1-1 『かつてどこかで見た笑顔』


「いやだからね、わたしは悪魔で、夕貴はわたしのご主人様なのよ」


 萩原夕貴の自室で繰り広げられた慌ただしい攻防の末、一階にあるリビングに移動したふたりだったが、さもそれが自然であるかのようにソファに腰を落ち着けた彼女は、相変わらずそんな訳のわからないことしか言わない。


「……はぁ」


 もはや溜息しか出ない。そんな夕貴の心情を知ってか知らずか、彼女はのんきに足をぶらぶらさせている。ちなみに服は無理やり着せた。


「おまえさっきから何回同じこと言えば気が済むんだよ。どこが悪魔だ。なにがご主人様だ。寝惚けたこと言ってる暇があったら現実見ろ。それが無理なら病院いってこい」

「あら、ひどい言われよう。口が悪いってよく言われない?」

「人を選ぶからぜんっぜん言われねえよ。人を選ぶからな。人を」

「ふーん」

「いやおまえ、いまの流れでよく他人事みたいに聞いてられるな?」

「ねえ、コーヒーか紅茶だったらどっちが好き?」

「……いちおう聞いてやる。その質問にどんな意味があるんだ?」

「あ、わかった。コーヒーでしょう。ちょっと待ってて」

「おまえがちょっと待て。なに自然にキッチンに向かってやがる。玄関はあっちだ」


 見るからに夕貴よりは年上の女性だが、初対面の印象から敬ってはいけない相手であるということは決定事項だった。怪しい宗教の勧誘を力強く断るときの感覚とよく似ている。


「えー? そんな冷たい。あんなに強く、激しい夜なんて初めてだったのに。この人しかいないって思わされちゃったのに」

「……マジで? なんか、そんな感じだったのか?」


 正直、まったく記憶にない。だから昨夜に何があったかわからない。それが夕貴が強く出られない理由の一つだった。もし何かの間違いでほんとうに手を出していたのなら、頭ごなしに全てを否定して責任をまったく取らないのは男として最低だと思うのだ。


「ひどい。ぜんぶ嘘だったのね。信じてたのに。おまえのこと大切にするって、もう離さないからって言ってくれたのに。おまえに出逢うために俺は生まれてきたんだって、そう強く抱きしめてくれたのに」

「どこのだれだよその俺は」


 そんなイケメンの萩原夕貴は並行世界にもいない。


「……だめだ、まじめにやろう」


 朝っぱらからこんな不審者と遊んでいる時間はない。


「おまえ、何が目的だ?」

「言わなきゃわからないの?」

「知るかよ。だから聞いてるんだ。ちなみに俺とか言い出したらぶっ飛ばすぞ」

「…………」

「頼むからなんか言ってくれ。怖い」

「じゃあ一言だけ」


 彼女は振り向く。流れた毛先が陽射しに溶けて、その眩さに目を細めた。


「夕貴」


 心をそっと差し出すような声。自分の名前さえ特別なものに思えた。


「……あ。夕貴? って俺? の名前のこと?」

「そうだけど」

「へ、へえ、俺かー」

「うん。夕貴が目的よ」

「あはは。そうかー。俺だったのかー」

「それ以外にあるわけないでしょう。はじめから言ってるじゃない」

「あはははは」


 意味不明な答えだったが、あまりにも透明な彼女の声に、夕貴は素直に照れた。壊れたように笑うしかなかった。


 いろいろありすぎたせいで麻痺しているが、いま目の前にいるのは、絶世という表現が相応しい美女である。こんなにまっすぐ見つめられると犯罪とか言っている場合ではない気がしてくる。


「……って騙されるか。俺が目的ってどういうことだよ。余計に危機感が増したわ」

「どういうことと言われましても」

「ほんとうのことを言え。いまなら許してやる。特別に警察じゃなくて救急車を呼んでやってもいい」

「そうね。まあ約束ってことになるのかな」

「約束だって?」


 うん、と彼女は頷く。


「それは大切な約束だから」

「へー」

 

 もう無理だ。お手上げである。会話が成立しない。もしかしたら頭がちょっとおかしいのかもしれない。そうだ、こいつはかわいそうなやつなのだ。夕貴の怒りは少しずつ哀れみに変わっていった。


 空気が動いた。ナベリウスが庭に面していた窓をあけたのである。四月の少し冷たい風が吹き込み、どこからか桜の香りがした。カーテンとともに、腰まで伸びた長い銀色の髪が揺れる。


