1-3  『四度目の夜』


 夕貴が帰宅したのは、櫻井彩と別れてから十五分も経たないうちだった。


 鍵は閉まっていた。玄関を開けると、真っ暗な廊下が夕貴を出迎えた。それを見て、少しばかり息を止めてしまったのはなぜだろう。考えてもわからなかった。


 もうすっかり日は暮れている。背後から差し込む月明かりが、家の中にわだかまる闇を強調して、寂寞とした感傷をよりいっそう浮き彫りにさせる。


 過去を振り返れば、いつだって夕貴は一人ではなかった。どんなときも母が出迎えてくれた。わざわざ玄関まで顔を見せて、おかえりなさい、と温かく言ってくれるのだ。子供の頃はそれが嬉しかった。でも年を経るにつれて、わざわざそこまでしなくていいのにと思うようにもなった。ときには邪険な態度を取ってしまったこともあった。


 もしかしたら夕貴の母も、かつてこんな冷たい家の中を見たことがあったから息子を一人にはさせなかったのかもしれない。


「……ただいま」


 ぽつりと呟く。だれに向けたわけでもない。ただの習慣だった。溜息をついて靴を脱ぐ。


「あ、おかえりー」


 脱衣所のほうからひょっこりと眩い人影が出てきた。


「は? え?」


 色んな意味で驚きだった。返事があることにびっくりしたし、まさかほんとうに家主より先に帰っているとは思わなかったし、電気は確かに消えていたはずだし、なにより問題は彼女の装いである。


「けっこう遅かったのね。ごめんなさい、先にお風呂入っちゃった」


 濡れた銀髪にタオルを当てながら、自称悪魔はこともなげに詫びる。ラフな格好に身を包み、肌はほのかに上気して甘い湯気が立っている。


「どうしたの? そんなところに突っ立って」


 まるで恥じることも怖じることもなく、あたかも間違っているのは帰宅したばかりの夕貴のほうであると言わんばかりの涼しげな顔だ。


 夕貴は気が遠くなった。現実とは夢とはその境目とはいったい何だろうか。


「ああ……」


 やっぱりこいつマジで悪魔なのかもしれない。こんなに堂々と人様の家で寛げるなんて普通の神経じゃない。これはいよいよ俺の手には負えない案件なのではないか。というかやっぱり今朝の出来事は何かの間違いじゃなかったんだな。


 そうやって。


 そうやって、胸のうちに灯った何かの感情に、夕貴は気付かないふりをした。


「警察でもなく、病院でもなく」

「なんの話?」

「エクソシストでも呼んでみるか……」

「こわ。いきなり電波な発言やめてよ。ドン引きなんだけど」

「なぜか俺がドン引かれてる不思議……」

「うそうそ。冗談。そう落ち込まないで」

「なんか泣きそう。いろんな意味で」

「もう、仕方ないなぁ。夕貴は」


 ナベリウスは軽やかな足取りで近づいてくると、項垂れる夕貴の頭をぽんぽんと優しく撫でたりする。抵抗する気力もなく、恨めしげに睨みつけると、そんな視線すらも優しく包み込むように彼女は目尻を下げた。


「……なんだよ」

「んー?」


 わけもなく敗北感を覚えた夕貴は、挑みかかるように低い声で質した。その間もナベリウスはずっと夕貴の頭を撫でている。


 夕貴の身長は約百七十センチほどと平均より少しだけ低い。ナベリウスはそれよりもさらに五センチぐらい下だと思うが、こうして弄ばれていると背の高さまで逆転してしまった気がしてくる。


 あまり言いたくないが、近所のお姉さんに可愛がられている感じだ。


 ただ面と向き合って動くのはやめてほしい。胸元の大きすぎる膨らみがふるふると揺れるたびに死にそうになる。呆れながらも視線だけはずっとある一点に集中している夕貴は男の子なのでなにも悪くない。


