだって立ち入ってほしくない事情というものはある。まさに今朝の夕貴がそうだったのだから、気持ちはよくわかるし、彼女の言葉に頷いてみせるのはなんら難しいことではなかった。


 彩の意志を尊重して、ただゆっくりと歩幅を合わせる。ちらちらと見上げてくる視線を感じたが、気付いていないふりをした。


「……あの」

「どうした?」

「ううん、どうもしてない……んだけど」


 落ち着きなく視線をさまよわせている。なにやら肩身が狭そうな様子だった。もしかしたら助けてもらった手前、自分には説明する義務が、そして夕貴には聞く権利があると思っているのかもしれない。


 何も言わずに誤魔化せばいいのに、それをしないあたり律義というか素直というか。


「え、と……」

「知らない人なんだろ?」


 彩の言葉なんて聞くまでもなかった。だから途中で遮ったのは自然だろう。


「さっき聞いた。もう知ってるよ」


 話はこれでおしまい。知らない男から声をかけられて困っていた少女と、そんな女の子をたまたま見かけた少年。これは事実、それだけのことなのだから。


 彩は夕貴の顔をそっと覗き込んだ。薄い唇が笑みを描いて、ほぅ、と小さく吐息がこぼれた。


「……萩原くんって、なんかいいね」

「なんかってなんだよ。そこは普通にいいねにしといてくれよ」

「落ち着くっていうか。うまく言えないけど」

「あれだけ走った後なら、そりゃ落ち着きもするだろ」

「あはは、それを言ったらおしまいだよ」


 笑顔が咲き、歩みに合わせて揺れる。屈託がなくて、眩しくて。ただ見ているだけでこそばゆい気持ちになった夕貴は無理やり話題を変えた。


「そういえばさ。俺たちって昔どこかで会ったことあったっけ?」

「……え、なんで?」

「あ、いや、なんていうか」


 彩の表情がひきつったのを見て、夕貴はちょっと唐突だったかと後悔した。


 でも確かに、大学ではじめて挨拶したとき、彩は夕貴のことを見て思うところがある様子だった。それが一目惚れだったとか、都合よく解釈するほど夕貴は自分にうぬぼれていない。


 思案するように彩は俯いて、その黒曜石の瞳に、長い睫毛が愁いの影を落とす。


「響子ちゃんから、ね。ちょっと前に聞いてたの。幼馴染だって。だからこの人がそうなんだって思って」

「……なるほど、それで」


 そう相槌を打ったものの、どこか言葉を選ぶ彩の語調に、夕貴はまだ釈然としないものを感じていた。とはいえ嘘をつく理由もないはずだし、夕貴の勘違いだと言われればそれで納得する程度のささいな違和感だったので、それ以上の追及はしなかった。


「でもそれを言うなら萩原くんも、わたしのこと見てびっくりしてたように見えたけど」

「……え、そうか?」

「うん。そんなにへんな顔してたかな?」

「い、いやぁ、どうかな。そんなことないと思うけどなぁ」


 上ずった声で夕貴は答える。彩は「そうかな、そうだったかな」と首を傾げて独り言を呟く程度には得心していない。


 彼女の疑問は正しい。あまり公には言いたくないが、夕貴もまた彩のことを以前から知っていた。交友関係の広い響子の友人、という認識とは別の理由で。


 本人は知らないだろうが、櫻井彩という少女は彼らの通う大学においてそれなりに有名だった。入学直後だったか、夕貴と同じ高校から進学し、別の学部に進んだ連中が、一人の少女の話題で盛り上がっていたことは記憶に新しい。


 彼らが話していたのが彩だと知ったのは、ここ数日のことで。


 彼らが話していた内容が決して大げさではなかったと知ったのは、ここ十数分ぐらいのことだったけれど。


「そっか。そうなんだ」


 納得か、落胆か。彩の声音はいまいち判然としない。


 それから何でもない雑談に興じていたが、ゲームセンターの軒先にあるクレーンゲームの前に差し掛かったところで、彩は歩みを止めた。吸い込まれるようにショーウィンドウの向こうを見つめている。そこに映るのはいまの彼女と彼だけで、ほかにはだれもいない。


「櫻井さん?」


 どうしたんだろう、と思って声をかけても彩は反応しなかった。瞬きすらも忘れて、ただじっと目を見開き、なんのことはないゲームの景品に視線を注いでいる。


「それ、そんなに面白い?」


 嫌味ではなく、冗談交じりの口調で夕貴は問いかけた。すると彩は、弾かれたように夕貴のほうを向いた。予想以上の食いつきの良さに夕貴は驚いたが、それ以上に、彩の瞳はわなないて震えていた。