「……花、きれいね」


 遠くを見るように目を眇めて、ナベリウスは呟いた。


「あ、ああ……きれい、だな」


 母子家庭が持つには少し大きすぎる庭には、丹念に整備された花壇があり、色とりどりの花びらが太陽の光を受けて輝いている。それを見つめる彼女の横顔も、流れる髪を手で押さえる仕草も、これまでのいざこざを吹き飛ばして余りあるぐらい、きれいだった。


「好きなの?」


 振り返りながらそう質される。夕貴は思考を見透かされた気になり顔を赤くした。


「はぁ!? ふざけんな! だれが、おまえのことなんか……」


 一瞬、ナベリウスはきょとんと表情を緩ませたが、特にからかったりすることもなく、それどころか苦笑までして、ふたたび庭のほうに視線を移した。


「花よ。好きなの?」

「……ああ。俺の母さんが好きなんだ。昔から花を育ててる」

「そう」


 それっきり彼女は押し黙り、咲き始めたばかりの小さな百合の花を見つめていた。


 夕貴の母親は、花のなかでもことさらに桜と竜胆を愛した。四季の移ろいとともに色合いを変える花々に母子で一喜一憂するのは、萩原家にとって当たり前の日常だった。それはいまでも変わっていない。実家に里帰りをしている母親のぶんも花の面倒を見るのは、夕貴に任された大切な日常の一つである。


「……水でもやるか。暇なら手伝ってくれよ」


 急に訪れた空白の間が、気まずい沈黙になるまえに夕貴は提案した。とても嬉しそうに笑ってナベリウスは頷く。それだけで訝る気持ちも和らいでしまう単純すぎる男がここにいた。


「ねえ、夕貴」

「なんだよ」


 知らない女とふたり並んで手に持ったホースから水を撒くというシュールな光景の中、夕貴がもう何も考えずに無の状態を保っていると、横合いから声が飛んでくる。


「さっきから、なんか鳴ってない?」

「ああ。実は俺もそんな気がしてる」

「出なくていいの? お客さんでしょう?」

「聞き間違いである可能性も否定できないということにしてる」

「あ、そう。じゃあわたしが代わりに……」

「頼むから大人しくしてろ! それが無理なら花に水やってろ!」


 はーい、という意外と殊勝な返事を背に受けて、夕貴は家の中へと戻っていった。やはり気のせいということにはできない。もう何度目かもわからない家のベルが、そんな夕貴の心中をさらに煽り立てる。


 道すがら、オートロックのカメラで確認してみると、訪問者は予定通りの二人だった。夕貴と同い年の男女が、こちらを覗き込むようにしてカメラの向こうに立っている。


『おーい、夕貴ー? 聞こえてるー? つか起きてるー?』

『どうせ寝てんだろ。空いてるとこから適当に入りゃいいんだよ』


 やめろバカ、という声が家のなかと玄関先で合唱した。やいやいと盛り上がる男女の声が聞こえてくる。玄関まで辿り着いたところで、夕貴は天井を見上げて嘆息した。


「……どうする」


 そういえば、と思い出す。今日はなにやら相談事があるからといって、幼馴染の二人が萩原家に寄ってから一緒に大学に向かう手筈になっていたのである。


 しかし、何をどう間違えたか、いま萩原邸には明らかに親戚の類では通用しない女がいる。友人たちの邪推にどう対応するか考えただけでも辟易するし、あのナベリウスとかいう自称悪魔がとち狂ったことを言い出して夕貴が社会的に追い込まれる可能性も捨てきれない。どちらにしろ鉢合わせることだけは絶対に避けたかった。