「んー」


 今度は顔をぺたぺたと触られた。


「だからなんだよ。文句でもあんのか?」

「文句はないなぁ」


 明らかに投げやりな相槌を打ちつつ、ナベリウスはなおも夕貴に触れる。


「じゃあ気安く触るなよ。これ逆だったら犯罪だぞ。いやむしろこれも犯罪だぞ」

「おあいこね。わたしもいろいろと触られたし」

「それ言っとけば俺が引き下がると思ってるな? あんまり調子に乗るなよ? そろそろ俺も本気出すぞ?」

「そうね。楽しみにしてるわ」


 しばらく一方的に触れ合ってから、ナベリウスは満ち足りた様子できびすを返した。その背中を、なんとも言えない心地で夕貴は見ていた。


「なに、もしかして怒ってるの? ちゃんと出迎えてほしかった? ようこそお帰りなさいました、とか言われたい派? 三つ指系の人?」

「どうでもいいけど家中の電気消えてたのはなんでだよ。まさか驚かせようとでもしてたのか?」

「……節電も知らないの?」

「呆れるとこが違う! それに気を回す余裕があるなら、なんで男のベッドに裸で添い寝する自分を省みなかった!?」

「添い寝じゃないわ。同衾よ」

「ニュアンス的に遥かに悪化してるから! それよりおまえ、当然みたいに人んちの風呂入った挙句よくそんな堂々といられんな?」

「だってほら、わたしって悪魔でしょ? ナベリウスちゃんでしょ?」

「もうそれ言えば何でもアリみたいになってやがるな……」

「安心して。わたしがこんなこと言うの夕貴だけだから」

「被害者が俺だけって知らされて逆にショック受けたわ」


 だが驚きはそれだけに留まらなかった。


 リビングではすでに夕餉の支度が整っていた。見事に炊き上がった米、出汁が香る味噌汁、緑野菜とカットトマトで色の調和が取れたサラダ、たっぷりと旨味を閉じ込めた脂を滴らせる焼き魚。


「嘘だろ……」


 明らかに異国の風情を漂わせる彼女からは想像もつかない、基本を抑えながらも的確に調理された和食の数々。


「こういうのってふつう料理できない設定じゃないのか……」


 もはや何も意見できず、バカみたいに大口を開けて立ち尽くす夕貴を、ナベリウスは仕方のない弟を言い含める姉のような自然さで遇した。


「なにしてるのよ。ほら、すぐ支度するから座ってて」

「あ、はい」

「適当に冷蔵庫のあまりものだけで作ったから口に合うかは分からないけど」

「いえ、お気持ちだけでも」

「なんで急に敬語なの?」

「いや、なんとなく……」


 としか言いようがなかった


「悪魔って、料理するのか?」

「するわよ。おなか減るじゃない。わたしたちのことどう思ってるのよ」

「えーと、人間襲って食べたりとか?」

「まずいから嫌よ」

「なんかもういまならちょっとだけ信じそうになるから嘘でもやめろ」


 何か企みがあるのか。泊めてもらうことに彼女なりの恩を感じているのか。ただ単に、人の世話を焼くのが好きなのか。どれでもないし、どれでもある気がした。


「いただきます」


 手を合わせて合唱する。いよいよ妙なことになってきた。今朝出逢ったばかりの女に手料理をふるまってもらうなんて、昨日までの自分からは想像もできない。


 これで毒でも入っていれば、なるほどそういうことだったのかと逆に納得するだろう。いや、むしろ入っていてほしかった。そっちのほうがわかりやすい。夕貴も鬼になって冷徹な態度を決め込める。


「あ」


 だが美味い。優しい風味。夕貴の好きな味付けだった。少しだけのつもりだったのに、夕貴はまた味噌汁を啜って、次はふっくらと見事に炊き上がった米に手を付けた。


「……なんだよ」


 そこで夕貴は、ナベリウスが箸に手を付けず、テーブルに頬杖をついてこちらをじっと見つめていることに気付いた。


「ううん、べつになんでもあるよ」

「あんのかよ」


 ナベリウスはうっすらと目を細めて夕貴を見ている。その柔らかな眼差しに夕貴はなんだか敗北した気になった。仕返しとして、彼女の作ったご飯をこれでもかと食べた。おかわりの追撃もした。はいはい、と仕方なさそうに笑い声が応じた。