「いま……」


 夕貴を見つめる眼差しは、戸惑い揺れて、まるで彼のなかにだれかの面影を見出そうとしているかのようで。


 あのときも、舞い散る桜を見ていたときも、彩はこんな目をしていた。


「……ごめん、もしかして気を悪くさせたか?」


 そう前置きしてから夕貴は弁解した。


「ただ、それってそんなに面白いのかなって、素朴な疑問が出ただけなんだけど」

「……ううん」


 彩は首を振ると、ゆっくりと視線を巡らせて、ふたたびクレーンゲームのほうを見た。それから瞳を閉じて、一つ息を吸うと、見覚えのある慎ましい笑いに口元を綻ばせた。


「わたしこそごめん。これ、昔から大好きなの。あんまり話せる人いないから、萩原くんが気付いてくれて、嬉しくて」


 ショーウィンドウに触れて、慈しむようにガラスの面をなぞる指先は、けれど見えない壁に阻まれて、向こう側には届かない。


「この間ね。響子ちゃんと遊んだんだけど、そのとき響子ちゃんこれやってぜんぜん取れなかったんだよ。だから、ね」


 そのときのことを思い出しているのだろう。彩は申し訳なさそうに苦笑した。なぜ申し訳なさそうなのかは、幼馴染の不器用さを知っている夕貴にはよくわかった。


「意外だっただろ。あいつ要領いいし運動は得意だけど、こういう小手先使うようなやつは昔から苦手なんだよ」

「そうそう。それで悔しくて何度も挑戦するんだけど、けっきょく取れなくて普通に買ったほうが早いって言いながら」

「それでもやっぱり取れるまでやる、だよな」


 共通の友人の話題で盛り上がっていると、夕貴にある企みが生まれた。


「もしよかったら取ってやろうか?」

「えっ、萩原くん、できるの?」

「任せとけ。自信はある」


 事実である。得意とは言っていない。想定外なのは、彩が思っていた以上に目を輝かせて期待してしまっていることだ。これで買ったほうが早いなんて結論まで持っていこうものなら、間違いなく萩原夕貴という男の評価はがた落ちである。


「あ! すごい! すごいすごい! ほんとに取れた! 取れたよ萩原くん!」


 なんと一回のチャレンジで景品を獲得できてしまった。まさかの奇跡に驚いたのは彩よりも夕貴のほうだったが、そこはあえて謙虚に振る舞うことでちょっとモテようとしてみる。


 自然な流れで夕貴は、取り出した戦利品――可愛いらしくデフォルメされたキャラクターがモデルとなっているキーホルダーを彩に差し出した。


「ほら、これやるよ」


 夕貴としては元々そのためにチャレンジしていたつもりだったのだが、彩はまるで考えていなかったらしく唖然となった。


「あ、もしかしていらなかったか?」


 夕貴が控えめな声で問いかけると、彩はぎこちない動きでかぶりを振った。


「ちがう。ちがうの。でも、諦めてたから」

「そっか。じゃあよかった」


 きょとんと不思議そうに彩はまばたきする。その反応に戸惑ったのは、むしろ夕貴のほうだ。


「だって諦めてたってことは、欲しかったってことだろ?」


 彩の表情が静止する。吸い込まれそうになる空洞の瞳は、いったい何を映していたのか。だれを見ているのか。


「こういうキーホルダー、俺が持ってても似合わないし、どうせなら櫻井さんが持っててくれよ」


 ふたたび、キーホルダーを差し出した。あとは彩が手を開くだけで、それは彼女のものになる。


 彩は手を開こうとして、やっぱり引っ込めて、そんなことを何度か繰り返していた。


「……いいの?」

「もちろん」


 遠慮がちというより、何かを恐れるような態度が気になったが、夕貴は頷いてみせた。その安っぽい贈り物を、彩は両手でしっかりと受け止めた。


 いざ手にしてみると、彩は子供みたいに瞳を輝かせてしばらく見入っていた。やがて礼の一つも言わずに夢中になっていた己を恥じたのか、かすかに頬を染めた。


「……ありがとう。これ、大切にするね。してもいいかな」

「当たり前だろ。むしろしなきゃ怒るからな」


 茶化してみせると、彩はさらに表情を綻ばせた。それから彼女は、安易に手放した夕貴を後悔させるかのように、たったいま二人の間を渡った小さなヒーローがどんなに素晴らしいものなのかを語って聞かせてくれた。