 急激に体調悪くなったからとか苦しい嘘をついて帰ってもらうしかないか。そんな考えを巡らせていた夕貴のすぐそばを、全ての元凶たる銀色の風が通り過ぎて行った。


「はーい、ちょっと待ってねー」

「だからおまえが待てよ!」


 あと一歩というところで玄関を開こうとしたナベリウスを慌てて制止する。細い腕を掴んでぐっと引き寄せると、もう余計なことをさせないために壁際に追い詰めた。


「わあ、強引」


 まるで緊張感のない声。この状況を楽しんでいるかのように薄く笑っている。でも残念ながら、夕貴は早鐘を打つ心臓の手綱を握るのに精一杯で、付き合う余裕は一切なかった。


「いいか? 落ち着いてよく聞け。この家には、じつは裏口がある」

「そんなのないでしょう。知ってるのよ」

「ある。大丈夫だ。行き方はこうだ。まず庭に出ろ。そして玄関とは逆方向に進んで裏の塀を乗り越えろ。それが無理でも気合で消えろ」

「それ、ぜんぜん大丈夫じゃなくない?」

「うるさいな。おまえのわがままも妄想も、もう聞いてる暇なんてないんだよ。今日のことは奇跡的にぜんぶ忘れてやる。だからおまえは帰れ」

「でもわたし、帰る家がないのよね」


 微笑みながら彼女は言う。あっけらかんと、いままでと同じように、それが何でもないことのように。


「どうしたの? そんなにわたしのこと見つめて」


 相変わらず好き放題に訳の分からない寝言を抜かしている女を見ていると、ふいに夕貴の頭に一つの可能性が思い浮かんだ。


「あ、わかった。昨夜のことが忘れられないのね。安心して。わたしもよ」


 この女、果たして現実なのだろうか。だって音もなく人の家に忍び込んで、裸で添い寝して、悪魔とか奴隷とかご主人様とか言って、しかも帰る家がないときた。まるで男を悦ばせるために存在する設定だ。リアリティがなさすぎる。


「まさかこいつ、俺の妄想か……?」

「頭だいじょうぶ?」

「いや、だめかもしれない」


 妄想に心配されるようでは末期である。そんな夕貴に、彼女は一歩近づいた。


「なんなら試してみる?」


 耳元で優しく囁かれた。ふわりと舞ったのは香りか、心だったのか。彼女から目が離せない。気付いたときには夕貴は仰向けに倒れ込んでいた。衝撃も、痛みも、驚きも、彼女を見つめているうちに過ぎ去っていた。


「ねえ」


 声が降る。温かくて柔らかな重み。夕貴の身体に跨って、彼女は言の葉を注ぐ。


「これでもまだ信じられない?」


 絹糸と見紛う白銀がさらさらとこぼれ落ち、カーテンのように二人を包み込む。フローリングに触れるほど長い髪。見上げる景色は、星空の天幕よりも壮麗だった。


 その揺れる瞳が、その流れる髪が、その紡ぐ唇が、その笑顔が、その在り方が、あまりにも幻想めいていたから。


「……信じられるわけ、ないだろ」


 おまえみたいにきれいな女がいるなんて、と。


 本心を口にしなかったのは精一杯の抵抗だった。


 夕貴は顔を赤くして、視線を逸らすことでしか自分を守れなかった。彼女に飲まれてしまいそうで、認めてしまいそうで。


「だから試してみればいいじゃない」


 彼女の頬はうっすらと上気して、聖性すら帯びていたはずの美貌に、生々しい色気が混じり始める。


「試す……?」

「そう。難しく考えなくていいの。これはお試しなんだから」


 お試し。


 まさしく天啓だった。悩んでいる暇があるのなら、いっそ試してみればいいのだ。こいつが本物かどうか、いいやつなのか悪いやつなのかどうか、気に入るか気に入らないか、とにかく何でも触れて、自分の目と手で実感してみればいいのだ。


 そうして少年は、悪魔に魅入られた。


 玄関の外では相変わらずごちゃごちゃ言っているが問題ない。昨夜、戸締りはきちんとした。鍵はかかっている。このまま黙っていれば友人二人は退散するだろう。


 がちゃ、と。


 いま世界でもっとも聞きたくない音がした。


「……がちゃ?」


 きぃ、と。


 思考する間も与えてくれない。聞き間違いでも気のせいでもなければ、どうやら蝶番が軋んで、うららかな春の陽射しとともに桜の香りが混じった冷たい風が玄関を染めていった。


 ああ、と夕貴は思う。いま目の前にいる女が、こうやっていつの間にか敷居を跨いでいた時点で、戸締りなんて言葉は忘れておくべきだったのだと。


 扉を開けた先に立っていたのは、夕貴と同い年の二人。幸か不幸か、逆光になって彼らの表情を窺い知ることはできなかった。


 玄関で謎の女を馬乗りさせている夕貴と、それを見つけてしまった幼馴染の図。


「…………」


 おそらく、そのままの状態で。


 一分は、みな無言だった。


「えーと、なにしてんの?」


 幼馴染の藤崎響子がとうとう口火を切る。


「見りゃわかんだろ。ナニだよ」


 もうひとりの友人である玖凪託哉くなぎたくやが追従する。


 彼らの驚愕と呆れと好奇心が絶妙に混ざった視線に晒されて、しかし夕貴にもたらされたのは確かな安堵だった。


 なぜならこの光景は、夕貴だけでなく、他の人間にもちゃんと見えている。


「やっぱりこれは、現実だったんだな――」


 辿り着いた道の果て、自分が妄想に侵されて頭がおかしくなっているわけではないという救いを得た。おかしいのは悪魔を名乗る女のほうで、夕貴は単なる被害者なのだ。それだけは疑いようのない事実である。