「というわけで、話をしよう」


 食後のお茶を飲みながら夕貴は切り出した。


「おまえのそのよくわからない謎の勢いに負けてここまで引っ張ってやったが、そろそろ本題に入りたいと思うんだよ」


 同じくお茶を飲みながら、ふんふん、とナベリウスは頷く。見るかぎりやましい様子はなく、あたかも世間話を振られたような自然体だった。


「おまえの本名は? どこから来て、なにが目的で俺に近づいた?」

「だからナベリウスちゃんだってば。あ、もしかしてソロモン72柱をご存知ない?」

「ご存知だから余計にこんがらがってるんだよ。ちなみにいま俺の中でおまえは相当に痛いやつになってるからな」

「あら、それは残念。でも名前を聞かれたら、わたしにはナベリウスとしか答えられないわ」

「……なるほど。つまりおまえは、たまたま悪魔と同じ名前をしてるってことだな?」


 きっと雪と氷しかないという設定の北欧の田舎ではメジャーな名前なのだろう。話が進まないので、夕貴はひとまず思考のレベルを合わせて、そう思うことにした。


 それになかば本能的なレベルで夕貴は感じ取っていた。この女は、恐らくまともな人間ではない。いい意味でも、悪い意味でも。


「で、なにが目的だ?」

「それ、けっこう難しい質問よね。まあいろいろと説明しようと思えばできるけど、でも簡単に言うなら、わたしの個人的なわがままってことになるのかな」


 彼女なりに白状する気はあるらしく、かなり真剣に考え込み、うまく言葉を選んでいるようだった。もっとも、選ばれた言葉次第によっては即座に警察か救急車を呼ぶことになるので、彼女の長考は決して間違っていない。


「わたしはただ、夕貴のそばにいたいって、そう思っただけだから」

「ふ、ふーん?」


 不覚ながら照れた。疑う余地もなく心にすんなり染み入るほど、彼女の声は優しかったから。


「そのそばにいたい理由を聞いてるんだけどな。大切な約束とか言ってたよな。あれはなんだ?」

「言ってもいいんだけど、そうしたら夕貴、たぶん怒ると思う」

「いまの俺がまったく怒っていないように見えるか? 眼科でも行っとくか? ええ?」

「うれしい。夕貴が心配してくれるなんて」

「自分の心配してんだよ! このままだといつ寝首をかかれるかわからないからな」

「心配、ねえ」


 ナベリウスが視線を巡らせる。テレビのニュース番組だ。彼女の興味がそちらに移っていることに気付き、夕貴も同じく注目した。


「……連続、自殺」


 画面上では無機質に羅列していた文字も 口に出してみれば何とも嫌な響きだった。それは先日からこの街で起きている”事件”についての報道だった。若い少女がいろんな方法で自殺していくという怪奇的な現象。番組では専門家たちがそれぞれ意見を交わしている。


「夕貴には、守りたいと思う人はいる?」


 それは何気ない問いかけだった、と思う。彼女の真意はわからない。でも瞳だけは、まっすぐに夕貴を見ている。夕貴は逃げることが大嫌いだった。だから、はぐらかさずに答えた。


「……そりゃいるよ。だれだっているだろ。守りたい人ぐらい」


 たとえば家族。たとえば友達。なにも特別なことではない。せめて身近な人には笑っていてほしいと思うものだ。だれだって。


 だから、まあ、なんていうか。


 別にいまのところ損はないわけだし。ほかに行く当てがないというこの女をここで追い出して、それこそ何かの物騒な事件にでも巻き込まれでもしたら後味最悪だし。黙っていれば美人だし。話していてつまらなくはないし。