「ねえ、知ってる? これってね、『ヤーマン』っていってね、『諦めないぞぉ!』が口癖でね、いま女の子のあいだでけっこう流行っててね」


 よほど嬉しかったのだろう。彩は頬を上気させて興奮しながら説明する。ちょっと早口で、子供みたいな口調になっていて、そんな様子が微笑ましかった。


 こうして二人並ぶことは初めてだが、会話は弾んだ。


 出逢ったばかりとは思えない距離。くすぐったくなる心地よさ。もともと夕貴は賑やかなのは好きだが騒がしいのは苦手で、彩もまた同じタイプのようだった。この二人にはしっとりと落ち着いた空気が性に合っており、一緒にいて苦になる道理はないだろう。


 ただ彩は、夕貴と二人で歩きながらも、景色が変わるたびにその視線を人混みの中に走らせて、きょろきょろとあたりを見渡していた。会話に支障が出るほどではなかったものの、ときおり彩の意識は散漫となって、雑踏に目を向けることのほうに集中していた。出逢いの一幕のせいで男性のことを恐れているのか、とも思ったが、それにしては彩の表情に怯えはなく、どこか必死な様子さえ感じられた。


 やがて行く当てのない散策にも終わりが見え始める。他愛もない話を打ち切ったのは、燈から藍に移り変わっていく空模様だった。


「そろそろ帰ろうか。もうけっこう遅い時間だしな」

「あ、そうだよね。もう遅いから、早く帰らないと」

「俺はともかく、櫻井さんは女子なんだからやっぱり親御さんも心配するだろ。近頃はなにかと物騒な感じだしな」


 とくに彩と同じ年頃の少女は、目に見えて夜間外出を控えるようになっている。もともと夕貴が、こんな時間に一人で非常階段にいた彩を心配したのは、それが理由のひとつでもあった。


 この街ではいま、それぐらい奇妙な”現象”が続いているのだ。


 事の始まりは十日ほど前、まだ年若い少女が高層ビルから飛び降りて自殺した。さらに数日後、同じ年頃の少女が川に身を投げて水死しているのが発見された。二件ともまず事故の可能性が疑われた。遺書の類が見つかっていないからだ。家庭環境や交友関係にも問題はなく、それどころか生前には自殺を否定するような行動も取っていたという。


 そして昨日、三人目の少女が死んでいるのが確認された。今度の死因は失血だった。深夜、人気のない路地裏に倒れていた少女は、自分の手で持った刃物で己の身体をひどく傷つけていたという。詳細がニュースで流れていないのは、それだけ凄惨な死に様だったということかもしれない。


 それが自殺か、事故か、あるいは巧妙な手口による他殺なのかはわからない。なんにせよこの街では一週間の間に三人の少女が亡くなっているのは確かだった。


 マスコミとしては『連続自殺』と題したほうが数字が取れるとでも判断したらしく、すでに世間では『少女の連続自殺事件』という一風変わった名称で騒がれている。


 とみに近頃は物騒だ。たしか一年か二年前にも、この街で通り魔殺人事件があって数人の犠牲者が出た。それを理由にして、部活で夜が遅くなる響子の送迎をほとんど毎晩のように無理やりさせられていたから苦い記憶として残っている。


 そんな時世なのだ。女性を早く家に帰してあげようとするのは間違った判断ではないと思う。


「まあ偉そうに言っておきながら、俺も帰りたくても帰れないような、でも帰らないといけないような感じなんだけど」

「でも萩原くんにも待ってる人がいるんでしょう?」

「うーん。待ってると言ってもいいのか、あいつは……」


 本気で悩む夕貴を、彩はしばらく見つめていたが、やがて寂しそうに笑みを落とした。


「早く帰ってあげたほうがいいよ。待ってる人がいるんだから」


 その言葉がきっかけだった。うじうじと現実から目を背けていても仕方がない。夕貴は覚悟を決めて悪魔が待つかもしれない家に戻る決意を固めた。


「そうだな。帰ろう。櫻井さんもほら、さすがにこれ以上遅くなると」

「……うん。わかってる」


 彩はひび割れたアスファルトを見つめていた。静かに、だが意志の強さを感じさせる瞳で。


「送っていこうか?」

「そんな。悪いよ。電車に乗らなくちゃいけないし、萩原くんが帰るの遅くなっちゃう」

「じゃあ駅まで。それぐらいさせてくれよ。もうすぐそこだけど」

「……ありがとう」


 はにかみに頬を染めて彩は頭を下げた。どことなく口数が少なくなった彼女と並んで駅前に向かう。向き合って、別れの挨拶を口にする。


「じゃあわたし、お母さんが待ってるから、帰るね」

「ああ。またな。気を付けて」


 それだけ告げて、彩と別れた。笑顔で手を振ってくれる彼女に、夕貴もまた笑顔を返して歩き始めた。人混みに飲まれるそのときまで、彩はずっと夕貴のことを見送っていた。


 彼女が改札をくぐるところを夕貴は見なかった。





 次回 1-3『四度目の夜』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る