「あら、いらっしゃい。夕貴のお友達?」

「えっ? え、あっ、こ、こんにちは。あたし、藤崎響子っていって」

「どうも。託哉です」

「わたしはナベリウス。よろしくね、響子。託哉」

「わーい、勝手に話が進んでるー」


 夕貴との一幕など何事もなかったかのようにナベリウスが応じてみれば、華人もかくやという洗練された所作と、海外のスターたちが集うパーティにでも行かねばお目にかかれない美貌が、まあ庶民といって差し支えない幼馴染たちを圧倒し、怪しい空気をうやむやにしてしまうのだった。


 時刻はまだ朝の九時。一日の始まりは、むしろこれからだった。






「それでさ、今度みんなで花見をしようかって話になっててね。ん、ありがと」


 リビングのソファに腰かけて、藤崎響子は差し出されたコーヒーを笑顔で受け取る。ショートの髪と、少し日に焼けた肌が快活な印象を与える少女だった。女性にしては高い身長と同じく手足もすらりと伸びて、飾り気のないパンツルックの服装がよく映える。


 化粧や小物でおしゃれをするよりはスポーツで汗をかいているほうが似合う健康的な美人、とは周囲の評価だが、それは都合よく解釈しすぎだろうと夕貴は思う。


 現実は、朝から人の家に押しかけて当たり前みたいにコーヒーを注文する厚顔の女である。


「そんなことのためにオレたちをこんな朝っぱらに集めたのかよ」


 響子の差し向かいに座って、玖凪託哉は怠そうにぼやいた。明るく染めた髪と、左耳に光るピアス。背は高く、均整の取れた身体も相まって、街を歩けばそれだけで何も知らない少女は胸をときめかせるだろう。だがその目はいつも冷ややかに澄んでいて、どんなに乙女心を奪われたとしても、たった一瞥されれば恋を諦めるに違いない。


「そうよ。感謝してよね。ありがたくあんたにまず第一声かけてやったんだから」

「ぜんぜん嬉しくねぇ。むしろギリギリの最後に誘え。安心しろ。ちゃんと行けたら行く」

「それぜったい来ないやつじゃん。あたしが幹事をする以上、あんたたちが来るのは決定事項だから。とくに玖凪託哉くん。付き合ってもらうからね」

「オレは別におまえのこと好きじゃねぇんだけどなぁ」

「おーい、あたしがいつまでもベタなツッコミをすると思うな? ちなみに夕貴はもちろん来るよね?」

「そ、そうだなぁ。せっかくだし参加させてもらおうかなぁ」

「そっかそっか。じゃあこれで夕貴と託哉は参加と。話が無事にまとまってよかった」

「ああよかったよな。話はこれで終わりか? そろそろ時間もやばいし、早く大学に……」

「うん。ところでさ」


 そこで響子は何かを決意したように大きく深呼吸した。そして、ゆっくりとぎこちない動きで、これまで目を逸らしていた現実を直視する。


「……この人、だれ?」


 ナベリウスである。もうほんとうに幸か不幸かわからないが、いまのいままでこの悪魔はとくに何も言わず、幼馴染三人の会話を穏やかな眼差しで見守っていた。


「ナベリウスだ」

「いやさ、それはさっき聞いたよ? あたしが知りたいのは、そういうことじゃなくて」


 夕貴が女を連れ込んでいるだけでも事件なのに、それが日本人離れした容姿なのだ。こんな異物が萩原家に紛れ込んでいる事実を糺さずにはいられない響子の気持ちはよくわかる。


「夕貴の友達……にしてはいままで見たことも聞いたこともないし。彼女がいたらあたしたちが気付かないはずないし、実は最近になってようやく知った遠い親戚ってのはもっとありえないだろうし。ねえ?」

「なあ?」

「いや、夕貴に聞いてんだけど。だれに流してんのよ」

「だよな」


 長年の付き合いである。嘘は通じないし、そう簡単に誤魔化されてもくれない。


「まあなんていうか、なあ? 友達っていう線もありだと思うし? 彼女っていう可能性もなくはないかもしれないだろ? 親戚はありえないように見えて、事実は小説よりも奇なりって昔から言うよな?」