 飯は最高にうまかったし。


「……ちっ」


 夕貴は立ち上がった。もやもやとした気分だった。でもそれが嫌じゃなくて、そんな自分が嫌だった。


「風呂、入ってくる。いや、その前に洗い物だな」

「もういいの?」

「疲れてるからな。誰かさんのせいで。早く風呂に浸かって一日の疲れを取りたいんだよ」

「ふーん?」


 含みのある視線を寄越すナベリウスに気付かないふりをして、夕貴はまず彼女を一階の客間に案内することにした。まあ客間とは名ばかりでほとんどからっぽの空き部屋に近いが、最低限の調度類はあるし、布団を敷けば立派に体裁は整う。


 ナベリウスが客間を検分している間に、夕貴は手早く洗い物を含めた後始末をしていた。せめてもの礼である。立場はどうであれ、わざわざ料理を振る舞ってもらったのだ。


「……あいつがうちに泊まるのかぁ」


 皿を洗いながら口にしてみても、あまり実感は湧かない。実家に里帰りしている母親に伝えるべきだろうかと迷った。でも「ナベリウスと名乗る女がいきなりやってきて気付いたら一緒に住むことになった」とか急に息子に言われる母親の気持ちを想像するとそう簡単にはできなかった。


 夕貴の母親は、女手一つで彼を育ててきた。頼る者はいなかった。両親が結ばれるとき、祝福してくれる人はいなくて勘当同然だったと聞いている。


 でも夕貴が大学に入るのと同じ頃、母方の生家との縁故が戻った。どういう事情があったかは知らない。ただ母が喜んでいたから、夕貴はそれでいいのだと思った。遠いからと、新しい生活が始まったばかりの夕貴を慮って、一人で母は出かけて行った。夕貴も親戚には会ってみたかったが、積もる話はたくさんあるだろうし、今回は留守番を頼まれることにしたのだ。


 洗い物はすぐに終わった。シャワーを浴びようと廊下に出たところで、客間からナベリウスがぴょこっと顔を出した。


「あ、いまからお風呂入るの?」


 大人びた顔立ちとは裏腹に、その仕草はどこか子供っぽい。


「もしよかったらわたしが背中流してあげようか?」

「いるか! あと何度も言ったけど寝るのは別々だからな!」

「えー? 今日も一人?」

「明日も一人だ」

「我慢は身体によくないんじゃない? 年頃でしょう」

「余計なお世話だ」

「不足の間違い。ちっともお世話させてくれないくせに」

「ああ言えばこう言うやつだな……」


 それだけ吐き捨てて、夕貴はナベリウスの前から立ち去った。風呂場にはシャンプーの芳香が湯気とともに充満していた。


 それはきっと少し前に誰かがここでシャワーを浴びていた名残で。


 濡れたタイルも、水滴の音も、まだ人のぬくもりを感じさせて。


 立ち込める彼女の気配に、夕貴は気が狂いそうになって、ひとまず冷水で頭を流した。


「ちくしょう」


 ほんとバカバカしい。なにを考えてやがる。


 でも自分に嘘はつけない。確かに俺は浮かれてる。ちょっと楽しいって、こんなのも悪くないなって、ドキドキしている単純な男がいる。


 それも無理はないと思う。夕貴は今年で十九歳。つまり異性が気になって仕方ない年頃なのだ。怒ってみせたり呆れてみせたりで自分を誤魔化しているが、もしまともな出逢いなら、夕貴は間違いなくナベリウスに恋をしていただろう。そんな幻のような美しい女と、一つ屋根の下で寝ることになるのだ。これで冷静でいられる男のほうがどうかしている。


 バスタブに張られた湯でさえなんだかいつもとは違うものに思えてきて、でもそんな風に感じる自分があの女にいいようにやられている気がして、とにかく悔しくて、夕貴は勢いよく湯船に飛び込んだ。


「ねえ、夕貴」


 ふいに名を呼ばれた。気配に気付かなかったのは、それこそ夕貴が余計なことを考えていたからか。すりガラス状の扉の向こうに少しだけ映る銀色の影は、ただ佇立したまま動く様子はない。