「そのちょいちょい問いかけてくるのなんなの?」

「なんでもないって。つーかおまえ、どうしても知りたいのか? そんなに俺のことが気になるのか?」

「え? 普通に気になるけど。こんな外人さん連れ込んでたら誰だってびびるじゃん」

「だよな」


 至極まっとうな意見だった。


 話は一ミリも進まず、というか当事者なのに何もわかっていない夕貴には説明できるはずもなく、中身のないやり取りを繰り返していくうちに、自然と響子はナベリウスに目で問いかけていた。


「そうね。いいかしら」


 やや畏まった、明らかに余所行きの口調で、自称悪魔は話を継ぐ。


「肉奴隷……いえ、わたしはね」

「いま壮絶な言い間違いがなかった? あたしだけ?」

「き、気のせいじゃないか?」


 やばい。爆弾を抱えている気分だ。ナベリウスがどういうつもりなのかわからないが、このまま放っておくと事態が悪い方向に転がっていく未来しか見えない。


 だが中途半端に場に馴染んでしまっているナベリウスの口を無理やり塞いだりしたら、それこそ後ろめたいことがあると証明しているようなものだ。


 最速でうまく切り上げて、ボロが出るまえに悪魔と幼馴染を引き離し、もう二度と会わせない。平穏な日常を取り戻すにはそれしかない。


 しかし、ナベリウスが語った内容は、思いのほかまともだった。


「実は最近になってようやく知った遠い親戚なのよ。この子の父方のね」


 考えられる可能性の中では比較的、という条件付きだが。


「へ、へえ、親戚ですかぁ……」


 響子は明らかに納得がいっていない様子だった。気持ちはよくわかる。そんな設定はいま初めて知った。


「ちなみにどういう繋がりなんですか?」

「さっき言った通り、夕貴の父親の親類にあたるものよ」

「まず夕貴のお母さんの名前ってなんでしたっけ?」

萩原はぎわら小百合さゆり。あなたも知ってるでしょう。幼馴染ならね」

「じゃ、じゃあ夕貴のお父さんの名前は?」

萩原駿貴はぎわらとしき。生年月日も答えましょうか?」

「う……ナベリウスさんってどこの国の人なんですか? 夕貴にも外国の血が入ってるんですか?」

「北欧よ。雪と氷しかない田舎で生まれ育ったわ。夕貴は、そうね。厳密に言えば日本人だけの血じゃないことは確かかな。この子の場合、母親の面影が強く出てるから、ちょっと分かりづらいけど。でもほら、男の子なのに肌が白いでしょう?」

「確かに夕貴って、子供の頃から肌がきれいだったような……」

「目の色も、黒ではないでしょう?」

「言われてみればちょっとだけ色素が薄いような……」

「ね?」

「は、はぁ。そう、なのかな?」

「バーナム効果すげぇ」


 ナベリウスはすらすらと答えていく。その言動には人が嘘をつくときに生じる特有の疚しさが一切なく、むしろ詰問している響子が罪の意識を覚えるほどだった。


 ただ人の歴史を勝手に改竄するのはやめてほしい。夕貴は間違いなく純血の日本人である。


 ……いや、そうとも言い切れないか。


 なにせ夕貴は父親のことをまったく知らない。母がまだ身重の頃に亡くなってしまったとだけ聞いている。だからナベリウスの言うように異国の血が入っている可能性もある。


 そして驚いたのは、ナベリウスが当然のように萩原駿貴の名を知っていたことだ。遺品どころか生前の写真すらないため、こればかりは家の中を捜しまわった程度ではわからない。興信所に依頼したとしても探れるかどうか。それぐらい萩原家には、父に関する資料が残っていなかった。親族の類にも会ったことがなく、お年玉なんて都市伝説だと思っているレベルである。


「託哉。どう思う?」


 そこで響子は、これまで不干渉だったもう一人の幼馴染に問いかけた。


 せんべいを齧っていた託哉は、顔を上げると、たったいま話を聞いたとばかりに適当な相槌を打った。


「あー? まあいいんじゃね? 親戚だって言ってんだろ? じゃあ親戚だろ」

「はい、どうでもよさそうな意見をありがとう。でもまあ、うん、そっか」


 響子は大きく頷いてみせると、勢いをつけて立ち上がった。そのままキッチンに向かう。


「夕貴ー? コーヒーのおかわりあるー? あ、ナベリウスさんもいりますー?」

「あるけど! おまえ切り替え早すぎだろ!」


 夕貴も慌てて響子のあとを追う。ナベリウスは花に水やりの続きをすると言って庭に出て、なぜかそれに託哉が続いた。


 夕貴は挽いた粉をフィルターにセットしながら言う。コーヒーメーカーがこぽこぽと音を立て始めた。


「ちょっと待て。いいのか、響子?」

「いいって言われても。なんか悪いことでもあんの?」

「そういうわけじゃないけど、でも」

「だってナベリウスさん、悪い人には見えないし。すっごく美人だし。羨ましいし。あたしは夕貴ほど成績とかよくないけどさ。バカなりに見る目はあるつもりだよ」

「つもりじゃ意味ねえんだよ、このバカ……」

「なんか言った?」

「なんでもない」


 さっぱりとした響子の性格も、この場合は、あまりよくないほうに作用している気がする。恐るべきことに、ナベリウスは大して中身のある話をしていないにもかかわらず外面だけで人を誑かせてしまったらしい。


「落ち着け? 違和感を見逃すな? おまえ、自分がなに言ってるかわかってるのか?」

「あんたがなに言ってんのかちょっとわかんないすね」

「冷静に考えてみろよ。あんな親戚がいると、ほんとうに思うのか?」


 忸怩たる思いで夕貴は問いかけた。昔から明るくて男勝りでスポーツが大好きで、どんなときでも元気に笑っていて、人を巻き込むのが当たり前の台風みたいな幼馴染だったけれど。


 そんなやつだからこそ、一緒に過ごした思い出は、どれも楽しくて掛け替えのないものばかりで。


 厄介事には関わらせたくないと、思ってしまうのだ。


 でも。


「当たり前じゃん。親戚だって、あんたがそう言ったんでしょ。信じる理由なんて、それだけでじゅうぶんじゃない?」


 そんなバカみたいに人のいいやつだからこそ、夕貴のことを信じてくれる。


「友達なら友達ってちゃんと紹介してくれるでしょ。恋人なら自慢してくるでしょ。でも一夜の関係ってほど後ろめたさも見えないし、消去法でいくともう親戚ぐらいしかないかなって。あと優しいんだよね。あんたを見る、あの人の目がさ」

「優しい……?」


 ある種の寄生虫は、己が絶滅しないために宿主を生かしてコントロールするという。その様子は、確かに共生関係にも見えるだろう。だが実際は、てのひらで転がされているよりも遥かに始末が悪い。


「あの悪魔女、これから俺をどうするつもりなんだ……」

「はい、それも」

「どれだよ」

「夕貴ってさ、人の悪口あんまり言わないじゃん」

「だって人を選ぶからな」

「その選ばれてる人をあたしはなかなか見たことないって話をしてんだけどな」

「他人事みたいに言ってるけど、おまえもかなりの頻度で選ばれてるからな? 自覚しろ? いきなり人んち押し掛けてくるのはまだしも、部活で夜遅くなるからって強制的に護衛という名の荷物持ちさせてたのはどこのどいつだよ」

「あはは、でも文句言いながらも付き合ってくれる夕貴ちゃん好きだよ」

「はいはい俺もおまえのこと好きだよ。そのバカみたいに調子のいいとこがなかったらな。あと夕貴ちゃん言うな」


 この場合は喜んでいいのか判断に迷うところだが、響子なりに落としどころは見つけたらしい。とにかく余計なもめごとは回避できた。あとはナベリウスを国に帰すだけだ。雪と氷しかない田舎で生まれ育ったとかいう、ちょっとそれっぽい設定を活躍させるときがきた。


「それよりいいの? あれ」


 響子が顎だけで庭のほうを指し示す。カーテンの向こうでは、ナベリウスと託哉が二人きりで何やら話している。遠くて声は聞き取れないが、それなりに会話が弾んでいることだけはわかった。嫌な予感しかしない。