「なんだよ。覗こうとしても無駄だぞ。鍵かけてるからな」

「なんだ残念。夕貴ちゃんの可愛い背中を流してあげよっかなーって思ったのに」


 言ってから、ナベリウスは扉にもたれかかった。もともと顔は見えなかったのに、いまはもう背中しか映っていない。


「一つ言っておくが、夕貴ちゃんは絶対やめろ。あと可愛いとか死んでも言うな」


 これでも気にしているのだ。まだ幼い子供の頃はほとんど女の子と間違えられたし、成長したいまでも顔つきは精悍とは言い難い。身長だって平均よりも少し下ぐらいだ。母親によく似ていると言われれば嬉しいけれど、それは行き過ぎれば男としては沽券に関わる問題だった。


 会話が途切れて、かすかな水音の残響がなくなった頃、ナベリウスはぽつりと言った。


「わたしって、ここにいていいのかな」

「はあ? そう思うなら知らない男のベッドに裸でもぐりこんできてんじゃねえよ」

「……そうね。何かしてほしいって、思ったのかもしれない」


 抑揚のない口調。それっきり彼女は何も言わなかった。銀色のシルエットは動かぬままだった。顔が見えない。彼女がどんな顔をしているのかがわからない。


 それなのに。


 彼女がどんな顔をしているのか、わかってしまった。


「まあでも、いいんじゃないか」

「え?」

「飯が上手い女に悪いやつはいない。って、昔から母さんが言ってる」

「……ふふ、なにそれ」

「あと、まあ」


 顔を見られるはずもないのにそっぽを向いてしまったのは、たぶん素直になるのが恥ずかしかったから。


「俺も、そう思ってる」

「…………」


 また静寂に戻った。扉の向こうで、優しく笑う気配がした。


「俺からも、一つだけいいか?」

「なに? スリーサイズ? それなら今夜にでも……」

「ベタなボケだな」


 苦笑する。むしろ苦笑できてしまうあたり、すでに夕貴はかなり悪魔に絆されているのかもしれない。


「俺たち、会うの初めてだよな?」

「ナンパの練習? それだったらやっぱりゼロ点だと言っちゃうことになるけど」

「そういうわけじゃないんだけどな」


 言ってから、同じ質問を櫻井彩にもしていたことを思い出した。そんなことを女性に対して手当たり次第に言うなんて三流のナンパ野郎もいいところだ。どうにも調子が狂っているらしい。それでも夕貴は言葉を止めなかった。彩のときは気のせいで流せるささいな疑問だったが、ナベリウスは違う。


「俺は、ただ」


 出逢ったときから不思議だった。どうして夕貴は、こんなにも簡単にナベリウスを受け入れてしまっているのか。


 朝、普通なら本気で恐怖を覚えて警戒心を抱いたはずだ。彼女に迫られたときも強引に振り払うことだってできたはずだ。今夜も真剣に問い詰めようと思えば可能だったはずだ。それなのに夕貴は何もしなかった。結果として、当面の間とはいえ彼女と一緒にいることを認めてしまっている。


 どうしてだろう。そう思って、考えて、何もわからなくて。


 でも感じるのだ。


 このぬくもりを、懐かしいって。


「やっと気付いてくれたのね」

「マジで? じゃあ俺たちは」

「わたしとあなたの、前世からの絆を」

「はいはいマジメに聞いた俺がバカだった。つーか悪魔に前世とかあんのかよ」

「さあ。でもあればいいと思わない? それなら来世になっても、また夕貴に逢いに行けるでしょう?」


 夢見るような口調。それっきり彼女は何も言わなかった。銀色のシルエットは動かぬままだった。顔が見えない。彼女がどんな顔をしているのかがわからない。


 今度は、わからなかった。


「つーか、人間よりも寿命短い悪魔とかもう悪魔じゃねえだろ」

 