「よくないな。あれはよくない」


 ここまでくると夕貴のいない間に交わされた会話の中身を知るのが怖すぎて、もう止めにも入れなかった。


「ま、そうだよねー。よくないよねー」

「なんだよ。そのお手本みたいな棒読みは。あと変な笑い方すんな」

「あの夕貴もとうとう大人の仲間入りかと思うと涙が出そうになるわ」

「勘繰るなよ。あいつがどこでだれと何してようが関係ないから」

「あれれ、そういうこと言っちゃう? ほんとに気にならないの? 親戚のお姉さんっていう属性がまたツボを押さえてる感じよね」

「見かけに騙されるな? あいつはとんでもない悪魔みたいな女なんだぞ。自分勝手だし、人のことさんざん振り回すし、今朝だって」

「ふーん?」


 ぶつぶつと文句をこぼす夕貴の横顔を、響子は和やかな表情で見ていた。次々と繰り出される罵詈雑言の中に、それだけではない何かを感じ取ったのかもしれない。


「ま、いいけどね。夕貴のお母さんが家を空けてる間に、若さと勢いに任せて爛れた生活を送っているとかじゃなければ」

「バーカ。そんなわけ」


 ないだろ、と否定しかけたところで、庭のほうからナベリウスが戻ってきた。


「あ、ご主人様……いえ、夕貴」


 響子が振り向いた。


「あんなこと言ってるけど?」

「そ、壮絶な言い間違いだなぁ」


 玖凪託哉がリビングに戻ってきた。


「よお師匠。たったいま聞いたぜ。オレにも教えてくれよ。そのお前が編み出したっていう、どんな女でも一秒で完堕ちする幻の秘孔ってやつを」

「あんなこと言ってるけど?」

「知りたくなかったー!」


 ナベリウスと託哉を二人きりにするのではなかったと、夕貴は心の底から後悔した。


 その後、夕貴は、託哉と響子の三人で大学に向かうことになった。今年の春から入学したばかりの彼らは今日、オリエンテーションを受けることになっていた。怠けたのか足取りの重い友人を無理やり玄関に引っ張っていく。


 少しだけ待ってもらうように言って、夕貴は二階の自室にカバンを取りに行った。階段を上ってすぐ、人の気配に気付いた。夕貴の部屋ではない。その奥だった。母親の部屋の扉が、わずかに開いていた。


 不思議と、不安には思わない。怒りも焦りもなかった。夕貴はゆっくりと母親の部屋に足を踏み入れた。電気が消えて、遮光カーテンに覆われた部屋は薄暗い。白を基調とした、あまり飾り気のないシンプルな空間。


 その中心に彼女はいた。


 声をかけようとして、躊躇った。ナベリウスは夕貴に見向きもしない。気付いているかも定かではなかった。浮世離れした銀の双眸は、棚に置かれた一枚の写真だけを見つめて離さない。


 まだ小学校に上がったばかりの夕貴と、その手を握る母親という、それだけの写真。


 ここにあるのは、ほんとうにそれだけだった。


 ほかのどの写真を見ても、握られる手は一つだけだったから。


 改めて見ると、夕貴は母親に甘えるように身を寄せていて、そんな少年を苦笑しながら見守る母の目はわずかに赤くなっている。血の繋がった子供の成長を喜ぶ、そんなどこにもである過去の写真。それがとても大切そうに飾られて、時が流れたいまも色褪せていないことだけが、ここにある未来。


「いい写真ね」

「まあな。俺が男前すぎる」

「どこがよ。完全に女の子じゃないこれ」

「言ってろ。会ったばかりのおまえに俺の何がわかる」


 それに、と彼女は呟いた。


「お母さん、笑ってる」

「いつも笑ってるぞ。たぶんおまえの話を聞いても笑うんじゃないか」


 下手をしたらナベリウスの境遇に同情してほんとうに居候を許しかねない。夕貴は嫌な未来を想像してかぶりを振った。ナベリウスは目元を和らげて、この人は笑っているほうがいいって、そう言った。


「まあ何があったかは知らない。でも困ってるなら話ぐらいは聞いてやるよ。自由奔放を貫きすぎなとこはあるけど、悪いやつじゃなさそうだしな。だから、おまえもそろそろ……」


 そう言って、一向に写真に囚われたままの彼女の肩を掴んで、こちらに振り向かせた。至近で目が合って、夕貴は呼吸が止まった。その瞳が、いまにも泣き出しそうなほどに揺れていたから。


 泣いている。


 あの子が泣いている。


 泣いてほしくないって、あなたには笑っている顔のほうが似合ってるって、そう言ったはずなのに。


 ありえない夢の面影に動揺して足の踏ん張りがきかなかった。巧みに身体を引っ張られて、気付いたときには、ナベリウスをベッドに押し倒すような体勢になっていた。


「お、おまえ……」


 全て間違いだった。気のせいだった。運の尽きだった。だってこんなにも彼女は、悪魔のごとき笑みを浮かべているのだから。


「ねえ。いまあの二人がわたしたちを見たら、どう思うかな?」


 夕貴の頬を撫でながら彼女はささやく。


 すぐ退けばいいだけなのに、至近で見つめられると、それだけで金縛りにあったかのように身体が動かなかった。


「……さあな。そんなの知らねえよ」


 ナベリウスから目を逸らす。倒れた拍子に服ははだけて、肩口があらわになっていた。吐息がかかる距離でつぶさに観察しても、やはり到底現実に存在するとは思えない美しい容姿をしている。