 夕貴はそれだけしか答えられなかった。そうね、と苦笑が返る。


「ただ、ひとつだけ」


 ナベリウスが神妙な声で切り出した。


「ひとつだけ、お願いしたいことがある」

「なんだよ」

「わたしがひどいことをしても、嫌いにならないでくれると、うれしい」


 いきなり不可解なことを言われて、夕貴は怪訝な気持ちよりも先に、いま巷間で話題となっているニュースを思い出して失笑した。


「おいおい。まさか例の女の子の連続自殺に、じつはおまえが関わってるとかいうわかりやすいオチじゃないだろうな? 時期もタイミングも何もかもぴったり一致するし」

「…………」

「頼むからなんか言ってくれ。怖い」

「大丈夫よ」

「ははは、まあそうだよな」

「あなたは見逃してあげるわ」

「そっちかよ! それぜんぜん大丈夫じゃねえだろ! あと俺が男だってことはもちろんわかってるよな!?」

「昔の偉い人間は言いました。バレなければ罪じゃないと」

「語源とかまったく知らないけどそれ言い出したのたぶん偉い人じゃないと思うぞ」

「あら、後世まで言葉を伝えてる時点でもう偉人でしょう?」

「ほんとああ言えばこう言うやつだな……」


 憂鬱を吐き出すように大きく溜息を漏らして、熱い湯で顔をすすぐ。ぴちゃん、と水の跳ねる音がした。


「大丈夫だよ。おまえみたいなやつは、悪いことしようと思ってもできないタイプだから」


 それは心の底からナベリウスをそう思って口にした言葉だったのか、彼女を信じたいと願う自分に言い聞かせるためのものだったのか。


「……ありがとう」

「バカ。勘違いするなよ? べつにおまえのこと褒めたとか、そういうのじゃないからな?」


 なんとなく訂正しておいたほうがいい気がして夕貴がまくしたてると、それには何も返さず、ナベリウスは静かな足取りで風呂場を辞した。後には夕貴だけが取り残される。

 

「……ぜったい勘違いしやがったな、あいつ」


 悪態をつきながら風呂を上がると、すでにリビングには誰もおらず、ナベリウスは指定された客間にいるらしかった。髪を乾かすのもほどほどに二階の部屋に上って、そのままベッドに倒れこむ。身体を投げ出すと、張り詰めていた意識が急速に緩んで、すぐに眠気が襲ってきた。


 今日はいろいろあった。ほんとうに。


 自称悪魔のいたいけな女が出没して、色々あった末に彼女と少しのあいだ同居することになった。幼馴染の二人を相手に大立ち回りをした。大学では穏やかで楽しい時間を過ごした。


 そして、夕方には一人の少女と歩いた。


「……櫻井、彩」


 舌で確かめるように彼女の名を声に出す。大人しくて可愛らしい女の子だった。けれど、そんな彩の人柄を知ったからこそ深まる疑問もあるのだ。


 どうしてあの子は、夕暮れ時にもなってあんな寂れた非常階段に一人でいたのか?


 友達と遊ぶでもなく、買い物するでもなく、まるで途方に暮れたように、世界にうまく溶け込めないように、ぽつんと小さく座っていた。ただじっと人混みを眺めて。


 こればかりは考えてわかることではない。夕貴は彩のことをほとんど知らないのだから。


 益体のない思考を断ち切るように電気を消すと、もう眠りを妨げるものは何もなかった。急速に現実が遠ざかり、また夢が訪れる。


 だから夕貴は、それが現実なのか夢なのかわからない。深夜、街が深い眠りに落ちた時間に、白銀の気配が部屋に入ってきたことなんて覚えていない。


 それでも彼女は確かにそこにいて、何も言わず、しばらく彼のことを見つめていた。彼が見たことがなくて、きっとこれからも見せることがない、そんな顔で。


 やがて扉は家人を気遣うように優しく閉まった。それからしばらくして、この時間に開かれるはずのない扉が軋む音が、薄暗い夜に響いた。






 深夜、遠い物音を聞いて、萩原夕貴は目を覚ました。


 窓の外は暗く、まだ空が白む気配はない。時計を見ると午前三時を回ったところだった。疲れた身体は貪欲に睡眠を欲していたが、しかし物音が気になって眠れそうになかった。


 階下に降りると、誰かがシャワーを浴びていることに気付いた。こんな時間に不自然だな、とは思った。よほど寝汗がひどかったのだろうか。


 これはあくまでも不法侵入者でないことを確認するためだ、と自分に言い聞かせて、夕貴は風呂場を覗いた。すりガラスの向こうで蠱惑的な肌色が動いていた。ぼんやりとしたシルエットからでも、その豊かに丸みを帯びた曲線がよくわかる。ゆっくりと身体を撫でる手の動きが妙に艶かしい。