「試してみる? 夕貴の信用が上か、わたしの演技力が上か。まあ、あんなわかりやすい演技に引っかかるようなあなたに勝算があったら、の話だけど」


 やられた、と夕貴は舌打ちした。おかしいと思ったのだ。この女があんな顔をするはずがない。初めから全て仕組まれていたのだ。こうして夕貴を追い詰める腹積もりだったのだろう。


「悲鳴を上げてみましょうか。もっと衣服を乱して。あぁ、ついでに涙の一つでも流しておいたほうがいいかもね。設定的には、そうね。親戚のお姉さんに我慢できなくなって襲い掛かっちゃった男の子の図ってところかな?」


 じつに泰然とした表情である。心臓が爆発しそうな夕貴とは大違いだ。言うまでもなく被害者は夕貴だが、何も知らない第三者がこの場を見たら、間違いなくナベリウスのほうを助けに入るだろう。それが願わくは、幼馴染の二人ではあってほしくないのだ。


 手錠がかかることはなくても、性欲を抑えきれなかった変態という名の烙印を押されるのは避けられないだろう。あいつらに死ぬまでからかわれながら生きることを思うと絶望で死にそうになる。


「ちょっと待て。落ち着け。話し合おう。話せばわかる。そうやって人は生きてきたんだ」

「ごめん。わたし悪魔だから」

「……ちっ、電波塔の間違いだろうが」

「なんか言った? 叫ぼうっと」

「考え中! 考え中って言ったんだ!」


 ひたいから汗が流れる。そんな夕貴を、ナベリウスは涼やかな顔で見つめていた。


「な、なにが望みなんだよ」

「言ったでしょう。わたし、帰る家がないの。しばらくの間でいいから、ここに泊めてよ」

「おまえは俺の親戚って設定じゃなかったか?」

「そういう設定よ? それをあの場だけの嘘にしたくないって言ってるのよ。まだ雪と氷しかない田舎には帰りたくないのよね」


 この後、すぐに追い出すという算段を見抜かれていたらしい。


「おまえは」

「ん?」

「……いや」


 夕貴の逡巡は、ほんの僅かな間だけだった。あるいは初めから迷いなんてなかったのかもしれない。きっと夕貴はこうなる未来をなんとなく予想していた。


 自分の部屋で、彼女を抱きしめた、あのときから。


 ただ何かの間違いで彼女が砕けてしまわないようにと、そう思ってしまったから。


「俺は男で、おまえは女だ。……正直、我慢とか、そういうのできるって約束はできないぞ」

「わたしはべつにいいけど? 夕貴はご主人様で、わたしは奴隷みたいなものなんだし」


 自分が優位に立ったあとも彼女の言葉は頑なに変わらない。しばらく見つめあったままだった。下に友人二人を待たせているという状況がまた夕貴を焦燥させていた。


 それから数十秒ほど経ってから、ようやく夕貴の口が開く。その直前、ナベリウスの白い喉がかすかに動いたことに夕貴は気付かなかった。


「……わかったよ。ちょっとの間だけだぞ。そのかわりちゃんと話を聞かせろよ」

「初めからそう言ってくれれば話は早かったのに。まったくもう、手間がかかるったらありゃしない」

「頼むからそれをおまえが言うな……」


 もしかしたらたちの悪い詐欺師に引っかかってしまったのかもしれない。そう考えると憂鬱で死にそうだった。


 でもなぜだろう。


 彼女がそんな人間ではないと、心のどこかで確信している自分がいる。


「夕貴、ありがとう」


 支度をする夕貴の背に、そんな言葉が投げかけられた。


「そんな殊勝なことが言えるなら、もう悪魔なんてバカげた妄想は止めとよ。ナベリウス」


 負けを認めた以上、彼女にはもう訳のわからない演技をする必要はないだろう。ナベリウスなんて明らかな偽名をいまさら呼ぶことは、夕貴なりの皮肉のつもりだったのに。


「あっ、やっと呼んでくれた。わたしの名前」


 彼女は柔らかく微笑む。その瞳はいつ朧になるかも知れない月のように儚く濡れて、憂いを帯びている。夕貴は静かに息を呑んで、そんな少年を見守る彼女の目はわずかに赤くなっていた。それだけが、いまここにある確かな現実。


 予想していた悪態も、覚悟していた反駁もない。


 思ってもいなかった反応に夕貴は言葉を失って、ただ、かつてどこかで一人の子供の手を握りしめていた母親のような、その笑顔を見守ることしかできなかった。





 次回 1-2『彩』


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