「……って、俺は変態か」


 やっていいことと悪いことがある。女性の湯浴みをなんの断りもなく観察するなど、夕貴にとっては唾棄すべき行為だ。ほんとうにその気なら、正面から堂々とでなければならない。


 泥棒の類ではないと安心したからか、ふたたび襲ってきた眠気を噛み殺して、夕貴は廊下に出た。静かな闇のなかを進み、階段に足をかける。


「なにしてるの」


 その背中に、声がかけられた。振り返ると、そこにはいつの間にかナベリウスが立っていて、じっと夕貴を見ていた。脱衣所からこぼれる明かりが逆光になって、その表情のほどは伺えない。リビングから差し込む月明かりが、廊下にいる二人の間を、まるで境界線のように隔てていた。


 何か言い返そうとしたのに、うまく言葉が出てこなかった。ぽたぽた。水の滴り落ちる音がしていた。


「もしかして、見た?」


 なにを、とは聞けなかった。喉が動かなかった。ひたり。足音。


「ねえ」


 ひたり。ひたり。足音。


 夕貴は動けなかった。彼女は進む。ぽたぽた。水滴が昏い家に波紋した。近付く。距離が詰まる。ゆっくりと伸びる手。緩慢な時の流れ。月明かりの中に白磁の指先が差し出される。


 それに目を奪われた瞬間、だった。


「こらっ」

「痛っ」


 ひたいを小突かれて夕貴はたたらを踏んだ。呆然と立ちすくむ夕貴の前では、ナベリウスが不満そうな顔で彼を見ている。


「ちゃんと返事ぐらいしなさい。それともなに? まさかほんとに覗いてたの? まったく、男なら無理やり入ってきて襲うぐらいの度量は見せてみなさいよね」

「バ、バッカ! べつに覗いてねえよ! だれがおまえなんか興味あるか! この自意識過剰女! て、ていうか、そんなこと言ってたら知らないぞ! マジでやってやるんだからなっ!」


 それよりこの女、よく見ればバスタオルで前を隠しただけの格好だった。水気を残した銀髪が首筋や細い肩に張り付いていた。


 両手で自分を抱きしめるようにタオルを持っているものだから、豊満な胸がこぼれ落ちそうなぐらい柔らかくかたちを変えている。


「べつにいいけど? 夜伽なら、ぜひわたくしめにお任せあれ」


 なんてね、と彼女は微笑む。夕貴は理解した。たぶん、このとき頷けば、きっとナベリウスは身体をゆだねるだろうと。


 男の意地と、彼女の魅力に屈することを天秤にかけた結果、僅差で前者が軍配を上げた。


「あっ! なんか急に眠くなってきた! 意識失いそう! じゃあ俺寝るから! おやすみ!」

「はーい、おやすみー」


 慌ただしく階段を上がっていく夕貴を、ナベリウスはなんら気負いのない態度で見送った。悔しい。経験が違いすぎる気がした。けっきょく俺は、あの女に翻弄されるしかないのか。


 自室に戻ると、夕貴はベッドに飛び込んで布団を頭までかぶった。心臓の鼓動がうるさい。なにドキドキしてやがんだこいつは。


 なんでこんなハプニングも悪くないな、なんて思ってやがんだ俺は。


 夕貴は目をつむる。彼女の声、顔、匂い、身体、仕草。全てが脳裏に焼き付いて、なかなか寝付ける気配はなかった。


 けっきょく夕貴が眠りについたのは、もうほとんど夜が明ける頃だった。ちょっとばかり官能的な夢を見てしまったのは、絶対に内緒だった。


 翌朝、ニュースを見た。


 それは名も知らない少女の連続自殺、新たな四件目の報道だった。




 次回 1-4『あなたの名前』

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